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09_シェイクスピア『ハムレット』解釈:「尼寺へ行け」の意味は?

Q. ハムレットがオフィーリアに尼寺へ行けというのはなぜ?
『ハムレット』の中盤、王子ハムレットは恋人オフィーリアに「尼寺へ行け」といって別れを告げます。有名なセリフですね。文字通りの聖職者になれという意味に加えて、当時、尼寺では売春が行われていたことから、「売春婦にでもなれ」という意味にも読めるといわれてます。ハムレットは、愛する恋人に、なぜこのような酷い言葉を投げつけるのでしょうか。
 
本稿の解釈はこう。
A. 愛の誓いを互いに信じあえないから。そして、究極の女神は聖俗一致した存在だから。
以下に理由を述べます。




シェイクスピア『ハムレット』読解をマガジンで連載しています。こちらの記事からでもお楽しみいただけますが、01から順番に辿る場合は下記よりご覧ください。

1 復讐と恋愛

シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』はアントニーとシーザーとの戦争と、アントニーとクレオパトラの恋愛を軸にした物語。『トロイラスとクレシダ』は、トロイ軍とギリシャ軍の戦争と、トロイラスとクレシダの恋物語が並行して描かれる戯曲。シェイクスピアはいくつかの作品で、戦争と恋愛が絡み合いながら、パラレルで進んでいくという書き方をしていますね。

『ハムレット』はもう少し複雑ですが、あえてこれと同じ二つの軸で整理することもできると思う。ひとつは王子によるクローディアスへの復讐劇、もうひとつはオフィーリアとの恋愛劇、大きくはこの二つが並行して語られていく。

クローディアスへの復讐劇は、言い換えれば三人の象徴的父たち、義父クローディアス、実父(先王)、ポローニアス(恋人の父)との闘い。父たちから与えられ、引き継がれる言葉の呪いや宿命をいかに受容し、乗り越えていくかが、ヘラクレス神話や騎士道精神と道徳的・宗教的教えとの葛藤、ノルウェイ軍とデンマーク軍の戦争などを混ぜながら描かれている。

もう一つの軸では、若いハムレットとオフィーリアの恋愛譚に加え、ハムレットにとってのもう一人の女神である母(王妃)ガートルードとの関係が絡み合う。ここにオフィーリアの父ポローニアスが首を突っ込んでくるせいで、話がややこしくなる笑。

この二軸を象徴するのが、中盤、クローディアスとポローニアスが、ハムレットの狂気の原因について言葉を交わす場面。クローディアスが「何か胸にわだかまりがあり、/それを鬱々とかかえているのだ」といい、ポローニアスは「私は/殿下のご気鬱のそもそもの原因は/叶わぬ恋だと存じます」とこたえる(126)。
 
このとき、クローディアスは内心、自分が先王を殺したことがバレて復讐されるのではないかと不安になっているし、ポローニアスは自分の娘が弄ばれた末に捨てられることを恐れている。ハムレットの義父二人は、それぞれの立場で義理の息子が何をしでかすか恐がり、ハムレットの動きを押さえつけようとする。実のところハムレットの悩みは復讐と恋愛の両方であり、だから彼はクローディアスとポローニアスに激しく反発していく。父たちと息子の対決が、復讐劇と恋愛劇の両方に絡んでいくんですね。

『ハムレット』読解記事の03-08では主に復讐劇と、それにまつわる父と息子の対決について考察をおこなってきました。今回はハムレットと恋人・母(女神)との関係について考えてみます。

2 オフィーリアとガートルード

憂鬱に悩みながらもがくハムレットの姿は、未熟なヘラクレスが立派な英雄になる神話と重ねられ、未熟な若者が成熟した大人になるイニシエーションの物語としても読めることは、過去記事で見てきたとおり。戯曲の中盤、みなで劇中劇を鑑賞する場面で、王妃が「ハムレット、ここにおいで、私のそばに」というのに、ハムレットは「いえ、母上、こちらにもっと強い磁石があります」と断って、オフィーリアの膝に頭をのせます(135)。母の胸から恋人の膝へ移動する姿は、一人の少年が、青年へ成長する過程を表現しているようにも読めますね。
 
