見出し画像

【自己紹介】料理苦手な栄養士が中医学と養生でPMSと向き合い続けている話


はじめまして
中医学で人生が激変した
栄養士 のあやと言います。

今は主にThreadsで
薬膳・栄養学の考え方をベースに
がんばらない食事で
心と体をゆるっと整えるコツ
について発信しています。

管理栄養士・3児の母・東マレーシア在住

こう聞くと
なんだかすごそうな暮らしをしていそうに
聞こえるかもしれません。
でも、実態はまったく違います。
まず、何を隠そう、私は料理が大の苦手です。
そう、アカウント名にいれるほどに。
そして、かなりのズボラです。

東マレーシアがどこかわからない人も多いと思います。
実際、私も移住を意識するまでは
全く知りませんでした。

ちなみに、
マレーシアは大きく2つのエリアに分かれています。
首都クアラルンプールなどがある
西マレーシア(マレー半島側)
私が住んでいる、自然豊かな
東マレーシア(ボルネオ島側)
です。

日本製品はほぼ手に入らない
都会ではなくのんびり田舎な町に
くらしています。
最近、無印がオープンして狂喜乱舞しました。
あと、ユニクロ、ダイソーは買えます。
さすがグローバル企業!
(もちろん、日本で買うより2割くらい高い)

このnoteでは
そんな私がどうして
今のがんばらない健康法
という考えに至ったのか
過去の遍歴とともにお話しさせてください。

もし「私も料理苦手…」「健康って疲れちゃう…」と
少しでも感じたことがあるなら、
きっと共感していただける部分があると思います。

これからnoteでの発信にも力を入れていきたいので、
ぜひこの記事の「♡(スキ)」していただけると嬉しいです。

それでは早速…!



___________________________________________________

管理栄養士の理想と現実。「食の無力さ」を感じた療養病棟勤務・時代

21年前の2004年、
国家資格である管理栄養士の資格を取ったとき
私は「食の力で人を健康にできる!」
と希望に燃えていました。

私のキャリアの第一歩は、療養病棟での勤務でした。
管理栄養士と聞くと、
栄養計算をしたり、患者さんのために栄養指導をしたり…
そんなイメージがあるかもしれません。私もそうでした。

しかし、そこは終末期の患者さんのみが入院できる
長期療養型病院。

目の前には、点滴や胃ろうで栄養を摂る方々。
食べたくても嚥下(えんげ)*ができず、
チューブ栄養で痩せていく方。
食べさせれば、誤嚥で命の危険があるというジレンマ。

認知症で暴れる患者さんのいる隔離病棟へは、
施錠された扉を開け、3人がかりで配膳する毎日。

*嚥下とは
食べ物や飲み物を飲み込む動作のこと。
この力が衰えた状態で無理に食べると、食べ物や唾液が誤って気管に入ってしまい、細菌が原因で肺が炎症を起こす「誤嚥性肺炎」という、命に関わる病気を引き起こす危険があります⚠️

自分を失っても、
栄養さえ摂れれば生き続けられる。
自分を失ってない方でも、
嚥下の力が弱って食べたくても食べられない。

その現実に、「食の力とは何か」と自問自答し、
自分の無力さを痛感しました。
そして、「こんな人生の最期は嫌だ」と強く感じたのです。

この経験が、私の死生観を大きく変えました。

人間は、いつか必ず死を迎えます
だからこそ、「そのとき」までをどう生きるか
人間、いつかは死ぬ。

その避けられない事実を前にして
私が強く感じたのは
「寿命の長さ」ではなく「人生の質」の大切さでした

ただ栄養を摂って生きながらえるのではなく
一口でも多く「おいしい」と感じ
一日でも長く自分で食べて動ける体で過ごせること。
「完璧な栄養バランス」よりも
「一生続けられる習慣(食・生活習慣・思考」
を大切にするのは、このときの経験が原点になっています


挫折と退職、そして職業訓練で得た「生き抜く知恵」

もっと一人ひとりの「人生の質」に
寄り添える栄養指導がしたい

そう決心して私は3年で病院を辞職し
スキルアップのための転職を決意します。

しかし、理想だけでは生きていけない。
厳しい現実がすぐに私を襲いました。

貯金はいくらかあったものの、
退職した翌年に届いたのは、
前年度の収入をもとに計算された
高額な所得税と市民税の請求書。

それらを支払ったら、
手元にお金はほとんど残りませんでした。

そんな八方塞がりの私にとって、
希望の光となったのが
ハローワークで申込ができる
「職業訓練」という制度でした。
(私はPCスキルアップの講座を選択しました)

次の職場で必要になるパソコンスキルを
無料で学べるだけでなく

なんと失業保険が待機期間なしで給付される。
交通費まで支給され

講座の途中で給付期間が切れる場合は
延長までされる…。

本当にありがたい制度でした
*1回目の退職時・次男出産後に再就職するために2回受けました。
履歴書や職務経歴書の作成、面談の練習といった就職相談サポートもしてくれます!

