見出し画像

十七人の集合写真【第一話 制度】 


あらすじ:
乾いた国レルメドールで研究に打ち込む青年アルシェド・ラミザフ。不安定な通信環境、兵役制度、煩雑な申請書類。数えきれない障壁を越えながら、彼は祖父から聞かされてきた「桜の咲く国」で研究者として生きる未来を信じ、日本への留学を目指していた。
その受け入れ先となる日本の研究室では、留学生対応を担う事務スタッフ・逢坂が、面談調整、書類確認、研究環境の整備に追われていた。
研究を支える仕事に従事しながら、自分の働きが何につながっているのか、実感を持てずにいた彼女にとって、遠い国から未来を掴もうとする彼の姿はまぶしく映る。しかしその頃、レルメドールでは戦争の気配が静かに広がり始めていた。
これは、まだ見ぬ春を待ちながら、それぞれの場所で未来を信じた人々の物語である。

全十話


十七人の集合写真


序章 夢



男の意識に、突然、知らない光景が流れ込んできた。

光の粒が身体のまわりを漂い、肌のすぐそばでほどけていく。あたたかさに似た感触があるのに、それは熱ではない。ただ静かに触れてくるだけだった。

気づけば彼は、空中を滑るように進んでいる。いや、泳いでいると言った方が正しいかもしれない。

視界の先に舞っていたのは、桃色と白の花びら。動画でしか見たことのない花──桜だった。

その花びらの色は、砂嵐で汚れた彼の瞳にとって、鮮やかすぎて痛いほどだった。

彼の生まれ育った国とは違う建物。砂埃を含まない風。そして、少し湿った匂い。目に映る世界の色は瑞々しく、澄んだ空気は肺の奥まで洗う。

そのとき、ふわりと視点が高くなる。

背の高い建物を、そのさらに上から見下ろしていた。窓の向こうに、大きな部屋が見える。実験台や器具はなく、情報系の研究室のようだ。

グレーのフロアマットの上には机とモニターが整然と並び、ホワイトボードの前で研究者たちが議論している。

浮遊感が、彼の感覚よりもさらに前へ進む。窓のそばまで近づくと、ホワイトボードに書かれていた研究テーマは、その男自身のものだった。そこには、尾びれに特徴がある魚のイラストが一緒に描かれている。数式の文字列は書く場所が足りず、最後は下に折れ曲がって続いていた。

言葉が聞こえる。英語だ。そして、実際には耳にしたことのない、おそらく日本語。奥では、他国の人々と自然に言葉を交わしている、男自身の姿もあった。

彼は息を呑む。

次の瞬間。映像は水面のように揺らぎ、静かに途切れた。

ああそうか。これは夢だ。でも、この景色は、いつか。

現実になるかもしれないものだ──。


第一話 制度


乾いた国、レルメドール。ここでは砂埃が舞い、風は肌を刺す。電力や通信が安定しないだけにとどまらず、断水予告も珍しくはなかった。

男が蛇口をひねると、ポリバケツに向かって水が吐き出される。朝のうちに貯めておかなければ、夜には蛇口が咳みたいな音しか立てなくなる。

貯まりきるまでの間、その音を聞く。男にとって水の音といえば、イメージするのは、プラスチックにばらばらと不規則に当たるこの音だ。

蛇口を締めると、音に遅れて波紋がゆっくりになっていった。

長年連れ添った大きめの鞄を肩から下げ、街の中心部へは徒歩で移動する。足元から響いてくる砂利の音は、いつしか他の音と混ざって聞こえなくなっていった。市場の声、車の音。たまに、遠くの礼拝放送。

鞄から、朝食のパンを取り出してひと噛みする。硬くなってはいたが、噛むことは問題なくできる。咀嚼しながら、思いを馳せた。

長年住み、慣れ親しんだ街。決して、壊れた生活というわけではない。ただ、少しだけ何かが足りない。

アルシェド・ラミザフはそう思っていた。

* * *

研究室では、共用の小型水槽がひとつだけ、机に置かれている。男はそのそばで、魚のデータを何度も見返していた。

彼の研究テーマは、モデルフィッシュの行動画像解析であった。回避行動、光刺激への反応。睡眠パターンに、欠損モデルの異常行動。この国では、情報解析においても、実験系と同様に研究ノートは必須だった。

