ニッポンの世界史 #52 世界史はどう書き直されたのか?—1990年代世界史群像
1991年、ソ連が消滅した。同時に社会主義と資本主義の対立を軸に世界を説明する方法も力を失った。
では、その後の世界史は何を主役にすればよいのか。国家、民族、文明、交易ネットワーク、環境、情報。1990年代の書き手たちは、それぞれ異なる答えを出した。
奇妙なのは、学問と出版の世界で世界史が大胆に組み替えられた同じ時期に、学校では世界史が膨大な用語を覚える科目として敬遠されていったことだ。教室の外ではローマ史、三国志、歴史ゲームが人気を得ていた。
今回はこのズレが生まれた1990年代を、世界史の主役探しという視点から追う。
分量が多いので複数回に分けることも考えたが、あえてひとまとめにする。内容は目次を参照のこと。


ソ連の喪失
ゴルバチョフが書記長になったのは1985年だ。停滞した計画経済を立て直すため、ペレストロイカで改革を進め、グラスノスチで情報公開に踏み切った。だが公開された過去の隠蔽や失政は、改革の追い風になる前に、体制そのものの正統性を疑わせた。情報を開けば信を取り戻せるという見込みが、逆に働いたのだ。1986年のチェルノブイリ事故は、その反転を象徴した。外交でも転換が続く。1988年、ブレジネフ・ドクトリンを放棄する。東欧への軍事介入をやめると宣言したに等しく、後ろ盾を失った各国の共産党政権は自力で立てなくなった。1989年、ポーランドを皮切りに体制が次々と倒れ、11月にベルリンの壁が崩れた。
崩壊は連邦の内側にも及んだ。1990年に東西ドイツが統一し、バルト三国が独立を宣言する。中央の統制は緩み、共和国ごとの遠心力が強まった。決着は1991年だ。8月、改革に反発する保守派がクーデタを起こすが、市民の抵抗にあって3日で失敗する。これがかえってゴルバチョフの権威を奪い、ロシア共和国のエリツィンを前面に押し出した。共産党は解散し、12月に独立国家共同体が結成される。連邦は枠組みとして残骸になり、12月25日、ゴルバチョフの辞任とともにソ連は消滅した。
ソ連とは何だったのか。崩壊は、多くの人にこの問いを突きつけた。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは、最後まで離れなかった共産主義者として、断罪では割り切れない両義的な答えを残した。後年の回想 Interesting Times: A Twentieth-Century Life, Allen Lane, 2002)でも、彼はこの選択を釈明している(大島真理夫「私の"Marx Today" : エリック・ホブズボームを通して,1991年と2008年の意味を考える」『経済学雑誌』116巻4号、2016年)。
イギリスを代表するマルクス主義の歴史家エリック・ホブズボームは、市民革命から世界大戦までの近現代を大きな見取り図で描いた四部作で知られる。その掉尾を飾るのが、1994年の『The Age of Extremes: The Short Twentieth Century, 1914–1991』、邦訳『20世紀の歴史 極端な時代』である。
彼はこの世紀を「短い20世紀」と呼んだ。暦の上の100年ではない。第一次世界大戦が始まった1914年に開幕し、ソ連が崩壊した1991年に幕を閉じる、77年の塊として「感覚としての20世紀」をとらえたのだ。世界大戦と革命に始まり、冷戦をへて社会主義の終焉に至る。この期間を、彼は破局と過激さに彩られた「極端な時代」と見た。
国家に対する懐疑
ソ連が消えたのと同じ1991年、先述した通り、その年頭の1月17日に勃発した湾岸戦争も、世界史的な転換点と意識された。日日本は多国籍軍へ巨額の資金を出し、戦闘が終わったあとにはペルシャ湾へ自衛隊の掃海艇を送る。この派遣に抗議して、柄谷行人は中上健次、津島佑子、田中康夫らと「湾岸戦争に反対する文学者声明」を出した(柄谷行人ほか「文学者の討論集会アピール」1991年)。
私は日本国家が戦争に加担することに反対します。
— 声明1
戦後日本の憲法には、「戦争の放棄」という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を「最終戦争」として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、「戦争の放棄」の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。
— 声明2
柄谷の念頭にあったのは、「国家」だ。声明が反対するのは特定の戦争ではなく、「日本国家が戦争に加担すること」そのものである。ソ連がなお存在したとき、論壇の論点は「社会主義か、資本主義か」あるいは「現存する社会主義か、可能性としての社会主義か」という、イデオロギーを土俵にした水準で設定されていた。だが柄谷は、その土俵そのものを国家へずらした。社会主義か資本主義かという問いが崩れる前夜に、残るのはどちらにも共通の容れ物である国家だ、と見たのである。
[…]マルクスが見落としていたのは、実は「国家」である。
マルクス主義の世界史は、生産力と階級闘争を軸に、原始共産制から封建制・資本主義・社会主義へと至る一本の階梯を描いた。国家はその上部構造であり、土台である資本主義が倒れればやがて死滅する。柄谷はこの図式を捨てる。国家もネーションも、生産から派生するものではなく、それぞれ固有の起源と論理をもつ。だから資本主義を揚棄しても国家は消えない。「国家は死滅するか」という問いに、彼は否で答えたのだ。
代わりに軸に据えられるのは交換だ。国家の原初には、生産でも階級でもなく、暴力による略取と、その見返りの保護・再分配がある。共同体間の交易が貨幣と資本主義を生み、ネーションは資本主義が古い共同体を解体したあとの空隙を埋める。資本・ネーション・国家は、それぞれ別の交換の様式に対応する。生産ではなく交換を歴史の基底に置くこの発想は、贈与と返礼の互酬を社会の原基とみたモース『贈与論』(原著1925年)に淵源をもつ。規則を共有しない他者との非対称な関係を、フロイトらを介した他者論から『探究』のウィトゲンシュタイン「教える–学ぶ」関係まで問うてきた柄谷にとって、交換様式への移行は自然な接続だった。「生産様式」に代えて「交換様式」を基底に据えるこの構想は、後年の『世界共和国へ』(岩波新書、2006年)、『世界史の構造』(岩波書店、2010年)をへて『力と交換様式』(岩波書店、2022年)で体系化されることになるが、1991年のこの小論は、その嚆矢ともいえる。
柄谷は革命を経験した東欧、そして崩壊前夜のソ連を見渡してこう述べる。
東欧やソ連の民族は、独立したところで「自律」することはできない。しかも、それは、再び内部に少数民族を生み出すから、この分解には際限がない。それは論理的には主権としての個人にまで分解されなければならないだろう。実は、それを主張するのがアナキズムなのである。このような分解は、いずれは「連合」に向かう。この意味では、現在のナショナリズムは、ネーションの解体の兆候であるといえる。
しかし、ネーションの解体は、ナショナリズムが熱烈することと矛盾しない。国家の稀薄化は、国家主義が昂揚することと矛盾しない。われわれはこうした「自然史的過程」のなかに、弁証法的可能性をのぞきみるほかない。
民族が独立を求めて熱を上げるその動きを、柄谷は民族の勝利ではなく、ネーションそのものの解体の兆候と読みかえる。分解はとどまらず、論理的には個人にまで行きつき、そこから「連合」へ反転する。だから国家主義の昂揚と国家の稀薄化は、矛盾なく同時に起こる。「自然史的過程」とは、当事者の意図を超えてこの分解と再結合が進む過程の謂であり、彼はそこにしか「弁証法的可能性」を見ない。民族の回帰は、柄谷にとって通過点にすぎないものだった。
民族と文明のあいだ―山内昌之の世界史認識
同じ局面を、柄谷とは異なる方向から読んだ歴史家がいる。山内昌之(1947〜)柄谷が民族の噴出をネーション解体の過程として捉え、その先に国家を越えた連合の可能性を見たのに対し、山内は、社会主義や国民国家が覆い隠してきた民族、宗教、地域の差異そのものへ目を向けた。ソ連解体は民族が突然よみがえった事件ではない。社会主義が民族を克服したという理解の誤りを明るみに出した事件だった。
山内の専門は中央アジア・中東のイスラーム史である。その仕事は一貫して、国家、民族、宗教、文明の境界が重なる地域を対象としてきた。『スルタンガリエフの夢』(東京大学出版会、1986年)で取り上げたムスリム民族共産主義も、イスラーム、民族、社会主義を単純な二者択一に還元できない思想だった。冷戦後には国際政治の時評や文明論などスケールの大きな史論へ活動を広げたが、扱う対象が変わったというより、中央アジアや中東で培った複眼的な視点を世界史全体へ広げたと見るべきだろう。
その視点は『ソ連・中東の民族問題— 新しいナショナリズムの時代』(日本経済新聞社、1991年)に集約されている。山内はここで、人類は「ホモ・エコノミクス(経済的人間)」であることをやめ、「ホモ・エトニクス(民族的人間)」へ回帰すると説いた。経済的利害が人を動かす時代は終わり、民族的帰属が行動を決める時代が来る、という見立てである。
ヨーロッパに目を転じれば、「統合」を目指すECの実験と「脱統合」の力が作用するソ連やユーゴスラビアの現状には、実は目立たぬ点で一つの共通項がある。それは、ECが近代ヨーロッパの「旧・国民国家」のシステムをうちこわして「超・国民国家」をつくる前人未到の実験に乗り出そうとしており、ソ連とユーゴでは「ソ連人」(ホモ・ソビエティクス)や「ユーゴスラビア人」を中心に人工的な「旧・国民国家」をつくろうとする実験が失敗してしまったことである。つまり、両者はその実験性という点で背中合わせになっているともいえよう。
それでも、二一世紀に向かう世界が老朽化した「旧・国民国家」のほころびを修正する時代に向かっているとだけは言える。
ECとソ連・ユーゴを実験という同じ語で捉えるところに、山内の発想がよく表れている。ECは既存の国民国家を越える統合を試みていた。ソ連とユーゴスラヴィアでは、複数の民族をソ連人やユーゴスラヴィア人という新しい国民へ統合する試みが崩れつつあった。方向は逆に見える。前者は上位の統合へ進み、後者は内部の民族へ分解していた。山内は両者を、近代の国民国家をそのまま維持できなくなった世界が試みる、二つの再編として読んだのである。
統合と脱統合は正反対の運動ではない。いずれも国家と民族の境界が一致するという国民国家の前提を揺さぶる。国家を越える広域的な統合が進む一方、国家の内部から民族的な自己決定の要求が現れる。1990年代の世界史は、この二つの動きに同時に引かれていた。山内の一節は、その構図を早い段階でとらえていたと言えよう。
民族は復活したのか、つくり直されたのか
