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"浮遊"女子高生 清水いぶき、離陸中。#08

第8章 自由浮遊高度:50m 浮遊力:567N

縋れない地面、遮るもののない空

それは、ほんの小さな音だった。

――ぱつん。

ロープが切れた。
いや、正確には、身体に繋いでいたベルトの金具が裂けたのだった。
摩擦熱か、経年劣化か、それとも――運命か。
理由は、たぶん、どうでもよかった。

その瞬間、いぶきの身体は、ふわりと浮き上がった。
ロープの緊張が解けたとたん、彼女は空に投げ出された。

「……あ」

声でも、息でもなかった。なにかがほどけたように、内側で音がした。

悲鳴も、抵抗もなかった。
むしろ、肩の力が抜けて、胸の奥がすうっと軽くなるのを感じた。

浮遊力567NF。
それはもう、人の力では止められない強さだった。
ロープも、ベルトも、もはや「楔」にはならなかった。

20メートル。ビルの上。
80メートル。鉄塔のてっぺんを越える。
200メートル。もう、誰の手も届かない。

風が、背中を押した。
制服がぱさりと音を立ててはためき、やがてその音すらも、遠ざかっていった。
音が消え、空気が澄む。世界が、やさしくなる。

見下ろせば、グラウンド。
教室の窓。かずさの頭。母の洗濯物。
昨日までの全部が、どんどん小さく、遠ざかっていく。

「……ああ」

声にならない言葉が、唇からこぼれた。
でもそれは、恐怖ではなかった。

空は、思ったより、静かだった。
静かすぎて、少しだけ“地上の静けさ”とは違っていた。

鳥の鳴き声も、チャイムの音もない。
風がすべてをさらって、空はただ、空としてそこにある。

そのとき――彼女は“それ”を見た。

雲間の先、遥か高みに、いくつもの影が浮かんでいた。
ぼんやりと、しかし確かにそこにある人のかたち。
ひとり、またひとり。

ゆっくり、漂っている。
誰かの兄。誰かの母。
誰かの「かつて浮いた人たち」。

いぶきは、彼らと目が合った……気がした。
ことばはない。でも、通じた。
その視線は、いぶきを拒まなかった。
むしろ、ずっと前から待っていたような、やさしさがあった。

「……そっか。みんな、そうだったんだ」

ポケットを探る。
指先に触れたのは、かずさがくれた小さなチョコレート。
ビニールを破り、口に放る。
風で唇が乾きかけていたから、チョコの甘さが、少しだけ沁みた。

「……明日、学校、行けないや……」

独り言のように、つぶやいた。

でもその言葉は、寂しさじゃなかった。
どこか、やわらかい微笑みとともに、空へと溶けていった。

いぶきは、自分がもう「どこかへ向かっている」のを知っていた。
そこは、“遠ざかる場所”ではなく、“向かう場所”。
地面では見えなかった道が、空の中にあった。

そして――彼女の背中に、光が射した。

雲の切れ間から、それは差し込んできた。
白すぎるほど白く、どこか音のない色だった。
地上では、きっと一度も触れたことのない、名もなき色。

遮るもののない空のなかで、いぶきは、その光に包まれていた。
ただ、浮かんでいた。ただ、そこに、いた。

それが、“自由”というものの、最初の名前だったのかもしれない。



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第1話ープロローグ/地に足のついた、最後の日
第2話ーふわつく日常・自覚なき浮遊
第3話ー浮遊判明・滑り出す日常
第4話ー浮つく日常・繋がれた身
第5話ー住み着く天井・離れゆく日常
第6話ー天井接近警報
第7話ーそれでも、楔となるもの
第8話ー縋れない地面、遮るもののない空
第9話ー見下ろす地図、思い描く場所/大気圏の会話
第10話ー軌道の彼方へ ― いぶきの宇宙航路
第11話ー第12章 星の誕生 ― ボイドにて/エピローグ

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渡野 凪沙(わたしの なぎさ) もし、よろしければ―― 缶ジュース1本分くらいの「応援」を送っていただけたら、 息子とふたりで仲よく分け合って、しあわせのおすそ分けにします。 きっと次の言葉を紡ぐ力になります。よろしくお願いします。