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本能寺の変1582 信長の台頭10 316 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 10三好長慶の死 316 

信長は、攻め口を変えた。

 これまでは、西濃攻めに重点を置いていた。

西から東へ。

 西濃攻めから、東農攻めへ。

信長は、東美濃に進出した。

 同。
 それから間もなくのこと。
 信長は、木曽川を越え、東美濃へ攻め入った。
 先ずは、犬山の対岸、鵜沼・猿啄(さるばみ)。
 
  一、飛騨川を打ち越し、美濃国へ御乱入。
    御敵城、宇留摩(鵜沼)の城主大沢次郎左衛門(基康)、
    ならびに、猿はみ(啄)の城主多治見とて、
    両城は、飛騨(木曽)川へ付きて、
    犬山の川向ひ、押し並べて、持ち続けこれあり。

 信長は、木曽川の並び、伊木山(標高173m)に陣所を構えた。
 鵜沼(標高89m)の下流半里(2km)ほど
 ここから、両城を威圧した。
 
    十町十五町隔て、伊木山とて高山あり。
    此の山へ取り上り、御要害丈夫にこしらへ、両城を見下し、
    信長、御居陣侯ひしなり。

 鵜沼城、これに堪え切れず。
 降参。
 
    うるまの城、ちかぢか(近々)と御在陣侯間、
    越訴(おつそ)とも拘へ難く(とても維持できないと)存知、
    渡、し進上候なり。

 猿啄城、同じ。
 
  一、猿ばみの城、飛騨川へ付きて、高山なり。
    大ぼて山とて、猿ばみの上には、生茂りたる崱(かさ=高所)あり。
    或る時、大ぼて山へ丹羽五郎左衛門先懸にて攻めのぼり、
    御人数を上げられ、水の手を御取り侯て、上下より攻められ、
    即時につ(詰)まり、降参、退散なり。
                          (『信長公記』)


目次 1~315

信長の台頭 10三好長慶の死
315 信長は、犬山城を攻略した。
314 長慶、没す。
313 信長と謙信の交流が始まった。
312 三好長慶が安宅冬康を殺害した。

信長の台頭  8三好の衰退
308
 長慶は、義継を後継者に定めた。
307 三好義興が病死した。
306 信長は、於久地城を手にいれた。
305 信長、清洲城から小牧山城に。
304 信長、小牧山に築城を開始。
303 「永禄六年諸役人附」
302 細川藤孝は、「御供衆」だった。
301 三好長治が実休の後を継いだ。
300 畠山方は、総崩れになった。
299 教興寺の戦い。
298 三好義興が後詰の軍勢を率いた。
297 畠山氏は、飯盛山へ攻め上った。
296 実休が討死した。
295 本陣がガラ空き状態になった。
294 久米田合戦の事。
293 十河一存の死。


          ⇒ 次回へつづく


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