国民国家を人工的な作為として見る視点は、山内だけのものではなかった。1983年にはベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』、アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』、エリック・ホブズボームらの『創られた伝統』が相次いで刊行され、ネーションを古来不変の実体ではなく近代に形成された共同体として捉え直した。
山内がソ連人やユーゴスラヴィア人を人工的な国民と呼び、柄谷がネーションを資本主義によって解体された共同体の空隙を埋めるものととらえた議論も、こうした同時代の問題意識と響き合っている。冷戦末期の民族運動は、太古から眠っていた民族の単純な復活ではなく、近代国家による統合の限界が露呈した現象として読まれた。
山内が予期した民族をめぐる矛盾は、1991年に始まるユーゴスラヴィアの解体と内戦で、最も激しい形をとることとなった。クロアチアからボスニアへ広がった戦争は、民族が国家による抑圧から解放されれば共存へ向かうという期待を打ち砕いた。民族的な自己決定は、新たな少数民族を生み、排除と領土要求を連鎖させる。冷戦の終結がそのまま自由民主主義の安定した世界をもたらすという期待も、各地の民族紛争のなかで急速に薄れていった。
この見立ては、柄谷のそれと出発点を共有しながら、行き先を異にする。国民国家の行きづまりという同じ起点から、柄谷の関心は民族や国家の揚棄へ向かい、山内の関心は、人類が複数の文明をいかに共存させ、あるいは共存に失敗してきたか、そして今後いかに衝突を避けて対話に向かいうるか、という点にあった(『文明の衝突から対話へ』岩波現代文庫、2000年。『帝国の終末論』新潮社、1996年の増補改題)。その思考は、日本・欧米・イスラームを結ぶ「三点測量」から成り立っている(『イスラームと世界史』筑摩書房、1999年)。
それゆえ山内は、フランシス・フクヤマの世界史認識にも早くから疑念を呈していた。フクヤマは『歴史の終わり』(原著1992年/邦訳三笠書房)で、冷戦の決着を自由民主主義の最終的勝利とみなし、イデオロギーの対立が終わったと宣言した。山内が突いたのは、その「勝利」の射程である。
リベラルな民主主義と豊かさを享受する北の世界と、それへの憎悪をたぎらせて、繁栄を犠牲にしても核武装をしかねない南の第三世界との対立は、21世紀に向けて予測しがたい悲劇を生むかもしれない。そうであっても、フクヤマはこの帰結が「歴史の終わり」のテーゼの勝利として喝采するのであろうか。
「歴史の終わり」が告げる自由民主主義の勝利は、北の世界の内側でしか通用しない。山内はそう見ていた。柄谷が「国家は死滅するか」を寄せたのと同じ号の『現代思想』誌上対談で、彼は非西欧世界にも「いろいろな民主主義」があると説き、次の見通しを示している。
[…]世界史的にみて、西欧における市民革命から産業革命という構図、つまり政治的な民主化から産業的な高度化へというコースが確かにあったかもしれない。だけれどこれもイギリスを中心としたせいぜい北米の一部、アングロサクソン的な世界を中心にした現象ではないでしょうか。
日本とか、最近のASEANやNIESのケースなどというのは、むしろ逆に産業的な高度化から政治的な民主化へというコースもあることを示している。
民主化から工業化へという西欧の経路を、すべての社会に共通する発展の順序とみなすことはできない。日本や東アジアでは工業化が先行し、政治的民主化が後から進んだ。山内が相対化しようとしたのは自由民主主義そのものだけではなく、西欧の歴史的経験を人類史の標準とする世界史像だった。
民族と文明を往復する
ここで山内の議論には、二つの尺度が現れる。
一方で、ソ連や中東の内部を見るとき、山内は民族、宗派、言語、地域の差異へ視線を向ける。国家やイデオロギーが一つにまとめてきた人々を、内部の複数性へと分解する視点である。
あるいは一方で、日本、西欧、イスラームの関係を考えるときには、イスラーム文明、地中海文明、モンゴル文明という、より長い時間と広い空間をもつ単位が用いられる。民族によって国家や文明の内部を捉え直し、文明によって民族や国家を広い歴史関係のなかへ置き直す。山内の世界史認識は、この二つの尺度の往復から成り立っていた。
文明は民族の差異を消す上位の統一体ではない。複数の民族、宗教、言語が重なりながら形成される歴史的な空間である。民族もまた文明から切り離された自足的な主体ではない。隣接する文明、帝国、国家との関係のなかで形を変える。山内がイスラーム文明を語りながら、その内部の民族や宗派を執拗に区別したのは、このためだった。
国家が捨てた歴史を呼び戻す
山内にとって、アメリカもソ連も、自らの成り立ちにある異質なものを切り捨てて建てられた国家だった。親交の深い蓮實重彦との対談(『20世紀との訣別—歴史を読む』岩波書店、1999年)で引かれるのは、エリア・カザンの映画『アメリカ アメリカ』である。ギリシア正教やイスラーム、中東につらなる移民の出自——「アメリカ」という単純な像にとっては夾雑物でしかないもの——を、カザンは作品のなかへ呼び戻した。この夾雑物を、山内は「ノイズ」と呼ぶ。アメリカとは、ノイズを捨て、「アメリカ」という箱庭の枠のなかで完結しようとする単純思考の産物だ。
ソ連は、同じ操作をさらに徹底した国家だった。山内は、みずから『ラディカル・ヒストリー』(中公新書、1991年)で立てた論点とも重なる、として、岡田英弘の説をこう引く。
[岡田は]ソ連の前身のロシア帝国は、もともとモンゴル文明の一部でありながら、その歴史を否認して、地中海文明の歴史を借用して接ぎ木しようとして、うまくいかなかった国家だというのですね。それをロシア革命で歴史を切り捨てて、イデオロギーに置き換えた国家がソ連だったというのです。大胆に思えますが、大筋で決して間違っていません。私がかつて『ラディカル・ヒストリー』(中公新書)で主張した論点とも共通しています。
そのうえで、自らの出自=ノイズをも引き受け、世界史・世界史を見る姿勢をとるのである。1998年の両者の共著には、次のようにある。
日本人でありながら、イスラームという〈異文化〉を通して世界を見たいという衝動がやみ難くあるわけです。[…]絶えず自分が日本人であるということが、一定のノイズを与えてくれている。
ここでノイズという語には二つの意味が重なっている。一つは、国家や文明の単純な自己像から排除される歴史的な複数性である。アメリカにとってのギリシア正教やイスラームにつながる移民の過去、ロシアとソ連にとってのモンゴル的な成り立ちがそれにあたる。もう一つは、歴史を見る者自身が消すことのできない立場である。山内がイスラームを通して世界を見るとき、日本人であることは透明な観察者になるのを妨げる。だが、それは除去すべき偏見であるだけではない。自分の位置を自覚し、単一の文明像に閉じこもらないための条件でもあった。
新井白石、北畠親房、伊達千広という、日本から世界を捉えようとした先人に山内が関心を寄せたのもこの姿勢による。日本という位置を捨てて普遍的な世界史を語るのではない。日本から見ることの制約を自覚しながら、イスラームやロシアを媒介として、日本、西欧、非西欧の関係を組み替える。山内が三点測量と呼んだ方法は、地理的な三地域の比較だけでなく、見る者自身の位置を含む世界史認識だった。
日本からイスラームを見るということ
日本でイスラームへの関心が高まるとき、その複雑さはしばしば国益という基準によって整理され、世界史構成にも影響を与えてきたことはこれまでの連載で見たとおりだ。
戦前・戦中の回教研究は、アジア主義や対外政策と結びつき、1938年には大日本回教協会が設立された。1973年の石油危機以後には、イスラーム世界が原油の供給地域として語られるようになる。1991年の湾岸危機では、そこへイスラーム原理主義という一枚岩的な像も加わった。関心は高まっても、民族、宗派、地域、政治思想の差異は見えにくくなる。
山内が抗したのは、欧米のオリエンタリズムだけではない。日本がイスラームを自国の必要に合わせて単純化する態度も批判の対象だった。彼の研究の出発点となったスルタンガリエフは、ムスリムであり、民族革命家であり、共産主義者でもあった。その存在はイスラーム、民族、社会主義を別々の箱に分ける理解を拒む。山内が内部の複数性をノイズとして残そうとした理由も、ここにある。
だからこそ山内は、欧米のオリエンタリズムを指摘するだけでは終わらせない。湾岸戦争の教訓について、山内はこうも述べている。問われているのは、中東世界が普遍につながる価値を西側に向けて自ら発信できるかどうかだ、と(『現代思想』上掲号における対談、245–246頁)。
山内が問うたのは、イスラーム世界を西側が正しく理解できるかという問題だけではなかった。中東世界の側もまた、内部の差異を保ちながら、他の地域へ通じる価値をいかに発信できるか。その相互性が必要だと考えたのである。文明間の関係は、一方が他方を観察し分類するだけでは成り立たない。互いに自らの位置を自覚し、相手との関係のなかで自己像を組み替える作業を要する。
山内の議論は民族の回帰から始まったが、民族の自己主張をそのまま歴史の終着点とはしなかった。民族の差異を国家や文明の内部に残しつつ、それらを越えて対話できる関係をどう構想するか。この問いに進むとき、山内の歴史認識は文明論へ接近する。
なお、こうした問題意識は、冷戦後に初めて生まれたものではない。国家を唯一の歴史単位とせず、複数の文明を比較し、その接触、移転、共存から世界史を組み直そうとする試みは、すでに1980年代から進められていた。山内が民族と文明という二つの尺度を往復したのに対し、比較文明論は文明相互の関係を世界史の構成原理として正面から掲げたのである。
山内自身は世界史の通史を著すことはなかったが、同様の問題意識に基づく世界史構成は、1990年代に他の論者によって試みられることになる。
たとえば『文明としてのイエ社会』の著者の一人である村上泰亮は『文明の多系史観—世界史再解釈の試み』(中央公論新社、1998年)で、西欧一元の発展段階論に多系の歴史像を対置した。

近代以前の生態系・ネットワーク・コスモロジーにもとづく世界の調和を展望する高谷好一(1934~2016)の『〈世界単位〉から世界を見る』(京都大学学術出版会、1996年)・『多文明世界の構造』(中央公論新社、1997年)も、同種の問題圏に属するだろう。


では、民族へ分かれていく世界と、国境を越えて結ばれる世界を、世界史はどう描こうとしたのだろうか。
ネットワークへの注目と「ヨコ」重視の世界史構成
1990年代において見逃せないのはグローバル化への動きだ。
国境が意味を失い、世界が一つにつながるという、やや楽観的で観念的な国際化の感覚が広がった。背景には日本の国力の相対的な低下もある。そして90年代後半には、インターネットが加わる。ネットワーク化が現実のものになっていくこの局面を、世界史の書き手たちも映しはじめた。
たとえば世界史を「ネットワーク」の成立・再編・拡大という軸で再構成し、エピソードや教科書に沿った叙述が主流であった世界史一般書に新風をもたらした宮崎正勝(1942年〜)がいることはすでに述べた。


