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イメージの〈ない〉世界に生きる アファンタジア(2025年)読書中感想文

先日、アファンタジアに関する新著『イメージの〈ない〉世界に生きる アファンタジア』(2025-09-11、編著者:髙橋純一、杉村伸一郎、行場次朗)を一回ナナメ読みした。

その時の率直な感想はこちら(『アファンタジアは個性か? A氏との対話記録』)に記したが、いまあらためて二回目の精読中である。今回は、初回のナナメ読みとは異なった印象も感じているので、ここに感想を記しておく(今後追記の感想があれば本稿の末尾に追記するという形をとる)。なお、まだ途中なので二回目読了には至っていない。

【追記 2026-05-18】以下、かなり「投げやりの態度」が見てとれるが、その後、理由を考えたところ、やはりKindle電子書籍のレイアウトに大きな要因がある。文字が小さすぎるうえ、縦1行の文字数が多いので、拡大しても縦スクロールが発生して非常に読みづらい。それが強いストレスになって読み続ける気持ちが萎えていた。これが「投げやりな態度」の主要因とまでは断定しないが、読む体験としては確実に強い不快だったので、それが読む意欲に作用していた可能性は高い。以下、その点を加味して読んでいただければと思う。

ということで、結局、新著に関して、自分的にはこういうことだ:
自他ともに、もはやアファンタジア自体はとくに珍しくなく、非アファンタジアなんてそれこそ一般的なのでさらに珍しくない。なのでアファンタジアかどうかは、もうどうでもよくて、そこにはただ自分自身のことを語る赤の他人(アファンタジア当事者)がいて、その他人がどうなのかということに関して、さして興味がない。他人というのは、常に自分とは違う。あるいは部分的には似ている。それだけだ。その他人自体に人間として興味があれば(あるいは普段からお付き合いがあれば)フォーカスするが、単に違いや同じや似ているという理由だけでは、興味を持つところまではいかない。

なので、新著の紙面のほとんどを占める当事者エピソードは、基本的には私が知りようもない初見の赤の他人のことだから、そこに興味はない。ある意味で、正直どうでもいい。なので、もはや「その人がアファンタジアだから」というだけの理由では、新著への興味を維持するのは難しい。正直、読むのをいつ放棄してもおかしくはない。それくらい執着はない。

これは編著者をディスっているわけではない。当事者エピソードがほとんどという本の構成がそうさせているだけだ。そしてその構成だと私の興味を維持するには難しいというだけだ。なお、これまで述べてきた考えは、「第三者が何らかの狙いに基づいて編さんした二次(的)情報」に対するものであって、自分自身が主体的に選んだ情報(主に一次情報や客観的な学術論文など)となると話はまた別だ。

(以上は、今現在の私の心境であり、この心境は流動的でもあるため、明日には変わっている可能性もある)

それと、今回の新著のタイトル『イメージの〈ない〉世界に生きる アファンタジア』(2025年)が、前著『アファンタジア: イメージのない世界で生きる』(2021年)のタイトルと似ていたため、私はてっきり前著の改定補強版くらいの認識しかなかったが、内容は当事者エピソードが中心という点は共通ではあるが、前著が外国人の話だったのに対して、新著はすべて日本人であり、エピソードの記述も非常に緻密であり、前著とは比べ物にならないくらいの価値ある内容だと考えていい。当然ながら最新の知見も盛り込まれている。なお、前著は洋書の翻訳であったが、その点を私は失念しており、だから前著 ⇒ 改訂版 ⇒ 新著というふうに勝手に「同系統」だと勘違いしていた。おそらく新著のタイトルが私の無意識の勘違いを誘発したのかもしれない。

なお、前著も新著も共通する点として、メインとなる編著者は福島大学教授の髙橋純一(あるいは高橋純一)氏である(ここ数年で准教授から教授へ昇任されたようだ)。氏の専門は researchmap によると「人文・社会」にあり、主に「認知科学 / 感覚・知覚・認知の個人差」と「特別支援教育 / 障害理解」の二本柱であるようだ。おそらくその影響もあってか、新著の内容は「特別支援教育 / 障害理解」という分野で実績を積んだ氏の知見がより反映されているように思う(それが表面上にはあらわれるかどうかは別として、通底する思想として作用しているように感じられる)。

