『草むしぬ』と私|ガダルカナル、インパール、ビルマの戦史|自己紹介
『草むしぬ』とは
『草むしぬ』
日中戦争勃発から大東亜戦争を経て、ガダルカナル島の激戦地に赴き、95%の兵員を消耗した後に部隊を再編し、その後さらにインド攻略のインパール作戦へと参加して、そしてビルマで終戦を迎えた陸軍の部隊、歩兵第124聯隊の将兵たちの軌跡を編纂した書である。
1986年(昭和61年)に聯隊生き残りの有志により刊行され、聯隊を率いた鈴木貞夫大佐をはじめ、多くの将兵たちの戦争体験の手記が編纂されている。
内容は主に、
日中戦争⇒マレー作戦⇒ガ島攻略戦⇒撤退⇒兵員補充⇒インド侵攻作戦⇒撤退⇒兵員補充⇒ビルマ防衛戦線⇒終戦⇒終戦後
上記の一連の流れの戦記が、編纂記と手記の形で書かれています。
およそ500ページあります。この本に出合った時のエピソードがこちらです。↓↓
『草むしぬ』の記憶語りを始めたきっかけ
2025年は戦争の年になる。そういう予測をしていた私は、戦争のことをあまりにも知らな過ぎた。そう思いながらも、私たち現代人が戦争に陥ったときにどうするべきなのかを想像しながら語ったのがこの動画でした。
この4本の動画の中で、私たちの世界情勢はアメリカという超大国との闘いの中にあると思い、アメリカとの闘いとしての『大東亜戦争』を振返る必要性を考えていた最中で、偶然出会ったのがこの『草むしぬ』でした。
私としての感覚は、それを求めていたので必然でしたし、ガ島還りの子孫の方との出会いは奇跡でした。
そうして出会った『草むしぬ』を一気に読んでいるときに、まさに脳裏に飛び込んできた物語がこの『セントジョージ島遭難記』でした。
あまりにも生々しい、そして悲しいエピソード。当時のガ島の火山が洋上から目の前に聳えて見えるように深く感じ入りながらも、この話を後の世にしっかりと継承していかなければならないと強く思いいたりました。
『草むしぬ』とは、戦場で散った英霊の屍が朽ち果てないように、永久に安らかに安置させて永眠してもらうための誓いの言葉です。決して戦場に独り置き去りにはしないと。
そうして私は『草むしぬ記憶語り』をスタートさせました。
取り組み
草むしぬの記憶語りにおける今回の私の取り組みは、順番通りにざっというと以下の通りでした。
・『草むしぬ』を一通り読む
・日中戦争と太平洋戦争の背景を調査
・以上を朗読(その1-4)
・ガ島攻略戦とミッドウェー海戦の背景を調査
・以上を朗読(その5ー13)
・ガ島攻略戦の総括
・インパール作戦の調査
・ビルマの歴史を調査
・以上を朗読(その14-67)
・全総括
・小説『風の記憶』を書く
草むしぬの記憶語りの動画 目次

1,序章 (その1)
2,日中戦争編 (その2)
3,マレー作戦編 (その3-4)
4,ガ島攻略戦 (その5-13)
5,撤退・補充編 (その14-17)
6,インパール作戦編 (その18ー28)
7,白骨街道撤退戦編 (その29-36)
8,ビルマ防衛戦編 (その37-61)
9,終戦編 (その62-67)
草むしぬの調査動画 目次
1,第二次世界大戦概要
2,大日本帝国陸軍の歴史
3,東南アジアの歴史
4,ミッドウェー海戦
5,ガ島上陸作戦
6,ビルマの歴史
その他の取り組み
1,考察動画
2,カラオケ動画
3,問題集作成
4,スライド動画
5,ランキング動画
6,小説『風の記憶』~ガダルカナルとインパールの戦記
内容に入る前に
ここまでの取り組みについて、約6か月にわたって制作に掛かりました。
内容は正直申しまして難解なところを含みますし、暗いテーマになりがちな大東亜戦争であはあります。
ですが、私たちの暮らしや思想などにおいて非常に重要なシーンをたくさん含む内容であると自信をもって断言しつつ、ぜひこの内容から大事な何かを学んでいただきたいと心から願っています。
難解な内容に対して、とっかかりになればと思って様々な工夫も凝らしてきました。ですので、まずは記憶語り全67話のおすすめエピソードランキングの動画を初めに見ていただくのもアリだと思います。
こちらに提示しておきます。↓↓
『草むしぬ』動画全67話一気見はこちらから。↓↓
それでは、全編シリーズの解説といたします。
草むしぬの記憶語り 解説と紹介 前編
この度、草むしぬの記憶語りを、動画の全67話にわたって制作しました。
その概要や経緯についての紹介と併せて、本編内容について以下に解説していきます。
1,序章 (その1)
動画概要
このような素晴らしい戦記を世に残してくれたことに感謝。
決して忘れてはならない歴史をここに再びよみがえらせるために代読を思い立ちました。
代読における失礼をご容赦ください。草むしぬ想いを受け継ぐために。
また、シリーズのオープニングテーマとして、カラオケ動画『階ーきざはし/谷村新司』も歌いました。
この歌は、当時の将兵たちの命を懸けた想いを謳っている歌だと思い選曲しています。谷村さんの戦争に対する熱い思いを受け取り、歌いました。
また、『草むしぬ』の記憶語りを始めたいという止めどない熱意を語った考察動画も、この頃の私自身の高揚感を伝えるためにと残しました。
すべて読み終わってから一気に朗読するのもありかとは思いましたが、朗読にあたってはやはり、内容に齟齬があってはいけないと思いましたので、第二次世界大戦のあらましを調べてから取り組もうと思い、ざっとですが当時の歴史や雰囲気などを事前に調べて取り組むことにしました。
これは大正解だったと思います。一読しても不明だった点がずいぶんクリアになりましたし、しっかりと読むことにつながったと思います。
上記動画は、以下の記事でもおおよそ参考にしていただけます。
2,日中戦争編 (その2)
動画概要
シナ事変への第124聯隊史の初陣
1942年(昭和17年)12月、大東亜戦争が勃発。福岡にて編成された歩兵第124聯隊は門司港を出発して対馬海峡を渡り、20万の大軍団が中国大陸に上陸した。南京を落とし、各都市を占領しつつ部隊は南へと侵攻した。