宮崎は1998年版学習指導要領の作成にも参加した。もちろん最終的な構成は複数の執筆者による合議の産物であり、宮崎個人の意向だけが反映されたわけではない。
しかし、その過程で提示された構成には、彼の問題意識が色濃く反映していた。すなわち、世界史Aでは地域ごとの特質と横の交流を大づかみにとらえさせ、世界史Bでは歴史の大きな構造的変化をとらえるという二分法である。
この設計は、従来の国別通史・文化圏史から脱し、世界史を「ネットワークの拡大と再編」という視点で組みなおそうとする宮崎の構想と響き合っていた。1998年版「世界史B」は、世界の一体化の起点を16世紀まで引き下げている。文化圏ごとのタテの通史を積み上げるのではなく、地域と地域が横に結びついていく過程を世界史の軸に据えた。教科書の構成そのものが、ネットワーク史観に寄っていったのである。
この改訂は、世界史の構成そのものを平板にする方向をもっていた。1998年版学習指導要領「世界史B」は、世界の一体化の起点を16世紀まで引き下げている。文化圏ごとのタテの通史を積み上げるのではなく、地域と地域が横に結びついていく過程を世界史の軸に据えたのである。


すでに岡田英弘が『世界史の誕生 —— モンゴルの発展と伝統』(ちくまライブラリー、1992年)で、統一的な「世界史」はモンゴル帝国がユーラシアを一つに結んだときに生まれたのであり、それ以前には地中海と中国という二つの別個の歴史があっただけだ、と説いたことはすでに述べた。
また、16世紀を「世界の一体化」の始期にとる世界史構成についても、ローマ史家・世界史教育者の土井正興らによる学習参考書『新講世界史』(1976年)の例があったこともすでにふれた。

また、「ヨコ志向」をとる教科書には先駆がある。すでに学習指導要領が「文化圏」別のタテ割りを掲げていた時代に、これにあらがって地域間のヨコのつながりを大胆に打ち出した、帝国書院『基範世界史』(帝国書院、1988年)だ。

採択数はごくわずかだったが、地域を細かく区分することを避けるその方向は、結果として次期指導要領を先取りするものだった。
加えてさらにさかのぼれば、予備校業界(正確に言えばその前職は高校教員) において、「ヨコの世界史の重要性を実践し続けてきた武井正教(1922〜2016)の存在も見過ごすわけにはいかない。
武井の世界史構成の特質は、文化圏ごとの個別叙述を、全地域に共通する発展段階の時間軸へと組みかえた点にある。武井は現行の文化圏学習を、ヨーロッパは発展段階で、アジアは王朝変遷で捉えるなど、圏ごとに視点がばらつき、同時相対的な理解が散漫になると批判した。これに代えて、地区統一・地域統一・広域統一・文化圏・世界史的世界・国際世界という、政治的経済的なまとまりの規模が拡大していく過程を、世界史を貫く軸に据える。そのうえで250万年前、3000BC、6C末、AD6C末、15C後半、20C初という共通の転換点で全世界を6期に区切り、各期をさらに中小の断層で段階に分けた。いわゆる6期26段階の構想である。各段階のなかでは、ヨーロッパも中国もインドも、同一の時間軸の上に並べ、武井の口癖で言えば「オツムに地図を描き」、同時相対的に把握する。

武井は西欧中心主義、マルクス主義的な見方を強く排除し、各地の文化圏の特質に応じた文化=思想=芸術(武井のテキストでは赤色で表記される)の形成と、それにともなう政治・社会の変転を重視する。だが、全地域に共通する比較尺度として取り上げ、各地域の「特質」(武井が好む語)は、「経済」(青色で表記される)の変転によって変容していくものとされる。とはいえ武井は「三大文化圏」を世界史構成上の概念として完全にしりぞけるわけではなかった。この点で構造的理解を掲げた武井の世界史構成は、経済を軸とする発展段階論と文化圏論の折衷であったともいえよう(武井正教「世界史再構成の試論——構造的理解へのアプローチ」、『総合歴史教育』33、総合歴史教育研究会、1997年、p.9-35 (国立国会図書館デジタルコレクション)。なお、90年代前半で代ゼミの世界史講師は世代を交代し、とりわけ佐藤幸夫が頭ひとつ抜けたかたちとなる(佐藤の特徴は、歴史のドラマを「権力者」の欲やイデオロギーの悪と、そこに巻き込まれる民衆の思いに引きつけ、明快で緻密な板書とともにストーリーとして劇場的に語ってみせたところにある。世界史と旅行を関連付けた先駆者でもある)。


なお、1990年代に戻ると、大学受験参考書としてはじめて同時代的なヨコの視点をテーマに据えたものに、東進ハイスクール講師の斎藤整『ヨコから見る世界史』(旧版=1999年の2006年改訂版、学研)がある。以後、版を重ねるロングセラーとなっている。

大航海時代への関心
1990年代初頭には大航海時代への関心も高まった。コロンブスの到達から500年にあたる節目であり、岩波書店のシリーズ「大航海時代叢書」もこのころ完結している。
戦後50年をはさんで、植民地主義への批判という形をとった世界史の組みかえも数多く行われた。
その一つに三木亘『世界史の第二ラウンドは可能か――イスラム世界の視点から』(平凡社、1998年)がある。
歴史学者・中東学者三木亘(1925〜2016)は兵庫県に生まれ、東京大学文学部西洋史学科を卒業。都立深川高校、都立大学附属高校などで歴史を教えたのち、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授を経て、慶應義塾大学文学部教授を務め、1991年に定年退職、名誉教授となった。専門は中東の歴史生態学・世界史学などで、地中海世界とイスラムの接触史を論じた『地中海世界のイスラム――ヨーロッパとの出会い』(筑摩叢書、1984年)などの著作がある。
シリーズ「これからの世界史」の一冊で、「野蛮から文明へ」という近代の図式を逆さにし、「文明から野蛮へ」という視点から世界史を組みなおす。三木は文明史を三つの時間の次元で素描する。長期の次元では、農耕・牧畜の生活様式が採用されて以後を文明期とする。中期の次元では、産業革命から1998年までをとり、その主役を近代西欧文明とみなして、この時代を「野蛮」の全面的な発生期と位置づける。松井孝典(1946〜)の宇宙史(地球史・人類史)の視点を受け、人類史を地球システムのなかに生まれた人間圏としてとらえる点も特徴だ。
地理の区分では、低緯度の豊かな東洋・南洋と、高緯度の貧しい西欧を対比させる。東洋・南洋には、中国やインドのような巨大な「島」のそばに、日本・朝鮮・インドシナ・インドネシアなどの中規模の「島」が位置し、中心性の高い官僚制型の文明が生まれた。これに対して西欧では、広い海域に大小の島々が散らばり、移動性の高いネットワーク型の文明が形成された、とする。三木によれば、西アジア・北アフリカを地中海・ヨーロッパと一つの場にまとめる見方は反論をまねくだろうが、両者のあいだに区別ではなく差別の線を引くのは、19世紀のヨーロッパ人がオリエントやイスラムへの劣等意識のうえに発明したものにすぎず、それを18世紀以前の世界史に当てはめるのは誤りだという(31頁)。
生態条件に恵まれた地域で文明は水平に広がり、世界宗教や普遍語が各地の基層となって定着した。11世紀から13世紀のモンゴルの大征服にいたる変動は、それ以後の世界史に続く「野蛮」、すなわち価値観の異なる文明を一方的に押しつける動きの始まりでもあった。16世紀には、ヨーロッパを除く旧大陸の多くが相対的な安定を保つ一方、アメリカ大陸やアジア・アフリカの沿岸部の住民には不幸の時代となる。17世紀以降、西欧は軍事の力を暴力的に高めて覇権を築き、モノカルチャー経済による構造的な貧困化が始まる。その延長で、近代西欧文明は19世紀に世界制覇を遂げ、第一次世界大戦を招き、最終的に自己破産にいたる。。
つまるところ近代西欧文明とは、先行する低緯度の文明にあこがれた貧しい地域の人々が、遅れを取り戻そうとそのコピーを手がかりに先行文明を追い抜こうとした道であり、結局は人類の破滅にいたる行きどまりの道だった。
三木はこのように要約し、宇宙の規模で人類の文明史を描いた小松左京への共感も記している(同書、297〜298頁)。
民族の回帰を読む山内とは逆に、ここに並ぶ書き手たちは、世界史を中心のない横の連関として描こうとした。90年代の世界史の構成は、分裂と一体化という二つの方向に、同時に引かれていた。
「近代西欧文明なるものは、低緯度の先行文明にあこがれつづけた生態的に貧しい地域の人びとが、ようやく先行文明の数千年の蓄積を理解できるまでに成長し、おくれたもののあせりから蓄積のコピーを梃子に、先行文明を追い抜けるバイパスだと思う道をひたすら走ったところ、しょせんコピーはコピーでしかないので、気がついてみると、その道は人類破滅にいたる袋小路であった、というごく単純な物語です。これまでの世界史は、未開・文明・野蛮の展開の最後を担当したわけです。」とし、かつて「宇宙の片隅の地球」のスケールで人類の文明史を描いた小松左京への共感も寄せる(『世界史の第二ラウンドは可能か―イスラム世界の視点から』平凡社、1998年、297-298頁)。
小谷汪之(1942〜)も同じく1990年代に西洋中心主義批判の見地から世界史のとらえなおしを推し進めた歴史家の一人である。
その出発点は『マルクスとアジア』では、「世界史の基本法則」の根拠とされたマルクスの依拠史料が、いずれも西欧中心的に歪んでいることを明らかにした仕事にあった。「アジア的生産様式」論は、アジアを「進んだ」ヨーロッパの対極に置き、「後進的」な姿へと歪める。さらに『共同体と近代』『歴史の方法について』で西欧「近代」の意義を問いなおし、インド中世社会の「共同体」論を通して、その思想構造を相対化していった。西欧近代のレンズを通さずに描き出すと、そこには農民の私的権利があり、支配と隷属を含む階層的な共同体が見えてくる。こうした研究を背景に、小谷は「新しい世界史」を提唱した。東京大学出版会『新しい世界史』全12巻(1986年刊行開始)と、岩波書店『シリーズ世界史への問い』全10巻(1989年刊行開始)の編集委員に名を連ねている。
なお、1990年代にはこうした西洋中心主義批判のみならず、地域研究の進展、大航海時代に対する注目を一つの背景として、世界史構成上の東南アジア史の軽視についても問題としてとりあげられるようになっている。