この経験から、理想を追い求める情熱と同じくらい
現実を生き抜くための
「知恵」と「情報」が大切なんだ
身をもって学びました。


無事に理想の職場に転職!できたのも束の間

3月末に退職後、5月から3ヶ月間の職業訓練で
マイクロソフトの資格(MOS)を取得。
約8ヶ月のブランクを経て
翌年1月に新しい職場に就職しました。

そこでは、国の新しい制度
「特定保健指導」*の新規事業立ち上げという
非常にやりがいのある仕事に携わります。

*特定保健指導とは
40歳から74歳までの方を対象に行われる。
健康診断の結果に基づき、メタボリックシンドロームのリスクがある方に対して、生活習慣の改善をサポートする保健指導のことです。
健康診断の後に、保健師さんや管理栄養士さんから「食事や運動について、少しお話ししませんか?」と声をかけられる、アレです

2年後、事業がようやく軌道に乗り始めた、
まさにそのタイミングで、
私が27歳(夫24歳)のタイミングで
結婚と妊娠を迎えます。

当然、産休を取って復帰するつもりでした。
しかし、まだ小さな事業規模だった会社から
告げられたのは、
「産休は取らせられない」という非情な言葉。
それは、事実上の“肩たたき”。
もちろん、自己都合退職にさせられました。

ここからが、
私の人生の「暗黒期」の始まりでした。


ワンオペ年子育児と産後うつ。心と体が壊れていった暗黒期

妊娠・出産を経て、
待ち受けていたのは
想像以上に過酷な現実でした。

廃車トラブルと妹の優しさ。お金がないなら知恵を使う

まず、長男を出産し兵庫県の実家に帰省していた時
夫が交通事故を起こしたのです。

幸い相手のいない単独事故でしたが、
購入してまだ1年の愛車は、無残にも廃車になりました。

しかし、私はここでも諦めませんでした。
職業訓練の時に学んだ
「現実を生き抜くための『知恵』と『情報』が大切だ」
という教訓が、私を突き動かします。

その当時、車を購入したディーラーに相談したら
処分費5万円かかります!を請求された廃車。
私は必死に情報をかき集め、
なんと逆に13万5000円で売ることに成功しました!
おまけで、夫の禁煙にも成功しました🎉

絶望的な状況でも、知恵を使えばプラスに変えられる。
この時の経験は、私の大きな自信になりました。

そして、そんな私の状況を見かねて、
救いの手を差し伸べてくれたのが妹でした。

「ちょうど乗り換えようと思ってて、新車を買うつもりだから、今まで乗ってた車、お姉ちゃんに譲るで!」と。

その優しさが、本当に心に沁みました。
もちろん、タダで受け取るわけにはいきません。
廃車を売って得た13万円をそのまま妹に渡すと、
「いらないよ、気にしないで」
と何度も断られましたが、
「これは私の気持ちだから」と、
最後にはしっかり受け取ってもらいました。

これで一件落着…とは、もちろんなりません。
次に立ちはだかったのは、「車の車庫証明取得・名義変更」という、
また一つの壁でした。

当然、業者さんにお願いする余裕なんてありません。
これも、自力でやるしかなかったのです。

抱っこ紐で次男を抱え、
ベビーカーに長男を乗せて、
慣れない手続きのためにあちこちを駆け回る…。
今思えば、すごい光景ですよね(笑)。

お金がないなら、知恵と体で乗り越えるしかない。
廃車〜名義変更のあれこれについては
こちらの記事にまとめています。

こうして、妹の優しさのおかげで
なんとか移動手段は確保できたものの、
私の本当の苦難は、ここから始まろうとしていました。


ブラック企業勤務の夫と、深夜の夫婦時間

夫は飲食系のブラック企業勤務で給料は少なく
月に4回しかない貴重な休みは
釣りや飲み会など、彼自身の時間として消えていく。
その時は、休みなく働く夫の給料だけが
頼みの綱だったので

「わたしたちのために働いてくれているのだから」

と、何も言えませんでした。

長男と二人きり、
誰にも頼れない「ワンオペ育児」

そんな状況の中、
息つく暇もなく、私は第二子を妊娠・出産。
壮絶な「ワンオペ年子育児」のスタートでした。

もう、家の中はぐちゃぐちゃ。
まずは、1歳半だった長男にご飯を食べさせて
赤ちゃんの泣き声と、片付かない洗濯物の山。
おもちゃは床中に散乱し(踏んで怪我したことも多々あり)
朝に食べさせた食事の残骸がテーブルにそのまま。

