シェイクスピア読解『リア王/King Lear』は learn しきれなかった王?
『じゃじゃ馬馴らし』は、反抗的で狂暴な妻を夫が調教して、従順な性格にかえてしまう話。『テンペスト』では無人島で育った娘に、父が人間界のルールや成り立ちを教える姿が描かれています。シェイクスピア作品において、学びが重要なテーマであるのは、以前から指摘されてきたこと。今回は『リア王』と『ヴェニスの商人』の〈learn〉について考察します。
1 Lear は learn しきれなかった王?
シェイクスピア作品では、多くの場合教育の必要性と弊害の両方が同時に語られています。成長するために学び続けることは大切。だけれど、学ぶことで失うものもまた大きい。その振れ幅のなかで登場人物たちは迷い、とまどう。学んできたことを糧にして自分なりの未来を切り拓きたい、先人の知恵を借りて乗り越えたいのだけれど、学ぶほど自分の未熟さを思い知り、知恵に囚われるほど頭は凝り固まってがんじがらめになっていく。純粋で無知なお馬鹿さんでいる方が幸福なのか、真に学ぶとはどういうことなのか。シェイクスピアは複数の作品で、その葛藤を描きだしています。
そしてこれは、以下でみたような、聖書でアダムとエヴァが知恵の実を食べて楽園を追放されたエピソード「The Fall」と結びつく。誰もがみな、純粋無垢な赤ん坊として生まれてきて、少しずつ言葉や世界の成り立ち、社会のルールなどを学んでいく。知識を身につけるほど、楽しみも悩みも、過去の記憶も未来への想像力も、後悔も喜びも、不安も希望も比例して増えていく。さまざまな生きもののなかで、そんなことをするのは人間だけ。シェイクスピアのlearning学びは、ハムレットに出てくる「人間とは一体なんだ?」(191)という根源的な問いとつながっている。
で、これはもしかしたらですが、『リア王』のリアという名前はここから取られているのではないか。『リア王』とは、いかに学ぶか、あるいは学べずに終わるか、その困難について語った戯曲なのかもしれない。とふと思いまして。ChatGPTによれば、『リア王』は、無名の作家によるKing Leirの戯曲を原典として、シェイクスピアが独自のアレンジを加えた作品。ただ、当時は綴りが統一されておらず、「Leir」「Lir」「Lere」「Lear」などの表記が混ざり合っていたので、「Lear」の表記が有名になったきっかけがシェイクスピア作品であるのは間違いないにしても、はじめて「Lear」の綴りを使ったのがシェイクスピアとは言い切れないとのこと。なので、〈learn 学ぶ〉と〈King Lear〉の名前を結び付けて考えるのは、慎重であるべきかもしれない。他愛ない仮説にすぎない、ということはいちおうお断りしつつ。それでも、この作品でlearnがキーワードであることは間違いないので、その部分をお楽しみください。
2 『リア王』のteachとlearn
2-1 あらすじ
『リア王』は、老境にさしかかったリアが、領地を三人の娘たちに分け与え、その代わりに老後の面倒を見てくれという場面から始まりますね。長女ゴネリルと次女リーガンは、父王リアに心にもないおべっかをいって、領地や財産、権力を手に入れる。三女のコーディリアだけは、父に対して真の愛情を持っているのですが、口下手でそれを伝えることができない。結果、父王の怒りをかって勘当されてしまう。ゴネリルとリーガンは領地や権力を手に入れた途端、手のひらを返して父を見捨てる。長女と次女に裏切られたリアは狂気におちいって、嵐の荒野を彷徨うことになります。
2-2 最初のteach
これをふまえて、まずは『リア王』にでてくる〈teach〉と〈learn〉を見ていきます。この戯曲で初めに〈teach〉が出てくるのは以下。リアに追い出された後、貧乏人に変装した伯爵ケントが、長女ゴネリルの執事にいうセリフ。
身の程をわきまえさせてやる。
I’ll teach you differences.
シェイクスピア作品では、身分をわきまえるというのは表面的な価値観に縛られているということ。何気ない言葉ですが、ケントはここで、王の付き人という立場を笠に着て、身分が下の執事をはっきりと見下し、違いを教えてやるといっている。貧しい者に変装してはいるものの、この時点では、いまだケントには伯爵としてのプライドが残っていることが分かりますね。これが後に伏線としてきいてきます。
2-3 教師の道化、生徒のリア
以下は、リアが信頼していた長女ゴネリルに裏切られたと悟る場面。今まで信じていた価値観が崩壊して、正気を失いつつあるリアに、道化は以下のように語ります。
道化 いい文句を教えてやろうか。
I’ll teach thee a speech.
