自称「重度のアファンタジア」な人たち
以下の内容は、最近(2026 年 5 月時点)のアファンタジア(心的イメージ体験の生涯的不在)界隈に関する私個人の主観です。あくまで私が見聞きできる範囲での印象に基づいています。
「重度のアファンタジア」と自称する人を、これまで国内 SNS(ブログ、X、note など)で何度も見かけてきました。海外 SNS でも同様かもしれませんが、たとえばスペイン語圏を観測したことはないので、正直よくわかりません。
「重度の」という表現だけではなく、「重い」「ひどい」「かなりの」「強度の」といった表現(あるいは類似した表現)もありますが、ここではそれらをまとめて「重度の」または「重度」と呼ぶことにします。
私が「重度の」という表現を目にするたびに感じるのは、「なにが、どのくらい」(あるいは「いつ、どこで、なにが、なぜ、どのくらい」)重度なのか、そして「その根拠は何か」という疑問です。
いまパッと思いつくだけでも、評価の観点はいくつかあります。
VVIQ スコアは?(どの程度の数値なのか)
VVIQ 以外の指標は?(何を使い、どの程度のスコアなのか)
ミーム画像による判断か?(濃淡 5 段階の林檎や星の一枚絵など)
夢の中でも同じか?
視覚以外は?
瞬間的に浮かぶか?
頻度は?
先天性か?
目を開けたときか? 閉じたときか?
また、人によっては特定のシチュエーションを加味する場合があるかもしれません。たとえば、
仕事場で。
ホニャララという作業をしているとき。
アファンタジアのせいで。
その作業の遂行が難しくなり。
完了までに(他の人の二倍は)時間がかかった。
だから、私は重度のアファンタジアです。
(とはいえ、このシチュエーションにおいてアファンタジア自体が主因かどうかは、こういった主観的かつ限定的な情報だけでは判断しづらいです)
SNS 上で「重度」を自称する人のアファンタジア関連の発信を読むと(もちろんそういった発信がある場合)、私の観点から見て「重度」とは言い難いケースも少なくなく、自己申告の「重度」は、「雑さ」や「誇張」が背景にあるように感じられることもあります。あるいは、ただ単に「自分は重度のアファンタジアです」とだけ述べている人もいます。体感としては、このタイプが大半を占めるように見えます。
少なくとも完璧ではないにせよ、VVIQ(あるいは VVIQ に類似したもの)は誰でもすぐ実施できる指標であり、一定の目安にはなるはずです。しかし、アファンタジアを自称・自認する人の中で、VVIQ や他の指標に触れている人はあまり見かけません。
とはいえ、アファンタジアは本質的に主観的体験(心の中で感じられたこと)ですので、客観的な測定は難しく、結局のところ「言ったもん勝ち」になりやすいです。つまり、自己申告の影響が大きくなりやすい構造なのです。
こうして、世の中では今日も「重度のアファンタジアを自称する人」が増えているのかもしれません。
一方で、重度であれ軽度であれ、近年はアファンタジア(あるいはアファンタジア寄り)を自称・自認する人そのものが増えています。これはアファンタジアが世の中に知れ渡ってきたことが影響しているのかもしれません。(※ 近年メディアで取り上げられる機会が増えた発達障害について、それを自称・自認する人や匂わせる人、あるいは実際に診断を受けた人など、そのような人々の数が数値上増加している現象と、類似した状況なのかもしれません)
また、私個人としては同調しませんが、「アファンタジアだから生きづらい」、さらには「アファンタジアは障害です」といった強いニュアンスの主張をする人も、増えてきたように見受けられます。
そういった主張のほとんどが主観的なものであり、障害理解やダイバーシティ(多様な属性の存在)、インクルージョン(多様な人が尊重され活かされること)、障害の社会モデル(生きづらさの原因は社会側にある)、合理的配慮(社会の障壁を取り除く)といった、近年、発達障害や LGBTQ の文脈で頻繁に取り上げられる概念を連想させるかのような表現や、そうした考え方を示唆するような言い回しが見られることもあります。
こうして、世の中には今日も「重度のアファンタジアを自称する障害者」が増えているのかもしれません。
そういったわけで、いつになるかはわかりませんが、こうした主張を推進する一部の当事者運動的な立場の人々や、その周辺の支持者・協力者の働きかけによって、米国 DSM などに「アファンタジアは障害である」という扱いで記載される日が来ないとも限りません。
なお、SDAM(自伝的記憶再体験の生涯的不在)に関してはまだそれほど知られていませんが、遠からずアファンタジアと同じ道を辿るような気がしないでもありません。