自分の食事は、キッチンで立ったまま
長男が残したスティックパンをかじるだけ。
心も体も、休まる瞬間は一瞬たりともありませんでした。

夫の帰りは、いつも深夜。
それに加え、週に一度は決まって電話が鳴りました。

ごめん、お客さんにお酒飲まされてしまった。迎えに来て欲しい

その電話は、過酷なワンオペ育児の中で、
夫と唯一ゆっくり話せる時間が始まる合図でもありました。

寝ている子ども二人を起こさないよう、
そっと毛布でくるみ、深夜の冷たい空気の中、車に乗せる。

バックミラーに映る、
ぐっすり眠る子どもたちの顔を見ながら
「お願いだから、このまま起きないで💦」
やっとの思いで夫を回収して帰宅し
子どもたちをそっとベッドに戻した後
そこからが、私たち夫婦の貴重な会話の時間でした。

当時、夫は飲食店の店長でした。
調理場に立ちながらスタッフをまとめ、
日々の売上という
厳しい数字のプレッシャーとも戦っていました。
夜営業が中心だったお店の
売上をさらに増やそうと
慣れないランチ営業を始めたり
新しい持ち帰りメニューを開発したり
責任者としての重圧を一身に背負い
上客を魅了するための接客術を磨いたり
もっとお客様を魅了する料理がつくりたい!と
さまざまのジャンル料理の本を購入して勉強したり
京都の人気フレンチのシェフに頼み込んで
午前中〜13時までの仕込みバイトに行ったり
すきま時間も極限まで仕事に捧げていました。

文字通り、身を粉にして働いている姿を
私は誰よりも近くで見ていました。

内職の手を動かしながら
夫の愚痴や悩みを聞いたり
その日にあった
子どもたちの小さな成長を伝えたり

私たち夫婦にとって
かけがえのない大切な時間でした。


抜け毛と感情のジェットコースター。これが「血虚」のサインだった

ただ、そのかけがえのない時間と引き換えに、
私の心と体は静かに限界を迎えていました。

夫との時間をとる
途中で起きる子ども達のお世話で
慢性的な睡眠不足
休む間もないワンオペ年子育児・家事・内職。
そして、次男を完全母乳で育てていたこと

身体からのSOSは、はっきりと現れ始めます。

お風呂の排水溝に詰まる
ごっそりとした抜け毛…。
髪は目に見えて薄くなりました😭

鉄剤を飲んでも追いつかない貧血で
起き上がれずに寝込む日も増えていきました。

そして、心も限界でした。産後うつです。
さっきまで笑っていたかと思えば
次の瞬間には理由もなく涙がこぼれる。
感情のジェットコースターに
自分自身が振り落とされそうでした。

今振り返れば、
この心身ともにボロボロの状態こそ、
中医学でいう「血虚(けっきょ)」。
体中に栄養と酸素を運び
心を安定させる*ための『血(けつ)』が
決定的に不足していたのです。

*中医学では、「心(しん)」は精神活動の中心であり、
その活動を支えるガソリンが「血」だと考えます。
血が不足すると、心が栄養不足になり、
不安感、不眠、夢を多く見る、気分の落ち込みといった症状が
現れやすくなる
のです。

自分の体質が気になったあなたは、こちらの記事で診断できます🌱

わたし、血虚かも??と思った方はこちらをチェック✅

もちろん、当時の私はその不調が
「血虚」だなんて知る由もありませんでした。
ただただ、気力と根性だけで毎日を乗り切ろうと、
必死にもがいていました。
まだ若かったから乗り切れたのもあると思います。

今の私なら、まずはこの2つから始めます。
「夜更かしをやめること」
「ご飯をしっかり食べて、間食をおにぎりとゆで卵にすること」

まずは、しっかり眠る。
そして、食べられる時に、ちゃんと食べる。

それ以上に特別なことは、
元気になってからで大丈夫。

もし、タイムマシンがあるのなら。
あの頃、苦しんでいた自分に
そう伝えにいってあげたいです。


ワーママの限界と「在宅ワーク」への転身。14年間の奮闘記

産後うつを気合いで乗り越え、
下の子が生後半年になったタイミングで、
私は再就職活動を始めました。

長男3歳、次男1歳半のタイミングで一大決心

夫の勤務が不規則で育児を頼れないため、
栄養士として病院などで働くことは難しい。
そう考えた私は、事務職への再就職を目指し、
簿記2級を取得することを決心します。

結果は、3ヶ月で一発合格。
その後、無事に
税理士事務所での半年間の契約社員としての職を確保し
社会復帰への確かな足がかりを掴んだのです。


ワンオペ・ワーキングママは無理ゲー

しかし、待っていたのは、
時間に追われる壮絶な毎日でした。

朝6時に起き、ご飯を食べさせて身支度して
ぐずる子どもたちを保育園へ送り、満員電車で通勤。
9時から15時半まで勤務
その後、ダッシュで電車に乗り込み、
16時半までに必死で保育園へ迎えに行く
*16時半を過ぎると延長料金がかかってた

