10_シェイクスピア『ハムレット』解釈:ポローニアスが壁掛けの裏に隠れるのはなぜか?
Q. ポローニアスが壁掛けの裏に隠れるのはなぜか?
『ハムレット』の中盤、ポローニアスとクローディアスはもの陰に隠れてハムレットがオフィーリアと会う様子を盗み見ます。ここでハムレットは有名なセリフ「To be, or not to be」をつぶやき、オフィーリアに対して「尼寺へ行け」という。また、劇中劇を見たあと、ハムレットが王妃の部屋へ呼ばれる場面でも、ポローニアスは王妃の部屋の壁掛けの裏に隠れて二人の会話を盗み聞きしようとし、それに気づいたハムレットに殺されてしまいます。この作品で、ポローニアスが壁掛けの裏に隠れる様子が繰り返し描かれるのはなぜでしょうか。
本稿の解釈はこう。
A. 父たちは人形使い、子供たちは操り人形であることを表しているのでは。
翻訳者の松岡和子氏は『深読みシェイクスピア』のなかで、『ハムレット』の三幕一場の大廊下でオフィーリアは「父のいわば操り人形として」与えられたセリフを言うように話している。親父ギャグや技巧的な言い回しなど、ポローニアスによってあらかじめ用意され、吹き込まれていたであろう言葉の特徴が、オフィーリアの台詞に現れていると指摘しています。この解釈を参考にさせていただきつつ、今回は『ハムレット』に描かれている人形劇のテーマをもう少し広く深く考えてみたい。私は、シェイクスピアはこの戯曲である程度意識的に、オフィーリアだけでなく、ハムレットやレアティーズら若者を、親や運命の女神から操られる人形として描いていると思うんですね。以下に理由を述べます。
シェイクスピア『ハムレット』読解をマガジンで連載しています。こちらの記事からでもお楽しみいただけますが、01から順番に辿る場合は下記よりご覧ください。
1 『テンペスト』操り人形
『テンペスト』では、魔術師プロスペローが劇中劇で精霊たちを操って「生身の人形芝居」を演じさせます(109)。また、プロスペローは天気を操って嵐を起こし、船を難破させ、弟ら一行を無人島に漂流させたり、無人島に住む野生児キャリバンを手懐けたりもする。プロスペローは魔術によって、他の人々の運命を人形使いのように操ることができる人。シェイクスピア作品では、特別な力を持った人物が、神のような立場に立って、力の弱い者や未熟者を操る姿が、しばしば操り人形のイメージで描かれます。
2 『じゃじゃ馬馴らし』操り人形
『じゃじゃ馬馴らし』で夫ペトルーチオに調教される妻キャタリーナも同様ですね。前半で、グルーミオは、お金持ちの娘だけれどじゃじゃ馬のような性格のキャタリーナと結婚しようとするペトルーチオについて、「金がたんまりついてりゃ何だっていいんだ、操り人形だろうが、金具で飾った指人形だろうがWhy, give him gold enough and marry him to a puppet or an aglet-baby」(52)という。また後半では、以下のような会話があります。
キャタリーナ 私を人形にする気なのね。
Belike you mean to make a puppet of me
ペトルーチオ そうとも、こいつはお前を人形にする気だ。
仕立て屋 奥様は、旦那様が奥様を人形にする気だと——
キャタリーナはペトルーチオに操られる人形なのだということが繰り返し印象づけられている。また、別の場面でペトルーチオは、「選ぶのはこの私です」(89)と、決定権が自分にあることを主張する。さらに、「俺は俺のものを司る主人だ。/この女(キャタリーナ)は俺の所有物だ、俺の家財、俺の家だ」(121)と、かなり強い言葉でキャタリーナとの夫婦関係において主導権が彼の側にあること、二人の間には確固とした上下関係があることを示します。
今の時代なら問題視されそうな言い方ですが、これはペトルーチオがキャタリーナの行動を支配し、まるで人形のように思うままに操れると示すための言葉なのだと思う。[01_両耳に流し込まれるヘボナの毒の謎](上記リンク)ではペトルーチオが、外部からの雑音に惑わされない強い耳を持っていることを確認しました。強い耳=強い心を持つ者は、まるで人形使いが人形を操るように、未熟なキャタリーナを手の内で操って、彼女の性格を変えてしまうような力を持っているんですね。
さらに、上記で引用した場面では、キャタリーナはペトルーチオに向かって「私を人形にする気なのね」というのですが、ペトルーチオは仕立て屋を指して「こいつはお前を人形にする気だ」という。つまり、ペトルーチオと仕立て屋が同時にキャタリーナを人形にするようなイメージがつくられています。この後ペトルーチオは仕立て屋に、「この糸くず野郎 thou thread」といい、「俺の家まで来て、糸巻き振り回してでかい面する気か?Braved in mine own house with a skein of thread?」(156)とくってかかる。ペトルーチオの従者も「針と糸を使ってさwith needle and thread.」(157)「スカートに縫い込んで、糸巻き棒で叩き殺してくださいsew me in the skirts of it and beat me to death with a bottom of brown thread」(158)と加勢する。糸巻き棒を持つ仕立て屋を巻き込んで、糸でつながった操り人形のイメージが描かれていきます。
3 『じゃじゃ馬馴らし』誰もが誰かの
キャタリーナの父が、娘とルーセンショーは相思相愛の仲です「でなければ二人とも/実に巧みに恋人同士の芝居をしているわけですな」(166)というセリフも、人形芝居を想起させるもの。
これが、『じゃじゃ馬馴らし』が劇中劇の仕立てになっていることと結びつく。この戯曲には、スライという鋳掛屋が領主たちに騙されるという序幕がついています。酔っぱらって眠ってしまった乞食同然のスライを領主たちが拾い、ひと芝居打とうとたくらむ。スライが目を覚ますと、そこは領主の豪邸。幾人もの召使いたちが現れて、スライの本当の姿はお金持ちの領主であり、今までの鋳掛屋だと思っていた姿はすべて夢だったのだといって担ぐ。そのもてなしの一環として、じゃじゃ馬キャタリーナをペトルーチオが調教するというこの劇中劇の物語が上演される、という趣向。
小姓の女性に貴婦人のなりをさせて、スライの妻を演じさせる(16)など、スライをだますため、枠の外側にいる召使いたちも、みなお芝居をしており、スライも訳が分からないまま領主を演じさせられます。つまり、枠の外にいるスライや召使いたちもまた、操り人形なんですね。小姓が良い妻を演じることをはじめ、ローズ・ウォーター、衣装替え、貴賤の逆転など、スライたちがいる枠の外側と劇中劇で、鏡像関係になっているモチーフも複数あり、この構造も『ハムレット』と同じ。
前述のとおり、じゃじゃ馬キャタリーナをペトルーチオが調教する劇中劇のなかでは、ペトルーチオが上の立場に立って、キャタリーナを操るという上下関係がかなり明確に示されています。ペトルーチオは召使いたちにも終始乱暴な命令口調で話し、自分こそが人を操る立場であると事あるごとにアピールする。だけれど、序幕があることで、ペトルーチオもまた、スライたちが見る芝居の中の役者にすぎないことが暴かれる。
