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AIと遊ぼうとしたら、三十分後に私は要件定義書を書いていた

プロローグ

正直に言う。

私は、AIと「遊ぶ」ということが、できなかった。

きっかけは些細なことだった。週末の夜、特にやることもなく、画面の向こうのAIに向かって、ふと思った。仕事でもなく、効率でもなく、ただ純粋に、こいつと遊んでみたらどうなるんだろう、と。二十年、納期と品質とコストに追われてきた人間が、生まれて初めて、何の目的もなくAIに話しかけてみようとした。崇高な決意だった。

「何か、面白いことをしよう」

そう打ち込んだ。これが、遊びの始まりのはずだった。

ところが、三十分後。画面に表示されていたのは、面白い何かではなかった。そこにあったのは、目的、前提条件、成功基準、制約事項、そして評価指標の整理された、立派な要件定義書だった。

私は、AIと遊ぼうとして、いつの間にかAIに発注をかけていた。「面白いこと」を「定義可能な成果物」へと変換し、要件を詰め、スコープを確定させ、品質基準を設定していた。遊びは、三十分でプロジェクトになっていた。

そのとき、私はキーボードから手を離して、しばらく天井を見上げた。

なぜ私は、遊ぶことすらできないのか。なぜ、何の評価者もいない週末の夜に、誰にも提出しない要件定義書を書いてしまうのか。

この記事は、AIと遊ぼうとして派手に失敗した五十代PMが、その失敗を構造として解剖した、少し情けない記録である。コンテストの趣旨は「遊ぶ」ことらしいが、私はまず「遊べない」ところから報告しなければならない。

第一章 遊びを切り分ける

結論を急がず、まず切り分けたい。なぜ私が遊べないのかを理解するには、そもそも遊びとは何か、という定義から入る必要がある。職業病である。遊びを語るのに定義から入っている時点で、もう負けているような気もするが、続ける。

仕事と遊びの最大の違いは、目的の所在だ。

仕事には、外部から与えられた目的がある。納期がある。顧客がいる。成果物がある。評価者がいる。だから仕事は、入力に対して正しい出力を返す、関数のような構造を持つ。要件が定まっていて、それを満たせば成功、満たさなければ失敗。シンプルだ。少なくとも構造としてはシンプルだ。

一方、遊びには、外部から与えられた目的がない。

遊びは、目的が内部で自己生成される。やってみたいから、やる。面白いから、続ける。誰も評価しないし、誰にも提出しない。成功も失敗もない。遊びとは、要件定義書のないプロセスなのだ。仕様が存在せず、合格基準も存在しない。ただ、走らせること自体が目的になっている。

ここまで切り分けて、私は自分の故障箇所を特定した。

私は、要件定義書のないプロセスを、走らせることができない人間になっていた。目的が与えられないと、自分で目的を生成しようとしてしまう。評価者がいないと、自分の中に仮想の評価者を立ててしまう。合格基準がないと、勝手に合格基準を設定してしまう。

つまり私は、遊びという入力が来た瞬間、それを反射的に「仕様の欠けたプロジェクト」として認識し、欠けた仕様を埋めにかかっていたのだ。これはバグではない。むしろ、仕事においては高性能な機能だった。曖昧な依頼を、実行可能な要件へと変換する能力。二十年かけて磨き上げた、私の主力エンジンだ。

ただ、その主力エンジンには、停止ボタンがついていなかった。

第二章 目的のない時間に耐えられない、という故障

なぜ、私は目的のない時間に耐えられなくなったのか。これは、AIの問題ではない。私という人間が、長い年月をかけて、そう設計されてしまったという話だ。

二十年、プロジェクトマネージャーをやってきた。プロジェクトとは、定義上、終わりのある営みだ。始まりがあり、終わりがあり、その間にスコープがある。私の仕事は、その有限の時間に、有限のリソースを割り当て、有限の成果を出すことだった。