朝と夕方は常に焦りとイライラで、
帰宅後も息つく暇はありませんでした。

さらに私を悩ませたのが、
頻繁に起こる子どもたちの体調不良です。
長男と次男が交互に熱を出し、
病児保育も見つからず、
仕事を休まざるを得ない状況が続きました。

半年間、この生活を続けてみて
私は一つの結論に至りました。
そして、このタイミングで幸か不幸か
三男の妊娠が発覚します。

この働き方は、今の私にはできない。無理だ、と。

もしこれが正社員で
十分な給料と将来への希望があるなら
まだ頑張れたかもしれません。

しかし、当時の私は、
ボーナスも有給休暇もない
時給制のしがないパート社員
でした。


子どもが熱を出して仕事を休めば、
その分、収入はダイレクトに減る。

あれだけ心身をすり減らして働いても、
手元に残るのは、ほんのわずかなお金だけ。

この生活の先に、明るい未来が見えなかったのです。
このままでは、
子どもたちに笑顔で「おかえり」を言うことさえ
できなくなってしまう。
最悪、体を壊してしまうかもしれない。

外で働くのが無理なら、家で働くしかない

そう感じた時、
私は「外で働く」という選択肢を
完全に手放す決断をしました。


崖っぷちで見つけた希望の光と、新たな波乱の幕開け

実は、長男が生まれてから
職業訓練で勉強していた時期
あの壮絶なパート勤務時代も
私は細々とではありますが、
在宅ワークの仕事を続けていました。

在宅ワークをメインに10万以上稼げる道を探す!

「在宅ワーク」という働き方を
本格的にスタートさせると決意しました。

そこから、10年。
長男の誕生から数えれば、実に14年間。
私は完全在宅でキャリアを積んできました。

これまで経験した在宅ワーク(一部)はこちら。

1袋4円のリアル内職(昭和w)
時給1円のデータ入力
電話調査+データ入力
パワーポイントでのマニュアル作成
shopify、ebayでの出品、修正作業
ワードプレスへの記事貼り付け・レイアウト調整
地図アプリでの飲食店マッピング作業
覆面調査員(銀行、飲食店など)
仕分入力(簿記)+レシート整理
生活情報についてのアンケート(半年継続)
音声データの文字起こし
ライター
完全在宅の海外発送
オンライン秘書

▼私の14年間のリモートワーク奮闘記もまとめてあります

しかし、在宅ワークという新しい世界で私を待っていたのは
また別の種類の戦いでした。

これで子どもたちのそばにいられる!

そう思ったのも束の間、すぐに気づきます。
通勤という物理的な移動がなくなっただけで

仕事も、家事も、育児も、
すべてを一人で回す「ワンオペ」なのは
何も変わらない
という事実。

夫との関係が
ギクシャクし始めたのも、この頃でした。

外で働くという地獄から
抜け出したはずが、
待っていたのは
オンとオフの切り替えがない
終わりなき孤独な戦い。

そんな八方塞がりの毎日の中で
私は一つの求人に出会います。

三男を妊娠中、わらにもすがる思いで見つけた
完全在宅の「海外発送代行」という仕事でした。

これが、私の、そして私たち家族の人生を
大きく変えることになるのです。


夫が副業を始めて、7年勤めた会社を脱サラ!

最初は、家計の足しになれば…くらいの気持ちでした。
しかし、この仕事は軌道に乗り始め
私は、月に10万を在宅でコンスタントに
稼げるようになりました。

ブラックな労働環境に疲弊していた夫が、突然こう言いました。

俺もその仕事をやりたい

夫の決意は、衝動的なものではありませんでした。
そこから半年間、夫は本業の合間を縫って、
副業としてこの仕事にチャレンジします。

そしてそれは同時に、
私が自分の仕事に加えて、
夫の事業を手伝うという「二重の役割」を
背負うことになった瞬間
でもありました。

その時の状況はこちらから↓

そして、副業での収入が
本業の給料をコンスタントに
超えられるようになったタイミングで
彼はついに脱サラを決行したのでした。

さらに、かつて私が助けられた経験から、
「失業保険をすぐに受給するために、職業訓練に通ったら?」と助言。

夫が家にいる時間が増えれば、少しは楽になるかもしれない
家族の時間も増えるはず!

そんな私の淡い期待はすぐに打ち砕かれます。

日中は職業訓練
朝晩は海外物販の仕事
脱サラ前とほとんど変わらなかったのです。

毎月決まった給料が支払われる
サラリーマンとは違い、保証はどこにもない。

自分が動かなければ、収入はゼロになる。
そのプレッシャーは
私が想像していた以上に相当なものだったようです。

実際、夫は日に日にピリピリしていきました。
そしてついに、その矛先が私に向けられます。

俺の仕事を手伝うのが普通やろ!お前の仕事より、こっちを優先してや!

