アファンタジアは個性か? A氏との対話記録(結果は決裂)
更新履歴:
2026-05-13 一部の内容(追記 2026-05-11)を別ページに移動
以下は、2026年5月に行われた、アファンタジアを「個性」と捉えるべきかどうかについての対話の連なりです。一つの事例として記録に残しておきます。
登場人物は以下の二人です。
私(無像之像):
アファンタジア(心的イメージ体験の生涯的不在)およびSDAM(自伝的記憶再体験の生涯的不在)を備える者。
現時点で、アファンタジアは個性であり、障害ではないと考える者。
(なお、私が「個性」と言うとき、それは単に「個体に備わっている性質」という価値判断を含まない意味での「個性」のことを指します)
A氏:
おそらく、アファンタジアは個性ではない、と考える者。
以下のプロフィールを備える者。

1. 対話の全記録
【1】 A氏(2026年5月3日)


【2】 A氏(上記から三日後)



【3】 私(上記から約10時間後)

※ このポストは「独り言」というテイなので、宛先は意図して「@null」にしています(そして引用ポストという形をとっています)。
もちろん、あくまで私自身がそうしたテイであるというだけであって、その解釈は人によって異なる可能性があります。

【4】 A氏(上記から約1時間半後)


【5】 私(上記から約10時間後)

※ 上記のポストで「別途こちらのページ」とありますが、
それは以下のページです。
『████さんへの返信』(クリック/タップすると開きます)
それほど長い内容ではありません。
このページの内容を読まないと、以降の内容は理解できません。

【6】 A氏(上記から約11時間後)




【7】 私(上記から約40分後)



【8】 A氏(上記から約10分後)


【9】 私(上記から約30分後)


※ 参考資料のリンクはこちら。
アファンタジアは個性である https://note.com/imageless_img/n/n494403dc22a3
発達障害(ASD/ADHD)とアファンタジア https://note.com/imageless_img/n/ne4aca8c9f926
アファンタジアとSDAMをネガティブに捉えすぎる当事者について https://note.com/imageless_img/n/n8768ba5b3c57

【10】 A氏(上記から約30分後)



【11】 A氏(上記から約1時間30分後)


【12】 私
私が最後に応答した【9】以降は、x.com上では既に終わった話なので、私は一切反応していません。

以下は、追記 2026-05-09(00:10)
【13】 A氏(その後に連投)





2. 対話の補足
私の考え方は至ってシンプルです。
【考え方】
たとえば、仮にX氏という人物が「ぼくドラえもん、だから、ぼくはロボットです」と主張したとしても、それはあくまで本人の主観的な真実に過ぎず、他者が当然に受け入れるべき事実とはなり得ません。
実際、この分野における客観的な統計調査や学術研究では、「人間はロボットではない」とする見解が主流です。私が調査した範囲においても、この結論を覆すような主要な研究は存在していません。
ということです。
※ かなり単純化しています。
※ 比喩は正確ではない可能性があります。
あえて極端な比喩を挙げましたが、要点は「自認が直ちに客観的事実と見なされるわけではない」という点にあります。
なお、2025年に出版された、現時点で最新の書籍
『イメージの〈ない〉世界に生きる アファンタジア』
についてですが、私はかねてから編著者らによる一部の意向に対し批判的な視点を持っていたため、これまで購入を控えていました。しかし、この機会に改めて購入し、先ほど読了しました。