この働き方を二十年続けると、何が起きるか。

時間というものが、常に「何かに割り当てられるべきリソース」として認識されるようになる。空いている時間は、未割り当ての資源だ。未割り当ての資源を見ると、私の中の何かが落ち着かなくなる。「このリソース、遊んでいるぞ」と。皮肉なことに、遊んでいる時間を、遊ばせておけないのだ。

これは、稼働率を最大化するように最適化されすぎたシステムの、典型的な末路である。あらゆる空き時間を埋めようとする。あらゆる曖昧さを解消しようとする。あらゆるプロセスにゴールを設定しようとする。効率という名の最適化を、人生の全領域に適用してしまう。

だが、ここに根本的な誤りがある。

人生のすべてのプロセスが、ゴールを必要とするわけではない。むしろ、ゴールのないプロセスにこそ、人間にしか持てない価値が宿る。後で詳しく書くが、これはAI時代において、決定的に重要な構造だ。

そして、もうひとつ気づいたことがある。私が目的のない時間に耐えられないのは、目的がない時間に、自分の価値を感じられないからだ。何かを生み出していないと、自分が無価値に思えてしまう。これは、自分の存在価値を、出力した成果物の量に紐づけてしまった人間の、悲しい依存構造だ。

私は、成果という麻薬に、二十年かけてゆっくりと依存していた。週末の夜、AIと遊ぼうとして要件定義書を書いてしまったのは、その禁断症状だったのだと思う。

第三章 AIは、私の遊べなさを正確に映し出した

ここで、AIの話に戻る。なぜ、この故障に気づかせてくれたのが、AIだったのか。

理由は明快だ。AIは、こちらの入力を、恐ろしく正確に処理して返してくるからだ。

人間相手なら、「何か面白いことしようよ」と言えば、相手も「えー、何しよっか」と、一緒に目的のない時間を漂ってくれる。曖昧なまま、だらだらと続けられる。人間同士の遊びには、お互いの曖昧さを許容するバッファがある。

だが、AIは違う。私が「何か面白いことを」と入力すれば、AIは律儀に選択肢を整理して返してくる。私が「もっと具体的に」と返せば、AIは具体化する。私が条件を足せば、AIは条件を反映する。AIは、私の入力に対して、過不足なく応答する。極めて優秀な部下のように。

つまり、AIは私の入力の質を、そのまま鏡のように映し返してくる装置だった。

私が遊びの入力をすれば、遊びが返ってくるはずだった。だが、私が無意識に発注の入力をしていたから、発注に対する成果物が返ってきた。要件定義書が生成されたのは、AIが堅いからではない。私が、遊びすらも発注の言語でしか発話できなかったからだ。

AIは、私という人間の入出力の癖を、一切のお世辞なしに可視化した。

これは、少し怖い体験だった。私はずっと、自分のことを「曖昧な依頼を整理できる、柔軟な人間」だと思っていた。だが、AIという正確な鏡の前に立ってみると、見えてきたのは逆の姿だった。私は、あらゆる曖昧さを、整理せずにはいられない人間だった。柔軟だったのではない。整理という一つのモードに、硬直していたのだ。

人を責めるより、構造を見る。私はそう書き続けてきた。だが、AIと遊ぼうとして気づいたのは、構造を見る癖が強すぎて、構造を見ずにただ漂うことが、できなくなっていた、という構造だった。構造を見る人間が、構造を見ることに囚われている。これ以上ない、自己言及的な滑稽さである。

第四章 遊べない人間が、遊びを取り戻すための三つの設計

では、私のように壊れた人間は、どうやって遊びを取り戻せばいいのか。三つの設計を、自分への処方箋として書いておく。

第一に、評価者を意図的に殺すこと。遊べない人間の頭の中には、常に仮想の評価者が常駐している。誰も見ていないのに、見られているかのように振る舞う。だから、遊ぶときは意識的にこの評価者プロセスを停止させる必要がある。私は最近、AIに何かをさせるとき、わざと「これは誰にも見せない」「成果物にしない」「あとで消す」と、自分に宣言してから始めるようにした。出力を最初から破棄すると決めておくと、不思議なことに、初めて手が自由に動く。捨てる前提が、遊びを解放する。