また、王妃が自らの罪、クローディアスとの再婚が先王への裏切りになることを自覚したのは、芝居の後、ハムレットが「いま鏡を出します。/心の奥底まで映してご覧にいれましょう」(163)といって母を責めたとき。このあと、第四幕第五場は、気がふれたオフィーリアについて、王妃が「会いたくありません」と拒絶するセリフから始まります。ホレイショーに「お会いになったほうがいい」と諭されて(193)、王妃はしぶしぶオフィーリアと向かい合う。
 
発狂したオフィーリアを前にして、王妃は「罪とはこういうものか。私の病んだ心には/些細なことのいちいちが大きな禍の前触れに思える」(194)と自らの不安定な胸の内を自覚します。オフィーリアと対面して、鏡を見たときと同じように、自らの罪と病んだ心を意識する。それを予感しているからこそ、王妃はオフィーリアに会うのを嫌がる。
 
神話学者ジョーゼフ・キャンベルによれば、神話における究極の女神(ユングのいうアニマ)は、母であり、姉妹であり、恋人であり、花嫁でもあるとのこと(G)。父と息子がどちらもヘラクレスであり、分身関係であると読んだように、今回は王妃とオフィーリア、義理の母・娘を鏡像・分身関係、ともにハムレットにとっての究極の女神として解釈してみたいと思います。

3 父の言葉を忘れない

『ハムレット』の序盤、王子は亡霊の「父の言葉を忘れるな」という命令を「俺の座右の銘だ Now to my word.」「父の言葉を忘れるな remember me.」と繰り返し、「天に誓ったぞ I have sworn ’t.」(62)と叫ぶ。さらに次の場面では、ホレイショーとマーセラスが、亡霊を見たことを決して他言しないと三度誓います(65)。
 
この三度の誓いが、直前の「父の言葉を忘れない」という呪いを強調しているのではないか。それが、騎士道精神を信じて突き進むか、自分の心の奥深くから湧き出る道徳観にいま一度目を向けるべきか、と迷うハムレットの呪いになっているのではないか。
 
また、戯曲の冒頭から、ハムレットはクローディアスや、ローゼンクランツ、ギルデンスターンらが口にする、心のこもっていない虚飾にまみれた言葉を信じられなくなっている。父の言葉を自らの呪いとし、がんじがらめになりながら、言葉への不信を募らせ、それが後半では、ポローニアスや母から与えられた言葉を解体し、バベルの塔を崩壊させる方向へ向かうのではないか、という考察については、過去三回の記事(下記)で示したとおり。

この作品では、父たちとの闘いと同様、母やオフィーリアとの愛をめぐる問題についても、〈言葉〉や〈誓い〉がポイントになっているように思います。

4 恋と、言葉の巧拙

オフィーリアは、父ポローニアスに、ハムレットが「優しい言葉でくりかえし愛を/打ち明けてくださいます」(45)と語り、以下のようにいう。

お言葉が偽りでないしるしにと
ありとあらゆる誓いもお立てになります
And hath given countenance to his speech, my lord,
With almost all the holy vows of heaven.

(46)

けれど、ポローニアスは、二人の交際に大反対。オフィーリアに、ハムレットとは口をきくなと命令する。そして、前回(上記リンク)も示したとおり、ハムレットがオフィーリアへ宛てた『わが魂の偶像/美の化身たるオフィーリアへ』と記した恋文を、ハムレットのいないところで読み上げる。言葉遊びに長けたポローニアスは、「これはまずい、ひどい言い/回しだ。「美の化身たる」はいただけない」(85)とその文面を酷評します。
 
秘密の恋文を親たちに見られて、下手な言い回しだと笑いものにされるなんて、ちょっとかわいそう。ですが、これも親たちからハムレットに対する攻撃のようなものなのだと思う。こうして言葉の巧みな親世代と、言葉が下手な若者世代との闘いが、恋愛問題の方でも繰り広げられていきます。

5 己に誠実になれない宿命

レアティーズはオフィーリアに、ハムレットとの恋愛について忠告する際、「高いご身分を考えれば、自分の意思すらご自分のものではない。/お生まれに縛られておいでだ」妃を選ぶのにも「制約がある」「国民の声を聞き、/同意を得なくてはならない」(40)、ハムレットが愛を「約束なさっても、デンマーク国民がこぞって賛成しないかぎり/実行に移せないかもしれない」(41)といいます。
 
ハムレットの愛の言葉は真心から出たものであっても、外部からの圧力によって、思い通りにはできないかもしれない。王子として、国民の望むとおり、自分の意に染まない結婚をしなければいけなくなるかもしれない。それで妹が傷つくかもしれないと心配している。
 