リア 言ってみろ。
道化 よく聴け、おじちゃん。
たんまり持っても見せるはちょっと
沢山知っても喋るは少し
手持ちの金も貸すのは一部(略)
聞いた話は鵜吞みにせず(略)
Learn more than thou trowest
酒と女にゃ手を出さず
家から一歩も出なければ
十足す十が二十を超えて
がっぽがっぽと大儲け。
道化がまるで教師のように、リアに世の理を教え諭すんですね。ところが道化が教える内容は、一見世の中で賢く立ち回ってお金を貯めるのには役立ちそうでありながら、他人への思いやりといった道徳的な観点からは少々疑問が残るような忠告ばかり。目先の損得勘定に長けた、ずる賢いゴネリルやリーガンが大切にしそうな考え方です。
過去記事でも述べましたが、シェイクスピア作品では、数字の「二」は精神が分裂して狂気におちいっていることの象徴。また、他のシェイクスピア作品では、酒や女(恋)に溺れる危険性も十分に描かれていますが、ときにはそれらに溺れる必要性だって同じくらい何度も描かれています。例えば『十二夜』のマルヴォーリオは、みなが酩酊し、恋愛にうつつを抜かしているときに、ただ一人それに溺れなかったために成長できず、集団から追い出される。ときにはお酒や恋愛を楽しんだ者の方が、既存の価値観を打ち破り、アップデートできるという考え方があります。
だから上記の「Learn more than thou trowest」も、両義的に読むべきだと思う。翻訳にある、噂話は鵜呑みにするべきではない、というのは正論。だけれど、「信じるよりも分別をはたらかせて」と直訳してみたとき、これはやはり、どちらがいいのか微妙な言い方がされていると解釈したい。確かに学ぶこと、分別を働かせることも大事だけれど、『冬物語』では大切な人を信じられなかったために悲劇が起こる。そして、最後に「信じる力を目覚めさせて You do awake your faith.」(225)という決め台詞が放たれて、ハッピーエンドへ向かうように、信じることの大切さもまた、シェイクスピアが何度も書き記していること。
『冬物語』も『オセロー』も『ハムレット』も、恋人や妻を信じる強さを持てない男たちが、相手にあらぬ疑いをかけて悲劇を巻き起こしていくお話ですよね。大切な人の貞節や良心を疑い、自分の弱さが生み出す嫉妬心や疑念、悪人が耳元でささやく根拠のない噂話の方を信じてしまったがゆえに、彼らは破滅する。
(フェイクニュースや陰謀論、AI生成のなんやかやがはびこり、信じる時間より疑う時間の方が長くなる毎日にうんざりしがちな昨今だからこそ、自分にとって大切な人やものごとを信じるちからを手放さないようにしたい。何を疑い、何を信じるか、その選択をするのは、自分自身。『ハムレット』読解で見たように、ヘラクレスも、ハムレットも、レオンティーズも、オセローも、みな信じるものを間違えて悲劇に至る。今この瞬間も、私たちは三叉路にいる。今日のような選挙の日はとくに、シェイクスピアはしみます)
そして、『ハムレット』読解でもみたように、アダムが知恵の実を食べ、分別する能力を手に入れ、土地持ちになったことが、ハムレットの苦悩のもと。やみくもに信じるのも危険だけれど、学んだことに固執するのも問題で、そのバランスが難しい。誰もがLearと同じように、その時点までにlearningしてきたことを駆使して生き抜いていくしかない。けれど学びはいつも中途半端で、未来への希望は小さなことで不安に反転し、ゆえにしばしば判断を間違えてしまう。道化がいうlearnという言葉が、肯定的意味と否定的意味の間で揺らぎはじめる。リアと道化は、さらにこんなやり取りをしていきます。
道化 小僧、違いが分かるのか、苦い阿呆と甘い阿呆の?
リア わからん、教えてくれ。
FOOL Dost know the difference, my boy, between a bitter fool and a sweet one?
LEAR No, lad, teach me.
注釈によれば、当時大人の男性同士で相手に「小僧 boy」と呼びかけるのは侮辱的な行為だったとのこと。ここでは、道化がリアに対し「小僧 boy」と呼びかけ、リアも積極的に「教えてくれ」といっている。道化の悪ふざけとして、上下関係が逆転し、道化が教師となって生徒である王にお勉強を教える、ごっこ遊びのようなものがはじまっています。
2-4 父をしつける娘
同じ場面で、道化はリアに、「あんたが娘二人をお袋にしちまってからthou mad’st thy/daughters thy mothers」(54)リアは気が狂い始めていると指摘する。リアが領地や財産を娘たちに譲渡したことにより、リアと娘たちの上下関係、支配関係が逆転し、娘たちが急にリアに対して偉そうに振舞うようになった。それがまるで、母親が息子にあれこれ指図するかのようだといい、「娘たちが従順な父親にしつけようってわけだ」(58)と笑う。
ゴネリルはリアについて「歳をとって惚けると/赤ん坊に逆戻り。甘やかせばつけあがる、/おいたをしたらこっぴどく𠮟りつけなきゃ」(42)といい、「空とぼけ」た老人扱いして、「これから申し上げることをきちんと汲み取ってください I do beseech you To understand my purposes aright.」「分別をお持ちにならなければ should be wise.」(58)とリアに教え諭す。リーガンも、「お父様のことならご自身よりも/よく分かっている者の分別に従って、大人しく言うことを/お聴きにならなくてはYou should be ruled and led/By some discretion that discerns your state/Better than you yourself.」(104)と、まるで息子を思うままに操ろうとする悪い母になったかのように、リアに命令し始める。
これも教育の問題ですよね。しつける親としつけられる子供が、立場が逆転した状態で語られている。ゴネリルとリーガンはlearningして「分別・wiseness・discretion」、物ごとを分けて考えられるようになる能力を持っている。対するリアは、娘に裏切られて混乱し、自分の「分別が/眠りこけたか?his discernings/Are lethargied」(57)といって動揺するという対比があります。
2-5 嘘のつき方を習いたい
道化はさらに、リアに対し以下のようにいう。
ねえ、おじちゃん、先生を雇って、あんたの道化に嘘のつき方を教えてもらいたいいね。おいら、嘘のつき方習いたいな。
Prithee, nuncle, keep a schoolmaster that can teach thy Fool to lie. I would fain learn to lie.
