414.【1分間読了∣掌編小説(完結)】ラウンジにて──名前を呼ぶまでの距離⑧−君の名前を呼ぶために(女性編)
殆どの男性客は自分のことばかり話す。
それか、私のことを詮索する。
──家族は?彼氏は?本業は?
でも、彼は違った。
自分のことは語らず、私にも踏み込まなかった。
最初は不思議だったけど、それが少しずつ心地よくなっていった。
会えば、ただ抱かれる関係。
それでも、彼と過ごす時間が、私にはどこか特別だった。
もしかしたら、これが"恋"なのかもしれない。
けれど──
私の名前を呼んで欲しい、そう思った頃に、彼からの連絡が来なくなった。
あのとき私が「来週はどうですか?」と聞かなければ、何か変わっていたのだろうか。
12月の夜。
冷たい風が吹くたび、私はスマホを見てしまう。
でも、彼からのLINEは、来ない。
一度だけ、送ろうとした。
でも、やめた。
彼には、家族がいるのかもしれない。
私なんて、ただの火遊びの相手だったのかもしれない。
そう思うことで、自分を保っていた。
だけど、本当は──名前を呼んで欲しかっただけ。
三ヶ月が過ぎた頃。
仕事の合間に顔を出した常連客が、ふと口にした。
「そういや、前に来てたNさんってさ、離婚してるらしいよ」
一瞬、時が止まった気がした。
…離婚?独身?
じゃあ、あの人が語らなかったのは、隠すためじゃなかったのか?
思い出す。
最初からずっと、私に優しかった。
でも、決して馴れ合わなかった。
あの距離の正体は、"不誠実"じゃなく、"臆病さ"だったのかもしれない。
やっと、涙が止まっていたのに。
何でもない日常を取り戻していたのに。
春の風が吹く頃、彼は、店に現れた。
黒いタートルに、少し伸びた髪。
あの時と、どこか違う。
だけどすぐに、彼とわかった。
カウンターに座り、グラスを置く。
──そして、静かに言った。
「和美、君の本当の名前を教えてくれる?」
…涙なんて、もう出ないと思っていたのに。
また、滲んでしまった。


男女間の違いを書いた連作掌編小説∶
《女性編》
《男性編》
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