そして、そんな芝居を観るスライたちもまた、自分でも気づかないうちに、不本意な役を演じさせられているという三重の入れ子構造になっている。誰もが誰かの操り人形になっているという入れ子の連鎖が、現実の客席の方にまで伸びてくる。いま、こうしてお芝居を観て、毎日を自分として暮らしているこの私もまた、誰かの操り人形かもしれない、と想像させる。これが「この世界すべてが一つの舞台、/人はみな男も女も役者にすぎない」(『お気に召すまま』_84)というシェイクスピアの世界観と結びつく。シェイクスピア作品で芝居についての言及が多いのには、彼が演劇人だからという事実を超えて、人はみな役者であり道化、私たち人間は神に操られる人形にすぎないのだという感覚があるからなのでしょう。
4 『夏の夜の夢』子供は親の人形
『夏の夜の夢』には、以下のような言葉があります。
父親はお前(娘ハーミア)にとっては神に等しい。
お前の美しさの創り主だ、
いやそれどころか、お前は
父の手で蝋の上に型押しされた人形にすぎない
神に操られる人間、運命に翻弄される無力な人のイメージが、父に型押しされた子どもの姿へと結びつく。蝋はイカロスを思わせる若い未熟者の例えですね。シェイクスピア作品では、未熟者の精神性がしばしば熱しやすく(燃えやすく)、あっという間にもろく崩れやすい蝋にも例えられます。
幼い頃は誰もがイカロスであり、同時にゼペットに操られるピノッキオ。そこからいかに糸を断ち切って、自分の足で歩ける大人へと成長していくかというイニシエーションのテーマがある。別の場面で「ニセ人間!指人形! you counterfeit, you puppet, you!」(98)という表現が出てくるのも同じですね。
5 運命の女神はすぐそこに
『お気に召すまま』には、「運命の女神というおばさんをからかって、糸車を回せなくしてやるのmock the good housewife Fortune from her wheel」(21)とあります。注釈によると、ギリシャ・ローマ神話の運命の女神の三姉妹のひとり〈クロト〉には〈紡ぐもの〉の意味があり、糸車に結び付けられるとのこと。シェイクスピア作品では、運命の女神が操る糸車が、操り人形を動かすイメージと結びついているんですね。
また『恋の骨折り損』では、ロザラインが、自分に恋をして夢中になっているビローンのことを、陰で「何から何まで私の言うとおりにさせたり」し、「私の道化にしてやります、私はあの人の運命の女神」(138)という。女性が恋人の男性を操り人形にするイメージがある。操る者は運命の女神、操られる者は道化役者に例えられます。
『テンペスト』のところで「特別な力を持った人物が、神のような立場に立って、力の弱い者や未熟者を操る」と書きましたが、シェイクスピア作品では、運命を操る神・女神が、人智を超えたちから、プロスペローの魔術のような本当に特別な力として現れることもあれば、親や恋人、配偶者などごく身近な人として描かれることもある。『恋の骨折り損』で「キューピッドの矢にはヘラクレスの棍棒もかなわない」(39)といわれるように、どんなに強い英雄でも、恋をすればあっさり相手に運命を翻弄されてしまう姿が示されます。
『アントニーとクレオパトラ』では、かつてはブルータスを倒した英雄として、ローマの三頭政治の一角を担っていたアントニーが、クレオパトラとの恋に溺れて力を落し、地位も名誉も失ってしまう。シーザーとの対決の際にも、ともに参戦したクレオパトラの船が逃げていくと、アントニーも「雌の尻を追う雄鴨のように、/まさにたけなわという戦を棄て、女のあとにくっついて逃げた」(153)。それで、味方の仲間たちからも呆れられ、見放されてしまう。そのときのことを、アントニーはクレオパトラに、以下のように嘆く。
俺はお前の舵に心の琴線でくくりつけられている、
お前に引かれてゆくしかないのだ。
俺の魂も完全にお前に支配されている、
お前が手招きひとつすれば、俺は神々の命令に背いても
お前のもとへ駆けつける(中略)
あなたも知っていたはずだ、
私にとってあなたがどれほど強大な征服者か
アントニーはクレオパトラという運命の女神に導かれるようにして戦いに負け、破滅していきます。
6 『リア王』糸巻き棒
『リア王』の中盤、ゴネリルが夫オールバニーに「私はここで武器の取り換えっこをしなくては。夫の手には/糸巻き棒を持ってもらう」(168)という場面も有名ですね。フランス軍との戦争に向かうとき、ゴネリルは夫の優しすぎる性格を批判し、自分が武器を取って闘うと宣言する。そんな姿が臣下からも、夫より妻の方が「よほどの軍人」(182)だと評される。
AIによれば「distaff side 糸巻き棒側」は伝統的に母系や母方を指す言葉。かつては糸紡ぎや織物といった家事労働が女性の主な仕事であり、その象徴となったとのこと。だからこの場面は、男女の役割交換の意味として解釈するのが一般的。
これも重要なテーマですが、同時に、ここでもやはり糸巻き棒を持つ者が〈運命の女神〉だということが示されているのだと思う。戯曲の前半、ゴネリルが上記のセリフを言うまで、糸巻き棒を持っているのはゴネリル。父王におべっかをいって領地や財産、権力を奪い、欲しいものを手に入れると、妹リーガンとグルになって、あっさり父王を裏切る。この行動が父王の運命を狂わせ、狂気に陥れて一連の悲劇を巻き起こしていく。中盤まで〈運命の女神〉として、事態の主導権を握っているのはゴネリル。(同時にリーガンとコーディリアもリアにとっての運命の女神なのですが、これについては改めて)
だけれど、武器の取り換えっこをして、夫の手に糸巻き棒を渡したあと、主導権はオールバニーに移る。ここから先、意志の弱さや未熟さを露呈しながらもフランス軍との戦争の指揮を取るのはオールバニーですよね。エドマンドの策略を食い止めることはできず、リア、コーディリアをはじめ、主要な登場人物たちが亡くなってしまう悲劇からは逃れられませんが、それでもどうにか事態を収拾する、その中心にいるのはオールバニーであり、リア亡き後、国を治めるのも彼ということになる。
前半でゴネリルが崩壊させた世界を、後半でオールバニーが収束させていく。糸巻き棒を夫に渡す場面を転換点として、糸車が逆方向に回転し始める。
オールバニーは優しすぎて戦争には向かないし、ゴネリルのように親の財産をずる賢く奪い取るような計算高い動きも、エドマンドのように策略を立てて他者を陥れるような真似もできない。妻に浮気をされても手をこまねいているような、少々さえない男性。だけれど正義感が強く、父を裏切ったゴネリルを激しく非難するなど、深い思いやりや愛情を持った、この作品の良心を象徴するような存在。
