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水晶宮としての世界/ペーター・スローターダイク

現代社会は、かつてないほどの分断と格差、そして気候変動や食料安全保障といった地球規模の危機に直面しています。それらの根本要因はどこにあるのでしょう。最近紹介してきた本のなかでも、たとえば、ジョルジョ・アガンベンが『アウシュヴィッツの残りもの』(記事)で生政治の究極的実験としての「ビオス(生物学的生)」と「ゾーエ(剥き出しの生)」の分割とその証言不可能性を問い、それに連なるスナウラ・テイラーの『荷を引く獣たち』(記事)が、障がい者や家畜への差別の根源に潜む社会の問題を深く掘り下げました。ブルーノ・ラトゥールは『ガイアに向き合う』(記事)で、地球自体を能動的な存在「ガイア」として捉え、近代の自然観がもたらした疎外とその「反撃」の現実を鮮やかに描き出しています。また、ラトゥールは『情念の経済学』(記事)ではタルドの経済心理学を再評価し、金融経済が感情的なつながりの剥離の上に成り立つ様を解き明かし、デヴィッド・グレーバーの『負債論』(記事)は、負債が人間に負い目の感情を抱かせ、それが現代の生政治的権力の根源となるメカニズムを暴き出しました。さらに、ジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』(記事)は、プレ貨幣社会における穀物の重要性と、それが中央集権的な暴力装置としての国家形成にいかに深く関わってきたかを紐解きます。
これらの著作は、現代の諸問題を単一の視点から捉えるのではなく、複雑に絡み合った歴史的、地理的、経済的、哲学的なアクターたちの相互作用によって生じた「システミックな」問題として分析しようと試みています。

『水晶宮としての世界』:近代精神の航海図――拡張の夢から閉塞の現実へ

今回ご紹介するペーター・スローターダイクの主著『水晶宮としての世界』は、この壮大な知の航海において、また新たな、しかし決定的に重要な視角を提供します。本書は、近代における空間の「地理的拡張」がとにかく「前へ前へ」と進もうとする精神を生み出し、その後もはや開拓すべき場所(フロンティア)がなくなった空間的「閉塞状態」において同時に精神的な閉塞感も生み出し、現代の分断や格差、貧困、孤立といった問題の根源を築き上げたのかを、彼独自の空間の哲学を通じて鮮やかに照らし出す、現代精神史の傑作です。

『水晶宮としての世界』
グレーバー『負債論』に続く大著の紹介

Ⅰ. ペーター・スローターダイクと『水晶宮としての世界』の概略

ペーター・スローターダイクは、1947年生まれの現代ドイツを代表する哲学者であり、その著作は、哲学、人類学、歴史学、社会学、科学論といった多岐にわたる領域を横断し、現代世界の深層にある構造や思考様式を鋭く分析しています。彼の主要なテーマの一つは「空間」であり、人間がいかにして特定の空間を創造し、そこに「住まう」ことで自己を形成してきたかを探求します。

『水晶宮としての世界』は、彼の代表作の一つであり、近代の精神史を「空間の拡張」と「水晶宮のなかの閉塞状態」という二つの対照的なフェーズで描き出す二部構成の壮大な試みです。
第一部では、近代の幕開けとともに人類がどのようにして無限の空間へと拡張していったか、そしてその過程で「主体性」がいかに「発明」され、世界認識が変容していったかを論じます。
第二部では、その拡張がもたらした「距離の消滅」と「空間の脱現実化」が、現代社会においてどのような「閉塞」を生み出し、「水晶宮」という名の「資本の世界内部空間」へと帰結したのかを分析します。
本書は、単なる歴史叙述に留まらず、近代以降の人間の存在様式そのものがいかに変容してきたのかを、哲学的な眼差しで解剖する、示唆に富む一冊です。

Ⅱ. 第一部:果てしない拡張の夢と、その代償

近代以前の人間は、秩序と安心感に満たされた「仮想的な天球の殻」のような宇宙の中に囲い込まれていました。スローターダイクは、この「形而上学が支配する体制下で推奨されたこの方策」が、近代の到来とともに「その支えが急速に失われつつある」と指摘します。この根源的な喪失感は、人間を外の世界への飽くなき好奇心と探求心へと駆り立て新たな空間への拡張、すなわち大航海時代の幕開けへと導きました。それは単なる地理的発見に留まらず、人間の自己認識そのものに大きな変容をもたらしたのです。

