ロスジェネに風が吹く 第7話
伊那谷の春は遅い。東京では、入学式や入社式を終えて、新生活が始まる時期には、カットソーやブラウス一枚で過ごせるような日もあるけど、伊那谷では、まだしっかり着こんでおいた方がよい。
今日もいつものように、ヒートテックの上にトレーナーを着て、フリースを羽織っている。
骨折をすると車の運転が出来ないため、路線バスに乗る機会が増えた。
いつものように、バス停に立ち、定刻どおりに来たバスに乗り込む。
車窓から、自転車を漕ぐ少年の姿が見えた。結人君が、あの子と同世代なのかと思うと恥ずかしくなる。
でも、結人君はあの少年よりも大人っぽく見える。だから好きでもいいのだと思うようにした。
私は、どうして結人君が好きなのだろう。三十年ほど前。中学生の頃、同じクラスに田島君という男子がいた。勉強が出来て、野球部のエースだったこともあり、クラスの女子は、みんな田島君が好きだったし、私も好きだった。
でも、田島君は、白血病にかかって卒業前に亡くなってしまった。
私は、結人君を通じて、あの頃の追想をしているのだろうか。
いや、田島君と結人君では見た目が違う。田島君は、顔が角ばっていて、眉が太く、若武者のような雰囲気だったのに。結人君は、アイドルグループにいるような可愛らしい顔をしている。
ちなみに、みんなから好かれていた田島君に私は見向きもされなかった。
どうせ振られるから、告白もしなかったし、クラスで一位、二位を争うようなカワイイ子と歩く姿を見れば、私なんかとは不釣り合いだと思った。
結人君もモテるみたいで、このあいだ車の中で、恵子が自慢していた。
「あいつ、毎年バレンタインになるれば、たくさんチョコ貰って帰ってくるもんでね」
息子が女子にモテると母親としては嬉しいものなのか。
若い頃、四十五歳になった自分がどうしているかなんて、考えもしなかったけど、おそらく結婚して、子どもがいて、友人には旦那の愚痴や子どもへの不満を漏らす。そんな姿を想像したことだろう。
主婦になりたい、子どもが欲しいなんて、強く願ったことは無いけど、願わずとも叶うことだと思い込んでいたのだろう。
豊かな老後のために投資した、あの30万円は今頃どうなっているのだろうか。
おそらく、運用されているのだう。映美さんが旦那の秀二さんと共同でやっていくと言ってた。
外貨だろうか、株だろうか、それとも国債か。資産形成するなら、銀行や証券会社に相談した方がよかっただろうか。
私の貯金は、150万円あったけど、その内の30万円を渡した。たかが5分の1だが、私のような低所得者にとっては、30万は大金だし、命の次に大事なお金だ。なんだか不安で仕方ない。
そもそも、貯金の150万は、母は加入していた終身保険のおかげだ。もともとは、200万円だったけど、同居していた母が亡くなって、一人暮らしをしていくうちに、じりじりと減って150万になっていた。
父の生命保険は、飲食店の経営が傾いたときに解約していた。
まさか、恵子が盗んでしまったなんてことはないだろうけど、でも、あの30万が結人君の将来のために使わるなら、それでも良い気がする。
路線バスは、橋の袂で赤信号のため停車している。ここから、天竜川を渡り、国道361号線に入る。
今日は、結人君と華音ちゃんと三人で高遠城址の桜を見に行くことになった。
一緒にお花見に行こうと、恵子に電話したところ、すこぶる上機嫌だった。あの30万が影響しているのだろうか。
でも、恵子は、食品問屋の事務員の他にも、土日には単発でアルバイトをすることがあるらしく、今日はそのために来れない。なので、私が結人君と華音ちゃんを連れて行くことになった。
私は、最近になって、ある作戦を企てた。題して、東京大作戦だ。結人君は、親元を離れ、東京にある全寮制の学校を志望している。本当は、結人君が東京に行ってしまうのは嫌だけど、それを利用することにした。
今年の夏休みに、私は結人君を連れて東京へ行く。もちろん、高校の下見に行くという理由で。怪しまれないために、華音ちゃんも連れて行くと言えば、恵子も承知するかもしれない。
