”浮遊”女子高生 清水いぶき、離陸中。#02
第2章 自由浮遊高度:2cm 浮遊力:0.25NF
ふわつく日常。自覚なき浮遊
目が覚めた瞬間、いぶきはしばらく布団の中で動けずにいた。
頭の奥がじんわり重たいのに、みぞおちのあたりがふわりと浮く。
地面がすこし遠のいていくような──あの、長い電車の揺れに身体が馴染んでいたあと、急にホームに足を置いたときの、あの頼りなさ。
「……変な夢でも見てたっけ」
呟きながら起き上がる。
足裏に床の冷たさが感じられたので、特に気にせず、いつもの朝に溶け込んでいった。
朝食は、ごはんに卵焼き、ウインナーと味噌汁。
母と向かい合って、テレビから流れるニュースの音を遠くに聞きながら、いぶきは箸をすすめた。
「……今朝5時ごろ、神奈川県内で女性1名の浮遊が確認され──」
「いぶき、鞄の中、またプリントをそのまま詰め込んでないでしょうね?」
「ううん……たぶん、今日はちゃんとしてるはず……」
返事をしながら鞄を肩にかけた瞬間、ずしりとした重みが背中にのしかかった。
「……ん……?」
いつもと同じ荷物量のはずなのに、鞄がやけに重い。
ストラップが肩に食い込むような違和感がある。
ブレザーの重みもやたら気になって、肩がぎゅっと縮こまる。
「行ってきます」
「いってらっしゃい。天気いいけど、風強いから気をつけてね」
ドアを出る直前、鏡に映った自分の姿をふと見る。
襟元が、いつもより深く落ちている気がした。
気のせいだろうか。
教室に入ると、席につくまでに何人かの友達が軽く声をかけてくれる。
いぶきは笑って返しながら、いつもの席に座る。
教室に入ると、席につくまでに何人かの友達が軽く声をかけてくれる。
「おはよー、いぶき」
「今日、風つよくない?」
「髪ぼっさぼさだよ」
「やっぱ朝、間に合わなかったでしょ?」
「うるさいなー、ギリギリ巻けたもん!」
いぶきは苦笑いしながら返事をして、自分の席にたどり着く。
鞄を机の横に置いて椅子に腰を下ろしたとたん、ブレザーの重みが肩にじわりとのしかかってきた。
なんとなく、ずしりとしたものに包まれている感じがして、思わず肩を回す。
(今日はなんか、身体、重いな……)
教室の前方では、先生が出席簿を片手に朝のホームルームを始めていた。
「えーと、今日は特に連絡事項はありません。あ、そうそう──念のために聞いておくが、今朝、体が軽いと感じた者、あるいは浮遊感を覚えた者はいないか?……最近、報告が増えているからな。自覚がなくても、違和感があれば申告しておくように」
誰も手を挙げない。
「……じゃあ、1時間目の準備を」
先生がそう言って出ていったあと、生徒たちはぞろぞろと鞄を開け、教科書やノートを取り出し始める。
いぶきもその流れでノートを開いた。
昨日の授業の続き──そのページにシャーペンをすっと走らせようとして、手が止まる。
「……あれ?」
なんだか、いつもと違って書きづらい。
シャーペンはいつもと同じ持ち手位置に指を添えているのに、ほんの少しだけ“ずれている”気がする。
ノック一回分くらい、手が高く浮いているような、微細な浮き。
(なんだろ……机、ゆがんでる?)
姿勢を直し、腕を意識的に下げてみると、今度はちゃんと文字が書けた。
周囲の誰も異変に気づいていない。
でも、いぶきの中にはうっすらとした違和感が残った。
──机がおかしいんじゃなくて、自分の“位置”が、ほんの少しだけ、いつもと違う?
放課後。
いつもと同じ練習着なのに、今日は、なぜか身体が軽く感じた。
いぶきはロッカー室で制服を脱ぎ、陸上部のユニフォームに着替えていた。
袖を通すたびに、肩が軽くなる。
スカートの重さも、ブレザーの締めつけもない。
――なんだか、風になれそうな気がする。
(いけるかも。今日は、いいタイム出るかも)
自分の足が、地面をつかみたがっている気がした。
スパイクのひもを結びながら、いぶきはひとり、こっそり笑みを浮かべた。
けれど、その期待は、スタート直後に裏切られた。
合図の笛が鳴り響いた瞬間、思うように加速できなかった。
地面を蹴るはずの足が、ほんのわずかに空を踏んだ気がした。
指先の力が空転して、加速する力が伝わってこない。
(あれ……?)
フォームも、ピッチも、決して悪くはない。
でも、思ったほど前に進まない。
結果、記録は平凡以下。
練習後、今日の記録履歴を見て、小さくため息が漏れる。
「調子が悪いときもあるよ」
振り向くと、沢渡先輩が隣に立っていた。
いつもの無表情の中に、すこしだけ柔らかい声音。
「気にすんな。走りは積み重ねだから」
それだけ言って、先輩はすぐに視線を外した。
けれどいぶきの心は、たったその一言でふわりと浮いた。
(……はい、わたし、がんばります)
ロッカー室に戻り、再び制服に着替える。
汗で髪が額に張りつく。
着慣れたはずの服が、妙にまとわりついて、ブレザーの重さが肩にずしりとくる。
(なんか……だるい。疲れたかも)
鏡の前で前髪を整えるふりをしながら、いぶきは目を伏せた。
ふわふわと浮いた気持ちは、制服の重みで、また地面に引き戻されるようだった。
帰宅途中の電車のなかで、スマホに通知が届いた。
SNSニュースのアカウントから、いつもの浮遊者発生の速報だった。
「本日午後4時12分、都内高校2年女子が自宅前で浮遊確認。現在、行方不明に──」
(またか……)
何度目だろう、この文面。
三年前、最初にこのニュースを見たときは驚いて、何度も読み返した。
けれど最近は、スクロールする手すら止まらない。
(……今日は、もう、スマホはおしまい)
通知を切り、電源を落とす。
明日のことも、先輩のことも、考えるのはやめにして。
ちゃんとお風呂に浸かって、今日は早く寝よう。
頭を座席の後ろに預けて、いぶきは目を閉じた。
その夜――。
まどろむ彼女の身体は、知らぬ間に、重力の記憶からすこしずつ解き放たれていた。
音もなく、世界との境目を越えて。
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・第1話ープロローグ/地に足のついた、最後の日
・第2話ーふわつく日常・自覚なき浮遊
・第3話ー浮遊判明・滑り出す日常
・第4話ー浮つく日常・繋がれた身
・第5話ー住み着く天井・離れゆく日常
・第6話ー天井接近警報
・第7話ーそれでも、楔となるもの
・第8話ー縋れない地面、遮るもののない空
・第9話ー見下ろす地図、思い描く場所/大気圏の会話
・第10話ー軌道の彼方へ ― いぶきの宇宙航路
・第11話ー第12章 星の誕生 ― ボイドにて/エピローグ
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