〈学ぶ learn〉〈教える teach〉〈教師 schoolmaster〉という言葉を使って、教師が教えて生徒が学ぶイメージをはっきり打ち出していますね。嘘のつき方を習いたいというのは、嘘をついて領土や権力を手に入れたゴネリルとリーガン、その嘘を見抜けなかったリアへの皮肉。ゴネリルやリーガンは、上手に嘘をつき、父王の愛情を裏切ってでも、金銭や権力の面で自分が得をする方がいいという間違った価値観を学んで育った者たち。
道化のいう「いい風が吹いてるほうににっこり出来ないようじゃ、すぐ風邪ひくよ」(50)という処世術、つまり、権力と財産を持っているうちは父王におべっかをいって取り入り、父王がすべてを失ったらあっという間に見限るようなずる賢さを身につけた者たち。
反対に、三女コーディリアは「そんなに幼くて、そんなに頑な」「こんなに幼くて、心が真っ直ぐ」(16)といわれるとおり、子供っぽくて嘘をつくのが苦手な娘。世間ずれしていない、純粋なままで可愛いけれど、それはそれで馬鹿な娘。道化が「利口なやつが馬鹿になり」(53)と茶化すとおり、どちらが本当に賢くて、どちらが本当に馬鹿なのかは決められるものではなく、バランスの問題。ではありますが、子供の頃は誰もが持っていた、純粋にものを見る目を、教育が濁らせてしまうという面があることも確か、ということが示されているように思います。
2-6 苦い阿呆と甘い阿呆
先に引用したセリフにある「苦い阿呆」は、例えばコーディリア。リアにとって苦い教訓を残す馬鹿な娘。「甘い阿呆」は例えばゴネリルやリーガン。父を愛している、と軽々しく口にする娘たちの、うわべの言葉は甘く快い。けれど呑み込んだあとに、それが毒だったと気づいてももう遅い。道化とリアはさらにこう続ける。
道化 野生のリンゴと畑のリンゴみたいに見かけはそっくりだけど、おいらには分かってることは分かってるんだ。
リア 何が分かってるんだ、小僧?
道化 味はどっちも野生のリンゴ、酸っぱさは同じってこと。人間の鼻はどうして顔の真ん中にあるか、分かるかい?
リア いや。
道化 やだな、鼻の両側に目をつけておくためさ。臭いで嗅ぎ分けられないことは、目で見分けろってね。
リア あいつには済まないことをした——
道化 牡蠣はどうやって殻を作るか知ってるかい?
リア いや。
道化 おいらも知らない。でも、カタツムリがなぜ家を持ってるかは知ってるよ。
リア なぜだ?
道化 やだな、頭をしまっておくためさ。娘たちにくれてやって、角をむき出しにしないため。
酸っぱさは同じ。三人の娘たちは、リアにとっては、みな同じように可愛い。けれど、うわべの言葉に騙されず、ときには目には見えない苦みや甘み、深層にある真実に注意を向けよう。目をつぶり、臭いで嗅ぎ分けてみよう。というのを、天邪鬼な道化は逆さまのいい方で諭す。後半、両目を失ったグロスターが「鼻で嗅ぎ分けていけばいい」(158)といわれるのと呼応しますね。これ自体はひどいセリフですが、目には見えないものにこそ真実が宿るというこの作品のテーマを示す言葉。口下手なコーディリアの方が、真の愛情を持っていたかもしれないよ、と道化は教えているのであり、あいつには済まないことをした、というのはたぶんコーディリアを国外追放にしたことを悔いているセリフ。
二枚の貝殻を合わせてできる牡蠣は、ここでは、心が引き裂かれた愚か者の象徴、帆立て貝が象徴する巡礼者と同じだと思う。どうやったら心が引き裂かれるのかなんて知らないよ、とリアの影である道化はすっとぼけていますが、『ハムレット』の道化たちが、それはアダムが知恵の実を食べたからだといっていたことは、同作読解で考察した通り。だから『リア王』で、リンゴの話と牡蠣の話はセットで語られる。心が引き裂かれるのは、知恵の実を食べ、learn学ぶことによって分別を持つ、ものごとの違いが分かるようになることとイコール。『十二夜』で、双子が「一つのリンゴを二つに割っても、この二人ほど/そっくりじゃない」(166)と語られるのは、この話の暗示。そしてそれは、道化=シャドウを持つ王になることにも結びつく。
カタツムリが持っている家は、道化の帽子、阿呆が額から生やす角を隠すためのアイテム。であると同時に、これもたびたび触れているとおり、家は大工の息子が建てる一人ひとりの内面世界の象徴。templeなどと表現される構築物、バベルの塔にも結びつくように思います。(村上春樹作品にも、似た意味に読めるカタツムリがでてきますよね)
2-7 卵の殻
道化はさらに、以下のようにいってリアをからかう。
卵を真ん中で二つに割って、中身を食っちまえば、殻の冠が二個できるだろ。あんたは自分の冠を真っ二つに割って、両方ともくれちまった。(略)金の冠をくれちまうなんて、そのむき出しの頭にはよっぽど知恵がなかったんだな(53)
あんたは二つに割った知恵を両方とも捨てちまって、真ん中にはなんにも残ってないからね。そうら、知恵の片割れが来た(55)
知恵の片割れはゴネリルで、もう一方の片割れはリーガン。殻の冠が象徴するのは、リアが長女と次女に与え、教えてしまったと揶揄される中身のない空虚な賢さ。物ごとの表面しか見ることができず、親をないがしろにし、嘘でだまして自分だけが得すればいいと考えるような、低俗な浅知恵。傲慢な心が天に挑む、かりそめのバベルの塔。少し力を加えれば、くしゃりと割れて崩壊する、脆くて薄い卵の殻。
自分が長年かぶっていた王冠、心のなかで積み上げてきた知恵はそれと同じだと悟ったとき、リアがいままで築き上げてきた内なる世界観、信じてきた価値観は崩れ、なんにも残っていないゼロの状態になってしまう。ずる賢いゴネリルとリーガンは、他ならぬリア自身がいままで信じてきた浅はかな世界観の鏡像、彼の引き裂かれた心の投影なのかもしれません。
2-8 nothing
領地や財産、知恵までも「娘たちにくれてやって、角をむき出しに」するしかなくなったリアの頭は、中身のない卵の殻、〈からっぽ nothing〉。これも『リア王』に何度も(検索したところ29回)出てくるキーワード。