ハムレット本人としても、オフィーリアへの愛は本物だし、王子としてはできるだけ自分が正しいと信じる道を誠実に歩んでいきたいと考えている。そのことは周囲からのハムレットへの評価や、ハムレットの独白からも伝わってくる。けれど、王子という立場がそれを許さない。
 
復讐の件にせよ、恋愛・結婚にせよ、ハムレットの将来は、父の亡霊やデンマーク国民の手の内にあり、ハムレットは自分の思うように生きられない。「何よりも肝心なのは、己に誠実であること」(44)なのに、状況がそれを許さない。前回、周囲の人々のホンネとタテマエが乖離していることが、ハムレットを苦しめているのだと述べました。でも、ハムレット本人だって、やむを得ずではあるものの、本心と振る舞いが乖離していってしまう。腹の底ではクローディアスへの復讐をたくらみながら、そんな素振りを見せず、オフィーリアを愛していながら突き放す。そんな自らの振舞いもまた、彼を苦しめる一因になっているように思います。

6 愛の誓いの拒絶

オフィーリアが父にハムレットが愛を誓ってくれたと話したとき、ポローニアスは、以下のようなセリフで、二人の交際に反対します。

その愛のお言葉とやらを真に受けるのか?
(中略)よし、教えてやろう。自分は赤ん坊だと心得ろ。
お前が本物と思っているお言葉はとんだ偽金だからな(中略)
血が燃え立つと、魂は惜しげもなく誓いの言葉を並べ立てるものだ。
When the blood burns, how prodigal the soul/ Lends the tongue vows.
だがその火はな、赤々と燃えるが熱はない。
誓っている最中に炎も熱も消えてしまう。
本物の火と思ってはならない(中略)
あの方の誓いなど信じるな(中略)
Do not believe his vows,
見かけと腹の中とは大違い(中略)
女衒そこのけで信心深そうな殊勝な言葉を吐き、
まんまと人をだますのだ(中略)
ハムレット殿下と口をきくようなふらちな真似はするな。
分かったな、命令だぞ

(46)

オフィーリアは最初、ハムレットの愛の誓いを信じようとする。けれど、ポローニアスは、そんな誓いを信じてはいけないという。従順なオフィーリアは、「お言いつけに従います、お父さま」(46)と答えてしまいます。ここでオフィーリアは、その心の弱さゆえに、〈父の言葉〉を〈信じ〉、ハムレットの愛の〈誓い〉を〈信じない〉という選択をするわけですね。
 
『ハムレット』では、他人の言葉に惑わされる〈耳の弱さ〉も悲劇の一因であることは、読解記事の01(上記リンク)で見た通り。オフィーリアもまた、耳=心の弱さが際立つひとりです。

7 愛の誓いを破った母

一方、ハムレットは父の亡霊に会い、その死の真相を知る。そして、父の言葉を記憶に刻み込むことで、復讐という使命にとらわれ、半ば演技の、半ば本気の狂気にとりつかれていきます。ポローニアスに「何をお読みで?」と尋ねられて、「言葉、言葉、言葉」と答えるのは、ハムレットが父から与えられた言葉の呪いにがんじがらめになっていることの表現(詳細上記リンク参照)。

同時に、ハムレットは母が、実父(先王)との愛の誓いを忘れて、クローディアスのような汚れた心の持ち主と再婚してしまったことに深く失望する。その気持ちは、ハムレットが劇中劇の王妃に言わせる「二夫にまみゆるならいっそ呪われたい。/二度目の夫を迎うるは、初めの夫をあやめし女」「しとねにて二度目の夫の口づけを受くるは/亡き夫をば二度までも殺すに等しい」(141)という言葉に示されています。劇中の王は「よくぞ誓った」と返す。

シェイクスピア作品において、「二」は分裂を象徴する忌むべき数字ですね。この前には、ハムレットが「父上が亡くなってまだ二時間なのに」といい、オフィーリアに「いえ、もうふた月の倍になります」(136)と訂正されている。父の死でハムレットの心は引き裂かれ、母の再婚でさらに引き裂かれた、ということが幾重にも強調されています。

そして、芝居を観ながらハムレットは、「もしも今あの誓いを破ったら」とささやき、「母上、いかがです、この芝居?」と問う。ガートルードは自らのうしろめたさから「あのお妃の誓いはくどすぎるようね」と返す。ハムレットは「いや、誓ったことは守るでしょう」(143)と息子としての願望を込めて、母にあてこすりをいう。
 