夏休みになっても、子どもを行楽地へ連れていけれない、恵子は喜んで承諾するか。それとも、他人に子供を預けて遠出など遠慮するだろうか。
ひとまず、今日の花見は、東京大作戦の前哨戦と言えるだろう。来たるべき、夏休みに向けて、結人君と、そして華音ちゃんとも、もっと仲良くなる必要がある。
しかし、三人で東京に行く旅費ともなれば、私にとっては、かなりの出費になる。それを考えると、先日の30万は痛手だ。
東京大作戦に、いやらしい気持ちは無い。私は、結人君が18歳になるまで、性交はしない。
つまり、あと4年は、先日のように一人ですることになる。
でも、49歳になった私を彼は抱いてくれるだろうか。
最近、夜な夜な一人でしているせいか、萌ちゃんに若々しくなったとか、肌ツヤが良くなったとか言われる。
ちなみに、夏休みに東京に行くことになれば、それが終わると同時に、今度は、結人君を伊那の高校へ進学させる作戦を企てなければならない。そのときには、恵子を十分に利用する必要がある。
あくまでも、東京大作戦は結人君と出掛けるためのものであり、本当に東京に行かれては困る。
バスの車内アナウンスで、我に返る。あれこれと考えているうちに、恵子や結人君の住むアパートの近くまで来ていた。ひとまず、その最寄りのバス停で降りて、アパート前で、合流することになっている。
私は、慌てて降車を知らせるボタンを押した。
◇
高遠城址公園の桜は、満開を過ぎて青葉が混ざっていた。でも、葉桜もまた爽やかで良い。満開よりもむしろ、こっちの方がよいぐらいか。こんなことを考えるなんて、私も歳をとったものだ。
さっき、アパートの前まで行くと、すでに結人君と華音ちゃんが待っていた。
華音ちゃんとも、すっかり顔見知りになり、三人でファミレスで昼食をしてから、お花見に来た。久しぶりの外出だったようで、華音ちゃんは、はしゃいでいる。
桜の木を見上げながら、歩く私と結人君の三歩前を飛び跳ねるように行く。
公園内は、桜の木のトンネルが無数にあり、覆いかぶさる枝葉の隙間から陽が漏れていた。
桜を見に行こうなんて、渋いチョイスをしものだ。もっと若者が喜ぶことにするべきだったか。
結人君の横顔に目をやる。切れ長の目、高い鼻、唇は少し厚めで、口元は緩んでいる。でも、それが可愛らしい。
恵子には、似ていない顔だ。
もし、大学時代に広平という男と出会っていたら、私は恵子と奪いあったのだろうか。
「今日は、友達と約束なかったの、大丈夫」
私は結人君に声をかける。
「俺、ゲーム持ってないから」
下手の質問をした。会う前は、あれもこれも聞いてみたい、こんなことを話してみたいとか考えているクセに、いざ会うと上手くいかない。
高遠城址公園は、七年ぶりに来た。あの頃は、まだ東京に住んでいて、婚活バスツアーで訪れた。
40歳を目前にした私は、アパレル店で働く傍ら、婚活をしていた。
バスツアーでも、こんな風に桜を眺めながら歩いた。あのとき、隣を歩いていたのは、中肉中背のなんの特徴もない、同じ年の男性だった。
ただ、その人の言葉が心に残った。
「婚活って、結局のところ同じスペックの人を選ばなきゃダメなんですよね」
私は、その言葉に嫌悪感を抱いた。電化製品じゃあるまいし、スペックなんてと思ったので、その人とは距離を置いた。
帰りのバスに乗る前に、男性からの告白タイムがあって、誰ともカップリング出来ずに私は家に帰った。
帰宅後に、カップリング出来なかった、残念賞として、数日前に百貨店で奮発して買った高価な入浴剤を使って、お風呂に入った。
人気女優も好んで使っているらしい。あの人たちにとっては、奮発ではなく、当たり前のように買うものだろうとけど。
湯船に浸っているうちに、スペックの話を思い出した。
あの女優たちのように、お金持ちの家は、高価なものに囲まれていて、低所得な私の家には廉価なものばかりがある。
婚活だって、これと同じことと言っていたのか。それなりの者同士が知り合って結婚する。
そして、私もその格差の一翼を担う。それがこの世の中だと思ったら、嫌悪感が胸に込み上げてくると共に吐き気がした。これは、腹だたしさから来るものだとすぐに気づく。それ以来、婚活には行っていない。