結論として、書籍の内容を確認した上でも、私の見解が変わることはありませんでした。つまり、今回対話させていただいたA氏の見解には相変わらず同調できません。
ちなみに、本書籍は私の事前の想定(バイアス)とは異なり、良書であると感じました。そのへんについては、以下の「アファンタジア本(2025年版)の感想」に記しました。
3. アファンタジア本(2025年版)の感想
今回の対話で取り上げている書籍は、次の通りです。
イメージの〈ない〉世界に生きる アファンタジア
Kindle版(2025-09-11)
編著者:髙橋純一、杉村伸一郎、行場次朗
https://www.amazon.co.jp/dp/B0FPC7G6X3
この書籍について、本文の引用を交えながら、私なりの感想を以下に記します。
※ 感想部分は「独り言」のような文体で記述します。
※ かなりラフな文体になっており、あえて厳密に推敲していないため、読みづらい箇所・分かりにくい箇所があるかもしれません。
3-1. 9ページ(編著者による記述)より引用
アファンタジア研究のこれから
将来的な第四フェーズとして私たちが提案したいのが、アファンタジアに対する理解の促進、さらには(アファンタジアのうち、特に支援を必要としている人への)介入支援である。
書籍の冒頭に、編著者のビジョン(志)あるいはスタンス(構え)が明記されている。冒頭で自らの立場を表明すること自体はとても誠実だと思う。
とはいえ、私個人としては、ここの「介入支援」というのは、簡単には同意しかねる。その理由は以前に概要のみを書いた。
⇒ こちら と こちら。
とはいえ、「特に支援を必要としている人」というアファンタジア当事者からの「要望」があるのなら、それを受け止める側が「対応」として何らかのアクションを起こすこと自体に異論はない。
個人的には「介入」という言葉がなかなかしっくりこない。
3-2. 10ページ(編著者による記述)より引用
またこの後のエピソードにも出てくるように、必ずしも「アファンタジアの人たち=困っている人」ではないし、そのような議論が先行するような状況は避けなければならない。一方で、一部の人については、実際に職場や学校で不適応を起こしている場合もある。
ここの記述も誠実であると感じた。あらゆる可能性を考えてのことだろうと推察する。
3-3. 12ページ(編著者による記述)より引用
私たちは、アファンタジア研究を進めるうえで、本当に多くのみなさんからお話を聞くことができた。そのなかでは、KI氏のように支援を求めている人もいれば、支援を求めていない人もいる。「アファンタジアは困っている人たち」というラベルを貼ってほしいという人もいれば、「それは絶対にやめてほしい!アファンタジアは障害ではない!」という人もいる。これらを理解するには、調査や実験研究だけではなく、アファンタジアの人たちの主観的体験を対象とした研究も必要となる。別の言い方をすれば、調査や実験研究で得られた知見がアファンタジアの人たちの主観的体験と合致しているのか、逆にアファンタジアの人たちが普段感じている主観的体験を調査・実験研究によって証明できているのか、といった観点が必要であろう。研究者(多くの場合は、私を含めてファンタジアの人たちと思われる)が、アファンタジアの人たちを抜きにして調査・実験研究を進めて、アファンタジアに対する社会的な理解をつくっていくのではなく、アファンタジアの人たちの主観的体験を中心とした研究の展開が必要と考えている。
「それは絶対にやめてほしい!アファンタジアは障害ではない!」
このフレーズに「!」を二つも記しているが、個人的には何やら印象操作のように思える。
べつに「!」は不要だと思うが、編著者としては「!」を記すことで、「強い思い」「叫び」「乱暴さ」を印象付ける狙いがあったのかもしれない。その狙いの目的は不明だが。あるいは何ら他意はないのかもしれない。(※ すべて憶測です)
とはいえ、ここの部分の記述も誠実であるといえる。いろんな可能性を考えてのことだと推察する。
3-4. 19ページ(当事者Eさんによる発言)より引用
反射的に出しているんですよ。このコミュニケーションすらも自分で認知してなくて何を話してるか、何か文章を頭のなかで構築してから出すんではなくて、出てから「あ、こんなこと言ってるわ」って気づくことのほうが多くて。
当事者による発言だが、まさに私の実感が言語化されている。
私の場合だと、頭の中に抽象的な思考はあるが、それを具現化(整理)するためには外部にアウトプットする必要がある。つまり、アウトプットと同時に思考が整理されている。このプロセスは非常に重要で必須といえる。外部にアウトプットすることで、自らの脳に体系的に整理された知識として定着するという実感がある。