(米澤光明/「高等学校「世界史」における東南アジア文化圏の取り扱い」、総合歴史教育研究会編『総合歴史教育』31、1995年、p.15-39)
また、各国史の寄せ集めを超えて一つの世界史を描こうとする動きは、アカデミズムの側でも活発であった。
以前ふれた西洋中心主義の問い直しやネットワーク史への関心と地続きの動きだが、より大がかりな試みとして、歴史学研究会編『講座世界史』全12巻(東京大学出版会、1995〜96年)があげられる。第1巻「世界史とは何か」に始まり、「近代世界への道」「民族と国家」「資本主義は人をどう変えてきたか」「強者の論理」を経て、二つの世界大戦から「第三世界の挑戦」、そして最終巻「わたくし達の時代」に至る全12巻は、15世紀の大航海時代以降、地域と地域が結び合っていく過程を軸に据え、「日本史」をもそのなかに組み込もうとする、複眼的な世界史の構成をとっていた。
「ヨコ」から見る世界史批判
ヨコ志向の高まりの一方で、文化圏学習そのものの立て直しを説く議論も、1990年代の末に現れる。原田智仁「文化圏学習の再生を求めて—世界史学習論の批判と創造」、全国社会科教育学会編『社会科研究』第50号、1999年、221〜230頁)である。
文化圏学習は、東アジア・西アジア・ヨーロッパといった文化圏を立て、それぞれの歴史を追う枠組みで、1960年版の学習指導要領に登場し、1970年版で世界史の骨格として確立した(→#22 「文化圏」学習の導入:1970年度学習指導要領の思惑)。1989年版でも、4単位の「世界史B」がこれを受け継いでいた。建前のうえでは、文化圏学習はなお世界史の柱だったのである。
だが原田の見立てでは、その中身は通史的・年代史的なもの、つまり王朝の交替を順に並べる事件史にとどまっていた。現に、1989年版「世界史B」の東アジアの内容項目は、1960年版のころからほとんど変わっていない。枠だけが残り、中身が古びたまま更新されない。原田は文化圏学習をこう診断し、このままでは早晩、自然消滅すると危機感を示す。
では、どう立て直すというのか。
ここで原田は「主題学習」という語を持ち出す。主題学習とは、地域の通史を頭から順になぞるのではなく、一つの主題(テーマ)を立て、それを軸に総合的に考えさせる学習をさす。原田の主張は明快で、しかもかなり強い。世界史学習は本来すべてが主題学習であり、文化圏学習もまた、主題学習として組み直されないかぎり再生の道はない、というのである。文化圏学習と主題学習は、系統的な学習と総合的な学習として互いを補い合う別々のものではなく、「主題としての文化圏学習」という一つのものだ、と原田は言う。ここで問題の立て方が変わっていることに注意したい。争点はもはや、世界史をタテ(地域ごとの通史)に切るかヨコ(地域間の交流)に切るか、ではない。文化圏を、なぞるだけの通史として扱うか、それとも一つの主題のもとに構造として分析するか、である。
その構造分析の手がかりに、原田はアナール派の地方誌研究(ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュ、マルク・ブロック)や、東南アジア海域史のフロンティア論、ベネディクト・アンダーソンの文化主義を引く。抽象的に聞こえるが、やろうとしていることは具体的だ。一つの文化圏を、風土(自然環境)、民族、生活(生業)、制度・伝統・社会構造、文化という要素の重なりとしてとらえ、それらが長い時間をかけてどう結びつき、その地域を形づくってきたかを分析する。原田自身の例でいえば、南アジアならカースト制度を主題に据える。カーストという一つの制度を、南アジアの風土とアーリヤ人の移動がどう生み出し、それが数千年にわたって社会をどう組み立て、いまなお何を意味しているのかを追う。これは、グプタ朝からムガル朝へと王朝を並べるタテの通史でもなければ、南アジアを交易ネットワークの結節点として横に置くヨコの叙述でもない。その文化圏を成り立たせている仕組みを一つ取り出し、深く掘り下げるやり方である。東アジアなら漢字と儒教、というように。しかも原田はこれを教材の並べ方の問題にとどめない。よその文化を自分たちの物差しで裁かず、その内側の論理に即して理解し、その理解を通して、学ぶ側が自分自身の生き方を問い直す。文化圏学習をそこまで届かせようとするのである。
この議論に、教科書の現実を突き合わせるのが、同じ第50号に並ぶ有田嘉伸「世界史B教科書における文化圏学習の取り扱いについて」(231〜240頁)である。有田が分析したのは、平成7年に発行された世界史B教科書18種、すなわち先の1989年版学習指導要領にもとづく教科書である。各文化圏がどの章に、どんな順序で置かれ、他地域と続けて扱われているか、それとも切り離して扱われているかを、有田は一つずつ図表に起こした。