道化がリアをからかっていう「今じゃただのゼロ。今のあんたよりおいらの方がまだましだ。おいらは阿呆だけど、あんたはなんでもないNow thou art an O without a figure. I am better than thou art now. I
am a Fool. Thou art nothing.」「豆を抜かれたサヤエンドウ」(55)という言葉には、リアが長年築いてきた知恵の神殿、信じてきた世界観、内なるバベルの塔が崩れ去って、金の冠を縦にしたように、ゼロ・nothingになってしまったことが示されています。
2-9 自分といないいないばあ
長女・次女に裏切られ、今まで信じてきた世界観が幻想だったと気づいたリアは混乱し、「お前は私の娘か?」と問う。このときのリアは、内なるバベルの塔が崩壊した状態。〈バベル〉はヘブライ語で「混乱、ごちゃ混ぜにする」という意味だということは以下でも述べた通り。
ゴネリルはこれに、「ご立派な分別を働かせていただきたいわ I would you would make use of your good wisdom」と答える。浅はかな分別にいまだこだわるゴネリルたちをよそに、狂気におちいりつつあるリアは「俺は誰だ?」(48)「俺を知っている者はいないのか? Does any here know me?」と問い、「頭が弱くなったのか、分別が眠りこけたか? Either his notion weakens, his discernings/Are lethargied」(57)と自問自答する。
ゼロ・nothingになってしまったリアは、知恵の実を食べて以来身につけてきた分別を失い、自分とは何かさえ分からなくなって、まるではじめて鏡を見た幼い子供に戻ったように、俺は誰だ、ここに映っている人物は何者だと、自分自身に問いただす。his notion、his discerningsと自分を三人称で語り始めるのも、狂気に陥った=鏡を見る者になったしるしであり、そんなリアを、道化は「王様狂って、いないいないばあ/とうとう阿呆の仲間入り」(54)といってからかう。これは『リチャード二世』でリチャードが王権をはく奪されたときの混乱ともそのまま呼応しますね。これについては改めてまとめます。
過去記事では、『アントニーとクレオパトラ』の「お前がナルシスのように美しい顔をしているとしても」(90)というセリフや、『お気に召すまま』の「阿呆なら川で溺れてますよ、のぞいてご覧なさい、見えるから」「のぞいて見えるのは私自身の姿だろう」(108)という言葉を引いて、未熟者は鏡を覗き込むfoolであり、ナルキッソスなのだと述べてきました。『リア王』でも「俺は誰だ?」という問いに、このテーマが重なってきます。
2-10 リアの影
リアがさらに、「誰か教えてくれ、俺は誰だ? Who is it that can tell me who I am?」といい募るのに、道化は「リアの影 Lear’s shadow.」と答える。foolは王の影でもある。鏡の中の自分自身といないいないばあをするリアは、ナルキッソス=阿呆=道化=リアの影であるということを、まさに目の前にいる道化に指摘されるんですね。 「リアの影」という道化の言葉に対するリアの返事は以下。
それが知りたい。王たる身分、知識、理性に照らし、娘がいたと思い込まされていたが、誤りだったらしい。
I would learn that, for, by the marks of sovereignty, Knowledge, and reason, I should be false persuaded I had daughters.
リアはこれまで、ものごとを〈学んで learn〉身につけた〈分別 wisdom〉〈知識 knowledge〉〈理性 reason〉を働かせ、王として国を治め、娘たちの父として責任を果たしてきたつもりだった。けれど、娘たちに裏切られ、何かが間違っていたらしいと、今になって気づいた。自分を見失っている今のリアは、中身のないnothing・ゼロ、リアの影にすぎない。
影になったリアは、これまで身につけてきた表層的なものごとではなく、本当の自分とは何か、リアの影であるとはどういうことなのかを、改めてlearn知りたいと切望する。浅はかな分別や知識ではなく、目には見えない真実をこそ、分からなければならないのだと気づく。ここから、リアの本当の学びがはじまります。
2-11 teachとlearnの意味の変化
『リア王』にでてくる最初のteachは前述のとおり。ケントがゴネリルの執事に、「身の程をわきまえさせてやる。 I’ll teach you differences.」(49)という言葉でした。身分というのは、表層的・世俗的な価値観の一例ですね。このセリフの後に、ここまで見てきたリア、道化、ゴネリル、リーガンによるlearnにまつわる一連のやり取りが繰り広げられます。
learnははじめ、お金を貯め込む方法や嘘のつき方といった、現世をうまく生きていく方法、世俗的な欲望を満たすための方法を学ぶという意味で使われていました。けれど途中から、リアは自分の間違いに気づき、「本当の自分とはなんなのか」「自分の影であるとはなんなのか」を学びたいのだといいはじめる。同じlearnという言葉を使いながら、学びたいと望む内容が深まっていきます。
その後、身をやつしたケントはコーンウォールに足枷をはめられてしまう。序盤では執事に偉そうな口をきいていた伯爵ケントが、他人に自由を奪われる屈辱を受ける。そこに現れた道化に、ケントは王の様子を尋ねる。以下はその続き。
道化 そんなこと訊くようじゃ、足枷はめられても文句は言えないな。
ケント なぜだ、阿呆?
道化 蟻のとこ行って教えてもらうんだな、冬には働かないもんだって。(略)
ケント それ、どこで覚えた、阿呆?
FOOL We’ll set thee to school to an ant to teach thee there’s no laboring i’ th’ winter. …
KENT Where learned you this, Fool?