1. 不規則な美学と近代主体の誕生

これまでの「幾何学的な単純化に惑わされてきた」人間の目は、近代において「不規則な知覚刺激に開こうとする試み」へと向かいます。新しい美学は、「亀裂や乱れ、裂けめ、不規則を絵の中に取り込む」ことさえも厭わず、美の対象を拡張しました。これは、それまでの宇宙が正円や凸凹のない完璧な球体であったという認識から、海や山といった「醜悪にして不定形のもの」さえも積極的に受け入れる精神性の変化を意味します。この「野卑なものに耐える」力は、未知なるものへの航海、予測不可能性やリスクを許容する精神の礎となったのです。

美しからぬもののあいだに身を置き、醜悪にして不定形のものの許に安らい、野卑なものに耐えることが求められる。こういったものを表現するとき、そこで表現されるものはそれ自身に牙を剥く。新たな美学は亀裂や乱れ、裂けめ、不規則を絵の中に取り込むばかりか、嫌悪感を催させる点では現実と競いあいさえする。(中略)人間の目は、あまりにも長いあいだ幾何学的な単純化に惑わされてきた。こと美学の歴史に関するかぎり、近現代の芸術経験は、この単純化で麻連してしまった目を、あらためて不規則な知覚刺激に開こうとする試みと不可分に繋がっているのである。

『水晶宮としての世界』

スローターダイクは、この時期に「主体性」が「発明」されたと論じます。かつては外部から与えられた「受難」をただ受け入れるだけだった人間は、「受苦は能力に転換される」という内面化のプロセスを通じて、「自分が受ける苦しみの主人にして所有者へと自ら自身を形成しうる者」へと変貌しました。
この「主体化」は、「自らに助言を与え、自ら自身を説得し、自制を解除する合図を自分に送る」行為、すなわち「自分にさまざまな権限を与え、それに対応する訓練を積む」ことから切り離せないものでした。コロンブスが自身の航海を単なる探検ではなく、「神の子キリストを伝える者(クリストフォロス)」としての「神意によって海の彼方に救いをもたらす使命を授かった使徒」と捉え、「自前の宗教」としたように、個人の成功心理が「自らの存在意義」となる現象は、近代の「起業家世界」に一貫して見られる特徴だとスローターダイクは指摘します。

それゆえ近代人の典型はホモ・ハビタンス[居住人]であり、ここには身体の拡張と観光による伸展も含まれる。確かに本質的な超越と天上界を真の故郷とする夢は、近代人から失われ、二度と戻ってくることはないのかもしれない。その一方で、超越論的なもの、すなわち外界から自己固有の領分へ回帰することが可能であるための条件たる、思考し居住する主体の自己言及、これが19世紀の思想の中でいよいよ顕著なかたちで現われてくることになる。

同上

2. 自由と統制のジレンマ

しかし、この新しい主体性は、同時に根本的なジレンマを抱えていました。「ひとりの行為者が、他人である観察者からはよく見えないものの、当人にとっては内的な動機に基づいて、何らかの行為に踏み出しかねない」という主体の「当てにならない」、「予測不可能」な側面は、道徳哲学において「自由」として立ち現れます。しかし、この「解き放たれた権力中枢や主体の内部」を統制するため、「当の理性としては、内部から権力の統制が行なわれるように心を砕く」ことが求められるのです。近代における「自由」は、単なる恣意的な行動ではなく、自己管理や内的な規律を通じて初めて成立するという、近代倫理学の根源的な課題設定がここに見出せます。ここに個々人に自律が必要かとされつつ、一方であとでも述べるように生政治的に「生」が徹底的に管理対象となるビオスとゾーエの分割と不可分性の問題がよりいっそう濃くなる契機がみてとれます。

いずれにせよ、ひとりの行為者が、他人である観察者からはよく見えないものの、当人にとっては内的な動機に基づいて、何らかの行為に踏み出しかねないというこ とは、主体の最大の特徴というのが、「当てにならない」、「予測不可能」だというこ とを示唆している。道徳哲学はこの事態に手を入れ、その結果、自由、ないしは行 為の不確定性というのができあがる。しかし、主体が自由であるという理由から主 体に権限を与えようというなら、それを求める当人としては、そのことが、この活 性化した力点を、世界の中でひとつの効果的な統制に服属させることになるのをた だ手をこまねいて眺めているほかない。そのため、当の理性としては、内部から権 力の統制が行なわれるように心を砕くことを求められる。