そのあと、母の部屋を訪ねたときにも、「私が何をしたというの」と問う母に、ハムレットは「結婚の誓いを/博打うちの空約束なみの反故にすることだ」「神前で交わした堅い夫婦の契りから/魂を抜取り、ありがたい神の教えを/無意味なたわごとにすること」(165)と母を責める。ガートルードが誓いを破ったということが、ハムレットの心の傷になっていることは明らかですね。
 
「もろきもの、お前の名は女」(30)というセリフは、母の弱く移り気な心を嘆くハムレットの気持ちがにじみでたもの。ここで、母を嘆く言葉が「女」全般へ敷衍される。ハムレットの母に対する不信は、女性不信へと広がり、恋人オフィーリアへの不信へと結びついてしまう。このあと、ハムレットがポローニアスに「魚屋だ」(90)というのは、恋人オフィーリアの心の弱さを魚と揶揄してのものだという解釈は、下記でも示したとおりです。

8 愛してるのに、愛してない

父の亡霊に復讐を命じられ、父の仇と再婚した母も恨めしく、ハムレットの精神は不安定になっている。そんななか、ポローニアスからハムレットとの交際を反対されたオフィーリアは、ハムレットから「頂戴した品々」を恋の「香りも失せました。/お返しいたします。品位を尊ぶ者にとっては/どんな高価な贈物も、贈り手の真心がなくなればみすぼらしくなってしまいます」(122)といって、返却してしまう。

これによりハムレットは、自分がオフィーリアに向けて立てた〈愛の誓い〉が〈信じられていない〉ことを悟る。そして、母の不貞によって芽をだしていたオフィーリアへの不信が一気に膨らむ。オフィーリアの心は、後に彼女がのぼって死ぬ柳の枝のように弱く、外からのちょっとした風、父の助言にも揺らいでしまうほど頼りない。ハムレットの愛の誓いを信じられない、自分で選んだ恋人を愛し抜く意志を貫けないという弱さはいつか、母のように無自覚に不貞を働くことにも結びつくかもしれない、と直感する。それが「ははあ! お前は貞淑か?」という言葉となって現れる。

そんなハムレットもまた、魚のように弱く脆い、未熟な心=弱い耳の持ち主。ゆえに、オフィーリアから贈物を返却されて、たちまち逆上してしまう。動揺して、以下のような言い合いをする。

ハムレット 心からお前を愛したこともある
オフィーリア 本当に、そう信じさせてくださったのに
ハムレット 信じたのが間違いだ(中略)
 お前を愛したことなどない

(123)

ハムレットは、愛したこともあるといった三行後に前言を翻す。本心と言葉が反転してしまう。この後、ハムレットは件のセリフ「俺のような男が天と地の間をはいずりまわり、いったい何をしでかす? 俺たちはみんな悪党だ。誰一人信じるな。尼寺へ行け」(124)をいいます。
 
「天と地の間をはいずりまわり」というのが、最初に見た復讐と恋愛がパラレルだという話と重なりますね。天とは神や父の言い換え。息子が父に憧れ、乗り越えるために闘う行為は、太陽(天)を目指して飛ぶイカロスと重ねられます。地は母なる大地(海)と結びつく。天を目指して飛び立つイカロスは、どこかの時点で自分の限界を思い知り、翼を溶かされ、墜落して大地に還る。父との闘いに敗れた未熟な若者は、象徴的・精神的に死んで愛に満ちた母の腕のなかへ抱かれ、再生のときを待つ。ユング派の神話学で、永遠の少年は天と地の間を行ったり来たりしながら成長していく。ハムレットもこの神話の典型に当てはまると思う。
 
ハムレットは、ただでさえ父たちとの闘いで行き詰っているなか、恋人のオフィーリアからも拒絶されてしまう。天を目指しては屈し、傷ついた心を癒してくれるはずの大地からも冷たくあしらわれる。復讐と恋愛(と母との関係)の両軸で行き詰っているハムレットは、やけになって「信じるな。尼寺へ行け」といってしまう。
 
