光(みつ)分け
【記録◆2025年9月2日】
「次の行き先」を決めようとしたら、知らない滝の名前が目に入りました。
そこへ行く道を調べると、前回(8月19日)の流れが縒り合わさった先。
このまえの終点(折り返し地点)を始点にして、「中央構造線」から南へ向かいます。

川沿いの細い道を走りつつ、自分も『高見川』の水と縒り合わさって南へ下っている、とおもっていたのに、帰宅後に地図を見たら、「分県地図」と「パソコンで印刷した地図」の川名が異なっていました。
「分県地図(縦88cm×横62cm)」だと、中央構造線の北側に『高見川』が無いのです。
そして、本日の行き先に、『高見川』と記されていたのでした。

「印刷した地図」だと、『高見山(1248.4m)』山頂近くから流れる川に、
『高見川』と記されています。
しかし、「分県地図」に記された『高見川』は、別の山が源流です。
ふたつの山の間に「中央構造線」があり、中央構造線を越えて2本の川が合流する所には、『伊豆尾』と記されています。
地名の「入」が「丹生」であるように、地名の「伊豆」も「出雲」だと、どこかで読みました。
出雲神族が、ここにも住んで、高い山を見ていたのでしょうか。
「高見山」は、古代には「高水山」と呼ばれたそうです。
中央構造線を越えるまで川の名は、「高水川」だったのかも………
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]
『高見山(1248.4m)』は、かなり遠くからも見えます。
16kmほど離れた所から撮った写真がありました[以下の記事内]。

足元に小さな白い骨が流れ着いている、と気づきました。
左側の山(563m)で命を終えた鹿の顎でしょうか。
真っ白で、きれいに歯が揃っています。
若い鹿だったのかもしれません。次の大雨で清流に辿り着けるのでは……
それを追い越して、わたしは二本杖で下流へ向かいます。
滝の音に呼ばれて。