同上

3. 「発見」の裏に隠された「略奪」の暴力性

大航海時代における「発見」は、当初は「ひとつの対象を覆っているものを取り除くこと」、すなわち既知のものを暴き出すことを意味しました。しかし、その意味はすぐに「未知のものを見つけ出すこと」へと変容しました。
スローターダイクは、この「世界の距離を奪い去る」行為、すなわち「グローバル化」が、「距離を取り除く技術的な手段を講じる権原を有する」ことと同義だと喝破します。そして、この「発見」が「権原」として、ヨーロッパによる「世界の覇権」を正当化する根拠となったことを、カール・シュミットの議論を引いて詳細に説明します。

発見を権原とすることによってヨーロッパによる支配の正当性を主張するシュミットの定理は、法理論的に微妙である上に道徳的にずうずうしく面の皮が厚いと言うほかないが、この発想が、収奪する側が自分たちはもっと価値のある財を持ってき てやった者なのだと考える、先にも挙げたコロンブスの宣教者としての使命感の構図を下地にしていることは見紛うべくもない。

同上

新大陸の「発見」は、単なる地理的知見の拡張ではなく、未開の地を「所有」し、「命名」し、自らの「支配下」に置く行為でした。この「新たな土地」は、まるで「持ち主の名前が分からない拾得物の群れ」のように扱われ、ヨーロッパの「語彙を世界の白地図の中に投射」する形で組み込まれていったのです。つまり、地図の製作は「文明的な主権の主張を裏付ける直接の証」となり、「未知の土地に対する真の権限」を示すものとして機能したのです。

スローターダイクは、この「発見」の暴力性を、ハーマン・メルヴィル『白鯨』における捕鯨の比喩、特に「しとめ鯨」と「離れ鯨」の区別を用いて鮮やかに示します。「しとめ鯨」が「つないだ」者に占有権があるのに対し、「離れ鯨」は「先に手に入れた者にとって正当な獲物」となります。この冷徹な論理を、コロンブスによるアメリカ大陸の「発見」に適用することで、その本質が略奪であったことを暴き出します。

1492年当時のアメリカも、一匹の離れ魚以外の何であろう。コロンブスは、その背にスペインの国王夫妻の所有を示す旗を突き刺してそれをはためかせた。(中略)人権も、世界の自由も、所詮、離れ以外の何であろう。......そもそも地球そのものが、離れ鯨以外の何であろう。

同上

この視点は、新大陸発見以降の近代の冒険や英雄譚、東インド会社などによる貿易の背後に、いかに強者の論理と略奪の衝動が隠されていたかを浮き彫りにするものです。そして、この「略奪行為」は、近代以降の歴史において「非常事態」を理由に「自分たちの無罪」を「申告」する「先駆者」たちの振る舞いとして正当化されてきたとスローターダイクは批判します。

法制度が整い、各種の規制がある、歴史以後の時代には犯罪者として起訴されるはずの人物が、現在進行中の歴史の激動の中では、冒険家や英雄、文明の伝道師としてまかり通る。

同上

Ⅲ. 第二部:水晶宮の閉塞と免疫の倫理

しかし、そんな無限の空間への拡張の夢は、やがて「閉塞」へと転じます。発見されていない土地が地球上からはなくなったからです。

近代化の進展は、「距離」と「障壁」を実践面で「制圧」し、理論面では「時代遅れの次元として排斥」しました。交通とコミュニケーション技術の発達により、空間は「無視してよい存在」と化し、もはや「広がり」ではなく、「集積と接続、濃縮」の場となります。地球上のあらゆる地点は、まるでインターネット上のデータベースのように「読書室」や「集積庫」として扱われ、現実は「地図や航空写真による優雅な要約」へと「脱現実化」されていくのです。

空間はどうやら無視してよい存在となった。距離と障壁としては実践面で制圧され、理論面では時代遅れの次元として排斥される。(中略)がつて自然と呼ばれていた距離と分離、配置の空間は、今では集積と接続、濃縮の空間に取って代わられ、技術環境となってわれわれを取り囲む。この新たな空間の中では、遥か遠方のものが、物体として、あるいは画像として、どれほど遠くからでも「今、ここ」に引用される。現在の空間性がどういったものかは、モニターを見れば分かる。呼び出す、操作する、組み合わせる、保存する、削除する.......。グローバルなネットワークのおかげで、地球上の無数の地点が読書室 〔集積庫〕に変身する。

