貧すれば鈍する政治家とメディア
静かな水面に石を投げると、波紋は外へ外へと広がる。
だが、濁った水ではどうだろう。波紋は歪み、やがて自らの形すら見失う。
いまの政治と言論の一部に、その「濁り」を見る。
まず確認しておきたいのは、本稿は左翼政治家やオールドメディアそのものを否定するものではないということだ。
むしろ、その本来の役割 ─ 権力監視や多様な価値の提示 ─ が機能しなくなっている現状に対する問いであり、危惧である。
近年、高市早苗を中心とした政権は、過去に例を見ないほどの高い支持率を維持している。
こうした状況においても、その政権に対して批判すべきことがあれば正々堂々、真正面から批判すべきである。
そして、批判するのであれば、それは事実と論理に基づくものでなければならない。
しかし現実には、批判の多くが、捏造や誤報、噂話、思い込み、あるいは無理筋の屁理屈に依拠しているように見える。
その結果はどうか。
批判が政権への打撃となるどころか、むしろ「批判する側」への批判と不信を増幅させ続けている。
これは特別な分析を要する現象ではない。
火に油を注げば、火は消えるどころか燃え上がる。
それと同じ程度には明白な因果である。
さらに象徴的なのが、沖縄県辺野古沖で、同志社国際高校の修学旅行生を乗せたヘリ基地反対協議会の抗議船が転覆し、女生徒が犠牲となった事件に関する対応である。
ここで語るべきことを語らず、沈黙を選ぶ。
その沈黙は公正中立ではない。
むしろ、語るべきことを語らないという一点において、結果的に「責任放棄」と受け取られかねない。
この状態が続けばどうなるか。
左翼政党の支持率が下がり続け、オールドメディアの視聴率や購読率が減少し続け、最終的には存亡の危機に陥ることは必然である。
では、なぜ人はこのように、自らを損ない続ける道を歩み続けるのか。
もちろん中には、「自身が信ずる正義のためには命をかける」という者もいるだろう。
だが、それは例外であり、ほんの一握りもいないだろう。
多くの場合、それは正義ではなく、進むべき路、すなわち理性を失った状態に過ぎない。
端的に言えば、「引くに引けなくなっている」からである。
彼らも、最初は小さな誤りだっただろう。
もしかすると、早い段階で誤りに気づいた者もいるかもしれない。
だが、誤りを認めれば自らの過去を自ら否定することになる。
自身の地位が高くなるほど、誤りを認めることによる損失は大きくなり、周囲との整合性も崩れ、自身の立場も揺らぎ危うくなる。
だから、引かない。
いや、引けない。
やがて判断は鈍る。
選択肢は狭まり、視野は濁り、現実が見えなくなる。
これが「貧すれば鈍する」という現象の本質だ。
ここでいう貧しさは、金銭だけではない。
政治資金や経営資金の困窮に加え、
支持者、支援者、読者、視聴者の離反、
選択肢の貧困、思考の貧困、そして自己修正の余地の喪失である。
泥沼に足を取られたらどうすべきか。
泥沼が浅いうちに元の道に戻ればやり直しはできる。
泥沼が浅いと確認できたなら、踏み抜かぬよう渡ることもできる。
しかし、ここまで進んだから、既に泥に汚れたからと、無闇に突き進めば、対岸に辿り着く前に沈んでしまうかもしれない。
豹変とは、外見の変化ではない。
それは「誤りを誤りと認める」という、極めて理性的な決断である。
その決断を下せる者だけが、泥沼から抜け出すことができる。
そしてその数は、おそらく ─ 決して多くはない。
だが、少ないからこそ価値がある。
それは、本人のみならず、家族、社会、日本、そして世界にとっての価値でもある。
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