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満たされていたはずの世界で。メスが仕事と育児を背負い絶滅したマウスと、ママ同士の議論にパパが抜け落ちる人間界


「経済的な問題が解決すれば、子どもを産む人は増えるのだろうか?」


少子化対策として「とにかくお金!」という声が一定数あるなかで、私はそんな疑問を抱くことがありました。

もちろん、金銭的なハードルで諦めざるを得ない家庭があるのも事実ですが、そもそも子どもを望まない人も増えてきていますし、金銭面以外の事情から「子どもはこれ以上産む予定はないよ」と思っている人も多いのではないか、とも思うからです。


そんなことを考えていた頃、ある有名な動物行動学の実験の話に出会いました。


本来、理性とは反対とも言える「強固な本能」で生きているはずのマウスでさえ、衣食住が完全に保証された社会の末路は、オスもメスも子を望まなくなり、そして絶滅してしまうというものです。

しかも、その絶滅までの過程において、社会階層の固定化や、メスがいわば仕事と育児を一手に担いストレス度が増すという、人間社会でも無視できないような事態が起きるのでした。






■ 満たされていたはずの、マウスの少子化


まずは、ユートピア(衣食住が満たされた世界)に放たれたマウスの実験の概要です。

<1968年 米国実験「Universe 25」の概要>
動物行動学者ジョン・B・カルフーン博士(米国国立精神衛生研究所)によって行われた、マウスの集団行動と過密に関する研究記録です。

【実験環境】
食糧と水が無尽蔵に与えられ、天敵や感染症を完全に排除した「ユートピア(最大3,840匹収容可能)」に、4つがいのマウスを放ち、その後の経過を観察した。

【崩壊へのプロセス】
① 爆発的増加
・初期は順調に繁殖を続け、約55日ごとに個体数が倍増するペースで急速に増加した。

② 社会秩序の崩壊(役割の喪失と偏り)
・個体数が増え「過密」状態になると、空間や資源に余裕があるにもかかわらず、社会的な異常行動が目立ち始める。
一部の強いオスが快適な空間と多くのメスを独占し、階層構造が固定化
・敗れてあぶれたオスたちは広場に追いやられ、社会的役割を失って無気力化するか、無意味な闘争を繰り返すようになる。
オスが巣の防衛を放棄したことで、メスが「外敵からの巣の防衛」と「子育て」の両方を単独で担う状態に陥る
・極度のストレスからメスは過度に攻撃的になり、未熟な子どもを追い出したり育児放棄(ネグレクト)が多発。乳幼児の死亡率は90%を超えた。

③ 「美しいオス」の急増と生殖の停止
・崩壊した環境で育った次世代は、社会的な関わり(縄張り争い、交尾、育児など)を一切持たなくなる
・他者との接触を避け、ただ「食べる、飲む、寝る、自分の毛繕いをする」だけを繰り返す個体が急増(カルフーン博士はこれを「美しいオス:Beautiful Ones」と命名)。
メスも同様に生殖行動を完全に拒絶するようになり、ついに出生数はゼロとなる。

④ 絶滅
争いも暴力もなくなったが、次世代が生まれることもなく老齢化が進み、実験開始から約5年で全滅した。

物理的な資源(衣食住)が完全に満たされた環境であっても、過密化によって「個体の社会的役割」が失われ、特定の層に負荷が偏ると、集団の再生産システムは破壊され、最終的に絶滅に至るのです。

Gemini要約



■ 「過負荷なメス」の状況に見る、人間界への既視感


この実験のプロセス、特に「オスが役割を放棄し、メスが外敵から巣を守る仕事と子育てを一挙に担うようになる」という局面を見たとき、現代の日本社会とどこか重なる部分があり、既視感を覚えるかたもいらっしゃるのではないでしょうか。


もちろん、これを人間界と同じだと語るのは乱暴すぎるとは思います。


しかし、女性の社会進出だけを声高に叫び、「産めよ増やせよ働けよ」を推し進める現在の政策は、女性が仕事も育児も一人で抱え込んでパンクする構造を加速させ、結果的に少子化を推し進めてしまっているのではないか、というひとつの意見や推論を、この研究がどこか補強しているようにも思えます。


やはり、金銭面の支援で、物質的な豊かさ、わかりやすい部分だけの生活水準を充足させるだけでは、子どもは増えないのかもしれません。


キャリアの積み上げ期と妊娠出産の適齢期が重なる構造や、子どものためにと一度キャリアを離れれば自己責任とされる空気。
名だたる企業が都心など中心部に集中するなかで、高い不動産を避けて郊外に住めば、通勤時間に追われて時短勤務にしても親子が向き合う時間の余白はまるで足りなくなる。逆に、郊外ではキャリアを追いづらい。
などなど……


