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12_シェイクスピア『ハムレット』考察_「鷹とのこぎりの区別はできる」のはなぜか?

Q. 「鷹とのこぎりの区別はできる」のはなぜか?
『ハムレット』で、復讐のために気が狂ったふりをしている王子は、友人に、実は自分が正気であることを示すために、「俺の気が狂うのは、北北西の風が吹くときだけ、南風になれば鷹と手引きのこぎりの区別はできる I am but mad north-north-west: when the wind is southerly I know a hawk from a handsaw.」(101)といいます。
 
自分が理性を保っていることを示すために、何の脈絡もなく「鷹と手引きのこぎり」を比べてみせるのは、あまりに唐突で奇妙ですよね。前後の文脈と合わないため、「handsaw」は「heronshaw(鷺)」の誤植だという説もあるほど。確かに同じ鳥である鷹と鷺を比べてその見分けがつくというほうが、意味はつながりやすい。けれど、シェイクスピアは他の作品にも鷹の例えを何度か使っていて、それを踏まえるとここはシェイクスピアがあえて「鷹と手引きのこぎり」と書いたように思えてきます。
 
本稿の解釈はこう。
A. 古代エジプトのオシリス神話や豊饒祭祀で生贄の身体を解体する手引きのこぎりと、ホルスの表象である鷹の区別はつけられる、ということでは。
身体を解体するという表現が少々物騒なのですが、あくまで神話の中で、物語上の表現としてということです、当然ですが。儀式ではオシリスの模造を使ったとも言われますね。ということで、以下に理由を述べます。




シェイクスピア『ハムレット』読解をマガジンで連載しています。こちらの記事からでもお楽しみいただけますが、01から順番に辿る場合は下記よりご覧ください。

1 『オセロー』鷹匠の笛

まずはシェイクスピア作品に描かれた〈鷹〉について見ていきます。前々回、シェイクスピア作品には誰もが誰かの操り人形だという考え方があると述べました。『オセロー』では、美女デズデモーナが軍人で戦地を転々とするオセローと結婚したことについて以下のようにいわれます。

ご自分の義務と美しさ、分別と運命を
あっちこっちを転々とする根なし草の
よそものにくくりつけたんだ

(16)

魔法の鎖に縛られでもしないかぎり

(25)

ここにあるのは、夫婦が運命の糸で結ばれているイメージ。愛し合って結婚した二人は、互いが互いの操り人形になる(北野武の映画『Dolls』みたいですね)。悪人イアゴーはデズデモーナについて「なびきやすいデズデモーナのことだ、真っ直ぐ頼めば/あっさりうんと言う」(99)と、オセローについて「やつ(オセロー)の魂は女の愛にがんじがらめになってるから、/生かすも殺すも女の意のままだ」(99)という。デズデモーナとオセローの他人を疑わない善良さと、互いへの愛情を利用して、意のままに操り、破滅させようと企む。夫婦は互いを深く愛しているからこそ、運命の糸を引っ張り合い、生死にかかわるほど大きな影響を及ぼしあってしまう。
 
そんなイアゴー自身も自分で「俺が悪役を演じてるなんて言うのはどこのどいつだ?」(98)とつぶやく。自分が心の中にある悪魔に操られている人形であることに、潜在的に気づいているようにも思える。この直前には、キャシオーに、「あなたと将軍をつなぐ関節がはずれたなら、あの人(デズデモーナ)に副木を当ててもらいなさいThis broken joint between you and her husband entreat her to splinter」(98)とアドバイスしている。表面的には人間同士の関係性をつなぎとめる意味で使われている言葉ですが、前回考察した『ハムレット』における操り人形の関節の意味を考えるなら、オセローに登場する人形たちの関節を示す言葉としても解釈してもいいかもしれない。そして後半、妻の不貞を疑ったオセローが、以下のようにいう。

妻が飼いならせない鷹だと分かれば、
たとえその脚をつなぐ皮ひもが俺の心の琴線であろうと、
鷹匠の笛を吹いて風下に解き放ち
勝手に獲物を漁らせておこう
 If I do prove her haggard,
Though that her jesses were my dear heartstrings,
I’d whistle her off and let her down the wind
To prey at fortune.

(128)

前回、シェイクスピア作品に登場する笛や口笛の音は、運命の女神が操る人形の糸と重ねられるのではないかという解釈を示しました。上記でオセローは、自分を鷹匠、妻デズデモーナを鷹に例え、彼女の不貞には気づかないふりをしようと考えている。鷹の脚につなぐ皮ひもは操り人形の糸で、鷹を操るのは笛。

だけれど同時に、自分で告白しているように、オセローもまた心の琴線をデズデモーナに結びつけられている。彼はイアゴーに操られるようにして、悲劇へと向かっていく。「To prey at fortune.」の直訳は運命の餌食にさせておこう。これが最後、オセローがデズデモーナを殺してしまった後で己の過ちに気づき、自分が運命の餌食となっていたことを悟って「誰が自分の運命を支配できる?」(240)と嘆くセリフへとつながる。鷹匠は運命の女神と、鷹は操り人形と重ねられるように思います。

2 『じゃじゃ馬馴らし』操られる鷹

前々回、『じゃじゃ馬馴らし』ではペトルーチオは人形使いに、キャタリーナは夫に操られる人形に例えられているのだと述べました。この作品では、キャタリーナを調教するために、ペトルーチオが策を講じる。それを鷹匠と鷹に例えて以下のようにいいます。

端から主導権を握ってしまえば、
結果も上々だろう。
俺の鷹は今のところ腹ぺこでがつがつしている、
My falcon now is sharp and passing empty,
たまらなくなって餌に飛びつくまで、満腹にさせるな(中略)
野生の鷹を手なずけ、鷹匠の声ひとつで
手元に呼び戻す方法がもうひとつある、
それは眠らせないことだ

(137)

注釈によれば、野生の鷹を人間になつかせるために、実際にこのような方法がとられたということ。ここではペトルーチオ=人形使いが鷹匠、キャタリーナ=操り人形が鷹に例えられていますね。