逆に言うと、外部にアウトプットしないと、思考は「他者に伝わる形」として整理されず、いつまでたっても抽象的なままだ。とはいえ、非常に短い言葉で済むなら思考だけで済むが、本稿のようにある程度のボリュームがある場合は、外部にアウトプットしなければいつまでたっても思考は抽象的(アヤフヤ)なままだ。
3-5. 44ページ(当事者Kさんによる発言)より引用
何十人もアファンタジアの方たちと交流していくなかで、とりあえず孤独感が薄らいだというか、「自分だけじゃなくて、いっぱいいるじゃん」というところがあって。その後はかなり複雑に、みんな人生の困難とかそういうものをアファンタジアと一生懸命結びつけようとしているな、という様子が。自分自身も、それは最初のころはやってたんですけれど、いろんな論文を読めば読むほど、「何がアファンタジア由来で、何がそうじゃないのかが全然わからない」という状態になってきて。だけど、その当事者のLINEのほうでは、みんなわりとなんでもいったんアファンタジアのせいと考えてみようという兆候がみてとれて、ちょっと複雑な心境に今なっています。ただ、やっぱり情報を集めることでしか自分の納得感は増していかないので、一生懸命、今は情報を集めていたりとか、あと今回この場でみなさんと話していると、本当にいろんな考えをもった当事者がいるんだなということを知ることができたりとか、それがすごくうれしいな、というところです。
あくまで私の場合だが、「孤独感」というものを感じたことは、これまでの人生でも限られる(それが「孤独感」といえるかは不明だが、おそらくそれに似た感覚として、片手で数えられる程度)。
だが、その理由がアファンタジアであることは絶対にない。一方で、比較的高い頻度で「孤独感」や「さみしさ」を感じるのがデフォルトな人も存在する(当事者Kさんがそうだとは言ってない)。これはもって生まれた気質の違いかもしれない。
「孤独感」以外に関しては、個人的に共感するところが多い。とくに当事者Kさんの客観的な姿勢には誠実さを感じる。
3-6. 45ページ(当事者Eさんによる発言)より引用
何がアファンタジアゆえの特徴になっているのかというところ、苦労とかを結びつけるのは違うなと思いつつも、でもやっぱり世界の見え方がそれぞれ違うから。要するに、僕のなかではかけてるメガネが違うという解釈なんですけど、逆に、かけてるメガネが一緒の人同士で共通する部分がやっぱり出てきたりするのかなって。必ず一緒ってわけじゃないと思うんですよ。
こちらも個人的には共感する。当事者Eさんに親近感を覚える。
3-7. 47ページ(当事者Gさんによる発言)より引用
あまり小さいときの記憶がないというか、すごく小さいときの記憶がたぶん他の人に比べたらあまりないのかもしれないというのを言ったときに、そういう方はけっこういらっしゃるようですというのを書いていただいて、そうなんだっていうのはあって。たしかに他の友だちとかと喋ってても、「あのとき、ああいうことがあって、こういうことがあって」っていう、幼なじみと喋ってて「そんなことあったっけな」みたいな疎外感もあったりしたんですけど。
これはいわゆるSDAMそのものか、あるいはSDAMに近い。
あくまで私の場合だが、自身のSDAMを要因として対人関係において「疎外感」を感じたことは、これまでの人生でただの一度もない。
「あまり小さいときの記憶がないというか、すごく小さいときの記憶がたぶん他の人に比べたらあまりない」
この部分は非常に共感を覚える。また、アファンタジアとSDAMの併存可能性という意味でも、ここの部分の記述は興味深い。
3-8. 70ページ(当事者Kさんによる発言)より引用
最初、アファンタジアの概念を知って、やっぱり自分が見えないことよりもまわりが見えているっていうことの衝撃がすごく大きくて、驚きですよね。その後、やっぱりちょっと混乱みたいな「どういうことだ?」と。「自分だけなんか違う世界を生きてたわけですか?」みたいなちょっとした混乱期があり、周囲にこう聞いて回って同じ人がいないっていうことで孤独を深めた時期を経て、でも身のまわりには少ないんだけど世界的にみたら何万人、何十万人って普通に存在するということがわかったことと、あとその自分自身のこれまでの体験で、「あ、これはアファンタジアだったからかな」とか、そういう結びつけをどんどん自分でしていく、そのアファンタジアだって知ったことによって得られた安心感みたいな時期を経て、多様性っていうお話があり、アファンタジアもそれぞれだっていうことがわかったし。あと、そのアファンタジアが原因じゃないのかっていうところも、まだ全然研究も進んでいないので相関関係自体が曖昧だし、何もまだわかんないんだなっていうところで、だいぶ冷静になってきたっていうのが今のところかなっていう感じです。