新著では、例えば「アファンタジアは障害か? 否か?」という問いに対しては、誠実な姿勢で両論について併記していることを基本としており、「障害ではない」という一般的な知見を紹介しつつも、「当事者が感じる生きづらさについての主観的な主張(それが妥当であるかは別として)」に対しては、良い意味では「寄り添い」、別の意味では「アファンタジア当事者の主観的事例の一部にフォーカスをあてて、ダイバーシティ(多様な属性の人がいる)やインクルージョン(多様な人が尊重され活かされている)、障害の社会モデル(生きづらさの原因は社会の側にある)、合理的配慮(社会の側にある障壁を取り除く)といった観点からそこにコミット」、そしてそこから派生しうる影響として「それが意図的であるかどうかにかかわらず、結果としてアファンタジアには事例によっては支援や配慮が必要なことがあり、もはやこれは『障害』にも通じえる事例であるという考えを推し進める勢力にもたらす(あるいはコミットする)影響」ということを想像してしまう(あくまで個人の憶測に基づく想像です)。

というわけで「障害」あるいは「障害的な何か」さらには「これは障害だと主張する主観的な何か(それが妥当であるかは別として)」についての受け止め方、考え方、利害関係などを含めた立場として、私と編著者(髙橋純一氏ら)の間には決して交わらない価値観があるようにも思えてしまう。ただ、それは人間社会ではごく自然に起こることであり、それ自体が否定されるものでもない。ただ、こういった視点を内在しているアファンタジア当事者が少なくとも一人はいて、その一人は編著者(髙橋純一氏ら)の活動を良い意味でも(私にとっては利害が異なる可能性という意味で)別の意味でも見つめ続けているのは事実である。

それともう一点、新著(Kindle 電子書籍版)の体裁だが、おそらく物理書籍と同じ体裁(縦の一行が長いうえに文字が小さい)として固定されており、文字の大きさや余白の調整、ネガポジ反転など、こういったレイアウト調整ができなかったのは非常に不満であった。とにかく読みづらい。21.5 インチの PC モニタでも読みづらいし、Amazon Fire HD 10 を縦にしても文字が小さくて読みづらく、もちろん横にすれば元が縦に長い文章であるためスクロールが必須で読みづらくなる。予算の関係か、あるいは別の意図があるのかは不明だが、読者としてはかなり不満で、これだけでもう視力の弱った中年(?)のおじさんとしては、読書を放棄したくなるくらいのインパクトがあった。

なお、興味深いのは、先日投稿した記事(『アファンタジアは個性か? A氏との対話記録(結果は決裂)』)に登場する二人の人物(私とA氏)が、それぞれの理由に基づき新著の内容に対して様々な思うところを抱いているという点であり、これは非常に示唆に富んでいる。こと「障害」という概念が絡むと、議論は一気に紛糾し、収拾のつかない地点に着地してしまう。おそらく編著者としては経験上、こうした展開は想定済であることは間違いなく、ゆえに両論併記という形を誠実にとってはいるものの、ある勢力からは蛇蝎の如く嫌われ、別の勢力からは親の仇のように憎まれるという、実に大変な仕事であるに違いない。

私の主観でいえば、編著者らはどちらかというと「アファンタジアを個性だと簡単に片づけてはならない事例もある」という誠実な(あるいは職業上の)姿勢を見せているにもかかわらず、なぜか本来それを望んでいるはずのA氏からも激しく感情的に罵倒あるいは批判されるという、どうにも救われない立ち位置に置かれているともいえる。ここは多少なりとも同情する。もちろん、そんなことは百も承知のプロフェッショナルだろうから、私の同情など不要かもしれぬが。

ということで、まずはここまで。
感想文の第二弾があり次第、以下に追記する予定。

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