また、終盤、披露宴の席で男たちがそれぞれの妻を呼び、誰の妻が一番に来るか賭けをする場面では、ペトルーチオが「二十クラウン?/俺なら鷹や猟犬にだってそれくらいは賭けるぞ、 I’ll venture so much of my hawk or hound,/自分の女房に欠けるとなりゃその二十倍だ」(194)という。ここでもペトルーチオは、妻を鷹と猟犬と並べています。

ちなみに二十クラウンや二十倍の「二」は心が引き裂かれているしるし。この物語の最後、キャタリーナは表面的には夫に従順な妻になっていますが、実は彼女の心は調教される前よりもさらに傷つき、引き裂かれているというのが私の解釈です(詳細下記参照)。

3 『終わりよければすべてよし』狩られる鷹

『終わりよければすべてよし』の前半では、若く未熟なところのある青年バートラムが「鷹のようにきりっとした目 his hawking eye」(15)だといわれます。そして後半、唐突に鷹匠の紳士 a gentle Astringer が登場するんですね(176)。
 
この作品では、妻を嫌って戦争へ行ってしまった夫バートラムを、妻ヘレンが異国フィレンツェで見つける。バートラムは自国フランスに妻がありながら、フィレンツェの女性ダイアナを見初めて口説き、二人で会う約束を取り付ける。それを知ったヘレンは、約束の日、ダイアナとこっそり入れ替わり、バートラムには気づかれないまま一夜をともにする。
 
その後、ヘレンとバートラムはそれぞれフランスへ帰るのですが、帰国の途中でヘレンがフランス宮廷の鷹匠に会い、フランス国王への請願書を託します。この部分の注釈には、ここで鷹匠が出てくる意味が分からず、しかもどのようにその身分を観客に伝えるかも不明なので、多くのモダンテクストが「a Gentleman stranger」と書き替えられた版を踏襲しているとのこと。

ですが、これも『じゃじゃ馬馴らし』と同様、鷹匠と鷹を人形使いと人形の関係でとらえれば説明がつくと思う。この物語は、未熟者バートラムを妻ヘレンの作戦によって改心させる物語。つまり、妻ヘレンが人形使いで、夫バートラムは妻に操られ、まんまと策略にはまって改心させられてしまう人形。『じゃじゃ馬馴らし』とは夫婦関係が逆転していて、妻の方が夫より一枚上手。夫が見ている世界よりも、妻はより広い視野、人形芝居の仕切り(ポローニアスが隠れる壁掛け)の裏側から人形の動きを観察して、手玉に取ってしまう。

この作品に人形劇のテーマが織り込まれていることは、「見せかけてもいますが、本当に悲しんでもいます」(12)「私としたことが立派な主婦役を演じたものね」(66)「私(バートラム)が(ヘレンの)夫の役を演じた」(191)というセリフに示されていますし、「フランス男はイタリアの娘たちに迫られると/嫌とは言えぬそうだ。従軍しないうちに/捕虜にならぬよう気をつけろ(49)ここにいたら、(中略)女のリードで踊るはめになる」(50)という言い方も、操り人形の解釈と一致します。

シェイクスピアは、物語の序盤でバートラムを鷹に例え、後半でヘレンと鷹匠を接触させることで、人形と人形使いの関係を、鷹バートラムと、彼を操る鷹匠ヘレナに重ねているのではないでしょうか。
 
そんな視点で読んでみると、この物語全体が鷹狩に似ていることに気がつきます。バートラムははじめ、身分の低いヘレンを嫌っているのですが、国王の命令で無理やり結婚させられてしまう。性格も頭もいいヘレンは、バートラムのために一度身を引き、巡礼の旅へ出る。バートラムも妻から逃げるように戦争へ行ってしまう。このときヘレンは鷹匠となり、鷹狩りの要領で一度自分の手元から鷹=夫を飛び立たせ、自由を与えている。そして外国で再会すると、バートラムという鷹を手の内で操りながら、あえてダイアナと逢引きをさせる。つまり女性を狩らせる。と見せかけて、夫に自分を狩らせる。

そうして狩りを終え、両者がフランスへ帰国して、すべてがヘレンの策略だったと分かったときには、バートラムはすっかり改心し、ヘレンとの結婚を承諾する。鷹匠ヘレンは狩りに成功し、一度は放した鷹を自分のもとへ呼び戻して、自分を愛するようになった夫という最高の獲物を手に入れる。この作品の鷹と鷹匠にはそんな意味があるのではないでしょうか。(この鷹狩りの表現、秀逸すぎてホントしびれる。ストレンジャーに書き換えたら台無しっすよ)

4 『ロミオとジュリエット』鷹匠の声

『ロミオとジュリエット』で、深夜にロミオがジュリエットの部屋を訪れ、結婚を誓いあって別れる場面では、ジュリエットが以下のようにいいます。

ロミオ、ねえ、ロミオ! ああ、雄鷹を呼び戻す
鷹匠の声が欲しい

(76)

ロミオは「俺の名を呼ぶのは俺の魂」とつぶやいてジュリエットのもとへ戻る。ロミオにとってジュリエットは究極の女神であり、彼の心は完全にジュリエットに掌握されているので、呼ばれたら戻らないわけにはいかない。鷹のように戻って来たロミオに対し、鷹匠ジュリエットは以下のようにいう。

ジュリエット もうすぐ朝よ。やっぱり帰って。
 でも、いたずらっ子が飼っている小鳥と同じで、遠くまでは飛ばせたくない。
 足かせをはめられた哀れな囚人のように
 手元からほんの少し先までは放してやるけれど
 すぐに絹の細紐で引き戻すの。
 大好きだから、自由に飛んでいってほしくない
ロミオ 君の小鳥になりたい
ジュリエット ああ、そうしてあげたい。
 でも、可愛がりすぎて殺してしまうかもしれない。
 おやすみ、おやすみ! 別れがこんなに甘く切ないなら
 朝になるまでおやすみを言い続けていたい
ロミオ 君の目には眠りが、胸には安らぎが訪れますよう!
 ぼくがその眠りと安らぎになれれば、どんなにいいだろう!