いい歳をして、こんな当たり前のことが受け入れないのだから、私が結婚出来ないのは、自己責任だろう。
結人君の横顔を見つめて歩く。バレンタインには、どれだけのチョコを貰ったのだろう。チョコを渡した女の子たちが、思いもよらぬ位置から、私は結人君にアプローチしている。
親子ほど歳の離れた人を好きになって、恥ずかしい気持ちもあるが、優越感にも似た感情がある。
「ねぇ、早く早く」
華音ちゃんが立ち止まって声をかけてくる。私と結人君は、顔を合わせて微笑みながら、歩みを早めた。
園内を一周したところで、華音ちゃんがラムネを飲みたいと言ったので、お金を渡して列に並ばせた。
私と結人君は、すぐ近くにあるベンチに座って見守ることにした。
「ねぇ、陽子さんは、なんであのスキー場で働いてるの」
結人君は足を伸ばして背もたれに寄りかかる。
「亡くなったお母さんとね、よくスキーをしたの」
正月は伊那に来て、おばあちゃんから、お玉をもらって、おせち料理を食べて、あのスキー場で滑るのが定番だった。父は、スキー場は寒いからと嫌がり、おばあちゃん家のコタツで読書をしていた。
「スノボじゃなかったんだ」
結人君は、両肘を背もたれの上に乗せる。そういう格好も様になるところも良い。
「小さいころは、まだスノボしてる人はいなかったかな。スノボは高校生ぐらいから」
「ねぇ、陽子さんて、どんだけスノボ上手いの」
「べつに上手くないけど。でも、あたしカービング出来るよ」
「へぇ、すごいじゃん」
結人君は、余裕な感じで返してきた。
「結人君は、どんだけ滑ってたの」
「あの頃は、とくかく、毎日滑ってた。土日は1日滑ったし、冬は、平日も学校が終わったらスキー場に行った。夏には、屋内スキー場も行ったよ」
「オリンピック選手を目指してたんだよね」
結人君は、うなづく。
「あの日、久しぶりのスノボだった。でも、余裕で滑れたよ」
私を助けてくれた日のことだと思った。
「まだ痛むの」
結人君が私の左手のギブスを見て言う。
私は横に首を振った。骨折して数日は、半日毎に痛み止めを飲んだが、今はもう飲んでいない。
「ねえ、腕見せてよ」
私は、三角巾から左腕を外した。結人君は、左手でギブスを支え、右手の人差し指と中指をギブスの上に置いた。
「アスクレピオス。アスクレピオス。この者の傷を癒したまえ。この者の傷を癒したまえ」
何やら呪文を唱える。
「萌ちゃんに教わったの」
結人君は、首を横に振る。
「お父さんだよ」
私は、なんと返せばいいか分からなかった。
「俺が骨折したときに、早く治るおまじないをしてくれたの」
結人君と出会ったときから、父親の広平はいなかった。その男をこの家族から切り離して考えていた。でも、結人君の心の中に広平が居るのだ。でも、それは当然のことだと思った。
通り風が吹いて、木々を揺らす。右耳にかけていた髪がなびいた。周囲から歓声が上がり、私たちは空を見上げた。桜の花びらが、高遠の空に浮かんでいる。しばらく、薄紅と水色のコントラストに見とれた。
このあいだ、風の時代について調べてみたら、花びらが舞うようにありとあらゆるものが拡散される時代とあった。情報化社会のことだろうと思った。
空を乱舞する花びらを眺めながら、風の時代が結人君にとって、穏やかで清爽な時代になれば良いと思った。遥か先まで続くこの時代を彼は生きるのだから。
中学生の頃、好きな人の行く末を願うような、こんな感情はなかった。この恋は、田島君の追想なんかじゃない。
「見て見て」
華音ちゃんは、ラムネの瓶を見せびらかすように、駆け寄って来た。
「良かったね」
結人君の言葉に華音ちゃんが笑う。
「ラムネの開け方知ってる」
私が尋ねると、華音ちゃんは首を横に振る。
「じゃあ開けて開けるね」
私はラムネを受け取り、プラスチックの栓抜きで、ビー玉を落とす。しばらく押さえつけないといけないのに、すぐに手を離してしまったから、炭酸が瓶から溢れ出てきた。
華音ちゃんが、その様子を目を丸くして、珍しそうに見ているから、それがおかしくて、結人君と二人で笑った。
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