”浮遊”女子高生 清水いぶき、離陸中。#05
第5章 自由浮遊高度:1.3m 浮遊力:45NF
住み着く天井、離れゆく日常
天井に頭をぶつけるようになったのは、ほんの数日前からだった。
登校すると、いぶきはロープを短めに調整し、教室の窓際のフックに結びつける。朝のホームルームが始まる頃には、体はふわりと宙に浮き、天井の蛍光灯と同じ高さに達していた。
「いぶき、そのまま天井に住めばいいのに」
「天井裏、意外と快適そうじゃない?」
昼休み。
教室の上空で、ロープに揺られながら、いぶきはひとりお弁当を開いていた。
かずさが笑いながら言う。
「今日も天井席ランチですか、星の姫様」
「うるさいよ、こぼしたらどうすんの」
ふたりは笑い合いながら、春の日差しの差し込む教室で昼食をとった。
ふたを開けた瞬間、いぶきはふとまばたきをした。
「……あ」
たらこスパゲティに卵焼き。
どちらも、自分の好物だった。
気づけば、浮き始めてから毎日入っている。
母は何も言わない。
「行ってらっしゃい」と、いつものように送り出すだけ。
けれど、いぶきにはわかっていた。
それが母なりの気遣いであり、“普通でいる”というささやかな抵抗だった。
「……ありがとね、お母さん」
小さくつぶやき、たらこスパを一口。
ロープに揺られながらでも、その味だけは、地面にいた頃と変わらなかった。
教室には、もういぶきの居場所ができていた。
浮遊者用のロープフック。
天井に吊るされた机。
ヒモ付きで引き上げられるプリント。
黒板の写真は、かずさがスマホで撮って送ってくれる。
体育以外の授業にはすべて参加し、提出物も欠かさない。いぶきは空から、笑いながらみんなを見下ろしていた。
「地に足がつかない女子高生……略して、ジアつかJKだね!」
「いぶき……ほんと、メンタル強すぎ」
冗談交じりの会話が、教室に普通の空気を取り戻してくれていた。
ある日の昼休み、先生が修学旅行のしおりを配った。
「金閣寺、清水寺……あー、楽しみすぎ!」
「お土産どうする? 抹茶系? 八ッ橋?」
ざわめく教室のなか、いぶきは自分のしおりを見つめる。
宿泊部屋の見取り図に、自分の名前はなかった。
担任が、少し気まずそうに言った。
「清水……今回は、ちょっと安全面の都合で……な?」
いぶきは笑って頷いた。
「わかってます。私、たぶん、布団から浮いちゃうし」
誰かが笑った。でもその笑いには、かすかな寂しさが滲んでいた。
放課後、彼女はトラックの端にロープを結び、空から練習風景を眺めていた。
風が吹き、土の匂いが舞う。
「……行きたかったな。修学旅行。枕投げも、したかったのに」
呟いた声は、誰にも届かず、空に溶けていった。
朝、ベランダの手すりに腰かけ、いぶきは空を見上げる。もう自力では玄関から出られない。今は、母が作った滑車装置に頼って“降下”する日々だ。
「じゃあ、いってきまーす」
母が下でハンドルを回す。
ロープがゆっくりと巻き取られ、いぶきは空から“登校”していく。
かずさとの通学路。
いぶきは1.3メートルの高さから、かずさの髪の分け目を眺めながら言う。
「カラスのフン、気をつけなきゃ」
「わたしの頭にもね!」
傘の柄に結ばれたロープが、ふたりの絆のように揺れていた。
放課後。
「明日、学校行くの、やめよっか」
かずさはそう言って、映画のチケットを二枚、ぺたんと机に置いた。
「別にサボりじゃないよ。明日はちょっと“空を見に行く日”ってことでさ」
いぶきは笑った。
「うん、行きたい。でも……チャイム、聞かないと一日、落ち着かないんだよね。あれ、みんなが動き出す感じが好き」
その言葉に、かずさもふっと微笑む。
「……いぶきって、ほんと真面目だよね。でも、そういうとこ、好きだよ」
朝のダイニング。母は言った。
「……もう、いいんじゃないかな、無理しなくても」
キッチンに背を向けたまま、母は言った。
「買ってあげたいもの、いくらでもある。今までできなかった分……これから、埋めさせて」
それは、母の贖罪のような言葉だった。
いぶきは、テーブル越しにその背中を見つめながら、ゆっくり言った。
「ありがとう。でも、学校に行きたいの。たぶん、“行きたい”って思ってる間は、私、まだ“ここ”にいる気がするんだ」
また、ある日の帰り際。担任が言った。
「……清水、お前な……」
下校の準備中、担任はプリントを配りながら、ふと立ち止まった。
「お前が笑ってるの、先生は見てて嬉しい。でも……ずっとそのままじゃなくていい。強がらなくていいんだ」
いぶきは、少しだけ目を伏せたあと、顔を上げる。
「強がってないです。ちゃんと毎日、学校に来たくて来てるんです。……ここが、私の“地面”だから」
先生は、しばらく言葉を探してから、うなずいた。
「……そうか。じゃあ先生も、“ここ”で待ってる」
夜。
ベッドの上で静かに浮かびながら、いぶきは天井を見つめていた。
そこから先は、どこまでも続く空。
それでも――彼女の心は、あの下駄箱の前にあった。
朝の靴音、昼のざわめき、放課後のチャイム。
ひとつひとつの音が、いぶきを「ここ」に繋ぎとめていた。
……だから、明日もまた、行くのだ。
この空の下にある、彼女の“地面”へ。
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・第1話ープロローグ/地に足のついた、最後の日
・第2話ーふわつく日常・自覚なき浮遊
・第3話ー浮遊判明・滑り出す日常
・第4話ー浮つく日常・繋がれた身
・第5話ー住み着く天井・離れゆく日常
・第6話ー天井接近警報
・第7話ーそれでも、楔となるもの
・第8話ー縋れない地面、遮るもののない空
・第9話ー見下ろす地図、思い描く場所/大気圏の会話
・第10話ー軌道の彼方へ ― いぶきの宇宙航路
・第11話ー第12章 星の誕生 ― ボイドにて/エピローグ
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