〈learn〉〈school〉〈teach〉がありますね。かつては執事に「身の程をわきまえさせてやる」といっていたケントが、ここでは足枷をはめられた惨めな姿で、道化から教わる立場へと逆転しています。しかも、道化がここで蟻に教えてもらえというのは、季節を問わずあくせく働く人間を馬鹿にするかのような戯言。まるで世俗的なルール、社会で役立つ知識はいったん捨てろと諭されているかのようです。
このケントの〈teach〉教える立場から〈learn〉学ぶ立場への逆転が、リアの内面に起こる〈learn〉の意味の変化を挟み込むようにして置かれている。
そして、先に見たリアと道化の会話と同じように、ここでケントは道化=影=鏡像から、現世の価値観を超えたものごとについて教えられている。この場面自体が、リアと道化のやり取りの影=鏡像。荒野でグロスターという鏡像と再会したとき、リア自身が「俺は、/生まれながらの道化、運命になぶられどおしだ」(199)というように、本人もこれをはっきりと自覚していく。運命にもてあそばれるのは、以下でみたような操り人形であるということ。
これがさらに、本当の自分を探して荒野を彷徨い、エドガーやグロスターに会って自分の真の姿を発見し、最後にコーディリアの亡骸に鏡をあてて、「俺の阿呆が絞め殺された」と嘆くリアと重なりあう。リアと道化、コーディリアの関係については、下記で考察したとおりです。
2-12 学ぶには遅すぎる
娘に裏切られてはじめて、自分が見てきた世界が表層でしかないと気づき、ここからやっとリアの真実を学ぶ旅がはじまる。嵐の荒野で乞食に身をやつしたエドガーに会い、その境遇に同情してリアが「今日まで俺は/こういうことにあまりにも無関心だった。栄華に奢る者にはいい薬だ。/悲惨な者たちが感じていることを、生身をさらして感じ取れ」(131)というセリフなどには、かつて王だった男が新たな学びを得ていることが示されています。
けれどリアはすでに「八十の坂を越えた」(210)老人。世界のあり方を学び、自分探しをはじめるには、あまりにも遅すぎる。前半で、変装して再びリアに仕えようとするケントに、リアは「歳はいくつだ?」と問い、ケントは「若くはありません」(45)と答える。そんなケントは、リーガンの夫コーンウォールと以下のようなやり取りをする。
コーンウォール 思い知らせてやる。
ケント いや、ものを習うには歳を取りすぎました。
CORNWALL We’ll teach you.
KENT Sir, I am too old to learn.
この戯曲ではケントもリアの鏡像なので、このセリフをリアの状況と重ねて読んでよいと思う。このあと、リアは発狂して荒野を彷徨い、物乞いに身をやつしたエドガーと対話し、盲目になったグロスターやコーディリアと再会して、本当の自分とは何かに少しずつ気づいていく。狂気の中で、真の学びを得ていく。けれど、本当に大切なものを学び取ったとき、真の愛を注いでくれたコーディリアを腕に抱いたときには、三女は息絶えており、リア本人も絶望の内に亡くなってしまう。この結末を知ると、「知恵がつかないうちに年取っちゃいけないんだよ」(69)という道化の言葉が、いっそう痛切に響きます。
2-13 一文字足りない
表層的な知識を学ぶだけでは、目には見えないものごと、本当に大切なものを見つけることはできない。娘に裏切られてはじめて、リアはそのことに気づき、そこから本当の学び・learnをはじめる。けれど、時すでに遅し。〈Lear〉は〈learn〉に一文字足りない名前。結局、真実を学びきることができないまま終わるリアの悲劇的な運命が、この名には込められているのかもしれない。そんな解釈もできるように思うのです。
3 learnする人間、learnしない獣
3-1 Learとfool
Learはlearnしきれなかった王を暗示する名前なのではないか、という解釈を前提にすると、戯曲の前半で道化が「リアのおじちゃん、リアのおじちゃん! 待ってよ、あんたにゃ阿呆が付き物だろNuncle Lear, Nuncle Lear, tarry. Take the Fool with thee.」(64)と呼びかける言葉が、learning・学習が不十分で浅はかな者、学びの途上にある者は、精神的に分裂している未熟者だから、常に道化・影がついてまわっている、という意味にも思えてきます。
さらにその前には、ゴネリルに裏切られたことを悟ったリア本人が、以下のように嘆く。
ああ、リア、リア、リア!
この扉を打ち壊せ。こいつが愚かしさを引き入れ、(自分の頭を叩く)
大切な分別を追い出してしまった!
O Lear, Lear, Lear!
Beat at this gate that let thy folly in
And thy dear judgment out.
これを解釈に基づいて言い換えるなら、「表層的な学びしかできていなかった俺、俺、俺! この頭のなかに築いてきた中途半端な知恵の扉を開き、卵の殻のように脆いバベルの塔を打ち壊せ。愚かしい浅知恵で頭がいっぱいだったために、真実を見抜く本当の賢さを追い出してしまった! おかげでコーディリアの愛を理解できず、長女と次女に騙された!」という感じでしょうか。ここでリアは、浅薄な価値観しか身につけず、王として表面的なお世辞を真に受けることに慣れてしまい、真心を見抜く目を養わなかったために、長女・次女のおべっかに心を惑わされ、口下手な三女の純粋な愛に気づけなかったことを嘆き、folly愚かだったと悔いているのだと思う。
そして、learnに至らないLearが常にfoolとともにあることが、最後にコーディリアの亡骸の口元に鏡をあてて、「俺の阿呆が絞め殺された! And my poor fool is hang’d!」(246)と叫ぶことと結びつきます(詳細上記リンク[シェイクスピア『リア王』リアが娘を「俺の阿呆」と呼ぶのはなぜか?]参照)。
3-2 咆えろ、咆えろ、咆えろ!
さらに深読みをするなら、前半の「ああ、リア、リア、リア! O Lear, Lear, Lear!」は、終盤にコーディリアが殺されて絶望したリアのセリフ、「咆えろ、咆えろ、咆えろ! おお! Howl, howl, howl! O」と鏡像関係になっているのかもしれない。シェイクスピアは重要なキーワードを対で配置する作家だし、同じ言葉を三度繰り返すときには呪文や祈りなど、大切な意味が込められていることが多い。三人の娘、ヘカテの三叉路、三たびぐるぐる回って(136)、お仕着せ三着(137)など、三はこの戯曲のキーワードでもあります。
前半の「リア、リア、リア!」は中途半端に浅知恵を得たことへの嘆き。後半の「咆えろ、咆えろ、咆えろ!」は、「この扉を打ち壊せ!」が現実となり、学んだ言葉がすべて頭から消えて獣と化したときの咆哮。リアが人間的な理性を捨て、野生へ還る物語を象徴するのにふさわしい対比ではないでしょうか。
「O ああ/おお」という感嘆詞は地獄の口(下記参照)、ゼロ・nothingに戻る場所。前半の「O」で地獄の口が開き、リアは嵐の荒野へ旅にでて、地獄めぐりをする。これは此岸と彼岸、正気と狂気に半分ずつ足を踏み入れたあわいのひととき。後半の「O」で本当の冥界の口が開き、死の世界へ導かれる。知恵を忘れたリアは、絶望のうちに命を落とす。そんな風にも読めるかもしれません。
4 博識なテーベ人
4-1 博識な狂人
以下は荒野を彷徨うリアと、乞食に変装したエドガーが出会い、言葉を交わす場面。
リア ひと言、この博識なギリシャの学者と話がしたい。
何を研究しておいでだ?