ここの部分の記述は興味深い。
私の場合は約三十年前に自覚したので、当時はアファンタジアという言葉や概念がなかった。ゆえに自分の性質に「ラベリング」(別名「宣告」「告知」)をしなかった。おそらくだが、これが自分にとっては良い意味で作用したのかもしれない。つまり初期に「衝撃」がなく、その後の長い年月をかけてなだらかに内省や理解を経た。
一方で、以下は完全に個人の憶測であり一般化する意図はないが、アファンタジアという言葉や概念を最近知った人は、それに関する情報を「ワッ」と怒涛のように大量に受けて、少し混乱する時期はあるのかもしれない。そしてそれを要因としてメンタル不調(不全感、被害者意識など)に陥る人もいるかもしれない。これはアファンタジア自体による不調というよりは、社会的な意味で、あるいは「衝撃」からのアイデンティティ危機という意味で、二次的な不調を自ら発生させてしまった、というふうにも見て取れる。
ここの部分の当事者Kさんの発言、そして自分自身も自分以外も客観視する姿勢は誠実だと感じた。
3-9. 71ページ(編著者による記述)より引用
ここで、ある参加者が「自分は薄情な人間なのかと思っていたが、そうではないかもしれない」と回想すると、同様に感じていた参加者も複数いるようである。
まさに自分の実感そのものだ。私も自分のことを「薄情」だと思うことがしばしばある。ただ、社会的にそれを他者に表明することは、いろいろな影響を考えると、そう簡単には口を割らない(笑)。そういった意味では「話題にしづらい」テーマなのかもしれない。
こういったことを避けずに言語化した当事者および編著者には誠実さを感じる。
3-10. 107ページ(編著者による記述)より引用
アファンタジアに気づいたとしても、困難を感じていない人が多いためか、特にアファンタジアと関連して「将来、こうしたい」という個人的な思いをもつ人は少ないようである。
つまりは、まあ、そういうことだ。何ら違和感はない。
「困難を感じていない」という実感、これは先行研究(Zemanら主要なプレイヤーによる複数の主要な研究)の内容とも矛盾しない。
ここでいう研究というのは、客観性や妥当性を重視するものである。その研究から得られた知見を軽んじてはならない。(もちろんその知見は時を経て変化する可能性はある)
3-11. 121ページ(編著者による記述)より引用
アファンタジアの理解を促進したいという思いがあるなかで、アファンタジアをネガティブにとらえたり、障害ととらえたりはしてほしくないという人もいた。「アファンタジアは認知的多様性のひとつである」という考え方を広げていく必要がある。
前半について。わかる。自分はこのタイプだ。
ただし、後半の「多様性」というキーワードが出現すると、一気に「ん?」というニュアンスになる。大袈裟というか、多様性アピールというか、そういうのは自分の性分に合わない。(※ 誤解されると嫌なので念押しするが、「合わない」としか言っていない)
とはいえ、編著者はこの分野を研究する専門家であるわけだから、彼らがそういった視点を持つこと自体は何ら違和感はない(むしろ誠実だろう)。ただし、その視点や価値観がこちらと交わるか? という話だ。交わる人もいれば、そうでない人もいる。
3-12. 123ページ(編著者による記述)より引用
アファンタジアは障害なのか?
アファンタジアの研究をしていると、「アファンタジアは障害なのか?」という質問を受けます。現在のところ、アファンタジアがなんらかの診断基準に載っているわけではありません。ですから、まずはこの観点で障害とはいえません。
(中略)
一方で、本書のなかにも出てくるように、アファンタジアによって仕事や生活に支障をきたしている人もいます。私の考えとしては、アファンタジアを障害として取り上げる必要はないけれど、一方で困っている人のなかには「障害として取り上げてほしい」という人がいることも事実ですから、「アファンタジアの何が不適応の原因なのか」を整理する必要があると思っています。
ここの記述(とくに前半)は非常に重要だ。前半と後半は相反することを言っている。結局、つきつめるとこういったジレンマに集約される。
両方を記述することは誠実であるあらわれだと思う。
そして、ここでも述べられているが、問題は「障害として取り上げてほしい」人が、何をもってしてそう発言しているか? という点にある。「障害として取り上げてほしい」と言えば何でもそのとおりになるとは限らない。それを第三者視点で(つまり一方的な主観性だけではなく客観性も考慮したうえで慎重に)整理して探求してゆくのが専門家と呼ばれる人たちなんだと思う。
3-13. 124ページ(編著者による記述)より引用
