アファンタジア考
本稿は、アファンタジアに関する私の主観に基づく思案について、あまりまとまった形ではなく、断片的に記述したものです。
つまり、「テキトー」「思い付き」「偏っている」「いい加減」な内容です。
ですが、こういった内容を残しておくのも、ある意味では意義があるかもしれないと思い、あえて残しておくことにしました。
ただ残しておくだけでは意味がないので、次の三つの観点から、私の「主観的思考の断片」について、AI に論評してもらいました。その結果は本稿の末尾に掲載しました。
三つの観点:
「主観的思考の断片」の内容は妥当か?妄想か?
「主観的思考の断片」を批判的な視点から論評せよ。
「主観的思考の断片」とは逆の立場を批判的な視点から論評せよ。
それでは以下に「主観的思考の断片」を掲載します。
1. 主観的思考の断片
以下は、個人的な思考の断片を撒いているだけです。なお、《》内のフレーズは意訳です。
四年ほど前からアファンタジアを研究する海外の最新論文や先行研究を読んでいるが、少なくない論文にはこう書いてある。《アファンタジアは個人差のバリエーションであり、いわゆる障害や疾患と呼ぶほどでもない、つまりその条件を満たしていない》。こういったフレーズを読むたびに、一当事者として個人的にずっと違和感がある。なぜこんなことをいちいち書くのか。当たり前ではないか、と思ってしまう。最近、ようやくそのワケのようなものが私の頭の中に浮かんできた。以下はその断片である。
アファンタジアな人もそうでない人も、いやむしろアファンタジア界隈の一部の人々こそ、《アファンタジアは人生にとっては障害ですよね》という即時的な反射を、いわゆる「速い思考」のほうで反応しているのではないか。あるいは、「遅い思考」のほうで既に観念として刻まれているのではないか。
アファンタジアに関する複数の主要な研究結果(統計)では、《それほどでもない》ということになっている。つまり、広範でフェアな調査結果という意味において事実だ。
当然ながら研究者としては、まさか「アファンタジアは障害であると主張している」などと誤読されるわけにはいかないので、前もって《いや、それほどでもないですよ》と明記しているのではないか。
実際、《それほどでもない》というのが私の実感である。つまり私の実感は研究結果(統計)を支えているし、統計は私の実感を支えているともいえる。その意味において、私の実感は単なる主観というわけでもない。
興味深いのは、一部の研究者の中には、《アファンタジアはいわゆる障害とはされていない》ということを前もって明記しておきながら(アリバイだろうか?)、その研究の内容や著作を読むと、《いやいや、アファンタジアは人生にとって障害だと感じている人もいるんですよ》(というか、そういう人を目を凝らして見つけ出しているようにも見えるのだが……)、《だから、私たち研究者はそれを社会に認識・理解してもらいたいし、支援を云々云々……》というパターン、というか思想、あるいは職業的な性質のようなものを感じたりする。
なんとなく、研究者も含めて少なくない人が、内心では《やっぱり、アファンタジアって普通じゃないし、困ってる人いるよね?》という前提を信念化しているのではないか。
そして、そういう人たちに《いやいや、それほどでもないから》と反論したところで、《いえいえ、そうは言っても、やっぱり》とか、《いえいえ、とても困ってるって強く主張する人がいるんだし》、さらには《そういう人はアファンタジアを「個性」(つまり個人差)ということに強く反発してるし》、《ということは、やっぱり、そういう声もあって》、《だから、そういったことを社会の側は理解しなければならないし、支援を云々云々》といった話が、この先も繰り返されていくのだろうか。
2. 客観的 AI レビュー
上記の「主観的思考の断片」について、次の三つの観点から、AI に論評してもらいました。
三つの観点:
「主観的思考の断片」の内容は妥当か?妄想か?
「主観的思考の断片」を批判的な視点から論評せよ。
「主観的思考の断片」とは逆の立場を批判的な視点から論評せよ。
結果は以下の通りです。
留意事項:
本レビューは、現時点の技術において AI(LLM:大規模言語モデル)が膨大なデータから確率的に言葉を繋ぎ合わせて生成したものです。そのため、事実とは異なる情報を「もっともらしく」回答する「ハルシネーション(幻覚)」という現象が発生する場合があります。重要な意思決定や専門的な情報の確認については、必ず信頼できる一次情報をご自身でご確認ください。
3. 付録
本稿の執筆より少し前に書いた x.com のポスト。