エドガー 悪魔のやっつけ方とノミやシラミの取り方。
リア こっそり教えてほしいことがあるのだが。
LEAR I’ll talk a word with this same learnèd Theban.—
What is your study?
EDGAR How to prevent the fiend and to kill vermin.
LEAR Let me ask you one word in private.
自分の学びが中途半端であったことを悟り、狂気に陥っているリアは、十分に学び知識を習得した博識な人物learned Thebanに教えを乞う。けれど、狂気のリアが博識なテーベの方と呼びかけるエドガーの見た目は狂人だという皮肉がきいたやりとり。
前述したなかに、道化が教師、リアやケントが生徒のようになって、「蟻のとこ行って教えてもらうんだな、冬には働かないもんだって」といった現世とはあべこべの価値観を教える場面がありました。foolは現世的な価値観にとらわれず、宙返りしてものを見ることができる存在。彼岸的な広がりの中で、此岸の常識を転覆できる者。ゆえに愚者はしばしば賢者に反転する。
以前も書きましたが、神話やシェイクスピア作品では、現実的な事物を見る目を失っている人、正気や理性を失って、狂気の領域に足を踏み入れている人物は、道化と同じで彼岸的な価値観、目には見えない深層にある真実を見る目を開いている、という発想があります。『リア王』で、盲目になったグロスターや、彼と鏡映しで狂気に陥ったリアが、目には見えない真実に気づいていくのもこれと同じ。
上記の嵐の荒野の場面で、狂気を演じるエドガーが真実を見る目を持っていることを、リアもまた狂気にとりつかれることで、はじめて察知できるようになっている。だからこそ、リアはエドガーを博識な学者と呼び、自らが学び残したことを教えてほしいと訴える。「悪魔のやっつけ方とノミやシラミの取り方」というのは、己が身につけてきた愚かな浅知恵、真実を見抜くのを邪魔する悪魔的な考えや、汚れた道徳観。これをやっつけて取り除くことが、真実を見るためには必要だということ。
先ほどもふれたリアの「今日まで俺は/こういうことにあまりにも無関心だった。栄華に奢る者にはいい薬だ。/悲惨な者たちが感じていることを、生身をさらして感じ取れ」(131)という新たな学びも、このエドガーとのやり取りから出た言葉。本物の狂人が、狂人の振りをした人物に教えを乞うという滑稽な場面には、王侯貴族のきらびやかな世界で、上っ面の人間関係をとおして深い傷を負った者同士が、狂人へと身をやつして再会した今だからなせる、深い学びあいが描かれています。
4-2 オイディプスとしてのリア
テーベはオイディプス神話の舞台でもありますね。博識なテーベ人という言い方は、この作品にオイディプス神話が重ねられていることを仄めかすものかもしれません。『ハムレット』はよくオイディプス神話と重ねられ、私も下記で読解を試みました。
『リア王』にもオイディプス神話と重ねられる要素が複数あります。盲目になって真実に気づくグロスター、それを鏡として真理を悟るリア。ヘカテの三叉路。父王リアと娘たちとの親子関係が逆転したときの、母と息子のテーマ。父グロスターと二人の息子の対決。上記の博識なテーベ人という言葉の前、リアはエドガーに「人間、衣装を剥ぎ取れば、お前のように哀れな、赤裸の、二本足の動物にすぎない」(135)といっています。これはオイディプス神話でスフィンクスが出す「朝は四本足、昼は二本足、夕方は三本足の生き物は?」というなぞなぞを思わせますよね。
リアは「博識なテーベ人」の後、エドガーに「優れたアテネの学者 good Athenian」(140)とも呼びかけている。アテネはオイディプスが真実を悟り、盲目になった後たどり着き、最後を迎える場所だといわれています。このあたりの解釈については改めてまとめますが、上記のセリフからシェイクスピアは、オイディプス神話には大切な教訓が記されていて、そこから学べることがあると考えていたらしいことが分かります。
4-3 学識豊かな判事殿
このあと、リアは狂人姿のエドガーに「学識豊かな判事殿、ここに座ってくれ。Come, sit thou here, most learned justice.」といい、道化に「賢者の席はここだ。さあ、女狐ども! Thou sapient sir, sit here. Now, you she-foxes—」(144)といって、荒野の掘っ立て小屋に空想上の長女と次女を召喚し、まるで子供のごっこ遊びのように、彼女たちを裁くでたらめの茶番劇を演じます。
シェイクスピア作品において、法律家は社会のルールや秩序を守ることに長けた大人の象徴。言葉で定められた法を守り、理性に基づいて行動できる人。ここではその役割が狂人の振りをしたエドガーに託され、子供の遊びのように再現されることで、秩序あるべき裁判が無秩序の出来事へとひっくり返っている。
このとき娘に裏切られて狂気におちいったリアの内心は、今まで信じてきた価値観、世の中のルールだと思っていたものがすべて崩れ去ってしまい、何を信じていいのかわからなくなっている状態。だからこそ、ルール無視のめちゃくちゃな茶番劇に紛らわせて、いままで信じてきた善悪などの判断基準を一度混沌へと還してしまおうとする。己の愚かさや娘への恨みを浄化し、既存の価値観をいったんリセットして、新しいルールを考え直したいと願う。そのための茶番の裁判劇なのだと思います。
4-4 紳士か、地主か
同じ場面で、道化はリアを以下のようにからかいます。
道化 気違いは紳士か、ただの地主か、どっちだい?