そんな彼が後半、糸巻き棒を持って周りを動かしていくことで、罪を持つ者たちや未熟すぎる者たちは亡くなり、国王一家に満ちていた汚れが浄化され、世代交代が果たされる。終盤、オールバニーは「幸運の女神の導きもあり」(225)戦争が無事に終結した、といいます。他のキャラクターに比べると、それほど存在感は大きくありませんが、オールバニーが後半の要になっていくことは、戯曲の一番初めのセリフに予告的に現れています。この詳細は、『リア王』読解で改めて見ていきたいと思いますが、糸巻き棒を持つ者は〈運命の神・女神〉であり、周囲の操り人形たちを動かしていく、そんなイメージがあるのだと思う。
前半では娘に操られる人形になったリアの、親子の立場が逆転した情けない状況を、道化が「車が馬を引っ張ってりゃ、とんまなロバでも妙だと思うよね?」(57)といってからかう。リアが自分の人生の手綱、主導権を娘たちに握られたところから悲劇がはじまるんですね。
7 運命の女神は女郎
『リア王』でゴネリルが猫に例えられていること、それが彼女の中に潜む悪魔を象徴していること、『終わりよければすべてよし』ではバートラムの中に潜む悪魔的な性質が相棒のパローレスとして現れており、パローレスが猫に例えられていることは、下記で確認しました。
『終わりよければすべてよし』では、道化のラヴァッチがパローレスについて、「ここに運命の女神のゴロニャンが、ていうか運命の女神の飼い猫が来てます」といい、パローレスが「閣下、私は運命の女神にむごたらしく引っかかれた男です」(180)と応じる場面があります。
また、『リア王』では、道化が「親父が財布を持ってれば/子はいい顔で親孝行。/運の女神は名うての淫売/貧乏人は締め出しくらう」(97)といって、ゴネリルやリーガンに裏切られたリアをからかう。他の場面では、夫がいるのに他の男に色目を使った妻ゴネリルについて「女の情欲は果てしが無い!」(204)ともいわれます。
前述の『じゃじゃ馬馴らし』の糸巻き棒のくだりでは、キャタリーナのために仕立てる服が「淫売の着る服じゃあるまいし」(158)といわれますし、『アントニーとクレオパトラ』では、魔性の女クレオパトラが娼婦のようだと表現されます。猫と運命の女神は結びついていて、運命の女神には淫売のイメージがつけられている。前回(下記)で、究極の女神は聖俗一致のイメージがあり、恋人や配偶者の男性は常に妻の浮気が心配で心が不安定になるのだと述べました。
『冬物語』では王レオンティーズが、無実の王妃ハーマイオニの不貞を疑い、処刑せよと命じる。そこから悲劇がはじまることは前回の記事でも述べました。この作品でも、序盤にハーマイオニが「糸巻き棒を振り回しても」(15)といいますね。ハーマイオニがレオンティーズの運命の女神、彼の波乱万丈の人生の起点となっていく。男性にとっての究極の女神は、運命の女神でもあり、美しいからこそ男性の心を惑わし運命を振り回す、そんな発想があるように思います。
8 『ハムレット』運命の女神
『ハムレット』での王子にとっての究極の女神=運命の女神はオフィーリア。ハムレットがオフィーリアへ「わが魂の偶像/美の化身たるオフィーリアへmy soul’s idol, the most beautified Ophelia—」(85)と記した恋文をおくっているのは、これを示すものといえるでしょう。究極の女神オフィーリアは、美しく純粋であるのと同時に、将来浮気をするかもしれないとハムレットを不安にする存在でもある。
それが「お前は貞淑か?」「尼寺へ行け」という言葉となって出てきているという解釈については、前回(上記リンク)述べました。王妃が「ハムレット、ここにおいで、私のそばに」というのに、ハムレットが「いえ、母上、こちらにもっと強い磁石があります」とオフィーリアの膝に頭をのせた後、「若い女の脚のあいだに寝るというのはいい思いつきだ」(136)と下品な冗談をいうのもそのため。
『ハムレット』にも「運命の女神は淫売だからな」(93)「失せよ、失せよ、運命の女神、心なき女郎め!/天に集う神々よ、女神の力を奪いたまえ/運命の車輪の輪も輻も微塵に打ち砕き」(107)「運命の女神の笛になって/いいなりの音を出すこともない」(132)など、運命の女神についての言及があり、それが女郎と結びつけられています。
ここには先ほど引用した「キューピッドの矢にはヘラクレスの棍棒もかなわない」という言葉がそのまま当てはまる。ハムレットがヘラクレスに例えられていることは過去記事でも見てきたとおり。「この国の希望ともバラの花とも仰がれ」(125)ていたハムレットの心は、恋とクローディアスの悪事のせいで、たちまち魚のように脆くなる。オフィーリアはもともと心の弱いキャラクターですが、恋に落ちてしまったらそんなことは関係がない。ハムレットの運命は、柳のように弱いオフィーリアに翻弄されることになる。
上記のバラの花の例えとともに、オフィーリアはそんなハムレットの姿を「若々しく花開いたたぐいまれなお姿も/狂気の嵐に枯れはてて」(126)と嘆く。シェイクスピア作品では、バラは美しいけれど、棘によって傷つき血を流すことも多い若者の表象。ここにはアフロディーテとアドニスの神話が重なりますね。アドニスはアフロディーテに運命を翻弄されて命を落とした青年。彼が死んだあと、血や涙の跡からバラが咲いたといわれ、シェイクスピア作品でも何度か言及されています。
ハムレットは第一に、オフィーリア(=ガートルード、詳細は前回記事参照)という運命の女神に翻弄される存在。なのですが、彼を操るのは恋人だけではないのがややこしいところ。前回、『ハムレット』には父との闘いのラインと、女神との関係を描いたライン、二つの軸があるのだと述べました。女神との関係でハムレットを操っているのはオフィーリア(=ガートルード)。そして、父との闘いで彼を操っているのは、象徴的父たち、先王・クローディアス・ポローニアス。これが、冒頭で述べた壁掛けの裏のポローニアスにつながります。
9 糸車の歌
はじめに訳者松岡氏による、オフィーリアはポローニアスの操り人形であるという解釈を紹介しました。『ハムレット』の前半で、亡霊に会った直後のハムレットが真っ青な顔でオフィーリアの部屋を訪ねてきたとき、彼女は縫物をしていた(74)といいますね。このときオフィーリアが持っている糸は、ハムレットを操るための糸なのでしょうか。それとも、ポローニアスが操る見えない糸で縛られているオフィーリア自身の精神状態を表現しているのでしょうか。
私は、ここの解釈は両義的に開かれていると読みたい。前述した『じゃじゃ馬馴らし』の入れ子構造のように、誰もが誰かの操り人形であり、誰もが誰かを無意識に操ってしまっているのだ(オフィーリアの場合は無意識ですね、別の作品では意識的に恋人を操るヒロインもいますが)ということが示されているのではないでしょうか。
この後オフィーリアは、ハムレットによって父を殺され、ハムレットが国外追放となった悲しみの中で発狂し、王、王妃、兄レアティーズに向けて下記のようにいいます。
続けて歌わなきゃ駄目、あなたは「ずん、ずん、ずん」よ、それからあなたは「呼んでごらん、ずん」ってね。ああ、糸車の調子にぴったりね。
You must sing “A-down a-down”—and you “Call him a-down-a.”—O, how the wheel becomes it!