(77)

鷹と鷹匠から、小鳥とその飼い主へと、表現が変化していますね。『ロミオとジュリエット』は純愛のイメージが強い作品ですが、このやり取りは少し恐い。好きすぎて恋人を束縛したくなる、愛しすぎて殺してしまいたくなるという、過剰でひねくれた愛情について語られています。まるで狭い部屋で伸びすぎた植物が天井にぶつかって折れ曲がり、下に向かって伸び始めるように、モンタギュー家とキャピュレット家の対立によって、恋心を公にできない鬱屈のせいか、ジュリエットの愛情がここで反対方向へねじれ始める、不吉な予感が漂うんですね。

さらにいえば、『ハムレット』で亡くなった父にオフィーリアが「おやすみ」と声をかけるように、シェイクスピア作品ではしばしば死が眠りとして表現されます。そして、二度繰り返すのは不吉な予感。ここでジュリエットが二度「おやすみ」といい、ロミオが眠りと安らぎを願っているセリフは、この戯曲の最後、二人に訪れる悲劇の予告とも読める。それが「可愛がりすぎて殺してしまうかもしれない」という言葉に、ただの戯れ以上の意味を与える。

この不吉な雰囲気に、小鳥の脚に紐をつないで手元に引き戻すイメージが重なる。ジュリエットは、ロミオを操り人形のように自分の手の内に束縛しておきたいという願望を口にする。別の場面では、「恋する者は、夏の風に戯れる蜘蛛の糸に乗っても/落ちない」(105)という言い方で、恋の糸が心を絡めとる様子が表現されているし、後半ロミオに毒薬を売る悪い薬屋が持っている「使い残しの荷作り紐」(198)は、ロミオとジュリエットの運命を操り、悲劇へと導く紐のようにも思える。この作品では、鷹と鷹匠のイメージが、運命の女神の糸に絡めとられて悲劇へ導かれる若い恋人たちの姿へと結びついていきます。

先ほど映画『Dolls』のようだといいましたが、この場面のロミオとジュリエットは、谷崎潤一郎の『春琴抄』の春琴と佐助のようにサディスティックでマゾヒスティック。春琴も鳥を放して呼び戻す趣味がありますよね。盲目になり、闇の世界で、主従や恋愛といった現世的な概念では説明できない特別な絆で固く結ばれる二人。文楽の曽根崎心中も、『ロミオとジュリエット』も、現世の世俗的な要素を排除した、どこまでも純粋な愛が、目には見えない世界、彼岸でこそ成就する物語。この感覚が、現実の愛に不器用な操り人形=ひねくれ者に深く刺さるのだと思う。この辺りを比較するのもめちゃくちゃ面白い気がしますが。それはまた別の機会に。

5 『ハムレット』鷹になる王子

『ハムレット』では、父王の亡霊に会い、言葉を交わした後のハムレットを、友人たちが現実に呼び戻そうとするとき、マーセラスが「ほほーい、ほーい、殿下。 Illo, ho, ho, my lord!」と呼ぶのに、ハムレットが「ほほーい、ほーい、ここだ、ここだ。 Hillo, ho, ho, boy! Come, bird, come!」(62)と応えるやり取りがあります。注釈によれば、これは鷹狩で鷹匠が鷹を呼び戻す掛け声なのだそう。

ハムレットが亡霊を見ていたひとときは、ハムレットが現実には見えないはずのものを見ていた時間。此岸を離れ、亡霊たちがうごめく彼岸に足を踏み入れていた時間。正気を失って、本物の狂気にとりつかれていた時間。狂気にとりつかれることは、正気を失って操り人形になることで、鷹になることともイコール。現実を離れて、この世ではない場所を浮遊していたハムレットの魂を鷹に例え、それを現実世界へ、正気の側へ呼び戻そうとするかのようなイメージが、鷹狩りの掛け声として描かれています。ハムレットがホレイショーの呼びかけに同じ言葉で答えているのは、狂気に陥ることが鏡を見ること、道化のナルキッソスになることと結びつくからですね。
 
これも何度か書いていますが、シェイクスピア作品では、心が分裂する(狂気に陥る)事態にかかわるモチーフは二度出てくることが多い。上記の鷹を呼び戻す声が、冒頭に引用した「鷹とのこぎりの区別はできる」という場面と対になっているのではないでしょうか。

6 未熟者としての鷹

ここまで見てきた例は、すべて鷹匠のいうままにしか動けない鷹。飼いならされた、操り人形としての鷹。未熟な若者の例えとして使われる鷹ですね。大空を自由に飛びまわりたいと憧れながら、現実には鷹匠の顔をした親・恋人・配偶者・自分の中の狂気などと糸で繋がれ、引っ張られる存在。
 
以前、サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」読解やシェイクスピアの足・脚の考察(下記)でもふれたのですが、赤ん坊が成長して母の腕のなか、母なる大地から離れ、自分の足で大地を踏みしめ、一人で歩けるようになると、今度は空を自由に飛ぶ鳥に憧れるようになる。母なる大地に還りたいという気持ちと、天を舞う鳥への憧れ、神や父に近づきたい、立派な大人になりたいという理想との間にはさまれて戸惑う、というのが神話の英雄の典型。ユングがいう永遠の少年は、イカロスのように天を目指しては、象徴的・精神的に墜落死して再生するというサイクルを繰り返して成長する。

ハムレットは劇中で「俺のような男が天と地の間をはいずりまわり、いったい何をしでかす? What should such fellows as I do, crawling between earth and heaven?」(124)といいますね。Crawlingには赤ん坊がハイハイするイメージがあり、自分の足で立ち、自分の意志で自由に人生を切り拓いていきたいというハムレットの自立心がにじんでいるように思います。

7 憧れとしての鷹

すると、鷹匠に操られていない、脚を紐で結ばれていない、自分の意志で大空を自由に飛び回ることができる鳥、なかでも強く勇猛で威厳のある野生の鷹が、永遠の少年の理想ということになる。
 