リア 王だ、王だ!
道化 はずれ。紳士の息子を持った地主だよ。だってさ、自分の息子が親を差し置いて紳士になるのを黙って見てるなんてのは、気違いだからね。
シェイクスピア作品において、紳士は世俗的な価値観、地位や名誉を重んじる大人の男性のこと。世間的には十分にlearned学習してきた人と思われているけれど、実はリアのように中途半端にしか学べていないために、目に見える表層の価値観しか見えておらず、浅はかな考えで物事を判断する人。深層にある真心や真実に思いを馳せることができない人を意味すると思う。
地主は知恵の実を食べて言葉を話せるようになった人間、心のなかに自分だけの領地=精神世界を持っている人のこと。だから、リアが自分の領土を娘たちに譲ってしまったのは、自分の心を切り分けて与えてしまったようなもので、これがリアが自分自身を見失う過程と一致する。
また、言葉や記号を覚えることは、地面に線を引き、証文を取り交わし、実際に土地を所有し売買できるようになることにもつながる。だから社会で通じるルールや礼儀作法を身につけて、正しい大人の男性として振舞える紳士は地主。リアもその一人であり、それを手本に見て育ったリアの娘たち、とくにゴネリルとリーガンも同じ価値観を身につけている。このテーマについては『ハムレット』読解でもふれました。下記もあわせてご覧ください。
自分の子供が親を差し置いて紳士になるというのは、ゴネリルとリーガンが、リアの想定以上に他人への愛情や思いやりよりも、自分の欲望を満たすことを優先する大人になってしまったということ。子供がそんな風に育っていくのに気づかず、黙って見ていたリアは気違いだと道化は批判しているんですね。つまり、リアによる娘たちへの教育が間違っていた、リアは今その報いを受けているということで、これもteachとlearnの問題。これが、グロスターから嫡子エドガーに受け継がれるはずの土地を狙って、エドガーを陥れる庶子エドマンドの物語と鏡像関係になっています。
4-5 罪人などいない
戯曲の後半で、リアは目が見えなくなったグロスターに、「目が無くてもこの世の進み行きは分かるものだ」といい、裁判官とこそ泥「二人が入れ替わった、さあ、右か左か当てっこだ、どっちが裁判官で、どっちが泥棒か?」(196)と問う。そして、以下のように続けます。
ぼろを着ていれば小さな悪事は透けて見える。
法服や毛皮はすべてを包み隠す。罪に金の鎧を着せてみろ、
強力な正義の槍も先が折れ、中には通らない。
ぼろで武装してみろ、小人の藁しべでもぐさっとやれる。
罪人など一人もいない、一人も、いいか、一人もだ。俺が保証する。
裁判官も実は泥棒と同じような罪を持っているかもしれない。だけれど、身につけている服や社会的な地位、経済力などで弱い立場にいる者は罪人として裁かれやすく、強い立場にいる者は己の罪を隠しやすいのだと述べる。そして、罪の重さにそれほどの差はないのではないか、もともと罪人だった者などいないのではないかというんですね。
リアは自分がたまたま王家に生まれたから、いままで己の罪に気づかず、一国の王として何の疑問も持たずに生きてきたけれど、自分と他の罪人だといわれている人々との間にそれほど違いはないのかもしれないと思い至る。そして「罪人など一人もいない」といいきる。この言葉には、罪人とは、境遇や間違った教育によってつくられるのだという考え方が示されているのではないでしょうか。
ゴネリルやリーガンも、もとはコーディリアと同じ、純粋無垢な良い子だったのかもしれない。彼女たちが性悪に育ってしまったのは、他ならぬ父王リアの背中を見ていたからかもしれない。嵐の荒野を彷徨い、エドガーとの対話や、両目を失ったグロスターとの再会をとおして、リアはそんな学びを得たのではないでしょうか。まさに学ぶことについての学びによって、自分が育てた娘たちを、まるで親を反面教師にする息子のような視点で見つめながら、親として自分がしてきた教育に思いを馳せる。ことによってリア自身が成長していく。親子関係の難しさと、教育の良し悪しのテーマが、幾重にも重なり反転しながら絡み合う、これぞシェイクスピアという表現ですね。
以上から、learnは『リア王』のキーワードといえると思います。
5 『ヴェニスの商人』のlearn
5-1 冒頭の予告
つづいて、『ヴェニスの商人』のlearnを見ていきます。この戯曲の冒頭は、アントーニオの「こいつ(憂鬱な気分)が何で出来ていて、どこで生まれたのか、見当もつかない。 What stuff ’tis made of, whereof it is born, I am to learn.」というセリフから始まります。まるで、ここから本当のお勉強の時間がはじまりますよと言わんばかりに、最初にさりげなくlearnという言葉が入っているんですね。そして予告通り、この作品でもlearnという言葉がひとつのキーワードになっています。
5-2 教養のない小娘
バサーニオと婚約する場面で、ポーシャは自らのことをこんな風に紹介します。
ひと言で言えば、教養も学問も経験もない小娘です。
ただ幸い、学んで学べないほど
歳を取ってはいません。もっと幸いなのは
学んで覚えられないほど愚かに生まれついてもいない
Is sum of something, which, to term in gross,
Is an unlessoned girl, unschooled, unpracticed;
Happy in this, she is not yet so old
But she may learn; happier than this,
She is not bred so dull but she can learn
年齢への言及は、リア王のことを考えると少々切ないですね。ポーシャは教養も学問も経験もない小娘だけれど、学べば覚えられるほどの賢さを持ち合わせていることが、ここでのポイントです。
5-3 博学な裁判官様
