#516[短編]琥珀色の間[13]──風の温度が変わる瞬間
誰かの言葉に救われる夜もあれば、ひとりで整える朝もある。急がず、追わず、ただ心を整える。ミシマの言葉を反芻しながら、爽子は自分の “軸” を取り戻していく。
1話、2話、番外編・大翔、3話 -I、3話 -II、3話 -III、4話、5話-I、5話-II、5話-III、5話-IV、5話-V、6話、本稿、前半まとめ
※ 連載ですが、どのお話からも読めます。
心の奥でゆっくり効いてくる言葉がある。大きな決断はないけれど、明日を少しだけ丁寧に迎えようと、爽子は思った。
──「未来の大人」のトリセツを思い出した夜。
ミシマの家を出ると、遠くで救急車の音が響いた。
誰かの時間が急ぎ足で進んでいく音に、
自分が “いまここにいる” 実感がふっと重なる。
爽子は襟元のストールに軽く手を当てた。
帰りの電車で、彼の言葉を思い返していた。
なぜ今夜、食事の後で家に呼んでくれたのか。
深いところは見ないようにしたが、急いで進むよりも心を整えて、物語が動き出すのを待とうと思えた。
爽子は、心の中でこの気もちを育てようと思い始めた。
年始の駅は人もまばらで、ICカードの音がやけに響く。爽子は会社からのメッセージに「年明けでいいですか」とだけ返信し、再びミシマとの会話を思い出していた。
早く歩きがちな癖を、緩い速度にもどす。エスカレータの端に寄ると発車ベルが鳴り、若い女性が駆け降りていった。
列車が吹き上げた風の暖かさに心が落ち着く。次の列車を待つ時間が、もう少し続くといいと思った。
ミシマは、会えるはずだった未来が消える痛みに、心が追いつかなくなったことのある人だ。
彼は言わなかったが、大翔はきっと、爽子の心を揺らしたことも、涙の意味も、自分がきっかけになったことも、知るはずがなかった。
勝手に想像を進めて、思いグセでおかしなことを言わないように自分を保とう、爽子は密かに思った。
◇
大翔と話していた時間は楽しかった。
たまたま隣り合った者同士が、すでにある「間」で、時間を差し出し合う、稀有な時間。
その場を、互いに選んで一緒にいる感覚。
楽しそうに自分の話をする姿は、心の矢印が自分を向いていた。その間に静かに言葉を選べたことが、安心して話ができたと思えて、心地よかった。
爽子が何かを言うたび、大翔は少し遅れて返事をする。
その間が、まるで言葉を丁寧に扱っているようで、
彼の慎重さがふっと伝わってくる。
変わっていく彼を見ていられたら面白いとも思った。
落ち着いて見えた振る舞いが少し緩んで、家や仕事のことを話してくれた。大学は勉強で忙しかった。言葉を選んでゆっくりと話す姿に落ち着きを感じた。
爽子は、ひとつひとつの言葉を、
指先でなぞるように思い返していく。
「実家で親に甘えたままではダメになる」と、
就職と同時に一人暮らしを始めた。
それは、自分を自分で支えられる人ということ。
少しイヤな話もあったかもしれない。
話すとき、爽子の目を一度だけ見て、そのあとに少しだけ視線を落とす癖。 まるで、気もちを通わせていいか、確かめているような。
家族の温かさが、言葉の端々から滲んでいた。
厳しさも、距離も、愛情も、全部そのまま受け取っている人。
十分過ぎるほど丁寧に、情深く生きていると思った。
子どもの頃はゲームやおもちゃには興味がなかった。
それよりも、お父さんの時代のクルマが好き。
その話をするときの彼の声が、どこか幼いようで、
どこか大人びてもいて、その “揺れ” に胸がきゅっとした。
その瞬間だけ、彼の言葉がまっすぐ自分の胸に届いた気がした。
軽く冗談で済ませてもよさそうなことを真面目に答えてくれた。先輩が言うように、「何も考えていない」「言葉が不器用」だとしても、自分の価値観で答えてくれたことに、価値を感じた。
自分の輪郭がすっと透き通っていくのがわかる。
忘れたくない。
何を思い出しても、ただ楽しくて仕方がなかった。
ふと、彼が話してくれた “昔のこと” が胸の奥で静かに浮かび上がった。
自分の未来を考えるきっかけ。
自分の人生をもう少し大事にしようと思えた。
これから少しずつ、自分に合うものを少し丁寧に選んでみたくなる。
そういう変化を自分の中に見つけたからこそ、
「ああ、自分はこの人が好きなんだ」と思えた。
あのときの彼の横顔を思い出すと、 なぜか呼吸が浅くなる。
そう思えたからこそ、何も始めないうちに、
この気もちを摘み取ってしまおうとは思えなかった。
ふとした瞬間に思い出す人。
ただ笑い合うだけというより、同じ目線で話せたらいい。でも、話すのは苦手だ。澪さんと少し話して、目が合ったら会釈するだけで、きっといっぱい。
自分を整えるためのスイッチなのか、心のつながりの始めなのか。あるいはその場限り、澪さんがくれた夢なのか……。考えただけで、目頭が熱くなる。
◇
最寄駅に着くと人気のないロータリーにはタクシーも停まっていなかった。冷たい風が頬に触れ、ミシマの部屋の温かさも、イランイランの香りも、すべてが冷気に包まれ、流されていく。
家に着いた爽子は、靴を揃えた後で、コートとバッグをデスクに置いた。
寒い、寒いと声を漏らした。手を擦り合わせ、風呂の準備を手早く済ませる。ピリピリとしたお湯に、ゆっくりと体を沈めた。
「明日は、少しだけ早く起きよう」
書類の整理をして、集めた資料に目を通して、
メールも少し確認しておこう……
次に会えた時にどんな話になるか。間を置くにも、聞き役になるのも、どんな顔で、どうやって息をしたらいいか、想像しただけで心がいっぱいになった。
湯船で体育座りで背中を沈めて、
恥ずかしさごとお湯の中に沈んでいく自分がおかしくて、笑えてしまう──
<了, 2,300 字>
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