『トロイラスとクレシダ』の予言者カサンドラが「狂った妹」「妹の狂った頭」(81・83)といわれるように、シェイクスピア作品では、狂人には現実世界が見えなくなるのと引き換えに、目には見えない世界が見えるようになる。上記の場面で、狂気に陥ったオフィーリアもこれと同じなのだと思う。現実的な物事がわからなくなった代わりに、人々の運命がわかるようになってしまった、この先さらに悲劇的な展開が待ち受けていることが見えてしまう運命の女神になったということが、糸車の歌で示されているのではないでしょうか。
だからこそ、このあとオフィーリアは糸車の歌を歌いながら、兄や国王夫妻に、それぞれの罪を癒すような薬草を渡していく。運命の女神として、周囲の人々の未来を見透かし、車輪を回転させていく。
松岡氏は、気が狂う前のオフィーリアは、レアティーズにしか命令文を使っていないけれど、気が狂ってからは、王クローディアスに向かっても、王妃ガートルードに対しても命令文を使う。「狂って初めて自分の意思をはっきり出す」のだと述べています(『深読みシェイクスピア』)。狂気にとりつかれて、オフィーリアはやっと父の呪縛から逃れ、自分の手で自分の運命の糸車を回すことができるようになったのかもしれません。
10 操られる子供
ポローニアスは、外国へ留学する息子レアティーズに「二、三、言っておきたいことがある。しっかり胸に/刻み付けておけ」といって、「思ったことは口に出すな」「喧嘩には巻き込まれないように用心しろ」「みんなの話に耳を貸し、自分からはめったに口をきくな」「財布が許すかぎり着るものには金をかけろ」(43)などと事細かに指示を出します。
あげく、「人の意見は聞いても自分の判断は控えるのだ」(43)という。自分の頭で考えることはせず、他の人、例えば親である自分のいうままに動けばいいといっているわけです。また、娘オフィーリアに対しても「自分は赤ん坊だと心得ろ」(46)「ハムレット殿下と口をきくようなふらちな真似はするな。/分かったな、命令だぞ」(47)と子どもたちにうるさく指図する。
松岡氏は、ポローニアスが息子や娘、従者らに、普段の行動の仕方から言葉の使い方までを「細かく指示を出し、単に命令するだけでなく、いちいちセリフまでつけるような人物」であると指摘しています(『深読みシェイクスピア』)。
ポローニアス、先王、現王クローディアス、王妃ら親世代は、ハムレット、レアティーズ、オフィーリアら若者世代を言葉で縛り付け、目には見えない糸で人形のように操ろうとする。若者世代は親世代から押し付けられる価値観が本当に正しいのか迷い、ときに受け入れ、ときに反抗しようとする。その葛藤が、ハムレットらの運命を動かしていく。
さらに、レアティーズはハムレットについて「高いご身分を考えれば、自分の意思すらご自分のものではない。/お生まれに縛られておいでだ」妃を選ぶのにも「制約がある」「国民の声を聞き、/同意を得なくてはならない」(40)という。ハムレットは、国民の声にも縛られていて、自分の思うとおりに生きられない宿命にあるんですね。
11 操り人形の関節
序盤、現王クローディアスは「わが国の関節がはずれ Our state to be disjoint and out of frame」(23)といい、これと呼応する形で、ハムレットも別の場面で「この世の関節がはずれてしまったThe time is out of joint.」(68)といいますね。jointは手や脚の関節を意味する言葉でもある。
クローディアスが自分の罪を悔い、天に祈る場面では、「鳥もちにかかった魂、もがけばもがくほどがんじがらめだ!」(159)と罪悪感に縛られた心を嘆く。罪を犯したクローディアスもまた、愚かな操り人形の一人。クローディアスは続いて、「曲れ、かたくなな膝。鋼と化した心よ、/生まれたての赤子のように柔らかになってくれBow, stubborn knees, and heart with strings of steel / Be soft as sinews of the newborn babe.」(159)という。膝は関節 joint のひとつですよね。
これらを合わせると、関節部分をねじでとめられて、ぎこちなく動く操り人形のイメージが浮かび上がる。関節がはずれてバラバラになった操り人形のイメージが、太古の豊饒祭祀でバラバラに解体されて大地に撒かれる生贄の模造と結びつく。これについては次回考察します。
12 『マクベス』糸のもつれ
『マクベス』でも「万物の関節がはずれ、天も地も滅びてしまえばいい。 But let the frame of things disjoint, both the worlds suffer」(87)という言い方が出てきますね。マクベスは誰に操られているのかと言えば、妻、魔女たち、あるいは「俺(マクベス)の胸の奥底の黒黒とした野望」(31)ともいえるでしょうか。これに下記の表現が重ねられる。
罪なき眠り、
心のわずらいのもつれた糸を解きほぐす眠り、
一日一日のいのちの終わり、辛い労働のあとの湯浴み、
傷ついた心を癒す塗り薬、大自然の与える贅沢な食事、
人生の共演の最高のひと皿
the innocent sleep,
Sleep that knits up the raveled sleave of care,
The death of each day’s life, sore labor’s bath,
Balm of hurt minds, great nature’s second course,
Chief nourisher in life’s feast.
「きれいは汚い、汚いはきれい Fair is foul, and foul is fair.」(10)「ひどいのか良いのか、こんな一日は初めてだ So foul and fair a day」(18)に出てきて、〈fair 美しい〉と対になってこの作品で相反する二極を象徴する〈foul 汚れた〉にも〈糸のもつれ〉という意味があります。ここからつながっての上記の〈sleave 糸のもつれ〉。王を殺した罪悪感から、マクベスは眠ることができなくなる。眠れないと、心のわずらい=もつれた糸が解きほぐされない、ますますもつれていく。それが彼を狂気へ、その先にある破滅へと導いていく。愚かな人形であるマクベスを操っているのは、糸のおおもとにある〈もつれ〉。
眠りでほぐれると言われているということは、マクベスを狂気へ導く糸のもつれは、彼自身の中にある、彼の精神的な混乱に起因するということになる。悪魔的な考えに支配されたマクベスが、「俺の心はサソリでいっぱいだ!」(89)と述べるサソリ。それがマクベスを操る運命の神の正体。先ほど、運命の神・女神は身近な親や恋人・配偶者であることも多いと述べましたが、自分自身であることもある。妻や魔女たちの言葉は、マクベス自身の中にもともとあった野望や悪魔的な欲望を後押ししているに過ぎないのかもしれない。
『ハムレット』でローゼンクランツが「ご自分の自由を閉じ込めかんぬきを下ろすようなもの」(150)だというように、ハムレットを縛り付けて、世界を牢獄のようにしているのは、ハムレット自身の思い込みである部分も少なくない、と下記の記事でも述べました。自分の心の奥深くに隠された深層心理、悪意や罪悪感のようなものが複雑なもつれとなって(いわゆるコンプレックスというやつでしょうか)自分の運命を否応なく操り振り回していくイメージもまた、シェイクスピア作品にはある。『ハムレット』でもこのあたりが絶妙に混ざり合っている感じがします。
13 懸索と絞首台
以下はオズリックが、ハムレットとレアティーズの決闘に馬と短剣、懸索を賭けに出したと説明する場面。
オズリック とくにこの懸索三本というのが素晴らしい芸術品でございまして、剣の柄にも見事に釣り合い、ことのほか凝った作り、まことに贅沢な懸索でございます。
ハムレット その懸索というのは一体何だ?