このあと、ポーシャはバサーニオの後見人アントーニオを救うため、裁判官に扮してヴェニスを訪れます。そこで、まずは権威ある法学者ベラーリオが「学識豊かな博士a learnèd doctor」(144)であると表現される。そのうえで、病気のベラーリオにかわって「若い学識豊かな博士を推薦する A young and learnèd doctor to our court.」「同人の学識 his own learning」はどれほど推薦しても十分とは言えぬほど(147)だという手紙が読まれ、「学識あるベラーリオはこのように書いている You hear the learnèd Bellario what he writes.」といい添えられて、ポーシャが現れます。
そしてクライマックス、いよいよ判決が下されようとするとき、勝利を確信したシャイロックが、ポーシャとアントーニオに向かって「実に博学な裁判官様だ! 判決だ、覚悟はいいな! Most learnèd judge! A sentence!—Come, prepare.」(157)と叫ぶ。その直後、この物語の鍵となるポーシャの判決が言い渡される。内容は、証文どおりシャイロックはアントーニオの肉を切り取る権利があるが、その際、一滴の血も流してはならないというもの。これにより、シャイロック勝利かと思われていた形勢が一気に逆転し、シャイロック敗訴、アントーニオの勝訴に決まる。それを喜んで、アントーニオの友人グラシアーノがポーシャに対し、「博学な裁判官様! a learnèd judge!」(157-159)と四度繰り返す。
シャイロックが勝利を確信していう「Most learnèd judge!」に込められているのは、彼がアントーニオの体に刃物をつき立てることを許すという判決をくだす裁判官への称賛。それは、証文に書かれた内容を、従来通りの意味に解釈するという古い世界の賢さ。
対して、ポーシャの判決を聞いた後、グラシアーノがいう「a learnèd judge!」に込められているのは、証文に書かれた内容に、肉を切り取っても血は流すなという新たな解釈を加えた賢さへの喝采。証文の読み方を創造し、世界のあり方を更新し、未知なる未来を切り拓く能力への賛辞。
learnedという言葉を使いながら、途中で博識であること、賢いということの意味が変化していますよね。最初は、従来通りの世界のルールに精通していることを指してlearnedといっていたのが、途中で、過去のルールを乗り越えて、新しい世界を創造する能力にこそlearnedという言葉が使われるようになる。『リア王』で、learnという言葉が、はじめはお金を貯め込む方法や嘘のつき方といった、現世をうまく生きていく方法を学ぶという意味で使われていたのに、途中から、リアが「本当の自分とはなんなのか」を学びたいのだといいはじめる。学ぶ内容が深まっていくことと同じ。『ヴェニスの商人』では、過去のルールに固執するシャイロックは負け、新しいルールを創るポーシャとその仲間たちがひとまわり成長して幸福を掴み、自分らしい人生を切り拓いていきます。
教育を受けてこなかった女性ポーシャが、教育を受けてこなかったからこそ持てた自由な発想の転換によって、教育で凝り固まった男たちの思考を鮮やかに乗り越え、言葉の使い方やものの見方、世界のあり方をアップデートする。教養がなく、最も愚かだと思われていた者が、道化のアクロバットよろしく、最高の賢者へと反転します。
ここには、ポーシャの教育を受けてこなかったからこその良さが描かれていますね。逆にいえば、シャイロックは教育によって凝り固まった考えから抜け出せなかったからこそ負けた。教育の弊害がこのような形で現れる。これを表現するために、シェイクスピアはlearnという言葉をかなり意識的に使っていると思う。
ただ、『ヴェニスの商人』のこの場面に関しては、完全なハッピーエンドではないというのが私の解釈。この裁判によって、アントーニオらキリスト教徒と、シャイロックに代表されるユダヤ教徒との対立はいっそう深まる。対立が解消されるのが、シェイクスピアが理想とする真のハッピーエンド。『ヴェニスの商人』の裁判のシーンで、グラシアーノがいうa learned judgeは四回。割り切れる四は、分断を象徴する数字に思える。この場面には、この先にある彼らの未来が、必ずしも明るいとはいえないという雰囲気が漂っているように感じます。
6 スロー・ラーナー(のろまな子)
シェイクスピアは、learn という言葉をかなり意識的に使っているように思える。ならば King Lear の名前も、と想像してみるのは、それほど突飛なことではないのではないか、というのが本稿の趣旨でした。私がこれを思ったのは、ピンチョンの初期短編集のタイトル『スロー・ラーナー SLOW LEARNER』から。この序文を、ピンチョンはこう締めくくっています。
教育だって、ヘンリー・アダムズがいつでも言うではないか、教育だって永遠につづいて行くのだ。
ピンチョン作品にはシェイクスピアからの影響が随所に見られますが、これもその一つかもしれない。スロー・ラーナー、ゆっくりとしか学べない子、のろのろとしか成長できない者とは、シェイクスピア作品に出てくるような大人になってもどこか未熟さ、不完全さを残す愚か者たち、神話の英雄、永遠の少年、ナルキッソスのことともいえるでしょう。
私はヘンリー・アダムズを読んだことはありませんが、AIによれば彼も自分への教育の挫折を三人称で語った人とのこと。狂気に陥ると三人称を使いだすシェイクスピアの登場人物と同じですね。学びは常に不完全で、誰もがLearであり、いつだってnが足りない。ゆえに世界はエントロピーが増大して熱死する、というピンチョンを読んで暗澹とした気持ちになっても、ひどいニュースにふれて絶望しそうになっても、それでも私は身近な人の良心にふれるたびに希望を持ってしまうし、シェイクスピアやサリンジャーを読むたびに、春が来るのを待ち望んでしまう。これもまた、中途半端な learningのなせるわざ、知恵の実をほおばる未熟な愚か者のちからという感じがしますけども・笑。
今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございました。
シェイクスピア『ハムレット』読解はこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん/アンクル・ウィギリー」読解はこちらから。ぜひご覧ください。
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