イメージは主観的体験ですし、イメージを浮かべる人のほうが多数派です。ですから、イメージを浮かべることが当たり前のように感じられるかもしれませんが、「イメージが浮かばない=イメージ以外の方略で生活している」ともいえます。そう考えると、私たちの生活(特に、イメージが浮かぶファンタジアの人がイメージ「ばかりに」頼って生活している状況)のなかで、イメージを用いなくとも対応できることはたくさんあるのかもしれません。
そう、私たちは選べる(というか選ぶしかない)。私たちはみなジョーダンや大谷翔平にはなれない。人間の遺伝子は平等ではない。それは当然のことだ。
3-14. 197ページ(編著者による記述)より引用
本書の参加者たちは、イメージが浮かばないことに対して「かわいそう」とか「イメージが見えないからこうだよね」という反応ではなく、「普通に」、「そうやっているんだね」というとらえ方をしてほしいと感じていることがわかる。
この部分に同意する。実際「かわいそう」ではない。もちろん、善意を前提とした思いやり(あるいは偽善)であることは分かる。しかし実際に現実として「かわいそう」というのは1ミリもない。(※ 私の場合として、個人の意見です)
3-15. 281ページ(当事者Kさんによる発言)より引用
その日以来、アファンタジアや脳内イメージに興味を抱き、多くの人と話し、書籍や論文を読んで学んできました。多くの研究者がさまざまな角度からアファンタジアの研究を進めてくださっていますが、いまだに自分自身の特性の何がアファンタジアの影響を受けているのかはほとんどわかりません。アファンタジア以外の生来の特性、生育環境、学習と経験が複雑に絡まり合って現在の私を構成しているからです。
個人的に、ここの部分の記述のポイントはここだ。
「アファンタジア以外の生来の特性、生育環境、学習と経験が複雑に絡まり合って現在の私を構成」
この箇所だ。もはや自明すぎて説明もいらない。人生はアファンタジアだけで出来ているわけではない。
3-16. 感想まとめ
まず、おそらく意図的だろうと想像するが、座談会のメンバーの属性を曖昧にしている。例えば精神疾患や発達障害の有無や既往歴は、その人の認知のパターンや人生観について非常に重要な事柄である。これを明示しないということは、せっかくの座談会の内容も説得力という意味では欠けるものとなってしまう可能性を個人的には感じる。海外掲示板Redditを眺めればわかるが、アファンタジアと発達障害の併存というパターンは案外と少なくはない。
※ もちろん、当事者の歴(個人情報)を公開しないのは、標準的な倫理配慮であることは理解している。これはあくまで私個人がそう感じたというだけの話である。
最後に、本書籍の性格だが、これは編著者の前著作(2021年)の趣旨をベースに(つまり当事者を主体とした内容)、前著作では外国人だったのを、今回は日本人にしたこと(その記述はかなり緻密だ)。そしてここ数年で研究知見も刷新されてきたので、そのアップデート、さらには編著者らのビジョン(志)あるいはスタンス(構え)がある程度は固まってきた、そういうふうな内容になっていると個人的には感じた。
かなり丁寧に誠実に、また客観性と主観性をバランスよくまとめあげてあると感じた。つまり本書籍は良書である。
私はこれまで編著者らの視点に批判的な意見を持っていた(これは前著作の影響や、その他の活動内容が、私から見て「???」の部分があったため)。
しかし、今回読んでみて、私のほうの認識(バイアス)もアップデートされた。おそらく突き詰めると見解の完全な一致はないと思われるが、それ自体は何もイケナイことではない。むしろ普通だ。ただ、これまでよりも本書籍の編著者らを見る私の目に、良い意味で変化が生じたというわけだ。そういった意味でも、本書籍の編著者らおよび出版社の方々には感謝の念を抱いている。
※ 本稿を投稿した後日、以下の新しい note 記事も投稿したため、併せて参照されたい。
『イメージの〈ない〉世界に生きる アファンタジア(2025年)読書中感想文』
4. おわりに
あくまで私個人の感想だが、本書籍は、とくに不備なく、違和感を覚えるものではない。ところが、今回対話させていただいた A氏 は、そういう受け止め方ではないようで、激しい感情的な反応を示した。
そういった A氏 のような反応をする人が他にも存在することは、私は知っている。そしてそのような人々がなぜそうなるかも、その認知のメカニズムは大体想像がつく。(※もちろん憶測だが)
しかし、だからといって A氏 のような考え方に私は同調しない。私はただ事実と、その事実の私なりの解釈を説明するだけだ。
5. 追記 2026-05-11(20:00頃)
当初、本稿の一部として記述してい内容を、こちらの独立したページに移動しました。移動した理由は、本稿の可読性を下げると判断したためです。