ホレイショー やはり注釈がないと分かりませんね。
オズリック 懸索というのは吊り紐のことでございます。
ハムレット 大砲を腰にぶら下げる日がくれば、その呼び名も似つかわしいだろうが、それまではただ吊り紐と言ってもらいたいね。
OSRIC Three of the carriages, in faith, are very dear to fancy, very responsive to the hilts, most delicate carriages, and of very liberal conceit.
HAMLET What call you the “carriages”?
HORATIO I knew you must be edified by the margent ere you had done.
OSRIC The carriages, sir, are the hangers.
HAMLET The phrase would be more germane to the matter if we could carry a cannon by our sides. I would it might be “hangers” till then.
あえて懸索(けんさく)carriagesという耳慣れない言葉を使って、回りくどくそれが吊り紐であること、豪華な芸術品であることの説明をしているのは、オズリックの見栄っ張りな性格を示すためであると同時に、これが人形を操る糸・紐と結びつくアイテムだからではないでしょうか。carriageには、馬車や連結された台車、乳母車の意味もあり、愚か者を引っ張るイメージに結びつくと思う。『リア王』でリアが馬に、馬車が娘たちに例えられているのと同じですね(57)。三本なのはおそらく、ハムレット、レアティーズ、オフィーリア、親に操られる子供たちを示すもの。
シェイクスピア作品において、馬が人生の乗り物であることは、以下で示したとおり。
「駿馬六頭」なのは、ポローニアス、オフィーリア、ハムレット、レアティーズ、国王夫妻というこの戯曲で死ぬ者たち六人の人生が賭けに出されて失われるから。「短剣が六振り」(252)なのは、この戯曲で死ぬ者たち六人を死へ誘う武器だからで、前半でハムレットが自殺を考える時の武器が短剣であることと呼応します。「六」の意味は下記で考察したとおり。
オフィーリアが持つ縫物の糸や歌の中の糸車が、ハムレットの恋愛関係の運命の糸だとすると、決闘の際に賭けられる懸索という豪華な吊り紐は、父たちが息子を操る糸なのかもしれません。
先ほど『夏の夜の夢』の型押しされた人形や指人形も、操り人形ではないかと述べましたが、この作品の別の場面では、「髭には丈夫な紐をつけ、靴のリボンは新しいのに取り替えて」(130)という紐やリボンのイメージがあり、これらを操り人形の糸と結びつけて考えることもできると思う。
すると、「シスビーのガーターで首つり自殺をすれば、結構いい悲劇になっただろう」(156)というきわどい冗談も、劇中劇の主人公が神の手の内で操られる人形であることの仄めかしと読める。そう考えると、『ハムレット』で墓掘りがいう以下の言葉にも同様の意味が込められているように思えてきます。
石屋や大工、船大工よか頑丈なものこせえるのは誰だ?
絞首台作るやつよ(中略)
絞首台は教会よりも頑丈だってことだよな、こいつは悪いことだ。しかるが故に絞首台はお前さんにとっていいてわけだ。
the gallows is built stronger than the church. Argal, the gallows may do well to thee. To ’t again, come.
シェイクスピア作品では、絞首刑は罪人が操り人形であることの表現だと思うんですね。この場面の解釈は下記で示したとおり。協会は精神世界やそれを支える信仰の力の象徴で、それよりも死の引力=絞首台の方が強いという意味ではないかと述べました。死の引力は、運命が糸を引くちから、とも言い換えられると思います。
14 演出家ハムレット
ハムレットが、ホレイショーとマーセラスとともに亡霊を見る場面では、ハムレットが友人らに「今夜見たこと、決して他言しない」と「誓ってくれ」と頼み、次のように続けます。
たとえ俺(ハムレット)がどんなに奇妙な態度を取ろうとも——
つまり、この先必要に応じて
気違いのふりをするかもしれないからな——
そんな時、俺を見ても
こんなふうに腕組みをしたり、首を振ったり、
いかにも意味ありげに
「そうかやっぱり」とか、「知らない訳じゃないが」とか、
「言おうと思えば」とか、「言ってよければ」などと
謎めいたことを言い
俺について何か知っているそぶりは見せないでくれ——さあ、
誓え。
ここでハムレットは友人らに、今後自分が気違いのふりをした際に、彼らがどういう態度をとるべきか、しぐさやセリフまで事細かに指図しています。まるで、ハムレットが演出家となって、役者に芝居のセリフや動きを指示しているような状況になっていますよね。
15 父と一体化するハムレット
同じ場面で、ハムレットが友人らに「誓え」と命じるとき、ハムレットの「誓え」という声に、奈落の底から聞こえてくる先王の「誓え」という声がシンクロします。父(先王)と息子(王子)が一体となって「誓え」という。父と息子が同じ言葉を口にする。この場面ではさらに、ハムレットが先王の亡霊に対して以下のように言っています。
ほほう、小僧、貴様もそういうのか? そこにいたか、相棒
Ha, ha, boy, sayst thou so? Art thou there, truepenny?
いいぞ、モグラ先生。地下でも素早く動けるんだな?/大した坑夫だ!
Well said, old mole. Canst work i’ th’ earth so fast? — / A worthy pioner!
鎮まれ、鎮まれ、落ち着きのない亡霊だな
Rest, rest, perturbèd spirit.
この戯曲で、ハムレットは父である先王を「男のなかの男」と称えて憧れ、尊敬して愛し、その死を心から悲しんでいる。のですが、この場面でだけ先王の亡霊をからかうような、妙に見下したような物言いをする。父と息子が一体化し、しばらくの間だけ父と息子の立場が逆転しているような感じさえある。この場面では、ハムレットが上位に立って、演出家(あるいは神)的な立場で、亡霊・ホレイショー・マーセラスらを役者に見立て、操っているようなイメージが強調されているように思います。
16 演出家ポローニアス
上記が第一幕の最後の場面。そしてすぐ後、第二幕の冒頭に、似た場面が鏡写しで繰り返されます。ポローニアスが従者レナルドーをパリへ留学中の息子のもとへ使いに出す場面で、ポローニアスはレナルドーに、パリで息子の知り合いを探し、暮らしぶりを探るように指示して以下のように言うんですね。
少しはせがれを知っているふりをしてみるんだ。
「父親は知っております、友だちも、
それに本人も多少は」てな具合だ——分かったか、レナルドー?