こうして、私のワンオペ育児は
楽になるどころか、むしろ悪化の一途をたどります。

これまで通りの自分の仕事と家事育児に加え
「夫の事業の手伝い」という
終わりが見えない新たなタスクが
私の肩に重くのしかかってきたのです。


「管理栄養士で、母親である私」という呪縛

そして、そんな自分をさらに追い詰めていたのが
「管理栄養士で、母親である私」という呪縛でした。

どんなに時間がなくても
「栄養を考えた食事を作るのは、私の仕事だ」と、
必死に子どもを大切にする完璧な母親であろうとしていたのです。

知識があるからこそ
「〜べき」という理想像がどんどん膨らんでいく。
それなのに、現実はまったくうまくいきませんでした。

・時間をかけて作ったのに夫や子供に「いらない」と口もつけてもらえない
・仕事と育児で疲れ果てて、キッチンに立つ気力もない
・そもそも夫の方が料理がうまいw

毎日の食事作りが苦痛なタスク
変わっていきました。
心のどこかで

管理栄養士のくせに、なんてダメな母親なんだろう

と、自分を責め続ける毎日。
産後で増えたの体重(+12kg)も戻らず、
心も体もボロボロでした。


考え方を180度変えた、ある日の「手放し」

そんな日々が続いていたある日、
ついに私の心は限界を迎えました。
「もう、全部やめよう」と。

私がやめたことはこの3つ

・完璧な献立を考えるのをやめました
・すべて手作りするのをやめました
・一食で完璧な栄養バランスを目指すのをやめました

それは、私にとって大きな「手放し」であり、
そして「転機」でした。

私は管理栄養士としての知識を
「完璧な食事を作るため」ではなく、
「いかに手を抜きながら、健康の最低ラインを守るか」

という方向に使うことにしたのです。

・この冷凍食品に、これを足せばバランスがよくなるな
・今日の昼はこれで済ませたから、夜はこれだけ食べればOK
・子供が笑顔で食べてくれたらそれで100点!

視点を180度変え
「いかに手を抜くか」を考え始めた
ことで
私の心は驚くほど軽くなりました。
心が軽くなると体も応えてくれるもので、
産後まったく動かなかった体重も、
ゆるゆると産前の体型に戻っていきました。


順風満帆だった海外物販・自宅の売却へ

そして、夫の挑戦には
時代が味方してくれました。

2014年当時、私たちが始めた海外物販は
まだ参入者が少なく「ブルーオーシャン」と呼ばれていた時代
まさに、何を出品しても飛ぶように売れる
ボーナスステージのような状況でした。
事業の売上規模は、面白いように右肩上がり。
個人事業主としてスタートしてから
わずか半年後には法人成りを果たすまでに成長したのです。

その勢いのまま、夫は大きな決断をします。
「もっと治安がよい地域へ引っ越そう!」と
7年間住んだ家の売却を決意したのです。
もちろん、
その家の売却手続きの担当は、すべて私でした(笑)

ここでも私は情報と知恵を総動員し
7年前の購入価格と全く同じ金額で売却することに成功します。

私たちは公私ともに大きなステップアップを果たし
順風満帆な日々が続く…かのように、思われました。

そう安堵したのも束の間。
私の人生に大きな試練が訪れます。


PMS悪化で離婚危機。「ガラスを割った日」が人生の転機に

それは、産後徐々に酷くなっていた
PMS(月経前症候群)の悪化
そして世界を襲ったコロナ禍です。

PMS(月経前症候群)の悪化

産後に徐々にひどくなっていたPMSの症状によって
私の体は悲鳴をあげ始めました。

当時の私は、PMSや生理の不調で、
月の半分はまともに動けない状態でした。
生理が始まると2日目までは寝たきり

ホルモンバランスの乱れからくるイライラで、
まるで別人のように人格が変わり、
家族に八つ当たりをしてしまう…。
家庭内でもすれ違いが生まれ、
まさに人生のどん底でした。

管理栄養士なのに、自分の体調ひとつ管理できない..

薬(命の母、ロキソニン)を手放せず
自己嫌悪に押し潰されそうな
毎日を過ごしていました。

婦人科を受診しても、
返ってくる言葉はいつも同じ。

血液検査では異常はないですね。痛み止めを処方しますね

ああ、私のこの苦しみは、
誰にも理解されないんだ…
と絶望的な気持ちでした。

当時の私の一日は、こんな感じでした。

朝、小学生の上の子二人を見送り
電動自転車を飛ばして、
幼稚園の三男をに送り届ける。
そこから夕方のお迎えの時間まで、
一息つく間もなく、
自分の仕事(その当時はオンライン秘書でした)と
夫の仕事を手伝う作業に没頭する。
まさに、ノンストップ。
そして夕方、子どもたちを迎えに行き、
戦場のような夕食とお風呂、寝かしつけを終える。
そこからまた、夜中の作業が始まる…。
まるで「24時間戦えますか?」の
リゲインのCMそのまま(古い)