オフィーリアだって、弱いなりに一度はハムレットの愛を信じようとした過去はある。けれど、ここまで「信じたのが間違いだ」「信じるな」「愛したことなどない」といわれたら、さすがにもう信じられない。ハムレットからひどい言葉で罵られたオフィーリアは、「誓いの調べという甘い蜜を味わったのに」(125)今や自分は捨てられてしまったのだと悟り、嘆く。オフィーリアもまた、ここから狂気にとりつかれていきます。
 
ハムレットにしても、オフィーリアを深く愛しているからこそ、贈物を返されたショックで憎さも極まり、愛していないと前言を翻してしまう。この二つに引き裂かれた感情が、「尼寺へ行け」という表面的には思いやりがありそうに見えながら、深層では相手を侮辱するような意味の言葉になって口から飛び出てくる。これにより、ハムレットは周囲の人々だけでなく、自分のことさえ信じられなくなっていく。これが後半の「ヘラクレスにはしたい放題させておけ」という自暴自棄な言葉へとつながっていくように思います(詳細下記参照)。

前回までの記事で見てきたように、ハムレットは、自分なりに言葉巧みな義父ポローニアスを真似て言葉の限りを尽くした恋文をおくり、誓いを立て、義父クローディアスの真似をして贈物を届け、オフィーリアに愛を伝えてきた。先人たちの教えである書物の「言葉、言葉、言葉」から学んだ方法を使って、恋愛を成就させるべく努力した。にもかかわらず、自分の愛の誓いをオフィーリアに信じてもらえなかった。その上、母は先王との誓いを破って再婚してしまった。ハムレットは、愛する人々の言葉や、自分自身の口から出る言葉に幾重にも裏切られていく。

そして、父世代の真似をしてみてもうまくいかない経験が、言葉や先人の教えへの不信感をふくれあがらせる。もう誰も信じられない。というショックが、オフィーリアへの誰も信じるなというセリフになって出てきてしまう。これらが積み重なって、父の真似をするだけではだめだ、自分なりの世界観を構築したいという意識に転換していくのではないでしょうか。

9 呪いの言葉

「尼寺へ行け」と同時に、ハムレットはオフィーリアに「もしお前が結婚するなら、持参金代わりに呪いの言葉をくれてやる。たとえお前が氷のように清らかで、雪のように純潔でも、世間の中傷は免れない  I’ll give thee this plague for thy dowry : be thou as chaste as ice, as pure as snow, thou shalt not escape calumny」(124)とまでいう。ここでハムレットは、父から受け、自分で手帳に書きこんだ呪いの言葉を、今度は自分が恋人に向かってかけてしまうんですね。そしてそれを〈持参金〉と並べている。
 
別の場面でポローニアスは、海外留学中のレアティーズに金を届けようとする。またその前には、息子に「財布が許すかぎり着るものには金をかけろ」(43)と金を世間から認められるために使うよう指示してもいる。この戯曲でお金は、社会を上手に生き抜くための道具。それが呪いの言葉と並べられているのだと思う。オフィーリアは、かつてのハムレットは「流行の鑑、礼節の規範 The glass of fashion and the mold of form」(125)だったのに、今では気が狂って「気高いご気性が壊れてしまった!」と嘆く。流行のファッションも紳士としての礼節も、移り変わりの激しい社会の荒波を渡って行くために役立つ資質。それが呪いの言葉と結びついている。
 
父の教え、父の言葉は、金・流行・礼節と同じく大人になるために必要なもの。だけれど、若者ハムレットにはそういう規範がときとして窮屈で疎ましいものに感じられる。だからハムレットは、父たちからかけられた言葉の呪いを、自分よりも弱い立場のオフィーリアに持参金だといって投げつけてしまうのではないでしょうか。

10 偽りの恋、まことの恋

ポローニアス殺害後、死体をどうしたのかとローゼンクランツに尋ねられたハムレットは、「土に還してやった」と答えておきながら、唐突に「信じるな Do not believe it.」(181)という。ローゼンクランツは驚いて「何をでございます?」と返す。これは先に引用した、オフィーリアへの、自分の愛の誓いを「信じたのが間違いだ You should not have believed me」(123)の繰り返しですね。

このときハムレットは、自分の言葉さえ信じられなくなっているのだと思う。それは、自らが本物の狂気に陥りつつあることを自覚しているということでもあるのでしょう。

狂気にとりつかれたオフィーリアは以下のような恋の歌をうたいますね。

偽りの恋まことの恋
その人見分ける目印は?
帽子に貝殻、手には杖
足に履いた巡礼の靴(195)
いいのよ、もうおしまいにするわ、誓いの言葉はなしね(197)

