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コバルト文庫デビューの少女小説家のなれの果て⑥ 終わりの始まり 本を一冊だしただけのド底辺ゴミが、1500枚の原稿を持ちこんだ結果……

コバルト文庫で1冊だけ出して逃げた僕は、26~27歳で1500枚の長編を書き上げ、T原先生に編集者さんを紹介してもらいました。

本を一冊だしただけのド底辺ゴミが、プロに原稿を押しつけた結果を赤裸々に振り返ります。

今回のNOTEは、小説原稿の持ち込みの注意点と、小説教室の講師の資質みたいなものに興味のある方に、オススメの内容となってます。

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 最初に、現在の僕(51歳)ならば絶対にやらない「大間違い三連チャン」について、語ってみたいと思います!

● 小説原稿持ち込み、大間違い三連チャンッ!

①1500枚もの量の小説を、持ちこみ出版しようと思うのが間違いっ!
 マジメに本にしたいのなら、350~450枚くらいの間で、本にしやすい形式の枚数で、口当たりのよさそうなものにすべきだったと思います。

 人に紹介してもらって持ちこむ場合は、本になるまでの過程で仲介者・編集者・編集部員・編集長が読むことになります。
 場合によっては、営業部の人も読むかもしれません。
 大勢の人が手に取りやすい作品にしないと「白ヤギさんたら、読まずに捨てた」になりかねません。

 1500枚なんて、スマッシュヒット経験作家が持ちこんでも、ウゲェ~と思われるでしょう。
 仲介者や編集者が「忙しそうな人」に向けて「おもろい企画があるんですけど、ちょっと読んでみて」と気軽にいえそうなサイズにすべきだったでしょうね。

 体重100キロの人に「彼女欲しいんだけど、いいこいない?」といわれても、気軽には紹介できませんよね。
 よほど「デブ専の知人」がいた場合は別ですが、相手の反応を想像したとき、こっちの気も重くなります。
 平均体重くらいまでダイエットしてからにしてくれよ。
 石油王の息子ならともかく、もっと普通に寄せてくれよ……くらいのことは思ってしまう人が大半でしょう。

 無名の新人が1500枚の原稿を本にしたいというのは、低収入の100キロデブが、美女を紹介してくれというくらい、ずうずうしいものだったのです。

 出版は、それなりに個性を重要視する世界ではありますが「書店に並ぶ本という商品になることを目指す」以上は「パッケージにおさまりやすいよう、サイズ感を合わせる」程度の努力・工夫は必要でしょう。

②当時、僕は推敲してませんでした。(だから、書くの早かったです)
 頭の中にあるものを排泄できたら満足、というスタイルでしたので、書き終えた段階で達成感で満たされる。
 魂が抜けたような気分になり、通して読み返したりはしてませんでした。
 当然、誤字・脱字・文法の誤りなどのオンパレードです。

 新人賞の場合は、誤字もある程度は許される傾向があるとは思うんです。
 これから育ててゆこうという気構えで、先方も読んでくれますから。
(僕のコバルトデビュー作も、一度も読み返すことなく出しました。最終候補に入ったという連絡をもらった時に、友人の作家志望者が読みたいといったのでコピーを渡したら「川村君、一枚につき3~5個も誤字脱字あったよ」といわれました)

 けれども、持ちこみの場合は「即戦力」が求められます。新人賞受賞者の場合と違って、育てることに時間をかけてもらえません。
 誤字が多い原稿は「やる気あるの?」とか「コイツの原稿に指示するの、面倒そうだよなあ」という印象を”ジャッジする側”に与えてしまうことになります。

③プロ作家に対して「持ちこみたいので1500枚の原稿を読んでほしい」という「時間搾取行為」をずうずうしくもしてしまった。

 特別、仲がいいわけでもなかったT原先生(気さくな方なので、会えば楽しそうにお話ししていただいてました)に、なぜにそんな無礼なことができたのか、今の僕には考えられません。

 僕と、T原先生は、専門学校の講師と生徒というレベルの関係性でしかありません。
 師匠と弟子みたいな、絆があったわけではないのです。

 それに、当時の僕は生意気で礼儀知らずで、ちょっとでも権威があるやつには「おどれ、なんぼのもんじゃい」というマインドで接していたこともあり、失礼なことを何度もいったことがありました。

 にもかかわらず……T原先生は、僕に出版社を紹介してくれたのです。

 ちなみに僕がT原先生の立場(実績も含む)だったとして、当時の僕から似たようなお願いされても、絶対に1500枚の原稿は受けとらなかったでしょう。

 そこそこ仲がよくて、実績がある方に限って(デビュー済)で、本になる確率のあるもの(せめて550枚は切ってくれ)ならば……そのとき自分がヒマならば、ワンチャンあるかも、という感じだと思います。