いや、昭和の熱血モーレツ社員か!と、
自分にツッコミを入れたくなるような毎日でした。

そんな、かろうじて成り立っていた私たちの日常に
追い打ちをかけるように、世界が一変します。


新型コロナウィルスで生活が一変

新型コロナウイルスによる突然の非常事態宣言
子どもたちの学校ももれなく
1ヶ月間の全面休校になりました。

そして、夫の事業は致命的な打撃を受けます。

海外発送事業
海外への荷物の受け入れが、すべてストップ。
それどころか、すでに発送したはずの荷物までもが
次々と日本へ返送されてくるという異常事態に。

ゲストハウス事業
こちらも海外からのお客様が完全に途絶え、
予約はすべてキャンセルになりました。

返金・返品作業に追われる悪夢のような日々が終わり
1ヶ月ぶりに学校が再開。
止まっていた物流も、少しずつ動き始めました。

これで少しはマシになるかな…?
とほっとしたのを覚えています。

しかし、私たちの心に重くのしかかっていたのは
「この状況が、一体いつまで続くのか」
という、底なしの不安でした。

もちろん、ある程度の蓄えはありました。
けれど、収入がゼロのまま。
ただただ家賃を支払い続けるだけの
精神的な余裕はゼロに。

私たちは当時住んでいた
賃貸の家を引き払い
予約が入らなくなったゲストハウスの一室に
家族5人で身を寄せるようにして移り住みました。

一つの危機が去ったと思えば
また次の危機が訪れる。

先の見えない不安の中で、
ただただ目の前の現実に対応し続ける
本当に息の詰まるような毎日でした。


すべてを曝け出して、離婚危機。自分を変える決意

その日もPMSでぐったりしていた私に
夫が何気ない一言をかけました。

それがなんだったのか
今となっては記憶が曖昧ですが、
すごく悲しい・虚しい気持ちになったのです。

その瞬間、
私の頭の中で「プツン」と何かが切れ
これまで心の奥底に押し込んできた
すべての感情が爆発したのです。

私は半狂乱で風呂場に閉じこもり
ドア越しに、溜め込んでいた不満や怒りを
暴言として夫に浴びせ続けました。

静かに聞いていた夫から
返ってきたのは、疲れ切った声でした。

いい加減にしてくれ。もう限界や。離婚しよう。

その言葉を聞いた瞬間、
私の頭は真っ白になりました。

気づけば私は
目の前にあったお風呂場の窓ガラスを
拳で力いっぱい叩き割っていました。

ガラスが砕け散る音。腕から血が流れる感覚。
その光景を見て、
夫は血相を変えて駆け寄り、
「自分が悪かった、ごめん」
と繰り返しながら、
私の腕をタオルで抑え、
病院へ連れて行ってくれました。

後片付けも、すべて夫が一人でしてくれました。

割れたガラスが刺さった自分の手と、
そこから流れる血を見ながら、
私は呆然と考えていました。

ああ、私は最低な人間や。

薬に頼っても、
自分の感情すらコントロールできない。
大切な家族を傷つけ、
自分自身をも傷つけてしまう。

この出来事が、
すべてを変える覚悟をくれました。

もう、痛み止めや対症療法ではあかん。
なんとしてでも根本から、私自身を変えなあかん。

そう強く決意しました。


原因不明の胃痛と下痢。コロナ禍で見つけた「中医学」という光

感情が爆発したその日から
しばらく経った日から

私は1ヶ月間、
原因不明の激しい胃痛と下痢に
苦しむ
ことになったのです。

食べれば胃がキリキリと痛み、
数時間も経たないうちにトイレに駆け込む。
朝起きるたびに、「今日もか。。」と
いつ終わるのかわからない恐怖。

痛みに耐えきれず、夜間に救急で病院を受診しても、
医師から告げられるのは
「特に異常は見当たらない」という言葉だけ。

コロナ禍で気軽に病院にも行けない中
私はそれでもいくつかの病院を転々としましたが
結局、原因は最後まで分かりませんでした。

私のこの痛みは、気のせいなん…?

痛み止めと胃薬で無理やり抑え込む毎日。
食べられないことが原因なのか
生理もストップしました。

心も、体も、本当のどん底。
もう、自分だけの力ではどうにもならない。

そんな極限状態の中で
私はまるで藁にもすがるような思いで
ある世界と出会うことになるのです。
それが、「中医学」でした。


そんな極限状態の中で
私は藁をもすがる思いで
「中医学」の世界に出会います。

これが、私の大きな転機となりました。

それまで見ていた「栄養素」という
数字の世界とは違う
薬膳の教えは、
ボロボロだった私の心と体に
深く染み渡りました。

・私たち一人ひとりには違う「体質」があり、万人に効く正解はないこと。
・話題の健康法を足す前に、自分に不要なものを避ける必要があること。
・どんなに良いサプリも健康食品も
 それを受け止める胃腸が整っていなければ意味がないこと。
・食事は自然からの恵みでありすべての食べ物には効能があること。
・どんな食事も、感謝していただくことで体と心の栄養になるということ。
・食事だけでなく、生活習慣と心のあり方を見直す大切さ。