こんな風に、旅先でのものの尋ね方、相づちの打ち方まで仔細に指示し、各質問に対する相手の答え方までさまざまに想像して、セリフ付きの想定問答のようなことまでしてみせます。まるで舞台稽古の演技指導のようなやり取りが、文庫本で4頁分ほども続くんですね(70-73)。一見主題とは関係なく冗長に感じられるやり取り。
訳者の松岡氏が『深読みシェイクスピア』で、ポローニアスは「オフィーリアを廊下に立たせるときにも、祈祷書を読んでいろ、そうすれば一人でいても不自然に見えないからと演出をこらす」と指摘しているとおり、この戯曲でポローニアスは演出家として描かれており、それが上記のようなシーンとなって現れている。
のですが、この場面でポローニアスがやっていることは、その前の場面でハムレットが友人たちにしたことの鏡映しでもある。この二つの場面で、シェイクスピアは〈演出家の言葉や身振りをそのまま真似る役者〉〈王侯貴族など上の立場の者の言葉に従順な従者〉〈象徴的父の言葉や身振りをそのまま真似る息子〉を重ねているのではないでしょうか。
さらにその前には、ハムレットが亡霊の父の言葉を「決して忘れない」と誓う場面がある。ここでは、先王が息子に言葉を授け、ハムレットはそれを自分の糧にしようとするのですが、同時にそれが彼の呪いにもなっていくのだと、[06_ハムレットが読む「言葉、言葉、言葉」とは?](上記リンク)で述べました。
父は息子に、社会で立派な大人として生き抜いていくための〈言葉や身振り〉を教え、息子は父を理想として、父の〈言葉や身振り〉を真似ることで大人へと成長しようとする。並行して、義父ポローニアスやクローディアスらは子どもたちを自分の手の届く枠内に閉じ込めて、思い通りに操ろうとし、子どもたちはそれに反抗して、乗り越えていこうとする。この葛藤の中で、ハムレットは周囲の人々に演技指導をし、人形のように操ろうとするしぐさまで、父たちとシンクロしていくんですね。
17 頭を働かせて
『ハムレット』ではさらに、この操り人形のモチーフが、実際の旅役者との交流を通して語られていきます。戯曲中盤で、ハムレットは役者たちに以下のように演技指導をしますね。
さあ、今の台詞をやってくれ。俺が言って見せたようにさりげなく自然にな。(中略)こんなふうに大げさに手で空を切ったりせず、すべて穏やかにやるんだぞ。(中略)といって、あまりおとなしすぎても困る。めいめい頭を働かせて判断しろ。動きを言葉に合わせ、言葉を動きに合わせる。
ここでハムレットは、人形の糸を操る側に立って、役者たちがどう動くべきか指示している。ハムレットは、私生活では親世代や国民たちや恋人に操られている人形。であると同時に、公の場では王子として従者たちに命令する立場でもある。誰もが誰かの操り人形であり、同時に人形使いでもあるという現実を体現する存在。それが、「芝居が目指すのは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡をかかげ、美徳にも不徳にもそれぞれのありのままの姿を示し、時代の実体をくっきりと映し出すことだ」(129)という劇作家シェイクスピアの考え方と結びつく。
そんななかで若者ハムレットには、親たちの束縛から抜け出したい、自立して自分らしく生きたいという気持ちがある。だからこそ、役者たちに「めいめい頭を働かせて判断しろ」というんですね。これはポローニアスがレアティーズに「人の意見は聞いても自分の判断は控えるのだ」(43)というのと真逆の内容。
「To be, or not to be」と迷うハムレットは優柔不断だと批判されることも多いし、彼の決断の遅さが悲劇を招いたことは確か。だけれど、彼が自分の頭でしっかりものを考えて、自分の責任で判断をくだそうとしている若者であることもまた確か。「to be」とは、自分の頭でものを考えず、親や国民の望むとおりに動く操り人形でいること。迷わずにこの道を通っていれば、悲劇は避けられたかもしれないし、周りからも褒められて楽だったかもしれない。
だけれどハムレットは、父の仇だからといって安易に人を殺してもいいのかと迷い、一度は自分の意志で復讐を思いとどまるという形で「not to be」と父たちが操る運命の糸を断ち切って、自分の足で立とうとした若者なのだと思う。その試みはうまくいかなかったけれど、ハムレットは運命に抗おうと闘った、ここにひとつの感動があるのではないでしょうか。
一度は運命に逆らったハムレットは、この後、ガートルードの部屋でクローディアスと間違えてポローニアスを殺してしまう。運命に小さく反抗したところ、さらに大きな運命の力に絡めとられてしまう。ハムレットはポローニアスを殺してしまったことについて、「これも天の御心。/こうして僕を罰し、僕を使ってこの男(ポローニアス)に罰を下された。/僕は神の鞭を受け、神の使者としてその鞭を揮ったのです」(174)という。この言葉の内容も、鞭という小道具にも、誰もが誰かの操り人形である連鎖のイメージを重ねられるように思います。
18 演技者になること
上記の引用の「動きを言葉に合わせ、言葉を動きに合わせる」というのも、さりげないけれど重要。この戯曲では、ホンネとタテマエの乖離が苦しみの原因として描かれていることは、[08_「悲劇的喜劇的歴史劇的牧歌劇」とは何か?](上記リンク)でもふれたとおり。本心や言葉と振舞いを一致させていくべきだというのは、シェイクスピア作品に通底する思想ですね。でも、ときには悪意から、ときには周りの人々を思いやるがゆえ、ホンネを隠してその場を取り繕う言葉を口にしなければならなくなる。演技をしなければならなくなる。
序盤でハムレットは、現王と母に「そういうものはなるほど目に見える。/人間が演じる演技だからです。/だが僕のなかには見せかけを超えたものがある。/目に見えるこうしたしぐさは悲しみの飾り、衣装にすぎません」(28)と演技を否定しておきながら、亡霊に会った後、ハムレットは自ら「気違いのふりをする」(67)と宣言し、狂気にとりつかれたふりをし、「気違いに戻らなくては」(134)とつぶやき、友人の前では「ハムレットは実は狂っていない/気違いのふりをしているだけだ」(175)といい、わざと狂った演技をしていることを何度も強調する。
心の奥底では、演技ではない本音の部分をこそ重要視したいと考えながら、復讐のために狂気を演じ続けるうちに、ハムレットは本物の狂気にとりつかれていく。自分の罪を隠して立派な王の振りをするクローディアスも、復讐をたくらみながら狂気の振りをするハムレットも演技者。それは、自分の悪意や、周囲の状況の操り人形になるということではないでしょうか。
19 操られるポローニアス
ポローニアスもまた、操る立場にばかりいるわけではありません。王に対して「いかがお思いでしょう」「いかがでございます?」(87)としつこいほど尋ね、また別の場面では、「まことにもって賢明なお言葉」(157)とおべっかをいう。序列や王の言葉を重んじ、自分で判断したことよりも、上からの命令に従うべきという価値観の持ち主。王の言葉を待つだけでなく、自分の方から積極的に尋ねに行く。そして、子どもたちや臣下には、良かれと思って事細かに指示を出している。臣下ポローニアスもまた、王の言葉に従い操られる者であり、そんなポローニアスが子供たちを操ろうとするという連鎖があります。
20 操られるレアティーズ
前述のとおり、ポローニアスに事細かに指示される様子が印象的な息子レアティーズも、父の教え通りに動く人形としての性質を見せていきます。ポローニアスが殺され、オフィーリアが狂気に陥った原因がハムレットにあると知ったレアティーズは、復讐を望み、王クローディアスと結託。「仰せに従います/策を授けて下さるなら/むしろ手足となって働きたいくらいです」(216)と王に直訴する。