これは単に「金銭的な援助が足りない」という話ではないと思います。


今の少子化対策や社会のシステムは、親を「働き手」として動かすための制度ばかりが整う一方で、「女性のタイムリミットや心身の負担を考慮し」「子どもを中心に据えた」設計にはなっていないのではないか、要であるはずの女性と子どもがどこか置き去りになっているのではないか、そう感じずにはいられません。



■ ママ同士の戦いに「パパ」が不在の違和感


共働き育児の増加に伴ってか、SNSでよく目にするのが「乳幼児のワーママVSパート・専業主婦」あるいは「祖父母(昔の育児を語る層)VS 小さい子を持つ現役世代」という対立の構図です。

3歳神話や、保育園への早期預け入れの是非など、なぜか「ママ同士の戦い」や「現代のママに対する非難」が繰り返され、注目されているように思います。


ですが、その議論を眺めていると、ある重要な視点が意外なほどすっぽり抜けていることに気づきます。

そこに、大抵の場合、「夫(子どものパパ)」は登場していません



その議論は「母の子との関わり方」を言っているのだから関係ないと言われればそうなのかもしれませんが、「夫(子どものパパ)がどれだけ育児参加しているか」という視点は非常に重要なことですよね。


今の日本では共働き育児もあたり前の世の中となっています。

金銭的にそうせざるを得ないだけでなく、仕事でも社会に貢献したいと望む女性がキャリアを諦めないでよい環境があることの現れでもあると思います。

それと同時に、男性側も、当たり前のように妻と育児家事を担う時代になってきたはずでは……?

男性でも半年以上の育休を取得している方が、ここ数年で急増したように感じます。


そんなふうに「共働き」や「男性の育児参加」が私たちの生活に馴染みつつあるように見えているなかで、私自身も過去の投稿で「平日の入園式で、パパの出席率がほぼ100%だった」という光景を切り取ったことがありました。

それを見たときは、「男性の育児参加が当たり前の時代になったんだな」と、どこか感心した気持ちで捉えていた部分もありました。


しかし、ある方の発言を目にして、ハッとさせられたのです。

「入園式や入学式などのセレモニーに、これみよがしな格好をして威風堂々とやってくるパパたちを見ると、ちょっとぞっとすることがある。」

「日頃どれだけ泥臭い育児に参加しているかも分からないのに、ハレの日の『いいとこ取り』だけで、いいかにも良き父親のような顔をしている」


この言葉を聞いて、そういう可能性もあるのか、と。

男性の育児参加が社会的に推奨されるようになった分、外ツラだけを整えて、家庭内での名もなき泥臭いタスクや、母親の孤独な負担にはコミットしていない、男性の「見せかけの育児参加」「良いとこ取り育児」に悩む女性もまた少なからずいる、という現実。

まだまだ、良いとこ取りだけで、「いっしょに育児している」という家庭は少数派だからこそ、よくあるSNSでの女性同士の闘いから、男性(夫・パパ)が抜け落ちているのかもしれませんね……。



■ パパの在り方と、社会と私の根深い意識


国内外の様々な追跡調査では、乳幼児期に父親が物理的な「時間(量)」を確保して育児に関わることが、子どもの社会性を高め、母親の育児ストレスを軽減するために不可欠であるという結果が示されています。


そうは言っても、今の日本社会は女性だけでなく、男性にとってもまた別の生きにくさがあるのだろう、とも思います。

たとえば、男性がごくたまに子どものためにと仕事を休めば、「良きパパ」「良き夫」として褒められる一方で、しょっちゅう育児のためと仕事を休めば煙たがられてしまうのではないでしょうか。

多くのママは当たり前のようにやっているはずの調整が、男性側ではまだまだしにくい状態です。


何より根深いのは、社会のシステムでなく、私たち自身の内側にある意識かもしれません。


我が家は育児家事をしっかり担ってくれる夫がいて、私自身も「男性も育児するのは当たり前」と、このnoteなんかでも語っている一人のワーママです。

それなのに、もし職場で頻繁に仕事を休む男性社員を見かけたら、心のどこかで「奥さんに頼めないのかな? そんなに奥さんは大変なお仕事なんだろうか? 尻に敷かれているのかな?」などと、余計な憶測をしてしまいそうになる自分がいることに気づくのです。


