ロスジェネに風が吹く 第6話
重い瞼を開けて、目覚まし時計を見たら6時だ。
いずれは、社会復帰しなければならないので、早寝早起きは心がけているから、そろそろ起きなければならない。
スキー場も、芸術の森も、働くならば、このぐらいの時間に起きることになるからだ。
お風呂場の換気扇の音が聞えてくる。昨日、快楽を味わったあとにシャワーで洗い流したことを思い出す。
こうして、目を覚まして布団にくるまっている恵子の姿が浮かんでくる。
結人に何をしたの汚らわしい。
頭の中で、恵子の声がした。
いいでしょ。現実の結人君には、指一本触れてないの。
掛け布団の匂いと生温かさに包まれながら、私は空想の恵子と対峙する。いつもようにロマンスグレーの髪に、色あせた服を着ていた。
あたしは、結人の母親なの。あなたいくつ。あたしと同じ歳でしょ。
でもね、恋に年齢なんて関係ないの。
やめて気持ち悪い。あなたは気持ちよかったでしょうけど、性のはけ口にされた結人の気持ちも考えてちょうだい。
何を想像しようと私の勝手だよ。誰を好きになろうと、誰かを嫌いになって殺してしまおうと、想像するだけなら私の勝手でしょ。
あんたなんか、死ねばいい。こんな大人がいてはいけない。
私の存在を否定して、恵子が空想から消えていった。
男性と性交して、あれほどの快楽を味わったことはなかった。フラッシュや眩暈が起きるのは自分でしたときだけだ。
私は、大学を卒業するまで処女だった。社会人一年目は、ラジオDJの養成所に通った。そこで知り合った二歳年上の彼に処女を捧げた。
欲望に従う人だった。一緒によく食べて、自慢話を散々聞いて、性交した記憶しかない。
エッチも自分勝手で、触りたいところだけ触ったら、すぐに挿入しようとした。
二十三歳で処女を失ったけど、なかなか開発されにくい人で、彼の下手な前戯のせいもあり、私は性交が苦痛だった。
ある晩、それがきっかけで私が泣き出してしまい、しばらくして、お別れたいと言われた。
二人目は、私が本屋でアルバイトをしていた頃に知り合った人だ。ここで働きながら、いくつもオーディションを受けた。
同じ歳の人で、音楽や映画などで、話の合う人だった。私と同じようなものを好む人だった。
この人とは、まともに性交したのは一度だけだった。
彼は、性に関しては変わったことを好む人で、あるときは私の全裸を見ながら自慰をしたり、私が着衣のまま彼の体を舐めるように指示されたこともあった。
また、あるときは上半身や下半身だけ脱いだ状態で、彼の性器を舐めたこともあった。
精子は必ず飲まなければいけなくて、ティッシュに吐き出すと叱られた。好きなら、飲むべきだと言われ、私は、そういうものなのかと思っていた。
あるとき、裸にガーターベルトを付けて、彼の体を愛撫するように言われたときに嫌気がさして断った。
すると、彼は私が挿入を痛がるから、他の方法を模索しているのだと言った。
嘘だと思った。この人は、自分さえ気持ち良ければいいんだ。
それからほどなくして、彼がバイトを辞めたので、会う機会が減って、しばらくして別れたいと連絡があったので、すんなり別れてあげた。
それからは、彼氏のいない時期が続く。オーディションは落ち続けて、次第に足が遠のいた。私は、派遣会社に登録して働きはじめた。
派遣社員として、アパレル店で働きはじめ、正社員に昇格した。販売の成績は悪かったけど、棚卸とか、伝票整理など事務作業は率先しておこなった。プロのラジオDJを諦めた以上は、なんとしても会社にしがみつきたかった。
正社員になったけれど、会社の業績が傾いて、私と同じように販売成績の悪い社員は、いやがらせを受けて辞めていった。
その矛先は、私にも向けられて、毎日のように上司に詰められて、営業日報を書くために社内システムにログインすれば、掲示板に私への誹謗中傷が書かれていた。
ラジオDJは、不特定多数の人に話かけるのに対して、セールスは特定の人に話かける。そこで求められる話術はまったく違っていた。私は、後者が出来なかった。
買う気のない客にどの様に提案すればいいかわからない。販売の上手なスタッフにアドバイスされれば、分かったように気がするが、いざ客の前に立てば、頭が真っ白になった。せっかくスーツを買ってくれた客に、ヒールや小物を勧めれば、嫌がられてしまうのうな気がして言えなかった。いや、気分を害して、スーツすら買ってくれなくなることが怖かった。
三人目の彼氏は、そのアパレル店で働いていたスタッフだった。彼は、同じ系列店で店長をしていた。あの会社は、メンズ、レディース共にビジネススーツを扱い、売り場の7割ほどがメンズだった。
彼は、販売が上手で、よく笑う人なので、一緒にいると華やいだ気持ちになれた。宇都宮店の店長だったので、会えるのは週に一度ぐらいだ。私が東京から宇都宮に出向くことが多かった。
彼との性交も気持ちよくはなかったが、人柄に惚れていたし、高身長でオシャレな人で、顧客への提案も上手で、社内では評判の良い人だった。
私は、彼と会うときは、数日前からどんな服を着るかだけでなく、どの下着をつけていくべきか、どれなら喜ぶのか、でもワンパターンにならないように考え、ローテーションを決めていた。
あるとき、彼はコンドームを付けずに私の膣内で射精した。私はすぐにシャワーで洗い流したけれど、数日経っても心配でだった。
不安で電話をしたら、彼は電話口で笑いながら、ごめんごめんと謝っていた。私は話を聞いてほしかったのに茶化されているような気がした。
結局のところ、妊娠はしなかったが、彼の神経を疑った。この彼には、他にも女がいて、過去には中絶させたこともあったらしい。
