アファンタジアは個性である
「〇〇」の界隈では、「〇〇は個性」と発信すると「やめろ、その発信は迷惑だ」という勢力がいる。逆に「〇〇は障害」と発信すると、「やめろ、その発信は迷惑だ」という勢力もいる。そこには二つの正義があるだけで、悪がいるわけではない。お前はお前、俺は俺、というだけの話だ。
「〇〇」という概念がスペクトラムで、幅が広く曖昧だからこそ、こうした衝突が起こる。だから「〇〇は個性のケースもあれば障害のケースもある」という表現が、もっとも無難になる。
では、先天性アファンタジア(心的イメージ体験の生涯的不在)の場合はどうだろう。主要研究者(客観的観察者)らの見解では、現時点で「アファンタジア自体は障害でも病気でもない」と結論づけられている。
⇒ Claude のログ(PDF版|画像版)
したがって、「アファンタジアは個性のケースもあれば障害のケースもある」という主張は、少なくとも現時点では一般的とは言いがたい。単に「アファンタジアは個性」と述べるのが無難だろう。少なくとも今のところは。
ところが、「アファンタジアは障害である」と断固として主張する人もいる。根拠は、その人がそう信じているからだ。この「信じる」という意志は侮れない。「信じきる」まで行くと、もはや手の付けようがなくなる。やがてそれは、いわば狂気(客観的な検証や合意形成が困難な状態)に近づいていく。
そして、「では、個性と障害の定義は?」という話になったりする。ざっくり言えば、「医療機関で診断された」や「法的に当てはまる」といった根拠があれば、その視点においてそれは「障害」とされ、それ以外は「個性」あるいはグレーゾーンになる。ここではそういう整理にしておく。
では、アファンタジアはどうか。アファンタジアには医学的な診断基準も、法的な基準も存在しない。というか、現時点ではそれを必要とする合意すらない。また、個人によっては特定の場面で困難を感じる可能性はあるが、それ自体が直ちに障害と定義されているわけではない。
というわけで、「アファンタジアは個性」である、といえる。少なくとも現時点では。
※ 意図的に「個性」という語彙を使っている。ここでの意味は「個体に備わる性質」という広義であり、そこに価値判断は含まれていない。
※ 以下の no+e 記事も参照されたい。