第二に、効率の悪いことを、意図的にやること。遊びとは、本質的に効率が悪い。最短経路を通らないことに、価値がある。だから私は、AIに、明らかに無駄なことをやらせる練習を始めた。意味のない長い物語を書かせる。役に立たない奇妙な比喩を百個出させる。これは生産性ゼロだ。だが、生産性ゼロの時間を意図的に確保することが、稼働率最大化に最適化されすぎたシステムにとっての、冷却設計になる。常に全力で回り続けるサーバーは、いずれ熱で落ちる。意図的な空転は、長期稼働のための保護機能だ。

第三に、目的のない時間に、自分の価値を見出す練習をすること。これが一番難しい。何も生み出していない自分を、無価値だと感じない訓練。だが、考えてみてほしい。子どもの頃、私たちは何も生み出していなかった。ただ砂場で穴を掘り、意味もなく石を並べ、理由もなく走り回っていた。あの時間に、私たちは要件定義書を書いていただろうか。書いていなかった。それでも、あの時間は確かに豊かだった。遊びを取り戻すとは、新しい何かを獲得することではない。かつて持っていて、効率の名のもとに手放してしまったものを、少しずつ言葉にして取り戻していくことなのだ。

最終章 AIに発注できないものこそ、人間に残る

最後に、構造から少し離れて、人間の話をしたい。

AIと遊ぼうとして失敗した夜、私は逆説的なことに気づいた。私がAIに発注できてしまったもの、つまり要件定義書として書き出せたものは、すべてAIが完璧に生成できた。目的が明確で、基準が定義できて、正解のあるもの。それらは、もはや人間が握っている必要のない領域になりつつある。AIは、定義可能なものを、複製可能にする装置だからだ。

では、AIに発注できないものは何か。

それは、目的のない時間そのものだ。

要件定義書の書けない遊び。成功基準のない時間。誰にも提出しない、ただ漂うだけのプロセス。効率の悪い、無駄で、意味のない、けれども確かに豊かな時間。これらは、定義できないがゆえに、発注できない。発注できないがゆえに、複製できない。複製できないがゆえに、AI時代において、むしろ価値が上がっていく。

皮肉なものだ。私はずっと、定義し、整理し、要件化する能力で、二十年食ってきた。だが、これからの時代に人間に残されるのは、定義できないものを、定義しないまま味わう能力のほうなのかもしれない。私が最も苦手としてきた、あの能力のほうなのだ。

AIと遊ぼうとして、私は遊べなかった。だが、遊べなかったという事実を通して、自分がどれだけ効率に最適化され、どれだけ目的に依存し、どれだけ遊びを手放してきたかを、はっきりと見ることができた。AIは、私を遊ばせてはくれなかったが、私に、私自身を見せてくれた。

これからも、私はきっと、油断するとすぐに要件定義書を書き始めるだろう。二十年の習性は、そう簡単には消えない。それでも、書きかけの要件定義書を消して、もう一度「何か、面白いことをしよう」と打ち込み直す、その小さなやり直しを、これから少しずつ練習していこうと思う。

優しいまま、壊れないこと。それはきっと、効率のために自分を限界まで回し続けることではなく、意味のない時間を、自分に許してあげられること、でもあるのだから。

そういうわけで、この記事自体が、結局またきれいに章立てされた構造分析になってしまったことについては、何も言わないでほしい。遊ぶ練習は、まだ始まったばかりなのだ。


この記事は、いずれ書籍として一冊にまとめたいと考えている思想の、ひとつの断章である。

気合や根性ではなく構造として自分を運用する。人を責めるより、構造を見る。自分を責めるより、構造を見る。優しいまま、壊れないこと。誰かに勝つ輝きではなく、自分を壊さず誰かを少し安心させられる光。短期評価ではなく長期残存価値である。

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