「ここも岩が赤い」と気づいたのは、帰宅後に写真を見たとき。
地図の真下へ線を引くと、その先は『井光(いかり)』。2022年8月9日に『井光』を車で走り、『井氷鹿(いひか)の井戸』という標を見ています。
『古事記』で、「尾のある人、井より出て来たりき。その井に光ありき」と
「異形の蛮族」のように語られた『井光(いひか)』は光輝く女神でした。
「井光(いかり)」の地で、光を放ちながら現れた女神は、
「何者か」と尋ねられて、「名は豊御富(とよみほ)」と答え、
『水光姫(みひかひめ)』という名を新たに与えられたそうです。
〇大和の初代大王「ムラクモ」の子は、「海御蔭(アマノミカゲ)」。
〇「海御蔭」の母は、「伊加里姫」。
〇「海御蔭」の妻は、富家(東出雲王家)の「豊水富姫」。
「豊水富」が【豊御富(とよみほ)】で、
「水光(みひか)」という名を新たに与えられたのでしょうか?
井戸は採掘のための穴で、光っていたのは鉱石だという説もあります。
『大和(奈良)には、水滴状になっている自然水銀は、ほとんど無かった』とのことですから、辰砂だったとしても、「光る水」ではなかったはず。
「水光(みひか)」は、吉野のひとびとの祖神です。
その伝承に、「とよみほ」「いかり」という名が残されているのは、
「この地で融和したひとびと」の存在を伝えるため……?
単純に考えると(すべて想像に過ぎません)、
〇大和の山で拾った辰砂を、必要な物と交換していたひとびとが居た。
(つい最近まで、山を歩くと拾えたそうです。)
〇最初の王国を造ったクシヒカタは、採掘や交易の規模を広げようと考え、みむろ山(三輪山)の麓に移り住んだ。その向こう側も鉱床なので。
〇採鉱や精錬に優れたひとびとがやってきて、いっそう規模が広がった。
それを単純に、「縄文」「出雲」「丹生」という順で融和していった、と捉えているのです。
「大和の辰砂」については、以下の記事。
「大和で融和していったひとびと」については、以下の記事。
出雲神族が移り住んでくる前にも、龍神信仰はあったように感じます。
今年は雨が少なく、「吉野川分水がなかったら、田畑は干上がっていた」と話していたところ、先週、ひさびさに慈雨が降り注ぎました。
その日、みむろ山(三輪山)を南端とする東の山々に、そこだけ白い雲がとても大きな龍のようにかかるのを見たのです。
これまでだと、麓に現れて盆地の半分を取り巻くようだったのに、山々の稜線を隠すような形で。
その手前を黒い雲が、厚い緞帳のような形で下りてくるのでした。
下端は地に平行で、ハサミを入れたような直線。電車に乗っていたため、左右の端は視界に入りません。
白い龍の背骨を緞帳が隠しはじめたとき、電車は街に入りました。
いまとは気候が異なった古代にも、こういった雲は現れたでしょう。
龍蛇信仰の出雲(島根県)とは違って、盆地には金色の海蛇がいません。けれども、微細な水の粒が創る形は、現代でも神のように感じられます。
「記紀に記された大物主」は、「事代主(出雲王国八代目副王)」ですが、
「みむろ山の大物主」は、出雲神族が移り住む前から存在していたのかも。
「瀬織津姫」も、実在した人物としては以下のように考えられていますが、
〇高照姫
西出雲王家の姫君(出雲王国八代目主王の娘)
初代大王「ムラクモ」の父方の祖母
〇市杵島姫
西出雲王家の分家の姫君
初代大王「ムラクモ」の母方の祖母
「みむろ山の大物主」と同じく、この国土に、
「瀬織津姫」も、もとから存在していたのでは。
ひとびとが融和していったように、その祖神も、
「この地の神々」と融和していったのでしょうか。
「大和の瀬織津姫」については、以下の記事。
『白龍や白蛇が瀬織津姫』とのことですが、
「水光姫は、白蛇の姿で降臨した」という伝承もあります。
[以下の記事。]
なぜか、丹生族の女神『丹生都比売(にうつひめ にふつひめ)』には、「みほつひめ」という読み方が添えられています。それも出雲と関連が?
〇美穂津姫(正しくは美保須須美:東出雲王家の姫君)

大和に最初の王国を造ったクシヒカタの異母兄は、富家(東出雲王家)の「鳥鳴海(出雲王国九代目主王)」で、別名は加夜奈留美(カヤナルミ)。
【東出雲王家の次世代が、新王国ヤマトの飛鳥に移り住んで、加夜奈留美を祀ったのでは】と、以下の記事に書きました。
「豊水富姫」は、「加夜奈留美」の娘か孫だったのでしょうか?
長々と書いていますが、写真を撮っていたときには何も考えていません。
樹々に隠された滝が見える所を、ひたすら探していました。


次の行き先は、決めていませんでした。
帰るには早いから、流れる水とともに、下流へ向かいます。






この先は、龍神を祀る『丹生川上神社中社』の神域。
◇◇丹生川上神社中社◇◇
訪なうたび、「あり得ないほど美しい」と感じていた場所は、今回、
「立ち入り禁止」の文字と柵によって、ヒトから隔てられていました。
神域は、レジャー地ではありません。
訪れるヒトにそれが分からないのなら、締め出すしかないでしょう。
柵のない所は、神聖な場所なのに、レジャー地と化していました。
それを戒めるためか、注意を喚起するためか、大きな看板が美しい風景に加わっていて、「もう、ここから撮れない……」と気落ちしたのでした。
誰も来なかった頃の記事を、以下に載せておきます。
◇天翔龍◇
拝殿の近くは静かでした。
前は長く歩けなかったので、境内の他の場所に行くのは、今回が初めて。

