共感と迎合の違い
以前、なぜネットの人は似たような言葉ばかりを使ってこちらにやってくるのか、という、多くの人が感じているであろう疑問(?)について触れる記事を出しました:
そのような、話し方を意図的に調整してこちらにやってくる態度は共感を集めるためである、とも解釈できそうですが、僕は、それは共感集めではなくたんなる迎合であると考えています。今回は、共感と迎合の特徴の違いについて触れ、迎合せずに共感をつくることが大事になりそう、という話をします。
演じること
他人ありき、市場ありき、話しかける相手ありきで、他人の意向を無批判に受け入れてなにかしようとすることを僕は、「演じる」と呼んでいます。相手から言ってほしいと思われていることを発言する、「よいこの言動」を先読みしてそれを実行する、模範的な解答をするなどの動きは総じて何かを演じる行為であり、それは迎合に当てはまります。
期待される結果を出すのはべつに悪いことではないのでは、と感じる人もいるでしょうが、それはケースバイケースです。お互いに似たような志を持っているのであれば、相手のビジョン、目的、パーパスにのっかって一緒にやっていく、というのはアリですが、そうじゃない場合は問題になります。
たとえば、カスハラ(カスタマーハラスメント)の問題があります。顧客が神様のように傍若無人にふるまって現場の店員を疲弊させるカスタマーハラスメントの問題も、「お客さんの意向を無批判に受け入れた、受け入れてきたという迎合の結果」と言える気がしませんか。注意したり怒ったりすることなく、無茶なことにも喜んで対応するというのは美談のように聞こえますが、「無茶をいっても許される」という、よくない方向にドリフトする力が働くことになってしまいます。
語学学習のコンテキストでも例を出すことは可能で、たとえば昨今は、「世界一わかりやすい」とか、「誰でもかんたんに~」のような、ラクであることを前面にプッシュして何かを推す人たちがいます。それは当然、ラクして外国語を学びたいという怠惰な心理を持つ大衆に「迎合」した結果なのですが、それが両者にとってよい方向に貢献する気は、あまりしませんよね。
迎合すると相手は一時的に喜ぶのですが、その要求は徐々にエスカレートします。自分らの欲望が無料で、無限に、無条件で満たされることを当然のものとして期待してしまうテイカー気質の人たちがどのように発生するのかをたどると、「いままでその人に迎合してきた人がいたから」という原因にたどりつくはずです。
共感
たいして、共感というのは、相手の立場を理解してそれを尊重し、そのうえで何か言ったり行動したりすることです。「迎合」となんだか似ているなと感じるかもしれませんが、共感と迎合で決定的に異なる点に、相手の意図を汲み取ってそれに合わせるわけではない、ということがあります。「なるほど、言われてみればたしかに~」とか、そのような感情を芽生えさせることが共感を得ることなわけで、これはすでに説明した、「既存の需要やニーズに無条件でこたえる」という、迎合とは異なります。誰かの悩みにたいする新しい着眼点を与えるなどは、迎合ではなく共感のアプローチです。
また、共感というと、みんなと同じことを考えたり言ったりすることであるとイメージする人もいると思いますが、必ずしもそうではないはずです。言ってほしい発言をするのが迎合でしたが、共感には、そのような同調圧力チックな話はありません。
というのも、その人らが思っていること、あるいは考えていることをこちらで復唱しても、特になんにもならないことは火を見るよりも明らかで、共感にまったくつながらないからです。たとえばですが:
1+1=2です。
水は酸素と水素からなります。
ラーメンはおいしいです。
などの言葉はいずれも、「わたしはあなたと同じことを考えていますよ」という明示的なサインになりますが、「あなたも、1+1=2だと考えているのですね!うれしいです!」という結果にはなりませんし、共感を得られません。同じことを考えればそれで共感を得られる、というわけではないことは、そのような例からかんたんにわかります。僕自身、みんなが言っていることをもう一度言う、みたいなことをほとんどしていません。
正解を出すことに意味はない
1+1=2であることを教えてもなんにもならない、という話はすでにしましたが、その話にはもう一つ重要な示唆があり、それは、「正解を教えても特になんにもならない」というものです。
なにかの趣味に精通した人のなかに、初心者やアマチュアにやたら教えたがる人がいますが、そのような人は「教え魔」と呼ばれて嫌われます。教え魔の存在は、正解を発言すればただちに尊敬されるわけではないし、むしろ嫌われることもあるという象徴的な事例であると僕は考えているのですが、その人たちに「共感」の要素が欠けている、相手の立場や状況をまったくリスペクトしていないからことがめんどくさくなる、と説明することもできます。
話を聞いてもらうのは難しいことである、という意識は誰にでも必要です。話を聞いてもらえないことを相手のせいにしたりして怒り出すのはもってのほかで、「話を聞いてもらえないのはなぜだろう」と内省する謙虚な態度が必要になります。正解を与えれば無条件で感謝されるし、無条件で尊敬されると考えてしまうのはやはりよくないです。このあたりの話は別の記事でもしています:
課題設定能力
これは課題設定の話として取り扱うことも可能です。つまり、その状況でなにが課題なのかを個人が感じ取り、そこにフォーカスして取り組む課題設定の力が共感の源泉になるということです。僕はよくIKEAを例に出して説明するのですが、IKEAも、「健康的で持続可能なライフスタイルに移行すること」などのビッグな課題をかかげて、そこから人々の共感を得ることをしています。
教え魔がなぜ嫌われているのか、それを一言でいうなら、「課題設定が絶望的なまでにできていないから」になります。問題を設定することと正解を与えることは別のことなのですが、教え魔の人は、問題を設定する、という重要なプロセスをまったくケアできていません。正解を教えてもとくになんにもならないわけで、気にすべきはそっちではなく、その人オリジナルな課題です。
さいごに
迎合はたんに相手に合わせることであり他人ドリブンなわけですが、一方で、共感は自分ドリブンです。相手の立場をリスペクトすることをしつつ自分の主観で何かを言うのが共感なわけで、自分を排して相手の奴隷になる迎合とは異なります。「迎合ではなく共感を」という話は、ここまでの流れである程度理解いただけたのではないかと思います。
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▼この記事を書いた人▼
そっちゃそ
フリーランス英日翻訳者。本業で培った知識や経験をもとに、発音指導をはじめとした語学指導もやっています。noteは、僕の思想や考えをひろく公開するために使用しています。
僕の思想や考え方については、考察と思想哲学のマガジンにまとめているのでこちらをぜひご覧ください。語学学習に関するお悩み相談やお問い合わせなどはこちらのLINEからお願いいたします。詳しいプロフィールはこちらから。
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主な著作:「自分の意見を言うことは『役に立つ』」、「外国語を学習すると決めたときに読む本」、「英語発音学習の第一歩」。既刊一覧はこちらから。
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さいごに
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