(195・197)

帽子、貝殻、杖は巡礼のしるしであり、シェイクスピア作品において、巡礼者になっていることは、狂気にとりつかれていることと同義。『ハムレット』ではそれが、愛しているのに愛していないというような、偽りか本物かも見わけられずに迷う精神性と重なりあっています。ハムレットもオフィーリアも、互いに想いあっていながら、相手の愛が偽りなのか本物なのかわからず、疑心暗鬼になって、誓いさえ信じられなくなってしまう。それが悲劇につながってしまうんですね。

11 『冬物語』信じる力

シェイクスピアの『冬物語』の前半では、王レオンティーズが無実の妻の不貞を疑い、臣下に処刑を命じます。けれど、貴族のポーライナは王に、王妃を処刑したと嘘をつき、王妃ハーマイオニを密かにかくまう。その後、十六年の歳月が流れる間に、レオンティーズは妻を信じられなかった過去を悔い改心する。十六年後、さまざまな幸運が重なり、レオンティーズの前に生きたハーマイオニが現れて二人は和解します。

死んだと思われていたハーマイオニが目の前に現れる瞬間、彼女をかくまっていたポーライナがいうセリフは「信じる力を目覚めさせて」(225)。前半で信じる力を持てずに間違った行いがなされ、悲劇的な展開を見せた物語が、後半「信じる力」の回復によってハッピーエンドへと転換する。
 
先に『ハムレット』では、耳の弱さが心の弱さに結びつくのだと述べました。心が強ければ、愛する相手を信じられるし、弱ければ相手を信じられなくなる。だけれど、心が弱くなるのは、相手を愛しすぎてしまったがゆえだったりするのが厄介なところ。『ハムレット』にもこれと同じ、相手や自分を信じられなくなることの悲劇と、信じる力の大切さが描かれているように思います。

12 尼寺へ行け

では「尼寺へ行け」に込められた意味は何でしょうか。シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』に登場するクレシダや、彼女と鏡像関係のヘレネは、神話でトロイア戦争のきっかけを作ったといわれる究極の女神。シェイクスピアは彼女たちを、美しいけれど、貞操観念に欠けた浮気がちな女性として描いています。『ハムレット』のガートルードもこれに近い。純粋すぎて、恋人や夫を傷つけることに鈍感なところがある女性。
 
また、『冬物語』のレオンティーズや、『オセロー』のオセローは、妻のことを愛しすぎて、無実の妻が浮気をしているというあらぬ妄想にとりつかれ、妻を殺してしまう。愛が過剰すぎてひっくり返り、憎しみに変わってしまうんですね。
 
神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、神話の究極の女神は善悪などの二面性を持つといっています。シェイクスピアが描くヒロインの多くもこれと同じ。女性が実際に浮気をしているかどうかはあまり関係がない。どんなに純粋な女性でも、心の片すみには必ず浮気心や負の要素があるもので、美しすぎる女性を妻や恋人に持つ男性は、常に彼女の浮気を心配して精神的に不安定になる。
 
ハムレットもこのパターンなのだと思う。今は純粋なオフィーリアも、将来ガートルードのように、無自覚にハムレットを裏切るかもしれない、とオフィーリアを愛しすぎているハムレットは考えてしまう。母の再婚によって、ただでさえショックを受けているときに、オフィーリアから贈物を返され、愛を拒絶される。それで激高し「尼寺へ行け」というわけですね。
 
表の意味は、自分と別れるなら他の誰のものにもなってほしくない、一生結婚せずに聖職者として生きろ。裏の意味は、心の弱いオフィーリアも、いずれガートルードと同じく夫を裏切る可能性が高いから、女郎と同じだということだと思う。
 
これがシェイクスピア作品を通底する、聖俗、善悪といった対立物の一致という神話的な思想と結びつく。『ハムレット』には、「王を食った蛆虫を餌に魚を釣り、その蛆を食った魚を人が食うかもしれない」「王様が乞食の腹の中をお通りあそばすこともある」(185)という表現がありますね。別の場面では、「アレキサンダーが死ぬ、アレキサンダーが埋葬される、アレキサンダーが塵に還る、塵とは土だ。土から粘土ができる、ほら、アレキサンダーのなれの果ての粘土でビール樽の栓を作ってもおかしくないじゃないか?」(236)という言い方もされる。死と再生を繰り返してあらゆるものが循環していくイメージが、貴賤・貧富といった相反するものの一体化としても語られています。
 