ある神社の宮司さんが、「力だけが欲しいという人々の邪気から神さまを守るため、磐座の井戸に蓋をしている」というような話をされていました。
ヒトが押し寄せてくる時には、そうすることも必要だと分かります。
「神社とは本来、ひとびとの祈りを集める場だったのでは」と感じるので、「国土をお護りくださって、ありがとうございます。日本人が美しい国土にふさわしい魂を取り戻し、その美しさと響き合う心となっていきますよう、お導きくださって、ありがとうございます」と、わたしは祈るのですが、
ここでは、「お力をいただいた」と分かる感覚が生じたので、少し驚いてしまいました。
祈っていたのではなく、ただ、そこに立っただけだったから。
『舞いは天と地を繋ぐ。拙くても、初めて踊ったのだとしても』という話をどこかで読んで、「自分の拙い踊りも天と地を繋ぐのか」とおもったことがありました。
この時には、ただ、そこに立っただけなのに、
「天地(あめつち)の細い宮柱」にされたような感じがしたのです。

境内のあちこちで参拝後には、「撮らせていただいてもよろしいですか。撮ってはいけなかったら写らないでください」と申し上げました。
『木霊神社』は撮れていませんでした。
御祭神は『五十猛命』。高照姫の子で、初代大王「ムラクモ」の父。
◇相生の大杉◇
あちこちの神社で、「樹に触れて願い事を唱えるように」という立て札を見かけるのですが、樹木を愛する方は、「触れないほうが」と主張します。

わたしは大杉の間に立ち、「触れてもいいのでしょうか」と訊きました。そして、左右とも1本の指先の砂粒ほどの1点だけで繋がったのでした。
願い事はしません。感謝をして、祈ります。
◇大盛丸神社◇
龍神大明神

◇丹生龍王大神社(にうりゅうおうおおかみしゃ)◇
高龗神(たかおかみ) 山の頂の龍神
闇龗神(くらおかみ) 谷すじの龍神


龍の神さまが、水気(すいき)をはかれたのか、干上がってしまいそうな大和盆地に、この週は慈雨が降り注いだのでした。
先月(8月19日)、東吉野の『水分(みくまり)神社』を巡って、
【源流に近い山間で、「どうか、水を配ってください」と祈る必要が?】と書きました[以下の記事]。
「水分(みくまり)」の「くまり」は、「配り」の意。
平野部の大和盆地でこそ「水分神」は必要とされるのに、山間で祈っても水は届きません。
「吉野川の水を引く」という大事業が、300年かけて成し遂げられるまで、つまり古代には、多雨地帯の南部から「少雨地帯の大和盆地」に流れる川は1本も無かったため。
分県地図で『大和国四所水分神社(吉野、都祁、宇陀、葛城)』の位置を確かめたら、それらの神社から大和盆地に流れる川さえ1本のみ。その川も中央ではなく西端を流れて盆地を出ていくのでした。
「水を分けてもらうために祈ったのではない」という気がしてきます。
水神(龍神)を大和盆地の空に招ぶため祈ったのでしょうか。
では、山間に住むひとびとは何を祈ったのでしょう。
ここに来る道で(『谷山瀧』の手前)、『水神社』に手を合わせました。
祠のように小さかったため見逃して、途中で引き返したのでした。


ここだと生活に必要な水を得るため、「流れが穏やかでありますように」と願ったのでしょうか(前回の記事に書いたとおり、この川の上流には水で破壊された砂防堰堤の巨大な残骸があります)。
「水光姫」は、「瀬織津姫」は、なにを配ったのか。鉱物なのか水なのか。
「丹生都比売」を祀っていたはずの神社がなぜ、「丹(辰砂)」ではなく、水の神社になっているのか(かつて辰砂を運ぶための水運も司った?)。
『丹生川上神社中社』では、高見川を渡って『丹生神社』にも参りました。
そちらが本宮なのです。
『丹生神社』の前の道は、辰砂の産地と繋がっています。
そうとは知らず、滝へ行くため走ったことがありました[以下の記事]。
「水分(みずわけ)」の語源が、「光(みつ)分け」だというなら、
「光」が女神たちによって配られているのかもしれません。
祠や社で集められた祈りが、この国土に行き渡るよう。