古代エジプトでは、豊饒神話や豊饒祭祀に登場する神さまオシリスの息子ホルスが鷹の頭を持つ男性として描かれます。AIに訊いた限りでは、その後、鷹は太陽神ラーの表象にもなり、両者が統合されたという成り立ちのようです。(厳密には隼ともいわれており、「hawk/falcon(タカ/ハヤブサ)」の混同が少々微妙なのですが、「hawk(タカ)」という言葉が猛禽類全体を指すこともありますし、ChatGPTもエリザベス朝の人々は hawk と falcon を必ずしも厳密に区別していなかったといっているので、ここでは同じものとして解釈します)

かつての豊饒祭祀ではジェド柱が建立され、オシリスの息子ホルスがそれを昇って太陽神ラーと一体化する場面がクライマックスだったのだそう。未熟な若者だった息子が、試練を経て成長し、偉大な父と同じ力を持つまでに成長する、それこそが豊饒祭祀の目的達成の瞬間なんですね。これは英雄神話で英雄が父を探し、闘い、一体化するのと同じ。『ハムレット』でヘラクレス神話を通して描かれていた父と息子の闘いと一体化のテーマとも重なります。

AIによれば、ホルスが鷹の姿で描かれるのは、1空と太陽を司る神であること、2エジプトの王権の象徴、3地上と天界・人間と神をつなぐ存在であることを意味するとのこと。つまり、鷹になることは未熟な若者が、自らの弱さを克服して立派な大人になることを意味する。それが精神的な豊饒を手にすることと重ねられているらしい。シェイクスピア作品には、このオシリス神話についての言及もある。以下に見ていきます。

8 『アントニーとクレオパトラ』オシリス神話

8-1 オシリス神話
神話のなかでオシリスは殺され、身体を十四に解体されて大地に撒かれます。妻のイシスがバラバラにされた夫の身体を集め、包帯で結び付けて復活させる。これがミイラのはじまりと言われているんですね。この死と再生の物語が、いけにえやオシリスの模造を大地に撒いたり埋めたりして、翌年の豊饒を願う儀式としても行われていたのだそう。オシリスはもともと穀物の神さまでしたが、ミイラとして復活した後には冥界の神様にもなりました。
 
オシリス神話は聖杯伝説や、聖書のイエス・キリストの受難のエピソードの起源ともいわれており、T.S.エリオットの『荒地』や、サリンジャーの『キャッチャー』にも描かれていることは、下記で言及したとおり。

8-2 精神の豊饒
シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』では、ヒロインのクレオパトラが「女神イシスに扮して現れた」(136)り、「女神イシスにかけて」(51)と言ったり、臣下が「豊穣の女神イシス」(19)と言ったり、オシリス神話に登場するオシリスの妻イシスと重ねられています。これもAIによれば、クレオパトラは実際にイシスと同一視され、自分を「新しきイシス」と称していたとのこと。

さらに『アントニーとクレオパトラ』には、「ナイルの増水氾濫が飢饉を予言するっていうのと同じ大噓」(本当は肥沃と豊作の予兆)(18)「小麦」(96)「ナイル川の水嵩を測るんだ。/水位が高いか低いか中くらいかによって、飢饉になるか豊作かが分かる」(105)「世界のすみずみまで/オリーヴの葉が繁るだろう」(198)といった記述があり、ナイル川の氾濫と、それがもたらす豊穣が、豊饒神話であるオシリスの物語と結びつけて語られています。

アントニーの偉大さが「あの人の心の寛さに/冬はなく、収穫すればするほど実りを増す/豊穣の秋だった」(252)と語られるように、大地の豊饒は、人の内面の豊かさと結びつけられてもいる。この感覚は他のシェイクスピア作品にも共通していて、『テンペスト』の劇中劇で豊饒の神々の物語が演じられたのを見て、対立していた人々が和解し、世界に平和が訪れること、『冬物語』で冬の試練の時代を経て、成長した若い姫フロリゼルが花と豊饒の女神に例えられ(130)、春の羊の毛刈り祭りをきっかけに離れ離れだった人々が再会し、ハッピーエンドが訪れること、『から騒ぎ』で寵愛を得るためには努力しなければならないという忠告が、「収穫のための季節をご自分で作り出すことです」(31)と表現されることなどにも示されています。

8-3 死と再生
『アントニーとクレオパトラ』では、「こいつはまだ生き返るかもしれない」(209)、「もう一度生きるまで死んではだめ」(234)、「永劫不滅へのあこがれ」(267)というセリフ、道化が毒蛇に噛まれたら、絶体絶命というべきところ「絶対延命です」(265)とおかしな言い間違いをするなど、死と再生を思わせる言葉が散りばめられています。
 
アントニーの死が避けがたくなった局面で、クレオパトラが「今日は私の誕生日」(180)とういこと、クレオパトラが命を落とす際に、揺り籠を思わせる籠で運ばれた「ナイルのかわいい蛇」(265)を抱いて、「この胸の私の赤ちゃんが見えないの?」(269)というのにも、(母としてのクレオパトラを示すのと同時に)死と再生のテーマが読み込めます。これを豊饒祭祀で願われる植物の死と再生、ミイラに込められた永遠の命への願いと重ねて解釈してもいいのではないでしょうか。

8-4 めった切り
死を覚悟したアントニーが、召使一同に「俺がお前たち一人ひとりに分身し、お前たちみんなが/合わさって一人のアントニーになれたら/どんなにいいだろう」(186)といい、自らをまもなく「めった切りにされた亡霊」(186)になると自嘲するセリフも、自分を殺されて八つ裂きにされ、大地にばらまかれたオシリスに重ねたものと取れると思います。

8-5 着替えと脱皮
また、この作品にはクレオパトラがアントニーに衣服や鎧を着せる姿が繰り返し描かれていますね。最後にクレオパトラが毒蛇に自分を噛ませて自殺する場面では、蛇がクレオパトラの分身として語られます。服の脱ぎ着は蛇の脱皮と重ねられ、神話において脱皮は精神的な変容と成長の象徴。
 
精神の変容と成長は、豊穣神話の死と再生とも結びつく。アントニーに衣服や鎧を着せるクレオパトラは、オシリスに包帯を巻いて傷を癒し、復活させたイシス。これがさらに、ヘラクレスの妻が夫に毒のしみた衣服を着せて殺してしまう神話のエピソードともつながる(詳細下記参照)。