前半で先王の亡霊がいう「硫黄の業火」(55)「水銀」(59)は、相反するものごとを結び付ける錬金術を思わせますね。良い面だけでなく、負の要素を包摂してこそ成長できるというのが、神話から続くシェイクスピア作品の発想。「尼寺へ行け」は、短い中に聖と俗、ハムレットからオフィーリアへの愛と憎という相反する意味が凝縮されたひと言なのではないでしょうか。
 
このテーマについては下記でも考察しています。併せてご参照ください。

13 『から騒ぎ』聖俗一致

シェイクスピア作品にみられる聖俗一致の例として、『から騒ぎ』のヒアローの例を挙げておきます。ヒアローは神話のアフロディーテの巫女と同じ名で、恋人に忠実な女性の代名詞。『から騒ぎ』のヒアローも、その名のとおり恋人への一途な愛を貫く貞淑な女性。ですが、悪人の策略により、彼女は浮気の汚名を着せられ、婚約者から娼婦と罵られてしまいます。
 
そこで、ヒアローの汚名を晴らし、二人の愛を成就させるため、修道士が一計を案じる。ヒアローが死んだことにして葬儀から埋葬まで一連の儀式を行う。その間、ヒアローは人里離れた尼僧院にかくまっておく。婚約者も、ヒアローの死の報せを受ければ、深い悲しみから、ヒアローが彼を裏切っていないことが身にしみてわかるはず。そうして汚名を晴らした後で、実はヒアローが亡くなっていないことを打ち明ければよい。と話がまとまって、実行に移され、二人はめでたく結ばれる。
 
そんなヒアローの結婚式の衣装は、「スカートの裾にも青みがかったラメの刺繍(bluish tinsel)がしてあります。どこを取っても上品で、エレガントで、上等で、お嬢様のガウンの方が十倍も立派です」(107)と称賛されます。
 
娼婦のイメージは聖書のマグダラのマリア、青の衣装は聖母マリアを思わせますよね。ヒアローの婚約者は、自らを裏切ったヒアローを「腐ったオレンジ」(119)といっていますが、オレンジは聖母マリアの表象でもある。一度死んで埋葬されたのちに復活するのは、イエス・キリストの受難と復活と重ねられますね。イエスが十字架にかけられて亡くなったときに抱きしめるのは聖母マリア。復活するときにそばにいるのはマグダラのマリアです。
 
ヒアローの婚約者は、恋人に裏切られたと勘違いし、「最も汚れた、最も美しい人。さようなら、/清らかな冒涜の人、冒涜的に清らかな人、/お前のせいで私は(中略)すべての美人を悪女とみなすだろう」(124)と嘆く。死んだと思われていたヒアローが仮面を取って婚約者の前に復活した姿をみせるときには、「私が生きていたとき、私はあなたのもう一人の妻でした」という。「ヒアローがもう一人!」と驚く婚約者に、ヒアローは「一人のヒアローは汚されて死にました、でも私は生きています」(182)という。
 
神話の死と再生の物語に、一人の女性が聖と俗に分裂し、俗の部分が死によって浄化、包摂されたのちに復活する過程が重ねられているとも解釈できます。シェイクスピア作品には、一人の女性がマグダラのマリアのような娼婦性と、聖母マリアのような純粋性を併せ持ち、神話的な死と再生のプロセスによって負の要素が浄化され、世界が更新されるというイメージがある。『ハムレット』は悲劇で終わってしまいますが、主人公にとっての女神である二人の女性、オフィーリアとガートルードの中にも聖俗の両面を読み込んでもいいのではないでしょうか。

14 『から騒ぎ』『冬物語』沈黙の世界で

『から騒ぎ』は、ウィットに富んだ丁々発止が得意なビアトリスとベネディックのやり取りが楽しい戯曲ですが、うわべの言葉遊びが得意な二人は、心の奥深くを見るのが苦手。ゆえに互いに思いあっていながら、両思いであることになかなか気づけない、というストーリー(詳細下記参照)。

このにぎやかな戯曲において、クローディオはヒアローとの恋が叶った喜びを「沈黙は歓びを伝える完璧な先触れです」(54)と表現し、ビアトリスとベネディックが恋に落ちる瞬間を周囲の者は「全くの無言劇になるだろう」(75)と想像します。シェイクスピア作品には、感情が言葉を超えると、無言になるという考え方があるんですね。そして、にぎやかで楽しい表面的な言葉のやり取りのなかで、恋の成就の瞬間だけが、沈黙、無言劇という形で表現される。この対比が真の感動を効果的に浮かび上がらせるという趣向になっています。
 