浮かび上がるのは二つの偏りである。一つは、文化圏をタテに独立させて記述する教科書と、地域どうしを横につないで記述する教科書とに、構成が割れていること。もう一つは、ヨーロッパだけが中世から近代を細かく章立てして連続的に手厚く扱われる一方、他地域の記述は薄く、章の立て方も不均等なことである。建前としては文化圏学習を継承しているはずのB教科書が、実態としてはヨーロッパ中心のまま、扱いもばらついている。有田はそう突きとめた。原田が理論の側から文化圏学習の空洞化を説いたとすれば、有田は教科書分析の側から、その空洞化とヨーロッパ偏重を裏づけたことになる。
二人の議論を重ねあわせてみよう。
ネットワーク史観の掲げるヨコの一体化は、一見すると西洋中心主義への対抗でありながら、非ヨーロッパの文化圏をかえって不利な位置に置いた。枠組みとしては通史のまま空洞化させ、記述としては薄いまま放置したからである。原田と有田がともに立つのは、この事態への応答としての世界史構想だといえる。
彼らが求めたのは、失われたタテの通史に戻ることではない。かといって、地域の輪郭を溶かして交流の流れに解消するヨコに乗ることでもない。〈タテかヨコか〉という問いの立て方そのものを離れ、一つの文化圏を、風土・民族・生活・制度・文化が長い時間をかけて編み上げてきた構造としてとらえ、それを主題として分析する。どの地域についても同じ深さで、しかも現在の暮らしや文化とつなげて問う。原田が目ざしたのは、タテとヨコの二者択一を越えて、文化圏を分析の単位として組み立て直すことだったのである。
地球という単位―人間中心の世界史から環境史へ
このように1990年代の世界史は二つの方向へ引かれていた。民族や地域の違いへ分かれていく方向と、交易やネットワークによって世界を一つに結ぶ方向である。タテかヨコかという二択だけでは、地域固有の構造を十分に描けないという批判も生まれた。
国家や文化圏よりも大きな単位で歴史を描くなら、何を単位にすればよいのか。
そこで浮上したのが地球を単位とする世界史だった。
そこで問われたのは、地域と地域がどう結ばれたかだけではない。人間の活動が土壌、森林、海洋、気候、生態系とどのような関係を結び、その関係が歴史の進路をどう制約してきたかだった。
ただ、世界史の主役が人間から自然へ単純に交替したわけではない。人間と自然との関係そのものが、歴史を動かす軸として前面に出てきたのである。
その入口にも、湾岸戦争があった。
エコロジストの多くは、この戦争[注:湾岸戦争]に反対しなかった。それならば、彼らはいったい何を守ろうとしていたのか。地球環境という言葉で、彼らはひそかに惑星的規模で同一化の運動をおしすすめている、世界システムの用語について、語っていたのではないか。原油まみれになった海鳥の悲劇的な映像によっても、この点についての、疑問は消えない。
中沢が問うたのは、環境保護の必要性そのものではない。地球環境という語がもつ政治的な力である。この語は国境を越える問題を可視化する一方、異なる土地と生き物と人間を、惑星規模の一つの管理対象へまとめる。戦争の責任、石油をめぐる利害、地域ごとの被害は、地球という大きな主語のもとで見えにくくなることがある。国家を越える視野が、そのまま国家や世界システムへの批判になるとは限らない。中沢の違和はそこにあった。
翌1992年には、この緊張が二つの出来事として現れた。同年12月10日、グアテマラのマヤ系キチェ出身のリゴベルタ・メンチュウ(当時33歳)がノーベル平和賞を受けた。受賞理由は、先住民の権利を基礎とする社会正義と民族文化間の和解への取り組みである。コロンブスのアメリカ到達から500年を迎えた年に、征服され、語られる客体とされてきた側の人物が、国際社会の前で自ら語る主体となった。
その半年前の6月3日から14日には、リオデジャネイロで国連環境開発会議、いわゆる地球サミットが開かれた。環境を世界的な問題として扱った最初の会議は1972年のストックホルム会議である。リオ会議の新しさは、環境保護を開発から切り離さず、持続可能な開発という枠組みに組み込んだ点にあった。アジェンダ21が採択され、気候変動枠組条約と生物多様性条約が署名に開かれた。女性、若者、先住民、NGO、地方自治体など九つの集団も、持続可能な開発に参加する主要集団として位置づけられた。惑星を一つの単位として扱う制度と、これまで周辺へ置かれてきた人々の参加とが、同じ場所で形を与えられたのである。
「地球環境」をもとに世界史を編む著作も、その前年に刊行された。
クライブ・ポンティング『緑の世界史』である。原著は1991年、日本語版は1994年に刊行された。ポンティングは政治家、王朝、戦争を中心に据える世界史から離れ、人間社会と資源、土地、森林、人口、生態系との関係を軸に歴史を組み直した。文明は自然環境の外側に築かれるものではない。環境から資源を取り出し、その改変によって存続しながら、しばしば自らの基盤を損なってきた社会として描かれる。冒頭に置かれるのもヨーロッパではなく、森林を失い社会の存続が困難になったイースター島である。
同じ方向を先駆的に示していたのが、アルフレッド・クロスビーのEcological Imperialismである。原著は1986年、日本語版『ヨーロッパ帝国主義の謎』は1998年に刊行された。クロスビーはヨーロッパの海外膨張を、武器や政治制度だけでなく、病原菌、家畜、作物、雑草をともなう生態学的拡大として捉えた。ポンティングが諸文明と自然環境との関係を人類史全体へ広げたのに対し、クロスビーはヨーロッパによる植民と生物移動の仕組みを詳しく示した。二つの著作は射程を異にしながら、自然を歴史の背景から説明要因へ移した点で重なっていた。
『緑の世界史』目次
上巻
1 イースター島の教訓 7
ヨーロッパの来訪―謎の島―ポリネシア人の定住―闘争と没落―解かれた謎
2 歴史の謎 19
さまざまな環境要因―人類史を変えるもの
3 人類史の九九パーセント 35
狩猟採集民の暮らし―居住地域の拡大―生活技術の多様化―環境への影響
4 最初の大転換 65
農業へのゆるやかな転換―三つの中心地、南西アジア・中国・中央アメリカ―農業の成立と社会的、政治的変化―古代文明の成立―文化・科学との結びつき
5 破壊と生存 117
農業が招いた環境破壊―人工的な環境の創造―シュメール・インダス文明の自己崩壊―地中海世界の衰退―マヤ文明の興亡―エジプトの成功
6 長い戦い 147
世界人口と食糧―中国・ヨーロッパの歴史と農業―気候が変える世界史―消えない飢饉の影―作物・家畜の伝播と交流―ヨーロッパ流の解決
7 ヨーロッパ植民地の拡大 193
ヨーロッパ内部の植民と環境の改変―世界に進出したヨーロッパ―先住民と土着文化への影響
8 思想の変遷 231
古代ユダヤ・キリスト教とヨーロッパ的世界観―自然界と人間の関係―進歩の思想―異なる伝統―古典経済学とマルクス経済学―成長の追求
9 自然の蹂躙 261
初期の影響―野生種の絶滅―外来種の導入―開拓史の再検討―保護の概念10 第三世界の成立 313
ヨーロッパの植民地支配―奴隷貿易と強制労働―世界経済圏の形成―プランテーションの発達―伝統農業の崩壊―森林資源と鉱物資源の開発
下巻
11 死の変遷 3
伝染病の原因・蔓延・拡大―ペストの猛威―病気の拡大を促すもの―文明病の発生
12 人口圧力 27
人口爆発のさまざまな姿―農地の拡大―農業技術の変化―食品工業の勃興―緑の革命―世界の食糧問題―農業の功罪
13 第二の大転換 69
初期のエネルギー源―第一次エネルギー危機―化石燃料への転換―エネルギー源の多様化と消費の増大
14 都市の台頭 109
前工業化段階の都市―都市の成長―郊外の発達と都市交通の役割―大都市圏・巨大都市―第三世界の都市―都市化と環境問題
15 豊かな社会の創造 139
農業社会の貧困―工業化の影響―流通と消費の発達―自動車と観光旅行―豊かさの問題―世界の富の分配―第三世界の問題
16 世界の汚染 185
初期の都市汚染―公衆衛生の問題―工業化が引き起こしたもの―放射能汚染―交通の問題―複合汚染―フロンガスとオゾン層破壊―地球温暖化
17 過去からの遺産 257
人類史の生態学的理解―人間社会の安定性と持続性―過去が教えるもの
ここで時間軸を補っておこう。
高度成長期の日本で公害が問題となったとき、水俣病や四日市ぜんそくは、企業、地域住民、自治体、国家の責任をめぐる問題として争われた。1980年代になると、酸性雨、オゾン層の破壊、地球温暖化など、原因と被害が国境を越える問題が地球環境問題としてまとめられていく。この枠組みは、環境破壊を資本主義だけに固有の現象とみなす理解も崩した。ソ連と東欧の社会主義体制もまた、大気汚染、水質汚濁、森林破壊、放射能汚染を引き起こしていた。冷戦の対抗馬たるソ連もまた、都留重人が指摘したように環境破壊と無縁ではなかった(M.I.ゴールドマン『ソ連における環境汚染 : 進歩が何を与えたか』岩波書店、1973年。前述の山内昌之による『ソ連・中東の民族問題 : 新しいナショナリズムの時代』日本経済新聞社、1991年、p.244も参照)。資本主義か社会主義かという冷戦の対立軸では、環境破壊の全体を説明できなかったのである。
ポンティングはヨーロッパの植民地拡大を、次のように記している。
ヨーロッパの拡大は、帝国の領土の拡張とともに不運な民族が「文明化」を押しつけられた過程であると見ることができる。また環境の視点からすれば、まさに全世界に破壊の波が広がってゆく過程でもあった。ヨーロッパ人が入植した後の北アメリカは、この典型である。開拓の最前線で先住民はその影響にさらされ、ヨーロッパ人の商人や猟師の活動とともに、ヨーロッパ人の支配に組み込まれていった。先住民は入植者に土地を奪われ、さらに西へと追い立てられた。こうした迫害は延々と続き、かつては繁栄していた民族はついにわずかな末裔を残すだけとなってしまった。
ここで描かれる環境破壊は、あくまでヨーロッパの拡大と一体のものだ。加害者は西洋であり、被害者は土地を追われる先住民、すなわち非西洋の側にある。植民地時代を遡って見るかぎり、この構図は間違っていない。
他方で、地球規模の環境史には別の危うさもある。ポンティングの著作は西洋だけを加害者とするものではなく、イースター島、古代メソポタミア、エジプトなど、多くの社会に資源利用と環境悪化の反復を見いだしている。そこで主語となるのは、しばしば文明や人類である。主語を人類まで広げると、誰が多くの資源を消費したのか、誰が利益を得たのか、誰が被害を引き受けたのかという差があいまいになる。植民地支配を行った国家と土地を奪われた先住民、化石燃料を大量に消費する社会とその影響を受ける社会が、同じ人類としてまとめられかねない。
「地球」をテーマとする世界史は、世界史が人間だけの歴史ではないという認識の拡張をもたらした。その一方で、惑星規模の同一化は、歴史的な責任や権力の差を覆い隠すことがある。環境史が世界史へ加えたのは自然という新しい主役だけではない。地球全体を語りながら、地域と人間の差異をどう残すのかという、さらに難しい問題だった。
自然環境は歴史の背景ではなく、文明の成立と崩壊を左右する要因となった。その一方、地球や人類を主語にすると、資源を多く消費した側と被害を受けた側の違いが見えにくくなる。環境史の新しさと危うさは、同じ場所にあったのだ。
環境史への注目は、自然をめぐる政治的な語りにもつながった。アメリカのウィルダネス論争では、手つかずに見える自然も先住民による多様な土地利用の影響を受けてきたこと、原生自然という観念がその営みを見えにくくしてきたことが争点となった。GFB氏の整理によれば、日本の里山論はこれとは別に、1970年代以来の身近な自然を守る運動や生態学的研究を背景として、1990年代に広がっていった。そこには人の営みと自然の関係を捉え直す意義があった一方、先述の通り、安田喜憲の縄文・森の文明論のように、自然との共生を日本文明の固有性へ結びつける方向も現れた(→#47 「縄文」を語る世界史 :安田喜憲の環境考古学。GFB「アメリカ先住民の伝統的な営みをめぐる議論の整理――『変貌する大地』から『ウィルダネス論争』、セトラー・コロニアリズムまで」note、2025年1月21日)。環境史への関心は、先住民を排除し不可視化してきた自然保護の枠組みを批判する一方、別の場面では国民的な自己像を支える語りにもなりえたのである。
教科書に現れた環境史的世界史
環境を世界史の構成原理に取り込もうとする試みは、1990年代の教科書にも現れた。早い例が、尾形勇ほか『世界史B』(尾方勇、後藤明、桜井由躬雄、福井憲彦、山本秀行、西浜吉晴、宮崎正勝、1993年)である。この教科書は本文に入る前の約20頁を使い、文化、都市、文明とは何かを説明したうえで、熱帯、乾燥帯、その周辺へと視野を移しながら、世界史全体の見取図を示そうとした。
ここで重視されたのは、王朝や国家を年代順に並べることではない。気候、生業、移動、都市の成立を手がかりに、地域ごとの文化がいかなる自然条件のもとで形成されたかを描くことだった。乾燥地帯と、その外側に位置する五つの周辺地域を配置することで、文明の成立を生態的な地域構造として示そうとしたのである。

「5つの周辺」を配置することで、地域ごとの文化の成立と発展を生態的に描き出すことを目指したわけである。
東京書籍『世界史B』(尾方勇、後藤明、桜井由躬雄、福井憲彦、山本秀行、西浜吉晴、宮崎正勝、1993年)はスゴい。文化、都市、文明の定義に始まり、熱帯→乾燥帯→その周辺を順にみながら、世界史の見取図をたった20頁で試みる。山川にはできなかった海域も視野に入れた環境史的叙述は東書ならでは! pic.twitter.com/aHNPK2TVuP
— みんなの世界史 (@minnanosekaishi) January 4, 2025
もっとも、この試みは教科書冒頭の総論に置かれていたもので、本論の全体が環境史によって再構成されたわけではなく、地域別の通史や政治史的な叙述も残っている。それでも、最初の文明や王朝から叙述を始めず、文化、都市、文明の成立条件を先に問うた意味は小さくない。自然環境を歴史の舞台として置くのではなく、世界史を成り立たせる条件として示したからである。
環境史的な視点を教科書本文へより広く取り込んだ例として、川北稔ほか『新編高等世界史B』(帝国書院、1999年)がある。著作者には環境考古学を提唱してきた安田喜憲も加わっていた。気候、植生、農耕、生態条件と文明形成との関係を本文の各所に配置し、政治的統合や交易の展開だけでは説明できない長期的変化を示そうとした教科書である。同書が1999年に刊行され、安田が著作者に含まれていたことは書誌・業績資料から確認できる。
この帝国書院版も、世界史全体を環境史へ置き換えたものではない。王朝、国家、宗教、交易、戦争を軸とする従来の叙述は維持され、環境史的な説明が一貫した単一の原理として貫かれているわけでもなかった。画期は別のところにある。自然環境に関する記述を巻頭の見取図や囲み記事へ閉じ込めず、文明の成立と変化を説明する一つの要因として、本文のなかへ繰り返し入り込ませた点である。