自分で作戦を練るのではなく、王の言葉を待って、それに従って復讐を果たそうとするわけですね。この姿はハムレットが父の亡霊に向かって「ああ、お言葉を O, say!」といい、亡霊が「忘れるな Do not forget.」(170)ということ、ハムレットが先王(父)の言葉に従って復讐を果たそうとすることと重なる。レアティーズが最後まで名誉を重んじるという騎士道精神を受け継ぎ、それに疑問を感じない若者であることは下記でも触れました。
所与の価値観をうのみにして疑わないレアティーズは操り人形。ハムレットとの決闘で、剣の先に毒を盛る作戦を考えるときには、クローディアスが「考えてみよう。/いつどういう手段を取れば我々が演じる役に/好都合か、じっくりとな。万一しくじり/まずい芝居を打った挙げ句、我々の目論見がばれるくらいなら/いっそやらないほうがいい」(221)という。このセリフは、決闘の場面でクローディアス自身を含め、そこにいる全員が運命の手の内にいる愚かな操り人形であることを示しているのではないでしょうか。
そしてレアティーズは、ハムレットに内緒で剣に毒を塗っていることについて「それにしても気がとがめるAnd yet it is almost against my conscience.」(263)と自分自身の良心と相反する事態になることを予感しつつも、王の命令に逆らうことはしない。自分の良心の声を愚かにも無視したことが、悲劇を決定的にし、レアティーズ自身をも破滅させる。運命の操り人形になることは、自分の頭でものを考えない阿呆になることであり、それは自分にとっても命取りだと、シェイクスピアはいっているのかもしれません。
21 他人の言葉に惑わされる未熟者
クローディアスは、レアティーズに「何かをやろうとしたら/思った時にやるべきだ。「やろう」という気持ちは変わるからな。/他人の言葉、行為、出来事に遭うたびに/熱はさめ、実行を引き伸ばす」(219)といって、復讐心をたきつけようとします。この言葉はそのまま、クローディアスへの復讐を果たせなかったハムレットの状況を示している。この作品で、他人の言葉に惑わされるのは、耳の弱さ=心の弱さを表すことは下記でも示したとおり。
耳から吹き込まれた情報でたちまち狂気に陥り、周りの人々を傷つけるのは、未熟で弱かったころのヘラクレスと同じであり、それは誰かに操られる人形、芝居の道化役者にすぎないということでもあるのではないでしょうか。
22 舞台背景としての壁掛け
『トロイラスとクレシダ』の最後、締めくくりの言葉には以下のような表現がでてきます。
肉を売り買いする者は、この歌をきれいな壁掛けに織り込んどけ
Good traders in the flesh, set this in your painted cloths
「肉を売り買いする者」というのは、食欲を持つ者のことで、シェイクスピア作品では食欲と強欲や情欲はつながっているから、同作で描かれた目先の利益を求めて戦争する者や、トロイラスとクレシダのように恋する者のこと。かつ、金銭によって売買を行う者。お金を扱えるということは、数字や記号、言葉を理解できるということ。
言葉を理解し、思考し会話し、過去を後悔したり未来を心配したりしながら、それぞれに自分の内なる世界を持って生きている人、ということ。[07_シェイクスピア『ハムレット』解釈:不動産証書について語るのはなぜか?](上記リンク)ではそれが聖書で知恵の実を食べたアダムは「この世で最初の土地持ちよ」(227)と語られていると解釈しました。
『トロイラスとクレシダ』では、これが縦糸と横糸で織られた壁掛けに例えられている。上記の一文は、この戯曲において、前半は恋が叶って浮かれていたけれど、後半では恋人に浮気され、戦争にも負けたトロイラスのように、人生の幸せな時間というのは、運命のいたずらによってあっという間に終わってしまう。肉を売り買いして食べ、恋をし、言葉を話しながら、毎日楽しみと苦しみの間を行ったり来たりしながら生きている市井の人々はみな、このことを教訓として、日々織り上げている内なる自分の世界観の織物に、忘れずに織り込んでおけ、という意味だと思う。painted clothは、正確には織られた布に後から絵を描いた廉価版で、タペストリーとは異なるもののようですが、これも含めてシェイクスピアの皮肉ではないでしょうか。
また、『リチャード二世』の前半では、夫を失った妻が、タペストリーなどの「飾りのないむき出しの壁」(27)という言い方で、自分にとっては世界が終わったようなものである状況を嘆く。そして後半、悪政をおこなっていたリチャードが廃位され、新王が行進するのを民衆が祝うときの様子は、「群衆の描かれた垂れ幕が/壁という壁にかかったみたいだった」(175)と表現されます。これも不思議な言い方ですよね。群衆が描かれた垂れ幕が飾られているというよりも、本物の群衆がいたという方が、お祝いムードは強調されるはずなのに、逆さまになっている。注釈によれば、垂れ幕と訳されている painted imagery は壁掛けや祝祭時の山車を飾る垂れ幕のこと、とのこと。
この直後、王の交代について「劇場の観客は、/人気俳優が舞台から引っ込んでしまうと、/次に出てきた役者には目もくれず、/そいつの台詞も退屈な無駄口としか思わない」(175)という言い方がされる。俳優の例えと一緒に語られることで、壁掛けが舞台の背景、大道具のようなイメージになりますね。祝祭時の山車を飾る垂れ幕は、道化カーニバル、道化芝居を連想させる。この戯曲では、王が一種の道化として語られており、壁掛けはその世界を象徴する舞台背景なのだと思う。『ハムレット』の壁掛けも、これと同じ意味で解釈できるのではないでしょうか。
23 壁掛けの裏のポローニアス
三幕一場の大廊下にハムレットが現れる直前、ポローニアスと現王クローディアスは壁掛け(89)の裏に隠れて、ハムレットが「To be, or not to be」とつぶやき、オフィーリアと会う様子を盗み見ます(117)。後から現れたオフィーリアに対し、ハムレットが「お前は貞淑か?」「尼寺へ行け」と衝撃的な言葉をいい放ち、ポローニアスについて「お前の親父はどこにいる?」「しっかり閉じ込めておけ」ということから、この場面でハムレットは、実はポローニアスとクローディアスがもの蔭に隠れていることに気づいていたのではないかと読む研究者もいて、解釈が分かれる場面ですね。
まずは王が「スパイとして/もの蔭に隠れ、向こうからは見られずに見る」(117)と語り、その後ハムレットが彼らに気づいたことを示す言葉や素振りはないため、本稿では素直にハムレットはここで彼らの存在には気づいていないと読みたい。しかしそのうえで、ハムレットは自分でも気づかないうちに、彼らからの影響を受けている、知らず知らずのうちに父たちに操られている人形になっている、シェイクスピアはそのことを表現しようとしたのではないか、というのが私の解釈です。
劇中劇を見たあと、ハムレットが王妃の部屋へ呼ばれる場面でも、ポローニアスは王妃の部屋の壁掛けの裏に隠れて二人の会話を盗み聞きしようとし、それに気づいたハムレットに殺されてしまいますね。ここでポローニアスが隠れるのは〈arras つづれ織りの壁掛け〉。縦糸と横糸で織られた壁掛けは、ハムレットを主人公とした人形劇の背景、ハムレットの内面世界を暗示しているのではないでしょうか。
ポローニアスが壁掛けの裏側に隠れることは、ハムレットが狂気を演じる世界の背後にまわること。人形劇を操る側、神の視点にまわること。ポローニアスは世界の裏側から子供たちを操る人形使い。『ピノッキオ』でいうならゼペット。ハムレット、オフィーリア、レアティーズは、父(神)の思うままにしか動くことのできないピノッキオ。