登場人物の死と再生という意味では、『から騒ぎ』と『冬物語』には似ている部分がありますね。『冬物語』の前半、王レオンティーズは、王妃が生んだ赤ん坊が浮気相手との子供だと思い込み、遠くに捨ててこいと命じる。姫は十六年間異国で羊飼いに育てられた後、運命のめぐりあわせで、実の両親と奇跡的に再会する。姫を拾い育てた羊飼いが、王レオンティーズと貴族カミローと対面し、十六年前のいきさつを語った際の様子が以下のように表現されます。

お二人(王とカミロー)の押し黙った沈黙には雄弁があり、身振りには言葉があった。世界が解放されたとか、滅亡したといった話でも聞かされたようなお顔つきでした。驚嘆のお気持ちだけははっきり表れていましたが、どんなに賢い人が見ても、見ただけではその表情の裏にあるのが喜びなのか悲しみなのか分からなかったでしょう。とにかく、そのどちらかの極みだったのは確かです。

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さらに、死んだと思われていたハーマイオニが目の前に現れる場面では、はじめ、ハーマイオニが石像の振りをしているところから、徐々に動き出し、王たちは彼女が本当に生きているという奇跡のような出来事を徐々に受け入れていく。ハーマイオニが無言で動くひとときが、「お声も聞かせていただきたい」「まだ口はおききになりません」(227)と強調されたあとで、やっとハーマイオニが声を出す姿が感動的に描かれています。これが上記の無言の再会の場面と呼応しているんですね。

これは『ハムレット』で行われる黙劇や、亡霊に会った後のハムレットが、オフィーリアの部屋を訪ねて行う無言の身振り手振りとも近い表現とはいえないでしょうか。言葉にできない感情、言語を超えた感動、究極の奇跡は、現実の向こう側、彼岸と呼ばれる場所で達成される。それは、ハムレットが最後にいう「あとは、沈黙」の領域に属することなのだと思う。

さらにいえば、『冬物語』冒頭で、シチリアの王レオンティーズとボヘミアの王ポリクシニーズはまるで双子のような親友だと語られます。けれど、レオンティーズの狂気によって、二人は仲たがいをしてしまう。そんな二人の十六年後の再会の場面は「半狂乱の面差しなので、お召し物で判断しないかぎりお顔だけでは見分けがつかないくらいだった」(210)と語られます。一緒にいるべき二人が再会し和解することが、シェイクスピア作品のハッピーエンド。ここで二人の王は同じ顔になっている、つまり一体化していることが示されるんですね。これが対立物の一致を目指す錬金術的な発想とも重なりあう。

[05_したい放題するヘラクレスとは?](上記リンク)で、『ハムレット』の最後、ハムレットとレアティーズの相打ちによって、鏡像関係である両者が和解し、一体化する。それとともに、二人の息子はそれぞれの父とも一体化するのだと述べました。これが、聖俗一致の思想とも響きあう。『冬物語』も『ハムレット』も、沈黙の領域を通して、幾重もの対立物の一致の感動が重なりあう。それは、言葉や誓いを信じられなくなった者たちが還っていく場所なのではないでしょうか。

以前、『ロミオとジュリエット』について、本当に純粋な愛は、彼岸でこそ結ばれるというのが神話の発想だという河合隼雄氏の言葉を紹介したことがあります。『から騒ぎ』『冬物語』『ハムレット』で描かれる沈黙の世界というのはこれに連なるもので、恋の成就や、敵同士・分身同士の和解、離れ離れになっていた親子や友人たちの再会は此岸ではなく彼岸、言葉や声なき世界でこそ成し遂げられる。そんな発想があるように思います。

前回見た通り、ハムレットは父との関係のなかでバベルの塔を壊すように、言葉を破壊していきました。今回は、母や恋人との関係においても、言葉や誓いを信じられず、沈黙の世界へ向かっていく流れがつかめたように思います。そこに、聖俗一致の思想、神話の主人公が死んで大地に還り、対立物が一致する過程が重なりあってくる。そんな風に読んでみるのも、面白いのではないでしょうか。
 
今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございました。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。


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