● プロ小説家(あるいは、編集者や書評家等……文筆関連のなりわいとしている人)に、原稿読んでくれとお願いするのは……かなりの確率で嫌われると思います。

 もし、あなたが小説書きを趣味にしている方で、長編小説を一本しあげたとしましょう。
 そして、文フリなどに出たりして……なんとなく、業界関係者と知り合ったとして、読んでほしいといっても……結構な確率で嫌な顔されると思います。
(向こうからいってきた場合は、別。ただし、容姿のいい女性は注意が必要)

 400枚の原稿を「きちんと感想言えるくらいまで読みこむ」「感想を文章に起こす」って、マジメにやると半日がかりだと思います。

 某小説教室では、授業料の他に講評料として「6枚:1000円」とっていました。
 1500枚の原稿ならば、25万円請求されることになります。

 ネットで添削などをしているところも、400枚くらいの長編で4~5万円くらいです。
 プロに読んでもらうというのは「そのくらいの対価」を支払わねばならない行為なのです。

 いいかげんな評をすると、小説家(読み手・中堅あたりから、解説や書評や帯の仕事をする)としての自分の価値を貶めることになります。

 編集者に橋渡しするならば、適当な作品を紹介すると、業界における自分の文名を汚すことになりかねません。

 また、適当に読んで適当なこと言うのって書き手にも伝わりますからね。確実に恨まれます。
 かといって、マジメに丁寧に読んでも「どのみち褒めなければ恨まれる」という、ムリゲーではあるのですが。

 素人や売れてないセミプロの長編小説を評することは、あらゆる”評”の中で、一番面倒な気がします。

 評される側が、自己肯定感が低い状態(世に出る前や、売れてないときはナーバスになりやすく、根に持ちやすい)なので「言葉を選んで伝えねばならない」のもしんどいです。

 うっかり読むことになっちゃった方は「褒める・本音の苦言をマイルドに告げる・褒める」のサンドイッチ評を送ることで、しのぐしかない。
(それ以外だと事故る可能性、大)

 そういうわけで大変なんです。
「情熱と時間を注ぎこんだ創作物」を、ジャッジするべく向きあうのって、それなりに消耗させられるんです。

 気軽に頼んじゃダメなんです。
 その人の技術(職能)と時間(人生)を軽く見ていることになるんです。

● 未発表の作品を読むことで発生する盗作リスク

 本になってない段階の原稿を読むのって、実はかなりリスキーなんです。

① 将来、盗作疑惑をかけられる可能性が発生します。
(不同意性交で訴えられるような感じで、寝耳に水のようなタイミングとアクロバティックな理屈で起こる)

 デビュー前や不遇時代の書き手は、ナーバスで猜疑心強いです。
 そもそも、妄想好きの人が目指す職業です。
 そういう人の原稿を「書き手・表現する側」が読むのは、リスクは高いです。

② うっかり、何年後かに、盗作してしまう可能性もあります。
 クリエティブって、さまざまな先人の作品の影響を受けながら、脳内でイメージを熟成させるわけですが……初期段階では、無意識的にやっていることって多いと思うんですよ。

 だから、数年前に読んだ作品のイメージやネタを、自分が考えたものとして、認識してしまうこともあるかもしれません。
(作詞作曲では、まま起こるようです)

 また、ネタって、様々な「社会現象」の問題を受けながら作るので、同じようなものを思いつく可能性はあるわけです。

「未発表の原稿を読む」ということは「将来自分が思いついたかもしれないネタ」を使えなくなるともいえるのです。

 これが世に出ているヒット作ならば「アレっぽいことやってみたのね」とか「すでに、多くの模倣者がでている」ので、その一群にまぎれることになる。
「二匹目のどじょうならば、パクリ野郎」といわれるが「五匹目のどじょうならば、手堅く数字とりにいってるなあ」とか「あのお題に、挑戦してみたのね」となるわけです。

 でも「未発表作品」でそれやったら、シャレじゃすまないです。
 文名に大打撃を受けることになるでしょう。

 長々と書きましたが、それくらいプロ小説家が「誰かの未発表作品」に関わるのは危険なのです。

● T原先生が、誰にも相手にされてなかったゴミクズ川村蘭世に、編集者さんを紹介してくれた理由三選。

 上記した通り、ものすごくリスクがあるにもかかわらず……なぜ、T原先生は出版社に「コバルト文庫とトラブルを起こし、一冊で終了したヤベェーヤツ」に紹介してくれたのか?