突如。ぶつん、と音がして文字が読めなくなる。

瞬電だった。あたりを見渡している間に、光が点滅しながら景色が元に戻る。非常電源だけが細く唸っていた。

モニターには、モデルフィッシュの神経発火パターンが白い点となって走っていた。男はそばにあったノートPCを開く。ローカルで処理中の作業が止まっていないことを確認し、小さく息をついた。

「……アル。アルシェド。」

背後から声がする。

「また消えたか。」

研究室長の教授だった。彼は、アルの修士課程の指導教員でもある。

「はい、一分程度ですが。」
「一分でも、解析は止まるからな。」

教授は画面を覗き込み、目を凝らした。表示されているのは、アルが計算結果を比較し、プロット出力したものをまとめたスライドだった。

「この追跡精度、前より上がったな。」

アルはうなずいた。

「ええ、ノイズ除去を変えました。」

アルは、修士論文の提出だけでなく、すでに筆頭著者として英語論文を一本通していた。設備の乏しい環境でそこまで到達する学生は、そう多くない。

丁寧に計画を立てて予算どりをしても、結果がともなうとも限らないのが研究だ。アクシデントに対するリカバリで一日潰れることもあるし、同分野で似たような論文が一日でも先に出てしまえば、その研究の価値は失われる。

さらにこの国では、研究を止めないための備えそのものが、日常だった。

しかしアルは、空いた時間に自前の解析用コードを少しでも良いものへ改良することに心血を注ぎ、常に効率化を図っていた。機械や仕組みが思うように動かせないとき、頭を捻って手を動かすより他にない。

教授は水槽の机へと視線を移した。しばらく黙って泳ぐ魚影を見つめる。現在、この小型水槽には、一匹しか魚がいない。実物の群泳を研究環境で見たことがないのは、アルだけでなく教授も同じだった。

「……修士が終わったらどうする?」

背を向けたままの教授に、突然そう聞かれた。アルは、古びた水槽の魚を睨むように一瞥した。

「できれば、続けたいです。研究を。」
「……ここで?」

答えに詰まった。

アルに残されたのは、六月の卒業を待つことだけだった。そのあとの選択肢は、多くない。それも自身の選択ではなく、避けられぬ決められた道と言った方が正しい。

この施設は通信は弱く、設備は古い。今日のような停電があるだけではない。GPUは共用で、常にメモリの奪い合いが起こった。論文投稿も同じ。査読への返信が、国境を越えるだけで時々遅れる。それに、彼の家では、金銭面の問題も大きな障壁だった。

アルは無言で、しばらく母の顔を思い浮かべていた。教授は、椅子を引いて座り、こちらへ向き直った。

「アル。日本大使館の推薦制度を知っているか?」

アルは眉をわずかに上げた。顎を引く代わりに、少しだけ持ち上げる。

「毎年、こちらから数人出している。……まあ、確率は低いがね。」

教授は、少し皺の寄った募集要項を差し出した。

「お前なら、通る可能性があるよ。」

アルは紙を見つめた。その端に、小さく桜の写真が印刷されていた。

「日本ですか。」

聞いたことはあった。祖父が昔、住んでいたことのある国だ。そこではこの国には咲かない花が咲き、この国にはない風が吹くのだと。電車が定刻通りに来るという、信じられない話も聞いたことがある。

自室の机にある、黄ばんだ古い携帯ラジオを思い出す。裏蓋に残っていた、小さな「Made in Japan」の文字。どこかここではない、遠い国。行けるとも、そこで何かを成すとも、思ったこともなかった国だった。

教授は言った。

「続ける意思があるなら、場所を変えることも研究のうちだ。」

受け取った、推薦要項を握りしめる手が震えた。窓の外では、変わらず砂嵐がばらばらと音を立てて暴れている。ふと、祖父から幼いころ聞いた言葉が思い出された。

『日本。英語ではジャパンだ。……我々の言葉では、エルネアという。エルネアの春は静かだった。桜は、雪みたいに降る。』

おかしなことを言う。花は、咲くもののはずだ。そう思ったはずなのに、アルは、祖父には何度もその話をせがんだ。

花なのに、散る姿をみなで眺めるのだという。その話が、アルの印象に強く残っていた。

エルネアの春が、この日から。彼の中で、膨らみ始めていた。



※第二話以降のリンクは以下になります。


いいなと思ったら応援しよう!

財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。