アントニーの正妻が死んだ際に臣下が、神々は「下界の男にとって仕立屋」だから「古着が擦り切れても、新しい布があるからいくらでも変わりが作れる」(27)と慰めて再婚を促すのも(ずいぶんひどい言い方だと思いますが、それは置いておくとして・苦笑)、妻と布のイメージを結び付けるものですね。(これが壁掛けは人の内なる世界観の象徴で布は人、という表現ともつながるのですが、この詳細は改めて)

9 『ジュリアス・シーザー』八つ裂きと永遠の命

シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』は『アントニーとクレオパトラ』のひと世代前の物語を描いた作品で、この二作はいくつかのモチーフが鏡合わせのようになっています。『ジュリアス・シーザー』では、シーザー凱旋の日が、豊穣と多産の神ルペルクスの祭り(15)と重ねられている。
 
キャシアスは「今日は俺の誕生日だ」(170)「この日、俺は産声をあげた。時はひと巡りして、/始まったところに戻って終わる/俺の人生もここで輪を閉じるのか」(176)といい、戦闘の中で命を落とす。
 
「謙虚さが梯子だというのは常識ではないか」(51)という言葉も出てきます。これはオシリスの豊饒祭祀で、オシリスの息子ホルスが梯子(ジェド柱)を昇り、太陽神ラーと一体化するクライマックスと重ねたものとして読める。梯子も『ロミオとジュリエット』など、シェイクスピア作品に何度か登場するキーワードですが、基本的にはオシリス神話と結びつけて解釈していいと思う。
 
『ジュリアス・シーザー』で詩人のシナが、同名の謀反人シナと間違われて殺されてしまう場面では、「八つ裂きにしろ」(130)と四度繰り返される。「シーザーの精神だけを捕え、/シーザーの五体は無傷のままにしておきたい! だがシーザーには/血を流してもらわねばならない」「我々は神々の食卓に供するために彼を切りさばくのだ、/猟犬どもの餌にするために獣の死骸を切り刻むのではない」(61)という言い方で、より豊かな社会や政治を実現するための生贄として、シーザーが殺され、オシリスのように切り刻まれるイメージが強調されています。
 
このあと、シーザーは亡霊となってブルータスらの前に現れ、彼らを追い詰めて破滅へと至らせる。肉体は滅びてもspiritとして蘇る、ここにもミイラに連なる死と再生や永遠の命のイメージがある。シェイクスピア作品にはいたるところに豊饒神話のイメージが出てきますが、そのおおもとにある物語のひとつとして、オシリスの神話や豊饒祭祀を意識していたことは、間違いないように思います。

10 『終わりよければすべてよし』イシスとしてのヘレナ

弟セトに殺されてバラバラになったオシリスの体を集めて包帯でつなぎ、傷を癒して復活させることから、イシスは伝統的に医術使いとしても語られるキャラクター。
 
『終わりよければすべてよし』の鷹狩りについては前述のとおり。ヒロインのヘレンは、物語の序盤で父から受け継いだ医術によってフランス国王の不治の病を治してしまう。これはイシスの性質と重ねられますね。

『リア王』の後半、コーディリアが、狂気に陥って荒野を彷徨っていたリアをフランス軍のテントにかくまって、服を着替えさせ、狂気を癒す一部始終にも、同じ意味があるというのが私の解釈です。

すると、『終わりよければすべてよし』で、「自分の体が粉々になっちゃ嫌だ」(156)というセリフも、生贄オシリスがバラバラにされて大地にまかれる豊饒祭祀と重ねて解釈してもいいかもしれません。
 
これはサリンジャーの「エズメに捧ぐ」読解でも言及したテーマ。下記もあわせてご覧ください。

11 『ロミオとジュリエット』小さな星に

『ロミオとジュリエット』の中盤、独り部屋でロミオの訪問を待つジュリエットは、ギリシャ神話の太陽神ヘリオスとその息子パエトンの名を出しながら、夜の闇に向かって次のように祈る。

いとしい闇、
ロミオをこの手に渡して。私が死んだら
返してあげる。切り刻んで小さな星になさい。
そうすれば夜空の顔は美しく飾られ
世界中の人が夜に恋をし
ぎらぎらした太陽など崇めるのは止めるだろう。

(122)

ロミオを切り刻むイメージを、豊饒祭祀で切り刻まれるオシリスと重ねてみる。すると、ギリシャ神話のヘリオスとパエトンは、太陽神ラーとオシリスの息子ホルスへと連想がつながります(AIに訊いた限りでは、ヘリオスとラーは関係がないとのことですが、連想はしてもいいと思う)。上記では、闇にまぎれてしか逢瀬を許されないロミオとジュリエットの恋を、豊饒神話と結びつけることで、愛が実り幸福になることを夢見るジュリエットの心情が表現されているのではないでしょうか。

これが、後半ロミオがバルサザーに、自殺の邪魔をしたら「お前を八つ裂きにし/この貪欲な墓場一面お前の手足をばら撒いてやる」(206)というセリフと結びつく。そして最後、若い恋人たちが悲劇的に命を落としたことが「両家の確執の哀れな生贄として!」(225)と語られる。二人はモンタギュー、キャピュレットの両家の和解の生贄になったのだという発想は、豊饒祭祀でオシリスの体が大地への生贄として捧げられることとも響きあう。
 
先に触れたように、この作品のなかではロミオの舞い上がる恋心が、「縄梯子を持っていかせる。/夜の闇に紛れて、歓びのマストの天辺まで/僕を運んでくれるものだ」(95)と「縄梯子」をのぼってジュリエットの部屋を訪れるロミオの姿と重ねられる。梯子はオシリスのジェド柱を連想させるアイテム。上記のジュリエットの祈りの直後に、乳母が縄梯子を持って現れます(123)。

さらに、ジュリエットが毒薬で一度仮死状態になり、埋葬されたのちに墓の中から復活するというロレンス神父の作戦には、死と再生のテーマが読み込めますね。「三時間」(99・127・203)というキーワードが複数出てくるのは、イエスが十字架にかけられてから亡くなるまで三時間苦しんだと伝えられることと重なる。オシリス神話は、聖書のイエス・キリストの受難のエピソードの起源ともいわれる。ロミオが上る縄梯子は、十字架でもある。シェイクスピアはこれらの神話のモチーフを使いながら作品を描いているように思うのです。
 