同上

1. トランジット空間の繁茂と「場所なき自己」

この圧縮された空間では、特定の居住者を持たず、一時的な滞在と通過のための「トランジット空間」が繁茂します。駅、空港、街道、広場、ショッピングセンター、休暇村、工場敷地、無料宿泊所といった場所がその典型です。これらの場所は「決まった居住者や、そこを根城にする集団的な自己に依存することなく存在している。そこを通り過ぎる者を引き留めない」。人は多く集まるものの誰もそこに住んでいない場所です。典型的なのはオフィス街。昼間は多くの人がいても、夜中や休日はがらんとして人通りがありません。見事にそれに対応するのが昼間は高齢者と子どもだけになるベッドタウンです。

グローバル化が進むにつれて、場所と自己の結びつきが希薄になり、ラトゥールが提唱する「エスノスケープ(脱領土化)」の概念とも響き合う「場所なき自己」や「自己なき場所」といった漂泊的な存在様式が象徴されます。

地球上の、誰も住まない各種の地域、たとえば白い荒れ地(極地世界)、灰色の荒れ地(高山地帯)、緑の荒れ地(密林)、黄色い荒れ地(砂漠)であるが、ここにさらに人間のせいで生じた二次的な砂漠を並べることもできる。(中略)グローバル化し移動化する社会は、場所なき自己という「漂泊」極と同時にまた自己なき場所という荒れ地の極に通づくことになり、土地固有の地域文化や土着であることの満足感といったものから成る中間地帯は痩せ細ってゆく。

同上

2. 水晶宮=「資本の世界内部空間」

スローターダイクにとって、この「水晶宮」とは、究極的には「資本の世界内部空間」として理解されます。ここでは、場所、人、物、データといったあらゆるものへのアクセス機会が、まさに「購買力の有無」によって決定されます。貨幣が万物を媒介し、すべてが商品として流通する世界では、人が何かを手に入れるか否かは、その人の経済力に直結するのです。経済格差が真に問題なのはこれがあるからです。格差があっても価値の受容が購買力だけに依存しなければ、致命的な問題とはなりません。

「資本の世界内部空間」のほうは、社会位相学的な表現として理解してほしい。ここではこの語を現代における交通と通言のメディアによる、室内を創造する威力を表わす語として用いている。主体性の根本的な形式は、大規模な設えの中では、購買力の有無によって決まる。(中略)「資本の世界内部空間」とは、要するに、資金が切り拓くそういった諸々の機会の地平を包括するものにほかならない。

同上

この状況は、グレーバーの『負債論』が指摘するように、負債を通じて人間に規範的圧力をかけるメカニズムと、ギー・ドゥボールの「スペクタクル」概念、すなわちイメージが現実を覆い隠し、商品が社会生活を完全に支配する様とも深く連結します。貨幣によるアクセスが普遍的になるにつれて、かつて世界への「代価」であった「どこかに帰属していること」の価値は希薄になります。地域が人びとをつなぎ止めておくことができず、お金と商品が循環する都市に人が集まるのはこのシステムが回っているからにほかなりません。

今や「帰属の主題」は、「豊かさの恩恵から排除されている」人々が「無料で手に入るアイデンティティー」としてすがろうとする「負け組のキーワード」となり、個人は「帰属」から解放され、多様な「選択肢」を求めるようになります。

何ごとも貨幣によって規定される状態になってからは、各種のアクセスは、むしろ物を買う、商談や公募に応じる等の行為によって得られることになる。今日の成功者には、自分の帰属は後ろに仕舞っておくことが期待される。帰属の主題は、とりわけ個人や集団が自分たちは豊かさの恩恵から排除されていると感じ、そのため無料で手に入るアイデンティティーの恩恵にすがろうとする時に持ち出される。(中略)帰属、ビロンギング、アパルトナンス......、この種の表現は、21世紀における負け組のキーワードとなると見込んでおおむね間違いない。それだけに、今後の最も興味深い概念のひとつであるのはあえて言うまでもない。

同上

3. 構成主義とエゴイズムの肯定

さらに、この閉塞した水晶宮の中では、目の前の事物や「自然」さえもが「捏造」され「考案」されたものであるという「構成主義」的な認識が広がります。これは、ドゥボールのスペクタクル論が示すように、イメージや表象が現実を支配する状況を指します。このような風潮の中で、「固定的なアイデンティティーが繁栄を謳歌するとは思えない」状況が生まれます。

そして、かつて禁忌とされてきた「エゴイズム」が、ニーチェの「価値転換」によって肯定的なものへと転じます。個人はもはや「臣民」ではなく、「選挙権を行使する者」や「自由にお金を使う者」としての「顧客」として、あるいは「個人的な特性の持ち主」として重要視され、自己の欲望や意見を積極的に表明することが推奨される時代が到来するのです。