 以下は、僕の勝手な考察になります。

① 親切な人だったから→→少しあると思います。T原先生は一見クネクネしてるので、テキトォー人間に見えます。
 けれども、実は広島県民の典型的な「相手のために、自分にできることはする。先に相手にギフトする」タイプだったりします。

② クズに優しい→→僕はそれほどT原という人を知っているわけではないので、遠目に見ていた感じとか、作品内容からの推察になるのですが……

 放っておいたらロクな人生送らなそうな不遇系ゴミクズに「ワンチャンスくらい誰かがあげてもいいんじゃないか」そういう思想を持っている方だったように思います。

 僕が「人として未熟で、ひどい生き方をしていたから」手をさし伸べてくれたのではなかろうか……という気がしてるんです。

③ ある種の実験だったのかも→→T原は、あるとき酔いの席で「結局、人をつくっているのが一番面白いんだよなあ」と語っていたことがありました。

  僕は、T原先生のポケモンだったということです。
  彼の手持ちポケモン(持ち駒)の中でも、最下層だったとは思うけれど。

● ガンダムよりもズゴックが好き……あるいはクソゲーをやりこむように

 ガンダムは水陸宇宙とどこでも戦えるオールラウンダー万能モビルスーツですが、スゴックは水辺でしか能力を発揮できません。

 それこそ「水を得た魚」という言葉がありますが……「この人、この場所以外だとゴミだよな」とか「ここでなら、この人は役に立つけど……絶対に、二人で雪山遭難したくない」というタイプはいますよね。

 そういう欠陥品に近いものを……無理くり使うことに面白みを覚える人って、いろんなジャンルに散見されますよね。

 エンスー族とか、遠出すると帰りはレッカー車のお世話になる系のボロボロ外車を、ちょこちょこいじりながら乗ってる人いますよねえ。

 クソゲーハンターとか、だめんずウォーカーとか、あえてバランスの悪いものに惹かれてしまう人っていうのは、一定数存在します。

 まあ、そういう人たちに比べると、T原はもう少し知的で学者肌で……彼が、ダメ人間たちから得ているものがあったように思いますが。

『拳奴死闘伝セスタス』というローマ時代の格闘漫画に、デモクリトスという格闘技指導者が登場するんです。
 その人は、最初は天分ある人を育てていたのですが……途中から「才能のない人間に、その人用の戦術を授け、その成果を眺める」ことに悦びを見出すようになるんです。

 その拳奴の特性(身長や、手足の長さ、性格)にあわせた指導をして、オートクチュール的に、オンリーワンのファイターを生成する。
 (再現性は薄いのかもしれない)
 ファイターはその特異性(初見殺し的な、攻防力)を駆使して、二流の競技者として拳奴業界をサバイブしてゆく。
 その姿をデモクリトスは睥睨し、己の知見を深めながら楽しんでいる。

 神と悪魔が合わさった(破壊的創造者・ケツは拭いてくれない)ような、求道者(己の好奇心という欲望のために選手を育てる)なわけなのですが。。。

 そんな感じで、T原先生も、あえてダメ人間を手厚く指導したり、機会を与えていたのではなかろうかと思うんです。
 T原先生の周りにいた人たちのことを思いだすと「バイトの面接に現れたら、最初に落としたくなるような人」が多かった気がします。
 そんな中からでも、何人もデビューしてゆきました。

 T原という作家は、孤高の作家的な空気感とは裏腹に、講師業を生涯を通してつづけていました。

 それは、なぜなのか?

「世間一般で優秀とされる奴等でも届かない作家という職種に、世間からみくだされているダメ人間を加工してならせてみたら、痛快だろう」というような実験精神(愉快犯的思想)があったのではなかろうか――そう思うのです。

● 他の創作系教室と、T原先生の指導方法との比較

① ヒュブリス症候群のおじいちゃん講師(元編集者)による、完全独裁教室!

 僕は、他の創作教室とかもいったことがあるんですけど……そこで、評価されているのは、おじいちゃん講師(小説家ですらない)の時代錯誤で有用性にとぼしいトンチンカンな論法に、心酔する素直すぎる生徒たちでした。

 10年以上在籍しながら、結果をだせてない人がたくさんいました。。
 といっても、10年在籍している人たちは、さすがにお上手でしたよ。
 皆さん、僕より遥かに能力の高い人たちでしたし。
 デビューしている人たちとくらべても、講評などでは差はなかったですし、実力者ではありました。