12 『ハムレット』脚色されたプライアムの死

12-1 ヘキュバとイシス
『ハムレット』では、旅役者が朗読するトロイア戦争の一節、ピラスとプライアムの戦いの場面に、オシリス神話のモチーフが読み込めます。AIによれば、ヘキュバの眼前でピラスがプライアムを倒す場面はシェイクスピアが参照したと思われる古典にもある。けれど、ヘキュバが見ているそばで彼女の夫プライアムの「五体を切り刻む」(109)という残酷な一節はシェイクスピアの脚色とのこと。
 
シェイクスピアがあえて残酷な書き方をしたのは、クローディアスに復讐できないハムレットの弱さと、ピラスの強さを対比して際立たせるため、というのが一般的な解釈のようで、これも納得できる。けれど同時に、シェイクスピアはここで、オシリス神話で主人公が殺されバラバラにされて大地に撒かれ、イシスがその体を拾い集めてつなぎ合わせ、ミイラとして復活させたエピソードを重ねているのではないか、とも思うんですね。

『ハムレット』の旅役者の朗読では、ヘキュバについて「頭には輝く宝玉も今はなく、あさましき布一枚。/あまたの王子を生みてやつれしその細腰、纏うは錦の衣にあらず/恐怖のあまりとっさに掴みし毛布一重」(108)と語られます。ここで出てくる布や毛布は、イシスがオシリスをつないだ包帯と結びつく。
 
「面を包みし王妃ヘキュバ」というセリフに対し、ハムレットが役者と同じセリフを復唱し、ポローニアスが「うん、これはいい」とわざわざ強調してみせるのは、これが重要なモチーフだからではないでしょうか。少々深読みをするなら、戯曲のはじめから自殺を仄めかし、クローディアスへの復讐と共に自分の破滅を予感しているハムレットはここで潜在的に、自分が死んだあとで再生へ導いてくれるイシスの包帯、ヘキュバが纏う布や毛布を求めている、という解釈もできるかもしれない。

12-2 プライアムとオシリス
ハムレットはこの朗読をした役者の演技力に感激して以下のように褒めたたえます。

たかが絵そらごとなのに、かりそめの情熱に打ち込み、
全身全霊をおのれの想像力の働きにゆだねる。
そのあげく顔面は蒼白となり、
目には涙を浮かべ、表情は狂おしく、
声はかすれ、一挙一動が
心に描く人物をまざまざと映し出す。なんのためだ?
ヘキュバのため!
ヘキュバはあの男にとって何だ? あの男はヘキュバにとって
何だ?

(111)

朗読の内容は、ギリシャの戦士ピラスが父の仇プライアムを倒し、プライアムの妻の目の前で五体を切り刻んだ、それを見たヘキュバは号泣した、というもの。ヘキュバが慟哭する場面で朗読は終わるから、ここでヘキュバの名を三度叫ぶ道理はいちおう通る。けれど「ヘキュバはあの男にとって何だ?」と二度いっているのにはやはり意味があると思う。

ここにはヘキュバが役者の男性にとって〈究極の女神〉であったことが仄めかされているのではないでしょうか。ハムレットはこの後、「もしもあの男に/俺と同じ動機があり、怒りを噴き出すきっかけが出たら」と役者の男性と自分を比較しています。つまり、役者とヘキュバの関係が、ハムレットと究極の女神の関係と重なりあう。ハムレットにとっての究極の女神は、恋人オフィーリアと母ガートルードですね。

そもそも朗読されたのはピラスの仇討ちの場面なのだから、同じように復讐を企んでいるハムレットが第一に感情移入すべきなのはピラスであり、心動かされるべきなのはピラスがプライアムに打ち勝ったという状況のはず。なのにハムレットはここで、それよりもヘキュバの存在に、そしてヘキュバになりきって目に涙を浮かべ、狂おしいほどの悲しみを演じて見せた役者の男性に感激しています。

「ヘキュバはあの男にとって何だ?」とは、ヘキュバそのものとなって迫真の演技を見せた役者への賛辞。そのヘキュバが一心に見つめる先にいるのはピラスではなく、殺された彼女の夫プライアムの無残な姿。ハムレットはピラス(ギリシャ軍)側ではなく、むしろヘキュバとプライアム(トロイ軍)側に感情移入し同情している。「あの男」を「プライアム」に替えて「ヘキュバはプライアムにとって何だ?」と言い換えてみれば、答えは「妻=究極の女神」。それは、「オフィーリア(ガートルード)はハムレットにとって何だ?」答え「恋人(母)=究極の女神」ということではないでしょうか。

さらにハムレットは、ピラスに殺されて五体を切り刻まれたプライアムのために、究極の女神ヘキュバがあさましい布一枚をまとって涙を流したことに感動している。死んで切り刻まれた英雄の傷を包み込んで癒す布=包帯と、魂を洗い清めてくれる涙があったことが重要だといっている。なぜなら神話の世界では、英雄が象徴的に死んだあと、復活するために布・包帯と涙・水の浄化が必要だという考え方があるから。ハムレットのなかに、これから死にゆく自分の運命を予感し、自分の死後、体に包帯を巻いて傷を癒し、その死を悼んで涙を流してくれる女神を求める気持ちがあるから。とも読めないでしょうか。

「ヘキュバはあの男にとって何だ?」と二度繰り返されるのは、心が引き裂かれるしるし。ハムレットはこの直後にオフィーリアに「尼寺へ行け」といって別れる。王子はこのときすでに、自分が死ぬ瞬間には、そばに恋人がいないことを予感しているのかもしれません。

物語の終盤、王妃が決闘中のハムレットに「あんなに汗をかいて」「このハンカチを、額の汗をお拭き」(262)と差し出すのにも、『お気に召すまま』の血まみれのハンカチ、『オセロー』の苺の刺繡のハンカチと重ねて考えるなら、浄化の水(汗)や包帯(ハンカチ)の意味を読み込んでもいいかもしれない。けれど、ハムレットが感激したヘキュバの慟哭や毛布と比べて明らかに物足りない。ハムレットの命が尽きるとき、彼が求めたカタルシスや癒しは、十分に与えられなかったように思えます。