近代の心理を襲う最も重要な変容といえば、エゴイズムの解禁である。窮乏とそれを全体で埋め合わせようとする時代が長く続いたが、そのあいだは、一貫してエゴイズムは厳禁でおり、これが揺らぐことはなかった。世界の破滅の予言者であったニーチェは、あらゆる価値の価値転換という彼一流のネオ・キニカルな教義で、これについて決定的なことを言ってみせた。(中略)近代の豊かな国家の市民は、自分たちのことをもはや臣民とは見なさず、選挙権を行使する者、あるいは自由にお金を使う者として理解するようになっており、それ以来「全体」に参加する義務も、主君や神の規範を支える利他主義から、商品や公共の主題への積極性に移っていった。

同上

4. 国民国家の限界と生政治の深化

国民国家は、これまで「最大限の政治的な居住空間」、いわば「民主的な民族の居室と会議室」を提供することで、人々に安全と帰属の場を与えてきました。しかし、グローバル化の進展により、その「国民的な居室のあちこち」に「不快な隙間風が吹いて」おり、民族と領土を結びつける絆が「相対化」されつつあるとスローターダイクは警告します。

今日、グローバル化に対して世間が神経質になるのは、こういった事実の反映にほかならない。思い返せば、居住する者の大半に一種の家庭的な安心感、つまり場所と自己とを一つに収斂させる絆として、あるいは(言葉のいい意味での)地域的なアイデンティティーとして体験されうる想像上の、あるいは実態としての免疫構造、これを提供してきたというのは、近代の国民国家の並外れた功績であった。(中略)国民国家はこれまでのところ最大限の政治的な居住空間、いわば民主的な民族(あるいは民族空想)の居室と会議室を提供してきた。しかし、まさにこの国民的な居室のあちこちにすでに実に不快な隙間風が吹いている。

同上

この結果、「場所なき自己」や、アパデュライが提唱する「エスノスケープ(脱領土化)」といった概念によって、人々が従来の共同体や地理的境界を超えて、想像上の共同体に属するようになる現象が捉えられます。

スローターダイクは、こうした「完結した生の家」の展望を「囲いを設けるかたちで始動する生政治」と位置づけます。これは、外部からの脅威や混沌を排除し、内部で秩序と幸福を管理しようとする、現代的な生命政治学の萌芽を示唆するものです。歴史的な争いが「永遠平和」に収斂し、社会生活が「保護する容器」に取り込まれることで、もはや「歴史的な出来事が生じることもない」という停滞状態が訪れると警鐘を鳴らします。

この発想は、ドストエフスキーにとって、歴史が終わって緊張が解け、くつろいだ時代の中で世界に幸福を実現し諸々の民族が互いに理解しあうことを目指そうとする、人類全体から見れば僅かな破片にすぎない西欧が先鞭を付けた企図を完結させようとする、まさに西欧の意志を象徴するものにほかならない。(中略)ここで生政治は、囲いを設けるかたちで始動するのだ。

同上

しかし、この「完結した生の家」には、新たな問題が潜んでいます。特に「軍事的圧迫が緩和されたヨーロッパ」において、「男らしさの崩壊」がもたらした「甘え」の傾向が蔓延し、自己の安全のための責務を「どこか別のところに全面的に転嫁する」意識が広まる、とスローターダイクは指摘します。

ひとはそもそも、自分たちの安全のためには一定の責務を果たさねばならないのであり、これをどこか別のところに全面的に転嫁することはできない。負担を過度に緩和されて、この事実を忘れている人々の意識の中に、これが突如、よみがえってくると、誰もがヒステリーに陥り、一気にパニック状態になるのは、大方、予想がつく。

同上

ここで彼の思想の核となる「免疫」概念が最も顕著に現れます。彼は「人生は、本人が免疫力を持ち、自分や身内を優先し、排他的、選択的、対称的、さらに保護主義的、圧縮不可能、不可逆的でないかぎり、自分がなれるものにもならない」と断言します。これは、グローバル化された世界における脅威に対し、個人や集団が自己の境界を固め、外部を排除することで安全を確保しようとする、現代社会の排他的な自己防衛の倫理を浮き彫りにするものです。