東京書籍版では、自然環境は世界史全体を見渡すための地図として現れた。帝国書院版では、気候や生態系が個々の歴史過程へ作用する要因として現れた。前者が環境にもとづく世界の区分を示したとすれば、後者は環境と社会との関係を歴史叙述の内部へ移したことになる。環境史は一度に教科書の中心へ入ったのではない。まず冒頭の世界像を変え、次に本文の説明を少しずつ変えていったのである。
社会主義を軸とする世界史構成の維持
ここまで、さまざまな形で従来の世界史構成をかえようという書き手をみてきた。だが、まだまだ、社会主義の歴史を軸にすえ、進歩という大きな物語を最後まで保とうとした書き手もいる。
歴史学者浜林正夫(1925〜2018)による『民主主義の世界史』(1993年)は、副題を「『殺しあい』から『話しあい』へ」という。人類は殺し合いながらも、しだいに話し合いと人権の方向へ進んできた、という一本道の見通しを掲げた。ただし素朴な進歩論ではない。人権を口実にした干渉については、天安門事件後の中国にも、ソマリアへ出兵したアメリカにも、同じ基準で批判を向ける。普遍主義をとりながら覇権には与しない、芯の通った立ち位置である。それでも物語の幹は、イギリス革命やホッブズ、つまりヨーロッパに置かれている。
その世界史構成は、もう一冊の著作によりはっきり出ている。浜林正夫『世界史再入門』だ。
地歴社から1991年に出て、十数年後の2008年に講談社学術文庫へ収められた。
本書の軸は明快である。
世界史を動かす力は生産力であり、その上に自由・平等、すなわち民主主義の伸長が重なっていく。原始から文明の成立、古代帝国、封建制、近代世界の成立、資本主義の時代をへて現代へと、生産力の発展が一本の線で貫かれる。近代の章では、市民社会と資本主義を生んだヨーロッパと、その支配と抑圧を受けたヨーロッパ以外とが対比され、そこにマルクスの社会主義が位置づけられる。これは前に見た、マルクス主義の生産様式史観そのものである。
問題は最終章だ。初版は「現代の世界」を、大資本の利潤追求をゆるす資本主義と、無秩序な生産第一主義に陥った社会主義諸国との対立として描いた。どちらにも問題はあるが、生産力を抑えてはならず、環境保護よりも人類共通の利益のために増大させるべきだ、と説く。生産力を歴史の主役とする立場が、最後まで保たれている。
ところが、この本が世に出た直後に、その社会主義諸国の一方の極であるソ連が崩壊する。1991年という刊行年は、構成が現実に追い越された瞬間と重なっていた。
2008年の新版で、浜林は1章を書き足す。「21世紀はどういう世紀か」と題された第8章である。そこでは、地域統合の先にある連帯への期待、国際紛争や地球環境問題、国連改革といった課題が並ぶ。だが注意したいのは、生産力と民主主義という基本の軸そのものは手をつけられていないことだ。ソ連の崩壊は、世界史構成の方法論そのものには影響は与えていない。
代わりに、現存した社会主義はだめだったのであって、社会主義そのものが否定されたわけではない、という論理(これは日本共産党の掲げる公式的な説明である。たとえば『前衛』1992年11月号不破哲三論文を参照))により、進歩の物語は護持された。

浜林はたとえば、ソ連崩壊前夜の1990年に刊行された共著『「東欧・ソ連の情勢をどうみるか』(学習の友社)において、ソ連を含めた世界史的な段階について次のように説明する——1917年のロシア革命は世界史を進歩させる社会主義国の誕生という側面をもっていたが、当のロシアは資本主義が発達せず民主主義も未成熟という後進国であり、その特殊な条件のもとで干渉戦争と内戦を耐えぬくなかで、1924年のレーニン死後にスターリンが官僚主義的な一党独裁体制をつくりあげてしまった。つまり東欧・ソ連で破綻したのは社会主義そのものではなく、大国主義・官僚主義・覇権主義というスターリン以来のゆがみであって、本格的な社会主義とは生産力の高い水準・民主主義の十分な発展・民族自決権の尊重という3条件をそなえたものでなければならず、ソ連・東欧はその条件をいまだ満たさぬ未成熟な段階にとどまっていたにすぎない。だからこそ東欧の激動は社会主義の終焉ではなく本来の社会主義をめざす試練であり、他方で資本主義もまた失業・貧困・環境破壊・多国籍企業の横暴といった深刻な矛盾をかかえている以上、勝利したとはいえず、いまこそ科学的社会主義の学説・運動・体制を学びなおすことが重要だ。
『世界史再入門』の巻末には、1991年4月に書かれた論文が収められている。浜林正夫「世界史像の再構成へむけて」だ。ここで浜林は、これまでの日本における世界史構成を整理しつつ、みずからの世界史構成をつぎのように再考している。
浜林はまず、戦後日本の世界史の書き方を3つの型に分ける。
第1は学習指導要領型、つまり教科書の世界史だ。中身は西洋史と中国史の並列で、それ以外の地域は付録あつかいになる。近代の西ヨーロッパを到達点とみる発想が根にある。浜林がここで突くのは課題意識の薄さだ。なぜ世界史を学ぶのかという問いに、受験のため、教養のため、としか答えられない。
第2は社会発展史型。歴史学研究会『世界史の基本法則』(1949年)が代表だ。地域で横に割るのではなく、古代・中世・近現代と縦に割り、人類社会を貫く法則性で世界史を組み立てる。課題意識は鮮明だ。社会の基本矛盾が階級闘争を生み、社会を変える。ただし弱点がある。発展段階論が結局は西ヨーロッパをモデルにしてしまう教条主義と、同時代の横のつながりをとらえる視点の弱さだ。明治維新をフランス革命のモデルではかろうとして、両者のあいだの100年近い時間差や国際環境の変化を取りこぼす、といった例があげられる。
第3は多元的世界史。上原専禄が提唱した。教科書のような出来あいの世界史ではなく、なぜ世界の全体を知りたいのかという問いを手放さない主体的な世界史である。上原は1950年代の状況のなかで「民族の独立」を軸に据えた。のちにヨーロッパ中心主義への批判と合流していく。だが浜林はここに危うさを見る。中心をすべて否定すれば、歴史観は個人の趣味に解体しかねない。多様性をたたえるだけでは、現状肯定の保守主義に近づく。民族の文化やアイデンティティの名のもとに、差別が温存される恐れもある。
では浜林はどう組み直すのか。3つの型はどれも、自由や人権や平等という民主主義の課題を世界史の中心に置いてこなかった。これが出発点だ。そこで浜林は、生産力の発展と民主主義の関係を軸に世界史を再構成しようとする。
日本にあてはめれば、課題は2つになる。1つは「西側の一員」であること、さらに先進国による「集団的帝国主義」の一員であることからの離脱だ。もう1つは、ソ連・東欧の激動を他山の石とした、日本国内の民主主義の立てなおしである。浜林は最後にこう言う。「日本人としてのアイデンティティ」よりも、まず人権を置く。そこではじめて民主主義は本物になる、と。
ただしこの論文は、再構成の方法を示すところで終わっている。
青木裕司の「参考書革命」
もう一人、河合塾の青木裕司(1953〜)も挙げておこう。
授業の録音を一語ずつ文字に起こした『世界史講義の実況中継』(語学春秋社、1990年)は、上・中・下の三巻として刊行され、版を重ねた(下巻は刊行から一年あまりで41刷に達している)。1985年から2024年までの長きにわたり、いわゆる「予備校文化」を象徴する河合塾の教壇に立っていた(小林哲夫『予備校盛衰史』NHK出版新書、2026年、p.231)。
企画が実際の授業カセットを書き起こそうというアイディアから始まったことに示されるように、「語り」のフォーマットは、もともと予備校のカセット教材やラジオ講座のなかで育ってきたものでもある。

語学春秋社の実況中継シリーズの成功は、講義調だけでなく生徒との対話調のフォーマットにも発展し、その後の学習参考書のみならず、一般書にも影響をあたえたものと思われる。そしてそれら一般書の書き手として2010年代以降増えていくこととなるのは、茂木誠、神野正史、村山秀太郎、宇山卓栄といった予備校講師(あるいは出身者)だ。
こうしたフォーマット面での新しさにもかかわらず、青木の世界史は内容的には、戦後進歩派とマルクス主義史観を足して割ったようなものだった。
冒頭の「講義を始めるにあたって」で、青木はヘーゲルの「世界史は自由の概念の展開にほかならない」と、マルクス・エンゲルスの「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」を並べて掲げ、生徒にこう予告する。
歴史を動かす「動因」におよその見当がついてきた、だがここでは言わない、現代まで一緒にたどりついたときに確かめよう、と。中身もその構えに沿っている。
たとえば絶対王政を説く箇所では、横軸に時間、縦軸に力をとったグラフを描き、没落していく封建諸侯と勃興するブルジョアジーの力がちょうど釣り合う一点に王権が立つ、という「階級均衡」のモデルを図示してみせる。

そして下巻の最後で、次のように世界史の構図を描いてみせる。
16世紀の大航海時代以来、形成されてきた「ヨーロッパ(そしてアメリカ)が3A地域(筆者注:アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)を支配する」という近現代史の基本構造が、まさしくぼくらが生きている今、変化しようとしているのです。そういう意味では、この500年の世界の歴史の総括が、今行われていると言えるわけです。
東ヨーロッパだってその点は同じで、皆さんご存知のように、「ベルリンの壁」崩壊を含む1989年の一連の東欧諸国における民主化運動の席巻とそれに伴う政治体制の激変によって、戦後40年間の総括をやってしまったのです。
(中略)
要するに、われわれの見ている眼前の情況というのは、数十年、数百年単位の文字通りの激動なのです。人間って、あんまり大きな波にのみこまれると、自分をどんな波が襲おうとしているのか分からなくなってしまうようですね。
なお、約20年後の2023年、青木はこの本を「世界史探究」向けに全面改訂したが、冒頭のヘーゲルとマルクスの引用は削られている(『世界史探究授業の実況中継1』語学春秋社、2023年、p.6)。
資本主義/社会主義の対立軸を超えて
崩壊を構成に組み込めず脇に置いた浜林とは逆に、生産力史観の枠そのものを内側から外していった書き手もいる。歴史教員の鳥山孟郎(1941〜)ある。
鳥山はもともと日本史の出身で、卒業論文は朝鮮植民地化のなかの京釜鉄道を扱った。1970年から世界史を教えはじめ、30代までは「歴史とは生産力と生産手段の矛盾で説明されるもの」という発展段階論を、そのまま授業の骨格にしていた。その枠にそれだけでは足りないと感じはじめるのが1980年前後、やがて1990年には「因果関係を説くことはやめよう」とまで書く。ソ連が消えた1992年は、この問い直しのただなかにあった。
その年、鳥山は「ソ連邦の崩壊は何を問いかけているか」と題した一文で、現代の世界を「社会主義か資本主義か」「米ソの対立」という構図で理解する見方そのものが崩れているのではないか、と問うた。授業で生徒から出るのは「どうしてアメリカとソ連は対立したのですか」という問いで、米ソ対立を理屈抜きの前提として受けとれる実感は、すでに失われている。鳥山が代わりに軸に据えたのは、イデオロギーではなく工業化だった。