12-3 関節がはずれた操り人形
前々回、クローディアスの「わが国の関節がはずれ、解体した」(23)というセリフ、これと対になっているハムレットの「この世の関節がはずれてしまった」(68)というセリフには、操り人形の関節のイメージがあるのではないかと述べました。これが、豊饒神話で生贄オシリス=プライアムが五体を切り刻まれ、大地にまかれるイメージと結びつく。
 
すると、ハムレットが「そこにいるのはホレイショーか?」と問い、ホレイショーが「そのはしくれだ」(11)と答えるユーモアあふれるやり取り。オフィーリアが亡霊を見たあとのハムレットの様子を、「お体が粉々に砕け/かき消えてしまいそう」(75)という表現。「堅い堅いこの体、いっそ溶けて/崩れ、露になってしまえばいい」(29)「お体が粉々に砕け/かき消えてしまいそう」(75)「曲れ、かたくなな膝。鋼と化した心よ、/生まれたての赤子のように柔らかになってくれ」(159)などの、身体がバラバラになって溶けて大地に還るイメージも、豊饒神話で永遠の少年が大地に還る物語と一致しますね。これが以下で考察したバベルの塔の崩壊のイメージとオーバーラップする。言葉の塔が崩壊してバラバラになり、混沌へ還るイメージと、人体がバラバラにされて大地へ還るイメージが重なり合う。これは下記のサリンジャー読解で考察したことともつながります。

12-4 本物の太陽神
神話で弟セトに殺された兄オシリスは、『ハムレット』で弟クローディアスに殺された兄・先王と重ねられますね。戯曲の序盤でハムレットがクローディアスに「七光りを浴びすぎて有難迷惑。 I am too much in the sun.」と悪に染まった義父の心にふさわしくない眩しさを浴びせかけられること、自分がその息子sonと呼ばれることを疎んじてけん制する皮肉も、オシリス神話の太陽神ラーのイメージと結びつく。この後、ハムレットは先王とクローディアスを比較して「太陽とけだもの」と表現する(30)。クローディアスは、見せかけは明るいけれど偽物。ハムレットにとっての本物の太陽は先王ただ一人なのでしょう。

12-5 赤毛のピラスとオシリス
トロイア戦争を描いた『トロイラスとクレシダ』の注釈には、ハムレットに重ねられるピラスについて、「赤毛」を意味するピュロスという名で呼ばれたとあります(146)。神話において、赤毛は未熟な若者のしるし。未熟者は大地に血を流して一度象徴的に死んだ後に再生・成長できるというのが神話の法則で、赤毛はその血の色とも重なります。

シェイクスピアがこれに意識的だったことは、『お気に召すまま』は、ロザリンドがオーランドーについて「髪の毛まで真っ赤な嘘の色をしてる」「ユダの髪よりいくらか茶色がかってるけど。きっとキスだって裏切り者のユダのキスと同じだわ」(124)とあり、注釈にはイエスを裏切ったイスカリオテのユダは、赤毛だったとされる、とある(123)ことからも分かる。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』でホールデンが赤いハンティング帽をかぶっているのも同じですね。オシリスも赤毛だったといわれる。オシリス、ユダ、ピラスはいずれも未熟な若者で、大地に血を流して死ぬ運命にある生贄。ハムレットも、彼等と同じ未熟な若者として描かれているのではないでしょうか。

13 手引きのこぎり

以上をふまえると、ハムレットが、自分が正気であることを示すためにいう「俺の気が狂うのは、北北西の風が吹くときだけ、南風になれば鷹と手引きのこぎりの区別はできる I am but mad north-north-west: when the wind is southerly I know a hawk from a handsaw.」というセリフはオシリス神話を意識したものとして読めるように思う。ハムレットはここで、自分を鷹のホルスに重ねているのではないでしょうか。オシリス神話におけるホルスは、まだセトから殺される前の、若いころのオシリスとイコール。〈手引きのこぎり〉は、まだ若く未熟なオシリス=ホルスの身体を象徴的に殺し、解体して大地に撒き、精神的な再生と豊饒を願うためのアイテムではないでしょうか。
 
デンマークでは、冷たく厳しい「北北西の風」は農作物の育成を阻むもの。それはハムレットの内なる領土、心の大地を荒廃させて、狂気に陥らせるもの。北が二度重ねられているのは、心を分裂させる冬の厳しさを強調するため。あたたかな「南風」は麦など穀物の成長を促進する恵みの風。ハムレットの心を豊饒の楽園に変えて、正気を取り戻させるもの。シェイクスピアはこの場面で、ハムレットにわざと「鷹と手引きのこぎり」という奇妙な対比をいわせ、正気と狂気のあいだで揺れる王子の不安定な心情を表現すると同時に、穀物の神さまであり、大地と精神の豊穣を司るオシリス神のモチーフを重ねようとしているのではないかと思うのです。

下記のサリンジャー読解でもみたように、シェイクスピア作品には、木を人の分身とみなすような樹木信仰も描かれていますね。

『マクベス』には、フレイザーの『金枝篇』で語られたような、木の枝が王権継承の象徴となる表現が見られますし、それがクライマックスの森がうごめき、敵軍が攻め上がってくるイメージへと結びついている。『お気に召すまま』でオーランドーが木にロザリンドの名前を刻むのも、木を恋人に見立てているから。オシリスの祭祀で立てられるジェド柱(梯子)はオシリスの背骨といわれることもあり、木や柱と人や神さまも重なります。そこに名前や言葉が刻まれることで、言葉で作られた人の内面とも結びつく。
 
下記で、『ハムレット』ではポローニアスが書物やルールブックと重ねられ、彼の死はバベルの塔の崩壊なのではないかと述べました。

また、上記の[13_ 「f-a-c-u-l-t-i-e-s」分割された文字は何を示す?_ J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」考察]でも引用しましたが、『ヴェニスの商人』には「この紙は親友の肉体そのもの、/書かれた文字の一つ一つが傷口で、/そこから鮮血が噴き出している」(118)という表現があります。手紙・文字・lettersが人の身体と重ねられて、それをバラバラにすることは、血が流れることと結びつく。