環境が変わらないから、私たちの意識がアップデートされないのか。
それとも、私たちの意識の底に偏見があるから、社会が変わらないのか。

少なくとも、私はまず自分が変わらないといけない、そう思いました。


いずれにせよ、ママ同士、祖父母とママの、子を思ってこその議論のなかに、パパ(の在り方)が最初から参加していない(議論の枠外に置かれている)のは、やはり少しおかしいですよね。


女性の社会進出を推進するのであれば、「男性の家庭進出」が、見せかけではなく本当の意味でセットでなければ、私たちにとって、何より子どもたちにとって、豊かな社会は遠い夢と化してしまわないでしょうか。



■ 「美しいヒト」は、合理的に子どもを持たない選択をする?


マウスの実験で登場した、他者との摩擦を避けて自分の毛繕い(自己メンテナンス)だけをして生きる、ある意味「合理的な」「美しいオス」。

人間の場合も、男女共にこうした「美しいヒト」が増えているのかもしれません。


結婚や子どもを授かることに対して、メリット・デメリット、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスを理屈で真剣に考える若者が増えているのは、この状態に少し重なって見えます。


私自身は、子どもを産むことについて、メリットやリターンを考えて決めたわけではありませんでした。

ただただ、私には幸せだと感じる子ども時代があり、家族のことが好きでしたし、今も大好きです。

「自分も同じように幸せな家族を持つのがあたりまえだ」と、理屈ではなく無意識にそう思っていただけだったのだと思います。

振り返れば、私の父母や祖父母は、私が子どもの頃にしっかりと協力して、家庭を「総力戦」で回してくれていました。

そうした温かい原体験が私のなかにはあります。


もちろん家族の全員に大感謝をしていますが、私にとって、父の存在はかなり大きいものでした。

平日でもなるべく毎日18時に家族で夕食を囲めるように帰宅し、子ども3人をひとりでお風呂にいれ、子ども部屋でいっしょに勉強したり遊んだりして過ごし、絵本を読んで寝かしつけをしてくれた父。

そんな父、家族とのかけがえのない日々があったから、今の私がいます。



■ 効率度外視の育児と、脳が喜ぶ「必要とされる実感」


ただ、理屈抜きで飛び込んだ、育児と仕事を抱える世界は、客観的に見ればタイパもコスパも度外視の、泥臭い営みや理不尽の連続です。

合理的に考えれば、リスクやコストを恐れて、子どもを持たない選択をする若者が増えるのも無理はありません。


しかし、損得勘定だけでは測れないものもあります。


第一に、子どもはやはりかわいい、大事な大事なかけがえのない存在です。


また、妊娠生活や出産、子育て、育児と仕事の両立を通して、私自身の世界が大きく拡がりました。
理解者でいたつもりでも、当事者にならないと見えなかったこと、気づけなかったことがたくさんたくさんありました。
親の存在もより大きく感じられるようになりました。

「子育てをしている」なんて言うのはおこがましいほど、自分がまだまだ未熟であることを実感させられます。

裏を返せば、月並みな表現ですが、この妊娠出産や育児を通して、私自身が人間として少しずつ成長させてもらえている、とも言えるのだと思います。


また、「誰かから必要とされていることを実感できること」で、人は心豊かに生きられる、とよく言われています。

実際、脳科学の研究などでも、人は「誰かの役に立っている」「頼られている」と実感したとき、脳の報酬系が活発になり、ストレスを軽減する幸福ホルモンが分泌されることが分かっています。

育児はきれいごとだけでは語れません。
たくさんのハードルがあり、悩みだって尽きません。

けれど同時に、もしかすると仕事で必要とされることを越えた、他者からこれ以上ないほど「必要とされる実感」を得られる、脳にとって人間にとって、非常に豊かな時間でもあると言えるのかもしれません。



■ さいごに


金銭的な支援も必要ですが、お金で解決できることは、実はそう多くはなく、それよりも大事な「なにか」が、(私もわかりませんが)どこかに置き去りにされてしまっているのかもしれません。

あるいは…… 少子化はあたりまえのこととして、少子高齢社会としてのあり方をもっともっと議論したほうが有意義なのではないか、とも思います。


少なくとも、 人間はマウスではありません。

理性があるからこそ、思慮があるからこそ、マウスとは違う、心豊かな新しい社会を、未来をつくっていけると信じたいです。


みなさん今日も本当におつかれさまです🍵🍙❁⃘*.゚



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