同時に、人形使いの存在は、兄レアティーズから忠告を受けたオフィーリアが、「心の見張りにしておくわ As watchman to my heart」(42)というような、ハムレットやオフィーリアら、子供世代が内面化した良心、超自我のようなものという言い方もできるかもしれない。ハムレットが先王の言葉を自ら記憶にとどめ、手帳に記して呪いにしたように、もの蔭に隠れたクローディアスとポローニアスは、彼らの心の見張りとして表現されている、そんな読み方もできるかもしれません。
また、本作ではポローニアスに闇の世界をうごめく鼠や fool のイメージも付与されていますね。運命を操る糸のもつれはマクベス本人の中にある悪魔やサソリのことでもある。ならば、ハムレットがポローニアスについていう、「お前の親父はどこにいる?」「しっかり閉じ込めておけ」というセリフは、ピノッキオからゼペットへの反抗、父の思い通りに動く息子にはならないという気持ちの表れ。であると同時に、自分の心の奥深くにある呪い、隙あらばしたい放題暴れようとする若いころのヘラクレス的狂気を抑圧し、理性で制御したいという意味にも読める。
さらにいえば、つづれ織りは、縦糸を裏に隠して、横糸で繊細な模様を表現する織物。これが『ハムレット』という作品全体を貫く、目に見えている世界の背後、壁掛けの裏側に、私たちを操っている不気味な存在がある。世界は光と闇、此岸と彼岸のパラレルワールドであるという考え方とも響きあう。このテーマについては、下記でもふれていますので、併せてご覧ください。
以上のことから『ハムレット』には、他人の言葉という見えない糸に惑わされ、たやすく操られてしまう心の弱い人形のような未熟者たちが、悲劇に巻き込まれていくさまが描かれていると思う。誰もが神の手の内で操られる人形であり、運命に抗おうとしながら、そんな試みの一部始終さえすべて神の手の内にあったかのように、さらに一回り大きな運命の渦に巻き込まれていく。
ただ、運命やそれを操る神・女神と呼ばれているものは、必ずしも人智を超えたちからとは限らない。それらはすぐ隣にいる両親や恋人、あるいは自分の深層心理のようなものとも驚くほどたやすく結びつく。ハムレットも確かに最初は、父の亡霊からの「復讐せよ」という命令によって動かされていく。けれど、その命令をすすんで内面化して復讐を誓い、自分に狂気に至る呪いをかけてしまったのは、ハムレット自身でもある。彼を操っているのは、究極的には彼自身なのかもしれません。
24 言葉よさらば
ここで、[06_ハムレットが読む「言葉、言葉、言葉」とは?](上記リンク)で考察したハムレットが初めて亡霊に会った場面へ戻ります。亡霊は去り際、息子に「さらば、さらば、さらば、父の言葉を忘れるな Adieu, adieu, adieu. Remember me.」という。これを受けて、ハムレットは「そうだ、手帳に書き留めておこう」とつぶやいて、下記のように続けるんですね。
次は俺の座右の銘だ。
「さらば、さらば、父の言葉を忘れるな」
天に誓ったぞ。
Now to my word.
It is “adieu, adieu, remember me.”
I have sworn ’t.
これ、よくよく読むと変な気がしませんか? 例えばAさんが「さようなら、私のことをわすれないでね」といって去ったあと、手帳に「Aさんのことを忘れない」とは記すし誓うかもしれませんが、「さようなら」とは書かないし、誓わないと思う。ハムレットがここで、「さらば、さらば」から手帳に記しているのはシェイクスピアの仕掛けではないかと勘繰りたくなる。
私はこれが、役者が朗読するの以下のセリフと鏡映しになっているように思うんですね。
失せよ、失せよ、運命の女神、心なき女郎め!
Out, out, thou strumpet Fortune!
天に集う神々よ、女神の力を奪いたまえ
運命の車輪の輪も輻も微塵に打ち砕き
天界の峰の頂きより
奈落の悪鬼に打ち投げたまえ
「父の言葉を忘れるな」というのが、亡霊からハムレットにかけられた呪い。そして、今回見てきたように、父の呪いは運命の女神と結びつく。もしかすると、ハムレットはこの場面の深層で、「父の言葉を忘れるな」という父からの命令に対して「さらば」といっているのでは。表面上は亡霊にさよならを告げ、「父の言葉を忘れるな」という言葉を手帳に書き記すふりをして、心の奥深くでは「父の言葉を忘れるな」という命令そのものに別れを告げ、それをこそ座右の銘だといっているのでは。それはハムレットを操ろうとする運命の女神、自分の心の奥深くに潜む呪いや糸のもつれに「失せよ」ということと同じである、とも読めないでしょうか。
別のところでも書きましたが、シェイクスピア作品において三度繰り返される言葉は呪文。三位一体につながる統合を意味することが多い。対して、二度繰り返される言葉は、本来一緒にいるべき夫婦・恋人・兄弟などが離れ離れになったり、精神が二つに引き裂かれていたりする場合に使われます。亡霊が言う「さらば」は三度で、ここには、先王が息子と一体化して復讐を果たしたいという願いが託されているように読める。これが、ハムレットがホレイショーらに三度繰り返す「誓え」、さらには後にポローニアスに対して言う「言葉、言葉、言葉」とも呼応する。対して、ハムレットが手帳に記す「さらば」は二度になっていて、先王の言葉とそれを内面化するハムレット本人の行動が、彼の心を引き裂き狂気へ導くことを暗示している、と解釈できます。
この時点でハムレットは潜在的に父の言葉を忘れたがっているのかもしれない。父親世代から教えられた言葉でできた世界(バベルの塔)を壊し、自分の言葉で世界を立て直すための息子の闘いがここから始まるのだ、その過程を描いた物語なのだということを、シェイクスピアは表現しているのかも。
だからこそ、王妃は「言葉から息が生まれ/息が命から生まれるなら」(175)といい、最後にハムレットが「あとは、沈黙」といって果てるとき、父たちの言葉で創られた世界に「さらば」と別れを告げるとき、息がハムレットの口から消える瞬間、ハムレットの口から〈言葉〉も消える、そのことが印象的に描かれているのではないでしょうか。考えすぎなところもあるかもしれませんが、こんな風に読んでみるのも面白いと思う。
25 神のために演技を
今回見てきた操り人形のテーマは、サリンジャーのグラス家サーガを読み解く際にも参考になりますね。「シーモア—序章—」で自分の作品に意見を送ってくる読者を『テンペスト』のプロスペローに例えること。グラス家の人々が代々役者や道化、サーカスの芸人だと語られること。「ズーイ」で「その身振りは、体につけられたマリオネットの糸が必要以上に激しく引っ張られたような印象を与えた it was as though marionette strings had been attached to him and given an overzealous yank.」(263)と描写される兄が妹に、「神のために演技をすることだ Act for God」「神の俳優になることだ。be God’s Actress」「それより美しいことがあるだろうか?」(286)と諭すことなどは、自分でもつれさせた自分の内面にある運命の糸から逃れられないどうしようもなさを、肯定的にひっくり返そうとする試みにも思えるのですが、いかがでしょうか。
長文お読みいただき、ありがとうございました。
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J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
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