薬ではなく「養生」を。自分の体を実験台にして起きた変化

その日から、
私は自分自身の心と体を実験台にするように、
中医学の知恵を毎日の暮らしに取り入れ始めました。
といっても、魔法のように、劇的に回復したわけではありません。

焦りや不安がぶり返す日も、もちろんありました。
しかし、自分の体質と丁寧に向き合い、
その日の体調に合わせた食事と生活養生を
少しずつ続けるうちに、確かな変化が訪れ始めます。

まず、「体調が良い日」が、ぽつぽつと現れ始めたのです。
それは、暗いトンネルの中に、
小さな光の点が少しずつ見え始めたような感覚でした。

そして2ヶ月後。
胃痛と下痢で、5kgも減ってしまっていた体重が
少しずつ戻り始めました。
そして、止まっていた生理も、再び始まったのです。

それは、私の体が、そして心が、
「もう大丈夫そうだね」と、
ようやくサインを送ってくれたように思えた瞬間でした。


不調からの卒業、そしてマレーシア移住へ

次男の「山村留学」が教えてくれた、生きる力と移住への道

自分の心と体に少しずつ光が戻り始めると、
次に私の心を占めたのは、子どもたちのことでした。

世間は、まだコロナ禍の真っ最中。
当時住んでいた京都も例外ではなく、
公園での外遊びは禁止。友達と放課後に集まって遊ぶのも禁止。
聞こえてくるのは「ステイホーム!」という息苦しい言葉ばかり。
近隣の学校では感染者が出て、医療機関は日に日に逼迫していました。

「京都は、危険だ」
「この状況で、子どもたちをどうやって守ればいい?」

そんなある日、私が何気なく見ていたテレビの特集が
すべての始まりでした。

画面に映っていたのは、
小学5年生の男の子が無料で包丁を研ぐボランティアをしているという
少し変わったニュースでした。
インタビューで答える彼は、はにかみながらこう話していました。

「包丁研ぎは、山村留学中に、地域のおじいちゃんに教えてもらったんです」と。

山村留学…?

私は頭の中で、これだ!と閃きました。
豊かな自然の中で、
学校の勉強だけでは決して学べない
「生きる力」を身につける。
これこそ、コロナの閉塞感の中で
窮屈な思いをしている子どもたちに、
今、私たちがプレゼントできる最高の贈り物かもしれない。

そこからすぐにパソコンを開き、
「山村留学」について調べ始めたのです。

離島や山村など様々なプログラムを調べ、
長崎の壱岐島、島根、長野…
実際に、下見にも足を運びました。

しかし、肝心の長男は「行きたい」とは言いませんでした。

実際に行くのは、本人。
なので長男の決断が全て。
「そっか〜じゃあ、もういっか!」
と、長男と話していたところ
ここで思わぬ人物が手を挙げます。
当時、小学3年生だった次男です。

「僕が行きたい!」
その自らの強い意志で、
次男は長野県の北相木村へ、
1年間の山村留学へ旅立つことになりました。

そして、この小さかった次男の決断
私たち家族の運命を、
再び大きく動かすことになるのです。

これが、静岡・焼津への移住の
きっかけ
をつくってくれました。


ロキソニン不要!PMS・生理痛を克服し、-5kg痩せた理由

焼津での新しい暮らしの中で、
私は自分自身の心と体を実験台にするように、
中医学の知恵を取り入れた暮らしを続けました。
そして、いろんな自分にとって不要だったモノを
手放すことに成功しました。

いろんなストレスから解放された私は
中医学の知恵をベースに
自分にあった食事、生活習慣を取り入れて
普通に食べて、動いて、寝てという
当たり前の生活を続けるうちに