彼は産業革命以後を、軽工業の第一次(18世紀末)、重化学工業の第二次(19世紀末)、マイクロエレクトロニクスの「軽薄短小」の第三次(20世紀末)に区分し、そのうえでソ連の計画経済を、資本主義の対立物としてではなく、第二次産業革命=重工業化に適合した工業化の一形態として捉えなおす。重化学工業の大量生産には適していたからこそ、ソ連型はアジア・アフリカの後発国にとって工業化のモデルにもなりえた。
社会主義対資本主義というイデオロギーの対立は、ここで工業化の段階差へと置きかえられる。ソ連の崩壊は、思想の敗北ではなく、産業構造の転換に乗りそこねた一国の脱落として描きなおされたのである。
参考文献に挙げてられているように、鳥山の主張からは村上泰亮(1931〜93)の影響がうかがえる。
村上によれば、産業文明の歴史は技術の変化を基準に3つの段階に区分できる。すなわち、18世紀の産業革命から始まる19世紀システム、1880年代から1970年代までの20世紀システム、そして1973年の石油危機に始まる21世紀システムである。生産性の向上は、新しい全体的パラダイムが古い枠組みを「突破」して登場するときに実現する。漸進的な通常型の技術革新だけでは、必ずしも生産性の向上には結びつかないという。

松岡正剛『情報の歴史』
最後に松岡正剛(1944〜2024)の『情報の歴史』(1990年)も、異色の世界史構成としてとりあげておきたい。
世界史をタテの筋ではなくヨコの広がりでとらえ、フラットに構成するという意味では、これも同じ潮流のなかにある。ただ松岡は、その方向を最も遠くまで押し進めた。歴史の主役を、民族でも国家でも人間でもなく、情報そのものに据えたのである。

国別のタテ割りをやめ、世界政治、経済、科学、思想、芸術の五つのトラックを東西にまたいで横並びにし、同じ一年の見開きに世界各地の出来事を配置したのである。歴史の主役は、民族でも国家でも人間でもなく、情報そのものになる。
松岡はのちにウェブ連載の「千夜千冊」(2000年〜2024年)で、第705夜にトインビー、第1024夜にシュペングラー、第1360夜にナヤン・チャンダ、第1361夜にダイアモンド、第1363夜にブローデル、第1364夜にウォーラーステインを取りあげている。
学校内世界史と学校外世界史
イデオロギーの軸が崩れたあと、世界史の書き手は新しい主役を探した。民族、交易のネットワーク、環境、情報。世界史を一国史の寄せ集めではなく、世界全体の構造として捉え直そうとする試みが相次いだ。教科書もまた、文化圏ごとの通史を並べる構成から、地域間の交流や世界の一体化を重視する構成へ動き始める。世界史の内容は、少なくとも理念のうえでは変わろうとしていた。
必修化と教室のズレ
1989年告示の学習指導要領によって、高校では世界史Aまたは世界史Bが必修となった。この制度がもたらした第一の帰結は、世界史に接する機会の全国化である。
1980年代以降、中学校の教科書では世界史的内容が順次削減されていた。高校で世界史を必修とすることで、中学校では日本史を中心に学び、高校で世界全体の歴史を補うという、一定の役割分担が成立した。津田拓郎とコンラート・フレンツェルは、この時期に中高の歴史カリキュラムへ一貫性が生まれたと評価している。また、日本の高校生が東アジアだけでなく、東南アジア、南アジア、西アジア、ヨーロッパ、第三世界を含む世界全体の歴史に触れられたことを、日本の教育課程がもつ強みとしている。
ただし、すべての高校生が同じ世界史を学んだわけではない。日本では進学校にも大学進学者の少ない学校にも、原則として同じ学習指導要領が適用される。その一方で、非進学校や世界史を入試で使わない生徒には世界史A、大学入試で世界史を使う生徒には世界史Bという事実上の棲み分けが可能になった(津田拓郎、コンラート・フレンツェル「日独の中等教育課程における歴史教育の現状と課題」、『史流』第48号、2021年、73頁、78–79頁、84頁)。
津田・コンラートが区別するように、科目設置の目的はさておき、生徒の置かれた環境を踏まえれば、世界史Aを近現代中心にコンパクトにまとめた科目、世界史Bを膨大な事項の暗記を求める科目としての性質を備えていた。ここから、非進学校あるいは「文系」日本史選択者もしくは「理系」向けの世界史Aには限られた授業時間で世界史をどう教えるかという課題が、入試向けの世界史Bには暗記負担を増し続ける圧力が生じたと考えられる。
このように見ると、いや、教育関係者であれば多様な実態を踏まえれば容易に想像のつくことではあるが、世界史必修化は共通の世界史像を全国の教室に成立させたわけではない。世界史への入口を全員に開く一方で、その内側では学校と進路に応じて異なる世界史教育が併存していた、と見るべきだろう。
また、とりわけ世界史Aにみられる「ヨコ」重視の内容構成への変化が、そのまま学校の授業を変えたわけではない。教科書が変われば、教室で教えられる内容も同時に変わると考えられがちであるが、実際には両者のあいだにはかなりの時間差がある。教科書の章立てが改まっても、教師の教科観、教材研究、授業の型、評価方法まで一挙に改まるわけではない。「実態」に合わせて、「教科書を飛ばす」「教えない」といったことは、ごくふつうにおこなわれていることだ。
たとえば教科書がヨコの連関を強めても、長く教え慣れたヨーロッパ史と中国史が授業の幹となり、東南アジア、アフリカ、中央アジアなどが短く扱われる。あるいは、教科書の順序は変えず、交流史的な記述を補足として加えるにとどまる、など。これは教員個人の怠慢だけで説明できる問題ではない。地域を横断して同時代を比較し、一つの主題から世界全体を組み立てるには、従来とは異なる教材研究と授業構成が必要なことだ。新しい世界史像を提示した教科書と、それを教室で担うための条件とのあいだには少なからぬ距離があった。
入試改革と暗記事項の膨張
その距離を縮めようとする努力が、大学入試の作問側になかったわけではない。1990年に始まった大学入試センター試験の世界史部会は、共通一次試験十年間の経験を踏まえ、新しい資料や史料を用いた問題を増やそうとしていた。その内側にいた遅塚忠躬(1932~2010)によれば、作問者たちが目指したのは、単に重要な史実を正確に知っているかを確認するだけではなく、同時代の諸事実の関係や、空間を越えた地域間の関係、長期的な歴史の推移を考えさせる「学問的」な問題であった。
第1回センター試験では、その試みとして、アーサー・ヤングのフランス旅行記を読ませる史料問題が出された。

史料中に現れる毛織物マニュファクチュアをコルベールの重商主義政策と結びつけ、1786年の英仏通商条約へのフランス業者の反発をイギリス産業革命と関連づけ、さらに英仏における農民の土地所有の違いを囲い込みの進展から説明させる問題である。遅塚は、史料に書かれた個別の事実を、同時代の別の事実や長期的な歴史変化のなかに位置づけることに、この問題の「学問的」な意味があったと説明している。作問者側は、共通一次試験が陥りがちだった雑学的なクイズや「重箱の隅」をつつく出題から脱しようとしていたのである。
だが、実際の設問を見ると、その意図は十分には実現しているとはいえない。コルベールの政策を問う問題は重商主義についての断片的知識でも解ける。英仏通商条約をめぐる問題も、イギリスで産業革命が進み、フランス工業がイギリス製品との競争を恐れたことを知っていれば正答できる。農民の土地所有に関する問題も、イギリスの囲い込みによって土地が地主へ集中したという知識から選べる。史料を丁寧に読み、そこから未知の事実を推論しなければ解けない問題ではなかった。史料は設問の背景を与えてはいるが、正答を導くために不可欠なパーツにはなっていない。
作問者は知識の単純な再生から、諸事実の関連を考えさせる問題へ移ろうとした。ところが受験生の側からみれば、依然として必要なのは既習知識と選択肢の消去であった。問題の外観は史料読解型へ変わっても、正答へ至る方法は従来の出題形式から実質的には大きく変わらなかった。
遅塚自身も、数十万人を対象とし、コンピューターによって一律に採点するマークシート方式のもとでは、問題の一部が「クイズ」に近づくことは避けにくいと認めている。ここにはセンター試験改革の一つの顛末がある。出題者は史料と歴史的関連を導入し、世界史問題を学問的なものへ変えようとした。しかし、一つの正答を選ばせる形式のなかでは、史料は知識問題を包む外枠になりやすかった。作問者の努力がなかったのではない。努力はあったが、試験形式がその効果を解法の段階で薄めてしまったのである(遅塚忠躬「出題ノート1(世界史)」大学入試センター総務企画部情報課編『Forum=大学入試フォーラム』第12号、1991年3月、58–68頁)。
しかも、その外側では私立大学入試の競争過熱も、そのズレをさらに拡大させた。
第二次ベビーブーム世代が受験期に達した1992年には、18歳人口と大学受験人口がともに頂点に達し、有力私立大学には十万人を超える志願者が集まった(代々木ゼミナール「大学入試の戦後史 第4回」『代ゼミJOURNAL』2018年12月20日、2026年7月1日閲覧)。センター試験が共通的・基礎的な知識の範囲で思考を問おうとしても、個々の私立大学は独自の問題を出す。受験指導の側は、どこかの大学で一度でも問われた用語を容易には捨てられない構造のただなかにあった。先にふれた青木の実況中継も、難関私立文系入試を意識して「パンチャタントラ」や「クリューガー電報事件」など、かなり細かな単語も取り扱っている。

大学入試での出題→教科書(・用語集・各種教材)への採録→用語集への採録→大学入試で教科書・用語集を参照した出題→教科書(・用語集・各種教材)への採録……という「用語のエコシステム」が構築されていったと考えられる。この『詳解世界史用語事典』は、1990年代の用語インフレの様子をよく伝える用語集の一つと言えよう(用語の後に付された数字は掲載教科書数を示している)。
世界史教科書そのものも、収録用語数は増加の一途をたどっていた。山川出版社の1994年版『詳説世界史』では、巻末索引の用語数が2985語に増えている(中村薫「世界史教科書における用語数増加の歴史的経過と今後への提言―歴史系用語精選問題と関連して」、『歴史教育史研究』第16号、2018年、28-54頁)。

これは以前述べた通り、前述の三木亘らのような西洋中心主義批判の見地から非ヨーロッパ地域を含む世界史を構成し直した成果でもあった。世界史教育の現場では、生徒の関心が「ヨーロッパ偏重」であり「第三世界」への関心が薄いことはかねてから問題視されてきた(→#30 文化圏の罠:世界史に「アフリカ」は入っているか?)。