 では、どこに差があったのかというと……講師を見て書いている人と、世界(社会)を見て書いている人の差だったんじゃないかなあ~という気がするんです。

 ここに皮肉な現実がある。
 素直でマジメだから伸びる部分もある反面、老害センスのクソバイスにも従ってしまう。

 表現者というのは、どこか新しい価値観(時代の変化)を提示する(気づかせる)役割が求められていると思います。
 老人の蒙昧で珍妙な語りを、まるっと信じこめる人たちの言葉は、どうしても新しさに欠ける部分があると思います。

 イエスマンでいるうちは、おじいちゃん講師も気持ちよくなって褒めてくれる。
 素直な生徒たちは、それで安心してしまう。そこに負のループがある。
 優秀な人たちの芽を詰んだのは、おじいちゃん講師のヒュブリス症候群だと、僕は思っています。
 
 ヒュブリス症候群は、批判を拒絶し、自己のイメージに執着する病です。
 権力だけを持っている(実質的な能力は低い)人の自信のなさが、引き起こす病のようです。

 おじいちゃん講師(元編集者)は、自身が執筆能力がない(何一つ創作物を残してない)というコンプレックスから、自分と違う意見に攻撃的になってしまったのだと思います。

※ その教室には、おじいちゃん講師三大誤読というものが伝わっていました。
 おじいちゃん講師が大酷評したにもかかわらず、新人賞を受賞したり、世に出たものが三本あったのです。
 そのうち一本はNHKでドラマ化して、のちに映画化してます。

 現在では、五大誤読になっていると思います。

 僕より、遥かに能力が高く才能のある人が、おじいちゃん講師に出会ってしまったがために、その芽を踏みにじられていた。
 老いがもたらす醜悪なまでの害を、思い知らされましたね。


② 非社会人・T原先生による、カオスな実験場!

 老害思想が蔓延する小説教室とは打って変わって、T原先生の講義は、ユルふわっとしていて哲学的で、混沌に満ちたものでした。
(わからない人には、本当によくわからなかったようです)

 また、T原先生は、授業に8割がた遅刻してきました。
 提出した課題も、半分くらいは返ってきませんでした。
 そんな先生のことを「しょうがないなオッサンだな」と、生徒たちは下に見ていたように思います。
 お気の毒な感じの非社会人男性として、軽くザツに扱ってました。

 心酔することなく、T原先生を「師匠ではなく、トレーナー」のように見ていたからこそ、自分の個性を保ったまま成長してゆけたのかもしれません。

 といっても、T原先生の文筆者としての能力は、書く人間ならば恐れを抱かずにはいられないものでしたが。

 T原先生は人間的だらしなさから受ける軽侮を、筆力で覆していたのです。
『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーと、その一行(ヤン・イレギュラーズ)が近い関係かもしれません。

 T原先生の授業は、本来のテーマから雑談に流れて、ただなんとなく先生が最近思っていることだけをダラダラしゃべっていることがありました。
(そういうのが大半だった気がします)

 けれども、そこには小説家という頭脳労働者ならではの知見があり、井上陽水的な語り口(酔拳的に、ゆらゆらしている)もあいまって奇妙な味があり、とても楽しく拝聴できました。
 生徒たちは「T原先生の思考方法、言葉の選び方……脳の使い方」を、授業から学んでいたのです。
 
 そして、個別には飲みの席などで、T原先生はボソボソッとアドバイスしてくれる。
 それで伸びる。あるいは、違う道にいったほうがいいことに気づく――そういう感じでした。

● 奇妙な作家の、不可思議な意思が働いた。
 それは、一つの奇蹟だったのかもしれない。

 以上のような、状況というか条件の中で、僕の1500枚の原稿(無理筋で負け戦が濃厚・通常ならば仲介を引き受けない)は、編集者さんの手に渡ったのでした。

 その編集者さんは、T原先生と古くからの友人のようでした
 彼は「半村良とかのムードや手法を、今のファンタジーにくわえたのは面白いね」と褒めてくれました。

 わりと幸先のいいスタートでした。
 僕にとって「これで復活できる」「ぬかるみの中から抜け出せる」という希望が感じられた瞬間だったのです。

 次回、コバルト文庫デビューの少女小説家のなれの果て⑦終わっていることに、なぜ気づかない?

 ご期待ください。

過去に一冊だけだした本のアマゾンリンクも残しておきます(^^;

他「なれの果て」のシリーズはこちらから

全八話(第一部完になります)

 

2025年に、大藪春彦新人賞 & 映像化奨励賞のW受賞しました。

 徳間書店さんつくってくれたPVを見ると、主人公(視点人物)である男性のことは全然触れられてないので、コバルトで僕が書いたものとは違う印象を持たれる方もいるかもしれませんが……作風は、大きくは変わってないと思います。コバルト文庫の『吸血鬼の綺想曲』を好きな方ならば、きっと楽しめると思います♪

 
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