あんなに悩んでいたPMSから
卒業することができました!!!
命の母もロキソニンも不要に。
43歳ですが、生理周期も28日ぴったりでやってきます。

毎月つけてる生理記録

そして、自然と-5kgの減量に成功!
今もその体型(162cm / BMI19 /49kg)
をずっとキープ
しています。

この経験から、私は確信しました。
現代の忙しい私たちに必要なのは、
ストイックな健康法じゃない。
ゆるく、ずっと続けられる自分にあった健康法なんだ、と。


2023年、東マレーシアへ移住

あの息もできないような綱渡りの日々が
まるで嘘のように。
なぜか私は、東マレーシアに移住して、
3年目に突入しています。

移住手続きの担当はもちろんすべて私担当ですw

いまだに、英語は話せませんが(おいw)
優しい現地の友達がたくさんできました。


そして、2025年。人生を取り戻し中

ずっと、後悔していたことがあります。
心も体も限界だったあの頃、
子どもたちに全然優しくできなかったこと。
やりたいことを、十分にさせてあげられなかったこと。


我慢ばかりさせてしまっていた子どもたちに、
今、私たちはようやく
ゆったりに向き合えるようになりました。

それぞれのお誕生日には、友達をたくさん招待して
家が笑い声でいっぱいになるまで、バースデーパーティーを開いたり

週末は、三男のムエタイのレッスンを「かっこいいね!」と見守ったり
次男とその友達とローラースケートに連れて行ったり
長男のサッカーの試合を声を出して応援したり

そして、長期休みには気軽に近隣国へ家族旅行に
出かけられるようになりました。

かつてあれほど執着していた
「安定」や「こうあるべき」からかけ離れた生活を
しているのだから、人生はどうなるかわからない

ちなみに、我が家の子育てはかなりスパルタですw

時間やタスクに追われるのではなく
自分の意思で、自分の時間を選ぶ。

ようやく、自分の人生を、自分の足で歩き始めた。
心から、そう感じています。

私が「がんばらない健康法」を広めたい、本当の理由

振り返れば、私はずっと
「管理栄養士だから、ちゃんとしなきゃ」
「お母さんだから、ちゃんとしなきゃ」
という呪いにかけられていました。

知識がある分、できない自分が許せなくて
ボロボロになるまで自分を追い込んでしまった。

でも、どん底で気づいたんです。
健康になるために必要なのは、
難しい栄養計算でも、完璧な手料理でもない。

「自分を許して、休ませてあげること」
これだけだったんだ、と。

私と同じように、
真面目すぎて自分を壊しかけている人が
世の中にはたくさんいるはずです。

病院に行くほどじゃないけど、ずっとしんどい。
薬に頼りたくないけど、どうすればいいかわからない。

そんな人が、私の失敗談や中医学の知恵を知ることで
「あ、サボっていいんだ」
「寝るだけでいいんだ」

と、肩の荷物を下ろしてくれたら。

そして、かつての私のようにイライラして
子供に当たってしまう自分を責めることなく
笑って「おかえり」と言えるようになってくれたら。

それが、私が今この活動をしている理由であり、
これからの人生で叶えていきたい、心からの願いです。


noteで伝えたいこと。「がんばらない健康法」であなたに寄り添う

…というわけで、
本当に長くなりましたが
これが私の自己紹介です。

気づけば、
1万字超えの超大作になってしまいました(笑)。
最後まで読んでくださり
本当に、本当にありがとうございます!

それだけ、私の人生には
たくさんのドラマがあったということかもしれません。

もちろん、これはあくまでも
「私」という視点から見た物語です。
同じ時間を過ごした夫にも、
きっと、夫だけの全く違う物語があるはずです。
山あり谷ありの人生の冒険を
今も共に歩んでくれている同志である夫には心から感謝しています。

そして、私の物語に共感してくださった
優しいあなたにも
たくさんのドラマがあるはずです。

もしよければぜひ、
あなたの話も聞かせてください✨
コメントであなたの人生についてや
今のお悩みについて教えてください。
全力で返信させていただきます!

これまで43年生きてきた経験をもとに
noteではThreadsよりも
もう少し深く踏み込んだ
具体的な不調の乗り越え方についても
お話ししていきたいと思っています。

素晴らしいレシピや完璧な健康情報は、他の誰かに任せますw
私は、かつての私のように

「理想と現実のギャップ」に苦しんでいる、
あなたの隣に寄り添い、応援・並走したいのです。

大丈夫。そんなに頑張らなくても、あなたは健康になれます。
これから一緒に、あなただけの「心地いい」を見つけていきましょう。

わたしのnoteの歩き方🚶‍♀️
STEP 1:まずは今の不調を知る
あなたの不調にラベルをつけてみてくださいね😊

✅ あなたの体質を知る(気・血・水チェック)
だるい、むくむ、疲れが取れない…その原因が見えます。

✅ あなたの弱り気味の五臓を知る(五臓チェック)
イライラ、不安、不眠…メンタルの不調の原因が見えます。

✅あなたの月経(生理)を知る

STEP 2:頑張らずに体質を変える
私がPMDDを克服し、400名を指導してわかった
「病院いらずの体質」を作るための全知識を
一つのマガジンに詰め込みました。

STEP 3:マガジンにプラスして個別相談も実施中です😊

もし私の経験や考えに
何か響くものがあれば
いいねやフォローをいただけると
活動の励みになります!

これからどうぞ、よろしくお願いします。
ぱわーーー🧡

いいなと思ったら応援しよう!

あや|倒れない体をつくる栄養士 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。 いただいたお気持ちは、次の記事を書くための取材費(書籍など)として大切に使わせていただきます。

この記事が参加している募集