世界史構成の中心ではなく「周縁」にあえてスポットライトをあて、覇権的な世界史を反転させる試みは、1990年代に入ってからもたとえば吉田悟郎が旺盛に提起しつづけている(→#13 現在の世界史教科書のルーツ?—上原専禄と吉田悟郎『日本国民の世界史』(2/2))。
脇に追いやられてしまった周縁を「知る」ことからはじめる。これは大切なことだ。ただ、これを教科書構成にあてはめようとした場合、何が起きるだろうか。覇権的な世界史構成の地域別比率を仮に「欧米5:中国3:その他2」として、周縁地域の比率を「欧米3:中国3:その他4」にできたとしよう。全体の用語数が変わらなければ何の問題もないわけであるが、そこを考慮せず、単純に「マイナーな地域の知識も扱おう」という発想からテコ入れすると、「欧米2500個:中国1500個:その他1000個」→「欧米2500個:中国1500個:その他2000個」というように、単語数は結果的にインフレしてしまうことになる。しかも、世界史全体の構成の中で「マイナー地域」がどのような位置付けをするべきかという議論が不在なまま、単にそれら地域の専門家を参画させて教科書をつくってしまえば、単に「その他」の地域が詳しくぶら下がっているだけの構成となってしまいかねない。
そこで「削る」発想が必要なのだが、そこには何らかの基準が要る。「教養」維持装置として世界史を見る立場をとってみても、西欧・中国が重きを置く者もいれば、世界遺産や文学・美術作品に重きを置く者もおり、かんたんに一致を見るものでもなかろう。上原専禄のように、日本との関わりのなかで世界史をどう「構成」するかという考え方もあろうが、日本とのつながりの有無は別とした構成を重視する向きもあろう。実際には世界史構成の再編の時代にあたる1990年代において、用語数と構成をからめた議論が前面に出ることはなかった。
大学入試は、そのようにして用語がインフレした教科書や、教科書に掲載されている用語をカウントした用語集を参考にして入試を作成することが多いため、大学入試にもそういった「マイナー地域」(たとえば東欧史、バルカン史、東南アジア史、アフリカ史、オセアニア史など)を出題する。これを単に言祝ぐ声もあったであろう。実際にセンター試験の問題評価・分析委員会報告書において「地域バランス」(=西洋中心主義的な偏りを避けること)は実現すべき理念であり続けている(とはいえ学習指導要領「細かな事象や高度な事項・事柄には深入りしないこと」とあるから、あまり踏み込んだ出題はできないから、単にキーワードを仕込んでおけば解けるレベルの出題となりやすいのが現実であったわけであるが)。
ただし、世界史が学校で敬遠されるようになった(「世界史離れ」)のは、必修化以後のことではない。1979年告示の学習指導要領では、「現代社会」のみが必修となり、世界史は日本史や地理などと並ぶ選択科目となった。
1980年代に入ると、大学入試での科目選択や、増え続ける学習内容への負担感を背景として、世界史の履修率は低下した。1986年には、高校生の4割近くが世界史を履修していないことが国会でも問題とされ、一部の高校では世界史そのものを教育課程に設けない「世界史離し」も指摘されていた。世界史は必修になったために嫌われたのではない。すでに進んでいた「世界史離れ」への対応として、必修化が選ばれたのである(みんなの世界史「『ニッポンの世界史』#40 世界史は、なぜ必修化されたのか?――世界史離れ・林健太郎・中曽根康弘」2025年4月5日;同「#41 世界史は、なぜ必修化されたのか?―必修化までの経緯」2025年4月13日;同「#42 世界史は、なぜ必修化されたのか?―必修化推進の論理」2025年4月26日)。
教室の外の世界史
これとは裏腹に、学校の外では世界史が別のかたちで広がっていた。1970年代の池田理代子『ベルサイユのばら』(集英社『週刊マーガレット』、1972〜1973年)を大きな契機として、少女漫画は国外の歴史を男性の英雄だけが活躍する物語から解放し、女性が歴史を読み、描き、その内部へ入っていくための場所をつくった(→#32 少女漫画がひろげた世界史の担い手:『ベルサイユのばら』を中心に)。異国や過去は単なる背景ではなく、日本社会の性別規範や日常的制約から離れて人物の生き方を構想する空間でもあった。先に論じたように、少女漫画は世界史を楽しむ読者を女性へ広げるとともに、架空の人物を実在の歴史へ入り込ませる方法を定着させたのである。
1990年代の漫画はこの成果を受け継ぎながら、世界史をさらに多くの地域、雑誌、読者層へ分散させた。川原泉『バビロンまで何マイル?』(白泉社、1991年)は現代人をルネサンス期のボルジア家へ送り、篠原千絵『天は赤い河のほとり』(小学館『少女コミック』、1995〜2002年)は『王家の紋章』以来の時間移動という形式をヒッタイト王国の宮廷政治、戦争、疫病、帝位継承へ接続した。現代の少女が古代世界をただ見物するのではなく、その知識と判断によって歴史の当事者になる構成である。
青年漫画でも、日本の史的な成り立ちに関心を向けていた安彦良和『虹色のトロツキー』(潮出版社『コミックトム』、1990〜1996年)がノモンハン事件前夜の満洲を日蒙混血の青年から描き、酒見賢一原作、久保田千太郎脚本、森秀樹作画『墨攻』(小学館『ビッグコミック』、1992年刊行開始)は秦の統一へ向かう中国を王や将軍ではなく墨家の防衛者から捉えた。 安彦良和『王道の狗』(講談社『ミスターマガジン』、1998年連載開始)は北海道、アイヌ、自由民権運動、朝鮮、清、日本の膨張を一つの物語に組み込み、村枝賢一『RED』(講談社『ヤングマガジンアッパーズ』、1998年連載開始)は西部開拓をフロンティアの西漸ではなく先住民虐殺と復讐の側から描いた。王欣太作画、李學仁原案『蒼天航路』(講談社『モーニング』、1994―2005年)は曹操という卓越した個人を中心に三国志を再構成した。横山光輝『三国志』(潮出版社)もテレビアニメや光栄の歴史シミュレーションゲームと結びつき、世代を越えて読み継がれている。 ここで起きていたのは、英雄中心の歴史から多声的な歴史への一方向の交代ではない。
なお、小説においても、塩野七生『ローマ人の物語』(新潮社、1992〜2006年)がローマの千年を一つの文明の興亡として語り始めている(→#36 世界史が語る国際政治や文明の衰亡:高坂正堯と塩野七生)。
このように、ローマ、曹操、チンギス・ハンのような大きな主体を求める欲望と、墨家、女性、混血者、先住民、植民地支配の境界に置かれた人々から歴史を見直す作品とが同じ市場に並んだ。1970年代の少女漫画が世界史の担い手を広げたのだとすれば、1990年代はその担い手が自分の関心に応じて地域、時代、人物、主題を選び取る段階であった。
曹操やローマ帝国のような大きな主体を軸に歴史を見通そうとする作品のみならず、女性、混血者、先住民、帝国の境界に置かれた人々から過去を描く作品が目立つのも特徴だ。
ゲームは別の仕方で世界史を開いた。シド・マイヤーの『シヴィライゼーション』が1991年に登場し、プレイヤーは一人の人物ではなく文明そのものを操作する。都市を建設し、技術を選び、資源を配分し、外交と戦争を進める。世界史は決められた順序を覚える対象ではなく、選択によって展開が変わる仕組みとなった。学問が構造として論じていた文明、技術、資源、国家間競争が、ゲームの規則へ置き換えられたのである。
小説や漫画は世界史を人間の物語として商品化し、ゲームは文明の構造を操作可能な体系として商品化した。そこでは、学校の試験で正解することとは異なる欲求が満たされていた。人物を知りたい。国家の盛衰を追いたい。自分の選択で歴史を変えてみたい。世界史は教室の外で、教養、物語、戦略、娯楽として、別の価値を与えられ始めた。
1990年代後半には、インターネットも世界史の受容を変え始めた。パソコン通信のフォーラムから個人サイト、レンタル掲示板へ。Windows 95の普及を画期として、歴史について語る場所は家庭のパソコンへ広がった。そこでは、戦争、兵器、国家、人物、民族をめぐる細かな知識が、学校や出版社を介さず交換された。内容の正確さには大きな差があり、各国を戯画化したジョークや、断片的な軍事知識も多かった。1990年代を通して旺盛に刊行を続けた桐生操も世界史エピソードの重要な供給源であっただろう。それでも、自分の関心に沿って歴史を探し、集め、語ることのできる場所が生まれた意味は大きい。
濱野智史のいう私的領域としての夜において、世界史は公的な教科から趣味の言語へ姿を変えた(濱野智史「情報化――日本社会は情報化の夢を見るか」、小熊英二編『平成史』河出書房新社、2012年、361―395頁)。1999年に開設された2ちゃんねるの軍事板などでは、体系的な世界史像よりも、短い逸話、固有名詞、兵器知識、国家への類型的なイメージが流通した。
そういったこともあって、学校教育では普及初期のインターネットに対しては、ある面で期待をしつつも警戒を隠さなかった。インターネットを『歴史地理教育』がはじめて特集したのは、1998年2月号である(歴史教育者協議会編『歴史地理教育』574号、歴史教育者協議会、1998年2月。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7939747、2026年7月10日参照)。この号で、京都のある中学校教員はつぎのように述べている。
……社会科の授業実践の関わり方を模索して、私が言えるのは、つぎのようなことです。
(1)インターネットは市民がそれを手にすれば、有効な運動の道具となりうる。それには、インターネットの危うさなど、克服すべき問題は多い。
(2)教師の教材研究の道具として、インターネットは非常に有用である。
(3)中学生に教育的な配慮なしにインターネット情報を無秩序に与えるのは問題である。
その多くはミリタリーオタクのうんちくや、各国を戯画化した国別ジョークといった、雑多で他愛のないものであった。だが、こうした「夜」の戯れの堆積のなかから、2000年代に入ると『ヘタリア』が立ちあらわれてくる。もっとも、それが本格化するのは2000年代の話であり、詳細は稿をあらためて検討することとしたい。
学校内で避けられる世界史、学校外で関心の高まる世界史。双方の距離は、2000年代に二つの現象となって表面化する。片方では、高校で世界史に触れた世代と出版社、予備校、娯楽産業が結びつき、世界史を題材とする刊行物やコンテンツが増えていく。もう片方では、必修であるはずの世界史が進路指導の都合から一部の高校で実際には教えられていなかった事実が露呈し、全国的な問題として教育界を揺るがすことになる。
そのあいだには、教科書では十分に扱えない歴史や、学校ではなかなか触れられない歴史へ向かう関心も育ちつつあったようにみえる。漫画や小説、ゲーム、インターネットを通じて個々の人物や地域に関心をもった読者は、授業で得た知識の先にある逸話や細部をさらに求めるようになる。のちに広がる、いわゆる「学校では教えない」「教科書には書かれていない」世界史への欲求も、こうした学校内外の距離を土壌の一つとしていたのかもしれない。
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