文字を持たなかった昭和 終末期27 人間の浅知恵

 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、わたしは「万一」も考えて鹿児島へ向かったが幸い容態は安定した。

 「その後の容態」(2025/3/1掲載)に記したとおり、ミヨ子さんは低空飛行を続けながら最後の到達点に向けてゆっくりと高度を下げている状態だろう。その間にミヨ子さんは3月10日に病床で誕生日を迎えたが、途中驚くべき復活を見せたこともあった(3月6日)。

 一旦自宅に戻ったわたしが奇妙な「待機」を続けている状況は変わらない。日単位、週単位、月単位、あるいは数カ月単位での日々のルーティンに取り掛かる、あるいは段取りする前に、「いや、今日にも、明日にも『容態が変わった』という連絡があるかもしれない。その時はすべてを放置して駆けつけなければ」と考え、やりかけたことを先延ばしにする、ということがしばしばある。

 しかしそういう状態にもいささか疲れたというか、倦んできた。そして、わたしは一種の悟りを得た。これまで、ミヨ子さんの入院先の近くに住むカズアキさん(兄)夫婦から連絡されてくる状態から「あとこのくらいは大丈夫だろうか」と予定を調整しようとしたりもしたが、そんなのは人間の浅知恵だろう、と。

 「その時」は、神様の判断で来るべきときに来るだけだ。本人にもいかんともし難い「その時」まで、ミヨ子さんは――もし意識がないのだとしても――一生懸命生きるのだし、周りの人間はいつも通りの日々を大切に過ごすしかない。

 と、「その時」についてあれこれ考えるのはやめたが、人としての終わり方について、考える日々は続く。

 仏教で言う「生老病死」は、人生の中で避けることのできない根源的な苦しみとされる。母親の老いと、遠くないであろう死を見つめながら、生きることや死ぬことの意味と、それがほかの人に与えるものについてわたしもずっと考え続けている。ミヨ子さんはわたし(たち)に考える時間を与えてくれているのかもしれない。

 ――そんなふうに現状に何かの意味を見出さないと、この「何かしたいのに何もできない」時間を耐えられない、というのが本当のところでもある。
(次は「その後の容態、2」)

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