いずれにせよ、ひとりの行為者が、他人である観察者からはよく見えないものの、当人にとっては内的な動機に基づいて、何らかの行為に踏み出しかねないということ は、主体の最大の特徴というのが、「当てにならない」、「予測不可能」だというこ とを示唆している。(中略)人生は、本人が免疫力を持ち、自分や身内を優先し、排他的、選択的、対称的、さらに保護主義的、圧縮不可能、不可逆的でないかぎり、自分がなれるものにもならない。

同上

この「免疫」の概念は、孤立や分断を招き、それを利用した生政治的な管理を継続させます。そして、その管理を促す主体は、もはや国民国家だけでなく、グローバル化した私的プラットフォーム企業や金融資本へと移行していることを示唆します。

Ⅳ. 拡張の果てにある閉塞、そして新たな問い

スローターダイクは、この水晶宮の内部で進行する分断と、ラトゥールが『ガイアに向き合う』で描いた「ガイアの反撃」を重ね合わせることで、現代という時代の閉塞感の構造を明らかにし、私たちに新たな思考と行動を促します。

ラトゥールは、エコロジー危機を「単なる環境問題」ではなく、「人類の生存条件そのものを変える出来事」と位置づけ、近代の「自然=管理対象」という認識を批判します。彼は「地球の反撃」としての気候変動が近代の自然観を崩壊させ、科学的知識だけでは問題解決が不可能であると主張します。従来の「自然と文化の二元論」はもはや通用せず、人間以外のエージェント(微生物、大気、岩石など)も環境を変える行為主体として捉えるべきだと説きます。国家主権の枠組みではエコロジー問題は解決できず、国家を超えた「共有主権」による新しいガバナンスモデルが必要だと強調します。

エコロジー危機は単なる環境問題ではなく、人類の生存条件そのものを変える出来事である。

ラトゥール『ガイアに向き合う』

気候変動の「危機」は一時的なものではなく、もはや新しい生存条件となっている。

同上

従来の主権概念では気候変動に対応できず、新たな「共有主権」が必要。

同上

スローターダイクの水晶宮の内部で進行する分断と、ラトゥールのガイアの反撃が重なる時、私たちは、近代の拡張の夢がもたらした閉塞、そしてその閉塞を管理しようとする新たな権力の姿を、より明確に捉えることができるでしょう。もはや「人類の全成員をひとつの均質的な福祉システムに取り込むこと」は「実質的に不可能」であり、水晶宮に収容されているのは「せいぜい三分の一弱にすぎない」という厳しい現実が突きつけられています。

21世紀の初頭では、ホモ・サピエンスのうち水晶宮に収容されているのは、最大限バラ色に見積もってもせいぜい三分の一弱にすぎない。(中略)人類の全成員をひとつの均質的な福祉システムに取り込むことが実質的に不可能であることによって説明される。

『水晶宮としての世界』

Ⅴ. 総括:現代の分断と孤立を超えて

スローターダイクの『水晶宮としての世界』は、近代が築き上げてきた思考の枠組み、そしてその枠組みの中で生じた拡張と閉塞の歴史を、徹底的に解剖する一冊です。それは、単なる過去の物語ではなく、現代社会が直面する諸問題――分断、格差、孤立、気候危機、そして人間の存在様式の変容――の根源を明らかにするための、痛烈な分析書でもあります。

私たちは、もはやかつての「仮想的な天球」のような安定した世界には戻れません。また、無限の拡張を夢見た近代の「自由」が、結果的に「略奪」と「閉塞」をもたらしたことも理解しました。この「水晶宮」の中で、貨幣が万物を媒介し、個人の「帰属」が希薄になる一方、「免疫」という名の排他的な自己防衛が蔓延する。こうした状況は、グレーバーが『負債論』で指摘した金融資本の支配構造や、ラトゥールが『ガイアに向き合う』で描いた地球の反撃と「共有主権」への呼びかけとも響き合います。

スローターダイクは、この現代の「甘え」と「無責任」の状況を乗り越えるために、私たちに根源的な思考の転換を促します。それは、目の前の現象を「捏造」や「考案」されたものとして見抜き、表面的な解決策に飛びつくのではなく、自己の内面と向き合い、他者や世界との「関係性」を再構築することです。この本は、現代という時代の閉塞感の構造を明らかにしつつ、私たち一人ひとりが、この複雑に絡み合った歴史的・地理的・哲学的な網の目の中で、いかに思考し、行動すべきかを問う、刺激的な挑発を投げかけているのです。私たちは、もはや、この問題から目をそらすことは許されません。


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棚橋弘季 Hiroki Tanahashi 基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。