"浮遊"女子高生 清水いぶき、離陸中。#10
第11章 自由浮遊高度:測定不能 浮遊力:測定不能
軌道の彼方へ ― いぶきの宇宙航路
いぶきの身体は、ただ静かに前へと進んでいた。
推進装置も制御機構もない。
だが、その軌道はまるで、見えない意志に導かれているかのように、正確だった。
それは“浮く”というよりも、重力の曲がった布地を滑るように、“描かれていく”運動だった。
最初に通過したのは、地球低軌道――国際宇宙ステーションが周回する、高度約400キロメートルの空。
銀色の機体が一瞬、視界を横切る。
太陽光を反射するソーラーパネルが、鋭く閃いた。
あれは、地球が空に伸ばした最後の手のひら。
そのまま、月軌道へ。
約38万キロの彼方で、月は地球の影に隠れていた。
灰白の半影に沈んだその姿は、まるで、深く息を潜めた呼吸のようだった。
遠ざかる太陽のそば、地球の軌道の内側で、金星が輝いていた。
その光は、かつて地上から「宵の明星」として眺められていたあの光だ――いまはもう、背後に遠ざかっていく、小さな希望のように。
火星の軌道を抜ける。
赤い惑星のまわりを、静かに周回する人工探査機――その機体に刻まれた「IRIS」の文字が、いぶきの脇をよぎった。
かつて人類が送り出した、無人のまなざし。
やがて、太陽系の外縁へ。
冥王星軌道を越えると、太陽はもはや、ただの一点の光にすぎなかった。
かつて地球を焼き、育んだその存在も、いまは宇宙の雑踏のなかに紛れている。
さらに、オールトの雲。
氷と岩の微小天体が、太陽系を包むように漂う領域。
その薄闇を、いぶきの身体は音もなくすり抜けていく。
そして、境界を超えた。
太陽の重力圏をも脱した空間――恒星の引力から解き放たれた、真に自由な漂流が始まる。
背後にはベテルギウス。
左手にはアンドロメダ銀河が糸のように横たわる。
いぶきは、ついに天の川銀河の外へと出た。
銀河の帯は線となり、やがて点となり、そして、それさえもにじんで、宇宙の奥へと溶けていった。
旅はなお続く。
銀河団を越え、乙女座超銀河団をかすめ、マルカリアンの鎖――銀河が鎖のように連なる重力の編み目が広がる。
星々が、静かな音楽のように輪を描いていた。
「……なんか、たのしそう」
いぶきは、ふっと口元を緩めた。
だがその先――すべては突然、途切れる。
宇宙フィラメントの網目を抜けた先には、何もなかった。
ガスも、塵も、光さえも届かない。星も、銀河も、影もない。
ボイド。虚空。
まるで宇宙が、何かを避けたかのようにぽっかりと開いた、構造のない闇。記録も、由来も、終点もない。
いぶきは、そこにいた。
速さもなく、方向もなく、時間すら意味を失うその場所で、ただ“在る”ということだけが彼女を支えていた。
──虚無。
その言葉ですら届かない、深い、深い静けさ。
聴こえるものも、視えるものもない。
何も始まらず、何も終わらない。
だが――それは“終わり”ではなかった。
それは、あらゆる言葉が生まれる前。
何も定義されていない、“最初”の手前。
可能性がまだ形を持たない、“未明”の世界。
いぶきの身体が、かすかに震えた。
「……そっか。わたし、たんぽぽの、わた毛だったんだ」
太陽も、地球も、もう視界にはない。
でも、彼女の胸の奥には、まだ確かに残っていた。
朝のにおい。
靴裏に感じたアスファルトの感触。
校門の影。
誰かが名前を呼んでくれた、あの声。
「ここが……私の、行き着く場所」
誰にともなく、そっと呟いたその言葉だけが、彼女のなかで、確かに響いた。
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・第1話ープロローグ/地に足のついた、最後の日
・第2話ーふわつく日常・自覚なき浮遊
・第3話ー浮遊判明・滑り出す日常
・第4話ー浮つく日常・繋がれた身
・第5話ー住み着く天井・離れゆく日常
・第6話ー天井接近警報
・第7話ーそれでも、楔となるもの
・第8話ー縋れない地面、遮るもののない空
・第9話ー見下ろす地図、思い描く場所/大気圏の会話
・第10話ー軌道の彼方へ ― いぶきの宇宙航路
・第11話ー第12章 星の誕生 ― ボイドにて/エピローグ
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