🐾『その猫は、人間より人間だった』
「また来たの?」
駅前のベンチで、和子は微笑んだ。
白い毛に茶色の模様が入った猫が、今日も当たり前のように隣へ座る。
もう一年近くになる。
毎日午後四時。
和子がベンチへ座ると、どこからともなく現れるのだ。
夫を亡くして四年。
娘は結婚して遠くへ行った。
家には誰もいない。
テレビの音だけが流れる部屋へ帰る毎日。
だから和子は駅へ来る。
誰かと話したいわけではない。
ただ、人の気配が欲しかった。
けれど不思議なことに、人はたくさんいるのに、
誰も和子を見ていなかった。
急ぎ足の会社員。
スマホを見つめる学生。
買い物帰りの主婦。
みんな何かに追われるように通り過ぎる。
そんな中で。
毎日必ず会いに来るのは、この猫だけだった。
「あなたも一人なの?」
和子が尋ねる。
猫は小さく目を細めた。
返事はない。
けれど不思議だった。
猫が隣にいるだけで、少しだけ心が温かくなる。
春になった。
桜が咲いた。
和子は猫に桜餅の話をした。

夏になった。
蝉の声が響いた。
夫との思い出を話した。
秋には落ち葉を眺めながら、
若い頃の失敗談を笑った。
冬には手袋をしたまま、
猫へ話しかけた。
猫は何も言わない。
ただ聞いていた。
それだけなのに、
和子はいつしか猫へ会うために駅へ通うようになっていた。
ある日のことだった。
和子は駅へ来なかった。
翌日も。
その翌日も。
猫は待っていた。
雨の日も。
風の日も。
駅前のベンチで。
じっと。
誰も気付かない。
誰も足を止めない。
猫だけが待っていた。

和子は病院にいた。
心臓を患い、入院していたのだ。
窓の外を見ながら、ふと思う。
「今日も来てるかな」
娘がお見舞いに来た時、
和子は笑いながら話した。
「駅にね、友達がいるの」
「お友達?」
「うん。猫なの」
娘は少し驚いたあと、
優しく笑った。
二週間後。
退院した和子は真っ先に駅へ向かった。
ベンチに腰掛けたその時。
遠くから白い影が走ってきた。
猫だった。
今まで一度も走ってきたことなどなかった。
けれどその日は違った。
必死なように。
安心したように。
和子の足元へ身体を擦り寄せる。
「待っててくれたの?」
和子の目から涙がこぼれた。
猫は静かに喉を鳴らした。

その光景を見ていた女子高校生がいた。
帰宅途中だった。
なぜだろう。
胸が熱くなった。
その夜。
彼女は祖母へ電話をかけた。
数日後。
仕事に追われていた会社員は実家へ帰った。
別の日。
若い母親は疎遠になっていた父へ連絡をした。
きっかけは皆同じだった。
駅前のベンチ。
一人の女性と一匹の猫。
猫は知らない。
自分が誰かの心を動かしたことなど。
ただ隣にいただけだ。
それから一年後。
和子は静かに旅立った。
眠るような最期だった。
葬儀の日。
親族や近所の人たちが集まる。
娘は涙を流しながら、
祭壇の写真を見つめていた。
その時だった。
外が少し騒がしくなった。
門の前に一匹の猫が座っていた。
あの猫だった。
誰かに追われても動かない。
ただ、
そこにいる。
まるで見送りに来たように。
棺が運ばれる時。
猫は静かに立ち上がった。
そして空を見上げる。
夕陽が雲を染めていた。
和子が好きだった空。
猫は小さく鳴いた。
「にゃあ」
それは、
「ありがとう」
にも聞こえたし、
「またね」
にも聞こえた。
そして振り返らず歩いて行った。

後日。
娘は母の机を整理していた。
古いノートが見つかる。
最後のページ。
そこには震える字でこう書かれていた。
『人は言葉を持っている。』
『だけど本当に寂しい時、救ってくれるのは言葉じゃない。』
『ただ隣にいてくれること。』
『それを教えてくれたのは、一匹の猫でした。』
娘の涙が文字の上に落ちる。
窓の外では夕暮れの風が吹いていた。
その風の向こうで、
どこか懐かしい猫の鳴き声が聞こえた気がした。

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