樹木(ときに文字が刻まれる)や文字が記された紙片は、人や神さまの体や心の代わりというか同じものなんですね。だから樹木を斧で倒して切り刻むことは、神話でオシリスが切り刻まれること、豊饒祭祀で生贄の模造が切り刻まれること、『ハムレット』の朗読でプライアムが切り刻まれることと重ねられる。これが、一人の人の精神世界を創っている言葉の塔を崩してアルファベットにまで解体し、それを新しい世界創造の種として大地に撒く行為にも結びつくのではないか、木材にして新しい塔を建てる材料にすることと重なるのではないか、という考察については、上記のサリンジャー「エズメ」読解で述べた通り。
 
ハムレットが語る〈手引きのこぎり〉は、聖書にでてくる〈斧〉と同じ。神話の主人公を象徴的な死へと導き、彼の世界観や言葉の体系を解体し、ゼロから新しい世界を創造するための材料、木材=文字を作り出す道具。大工の息子が次の世代の大工となったときの、重要な大工道具なのではないでしょうか。このテーマについては、下記でも考察していますのでぜひご覧ください。

さらに、手引きのこぎりや斧は、操り人形の糸、鷹の脚につけられた紐を断ち切る道具にもなりますね。ピノッキオはクジラに呑み込まれてそこからゼペットとともに脱出し、クジラの腹から生まれなおすことで人間になれる。操り人形は自分の手で糸を断ち切り、いちどバラバラになってこそ、自分の脚で立てるようになる。「鷹と手引きのこぎりの区別はできる」というハムレットのセリフには、自分は今のところ親や恋人や自分の中にある狂気のいいなりになることしかできない未熟な鷹=操り人形だけれど、自分の手でいつかこの糸を断ち切り、自分の脚で立てる人間になるべく努力をしているところなのだという気持ちが込められているように思います。

14 「言葉、言葉、言葉」を解体するために

「鷹と手引きのこぎりの区別はできる」というセリフでは、「区別できる」ことが正気であること、理性を保っていることの証明になっています。違いが分かるということは、言葉が分かるということ。言葉を知るほど、人は世界を切り刻んで見られるようになり、それに比例して楽しみも悩みも増えていく。区別できることが増えるほど、有能になるのと同時に、その弊害も増えていくのだというのが、神話からシェイクスピア作品に受け継がれる考え方ですね。
 
楽しさと悩ましさ、愛しさと憎さの振れ幅が大きくなり、耐えきれなくなると、ハムレットのように破滅へ向かっていってしまう。オシリスのように、体や心や、いままで覚えてきた言葉や考えてきたことが、のこぎりや斧によってバラバラに切り刻まれて、言葉を覚える前の赤ん坊のような心に戻る。英雄は象徴的に死んで大地に還る。これが、過去記事で見てきたような言葉を積み上げることと、バベルの塔の崩壊のイメージへと結びついていく。『ハムレット』はそんな神話の法則に則った物語として読めると思います。

過去記事で示したように、ハムレットは父から与えられた「復讐せよ」という言葉の呪いに抗いながら、乗り越えられずに屈していく。ハムレットが「俺の気が狂うのは、北北西の風が吹くときだけ、南風になれば鷹と手引きのこぎりの区別はできる」というとき、彼は自分が父という鷹匠に操られる鷹になっていること、亡霊の命令に従って復讐をたくらむ者になっていることを自覚している。そして、復讐すべきか否か、どちらが本当に正しい道なのかと悩み、その苦しみから逃れるためには手引きのこぎりが必要なのだと訴えているのかもしれません。

騎士道のおきてと心の奥底から湧き上がる道徳観の板挟みになって、父たちから教えられた価値観や民衆の期待、世間の常識、恋人や母への愛憎、自分が育んできた内なる世界観をバラバラにしてしまいたい、自分をがんじがらめに縛りつける糸を断ち切りたいと望んでいる。この一見奇妙なセリフには、そんな思いが込められているのではないでしょうか。

クローディアスがハムレットを国外追放にしたとき、勅書に「斧を研ぐ間もおかず、/(ハムレットの)首をはねよ」(245)と記したのを、神話の父と息子の対決と重ねれば、これは父親側から息子への攻撃。対するハムレットは、父たちから与えられた「言葉、言葉、言葉」の呪いをバラバラに切り刻むために、手引きのこぎりを求める。父対息子の対決が、斧対のこぎりで表現される。
 
また、ハムレットは「to be, or not to be」といったあと、自殺を考えるくだりで「短剣でひと突き、/割れと我が手ですべてが清算できる」(121)という。この短剣が、最後のレアティーズとの決闘の際に賭けられる「細身の剣と短剣を六振り」(252)と呼応する。これがこの作品で死ぬ主要な登場人物六人を刺すものだという解釈は、下記で述べました。「手引きのこぎり」は、ハムレットが自分自身に向ける短剣の言い換えだということもできるかもしれません。

◆最後にちょっとだけサリンジャー作品について
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のいくつかのモチーフがオシリス神話と重ねられているのではないか、という解釈については、研究者の竹内康浩先生がいくつかのご著書で述べられていますね。
 
「シーモア—序章—」には、「わたし(バディ)は彼(シーモア)のことを鷹のように——今でもときどき思うのだが、ほとんど文字通りに——見張っていた I watched him—almost literally, I sometimes think—like a hawk.」(136)という記述があります。これは兄シーモアと弟バディが鷹匠と鷹、太陽神ラーとホルス、象徴的父と息子になぞらえられていることを示す一文だと思う。同じ作品に出てくる〈チェーンソー〉という言葉なども、シェイクスピアからの影響があるかもしれません。
 
今回の記事は、サリンジャーの「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解とあわせてお読みいただくと、より広くお楽しみいただけます。下記もぜひご覧ください。


『ハムレット』読解の続きはこちらから。ぜひご覧ください。


J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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