私はセフレに過ぎず、別れを切り出したら、あっさりと別れてくれた。
どんなに歳が離れていても、過去の男たちより、結人君が輝いているし、胸がときめく。
過去の男たちとの性交よりも、結人君を思ってした自慰の方がよほど気持ちよかった。
私が絶頂に達するのは、いつも自慰をしたときだ。
それにしても、妄想の中に現れた恵子が言うとおり、三十一歳も年下の男を好きになるなんてどうかしている。恵子が母乳を飲ませ、夜泣きをあやした子を私は好きになったんだ。
ベッドから起き上がると溜息が漏れる。誰にも相談できない。この想いは墓場まで、持っていくしかないと思えば、余計に苦しさは募ってゆくばかりだった。
◇
大学時代のラジオサークルでのこと。あるロックバンドの伊那市公演を告知したところ、主催者側の不祥事で中止になり、次の放送で、謝罪のコメントをしたことがあった。
珍しく、恵子がやってみようと奨めてきたので、扱ったのだが、やらなけれなよかったと後悔した。
いつものように風の庵でボランティアをしたあと、恵子の運転する車の助手席に座り、昔のことを思い出した。
自動車を持っていると贅沢品とみなされて、生活保護が受けられないようだ。車が無ければ、仕事に行けれず、生活に不便してしまうから手放せないと恵子は言う。確かに地方で暮らす者にとって車は必需品だ。
私も軽自動車を持っているけど、骨折してから乗っていない。
運転席の恵子は、二十年以上の歳月を経て、色気ないおばさんになってしまった。大学の頃は、メイクは丁寧にしていたし、四年間通して、いつも誰かしら彼氏がいた。その男たちは、あの豊満な胸を揉みたいと思っていたのだろう。
今日の恵子は、よれよれのタータンチェックのネルシャツを着て風の庵に来ていた。メイクは下地しか塗っておらず、リップもしていないところからも、ひっ迫した金銭事情が伺える。
さっきまで、欠けた前歯をむき出しにして、私を説得していた。
風の庵で話があると声をかけられた。
恵子は、結人君と華音ちゃんを連れて自宅に帰ったあと、閉店時間を見計らって私を迎えに来た。
恵子の車に乗せられて、ファミレスに着いたら、映美さんが、先に席で待っていた。
夕食は済ませたあとなので、ドリンクバーのみ注文して、そこからはひたすら、老後の資金についての話を聞かされた。
恵子が言うには、私のように一人で老後を生きていくには、貯えが必要なのだという。
私は、スキー場でも、芸術の森でも、契約社員で働いているので、このままだと大きな収入は見込めない。ならば、投資をして増やすしかないというのだ。
確かに、そのとおりだと思った。私は、経営学部を卒業しているけど、社会人になってからは、接客業ばかりだったので、金融の事には疎い。
そこから映美さんが、外貨だの、外国株だのと言いはじめて、私は、ひたすらうなづいていた。
要するに、映美さんの旦那は投資に詳しい人だから、お金を預けてみないかというのだ。NISAよりも良い資産形成だというのだ。そもそもNISAも名前ぐらいしか知らないが。
ただし、これは私たちのように就職氷河期世代のみを対象にしていて、尚且つ、選ばれた人にしか提案していないという。先日の龍口苑での食事の帰りに恵子が、映美さんのおかげで、資産形成が出来ていると言っていた。
でも、それは使わずに結人君や華音ちゃんんの将来のために取っておくといっていたのを思い出す。
「私も、映美さんのおかげで、本当に助かってるの。やってみよう」
真剣な眼差しで見つめられたあとに、微笑んだ口元から、欠けた前歯が覗いた。
「考えとくね」
私は、そう返事をすると、待っていたとばかりに、映美さんが口を挟んだ。
「陽子ちゃん。投資は、生物なの。今がチャンスなの。こういう時じゃなければ、私は投資を勧めたりしないから」
自信満々に映美さんは言った。
結局、二人に押し切られて、コンビニに移動してATMで30万円をおろした。
その帰り道に、私は恵子に車で送ってもらう道すがら、ラジオサークルの謝罪コメントを思い出してしまった。
でも、今回は大丈夫だ。渡したお金はいつでも返してもらえると言ってくれた。何よりも映美さんが誘ってくれたんだから。
「あたしたちが就職する頃って、氷河期とか言われてたでしょ。この世代って、その後の人生も上手くいってない人って多いわけよ。映美さんとしては、そういう人を救いたいんだって」
恵子の言葉に私は深くうなづく。漠然としていた老後の生活が少しだけ見通せるようになった。
車は、天竜川沿いの国道を逸れて側道に入る。街灯が少ないため、見通しが悪く、恵子はハンドルを握りながら、前かがみになる。
「この辺だっけ」
「もう少し先だね」
大学の頃、友達は、それなりにいた。洋服を買いに行くときも、スノーボードに行くときも、友達と一緒だった。
卒業して二十年以上経って、色濃く思い出せるのは、恵子と活動したラジオサークルだ。
これからも、時々こんな風に、私は恵子と顔をあわせるのだろう。
恵子は、慣れた手つきでハンドルを切りながら、アクセルを踏む。国道を逸れたら、ヘッドライトを頼りに、しばらく曲がりくねった道を走る。
でも、私たちが、おばあちゃんになっていく、この先の道は、こんな暗がりではいけない。例えるなら春の陽と共に菜の花やスイートピーが咲く、そんな穏やかな道であってほしい。
よれよれのネルシャツ着て運転席に座る恵子を見ながら、そう思っていた。
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