以下は、日中戦争と当時の東アジア情勢に関する解説動画になります。
イギリスを中心とした19世紀の列強帝国主義国家によりズタズタにされていた当時のアジア圏全域ではありましたが、中でも中国大陸は、列強各国の熾烈な領土争いの舞台となっていました。
当時の資料や歴史的な出来事は闇の中にあり、今や時間が経ちすぎてしまいました。私たちが真に知るべき情報はうやむやにされているのが実情です。
上記解説からその一端を探っていただけると思います。
また、草むしぬのその2の動画からは、それらの一部の現地の様子を伺うことができ、大軍団で東シナ海を渡った歩兵第124聯隊の序戦の軌跡を垣間見ることができます。
3,マレー作戦編 (その3-4)
動画概要
大戦勃発、英領ボルネオ攻略戦
中国大陸の沿岸を陥落して南下し、インドシナの攻略へ。英領、蘭領のマレー半島、ボルネオの攻略に掛かった。歩兵第124聯隊は輸送船にて敵の襲撃を受け損害を出しつつも、上陸戦を敢行した。
マレー作戦の概況
1941年12月、ハワイ空襲、北部マレー半島上陸、比島航空撃滅戦をもって開始されたのが大東亜戦争(太平洋戦争)です。このうちの日本軍の南方作戦を『マレー作戦』といいます。
これらは予想以上に順調に進展し、1942年3月9日、オランダ領東インド植民地政府が保有していた地上軍である蘭印軍の降伏によって概成し、日本軍は当初の攻略目的を果たした。
これは予想以上に早期の進展であったため、1942年1月には、ビルマ、ベンガル湾のアンダマン諸島、オセアニアのポートモレスビーなどの攻略を発令し、戦略態勢の早期強化を企図し、次なる作戦の計画を速やかに策定しなければならなかったのである。

これは私の私見ですが、世界恐慌以降の世界経済の悪化により、日本はABCD包囲網とブロック経済、そして当時の列強帝国主義の圧力により、上記の開戦へとミスリードされたものと結論しています。
その打開策として日本軍が取った行動は、『大東亜共和圏構想』の確立であり、欧米列強からの植民地支配されていた東南アジアの解放と独立支援であったと思います。その裏付けとなる解説が以下動画によります。
日本軍が破竹の勢いで東南アジア全域を手中に収めていたころ、ハワイ方面ではミッドウェー海戦の作戦が行われていた。
ミッドウェー海戦 概説
1942年6月5日から6月7日にかけて中部太平洋ミッドウェー島周辺で行われた日本海軍とアメリカ海軍による海戦である。
太平洋戦争の転換点と言われる要の海戦で、このわずか三日の戦闘における敗北により日本側は制空権と制海権を失い、以後は戦争の主導権がアメリカ側に移ったとされている。
1942年4月、山本五十六司令長官率いる連合艦隊が主力は、空母4隻と重巡洋艦1隻を失い、3,000人を超える兵士が戦死し、艦載機も全て喪失した。
勝利したアメリカ軍も、空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈され、航空機約150機を失ったとされる。
この戦い以後、太平洋戦争の主戦場はソロモン諸島とその周辺に移り、再編された日本機動部隊とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられることになる。

ミッドウェー海戦及びガダルカナル島の戦いの概説については、以下の動画及び記事で確認していただけます。
4,ガ島攻略戦 (その5-13)

ガダルカナル島の戦い 概説
ガダルカナル島の戦い(以降ガ島攻略戦、ガ島上陸作戦という)とは、ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換点となった要の戦いである。
第二次世界大戦において、1942年8月以降に日本軍と連合軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げたこの戦いにより、日本側は激しい消耗戦となり、戦死者だけでなく兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。
なお、詳しく知りたい方、草むしぬの世界観をもっとよく理解したい方は、ぜひこちらのnoteを先に見てからこちらの稿あるいは、草むしぬの記憶語りの動画にあたっていただくことをお勧めいたします。
問題形式で、かなり詳細に解説しています。
ガ島攻略戦
ガ島攻略戦の時系列の出来事と対応する動画は概ね以下の通りになります。
ガ島の戦い 直前期 1942年7月
一木支隊全滅の報を聞いた第35旅団の川口支隊は、歩兵第124聯隊を基幹としてガ島攻略のためにガ島に向かった。
第一次ソロモン海戦 1942年8月初旬
第二次ソロモン海戦 1942年8月下旬
第一次総攻撃 1942年9月
一木支隊全滅の残部隊を吸収して、ルンガ飛行場を挟撃するために作戦を開始した川口支隊と岡聯隊長の部隊が米軍の精兵たちと激突する。

第二次総攻撃作戦会議 1942年9月
第一次総攻撃の失敗を引き継ぎ、第二師団の丸山中将率いる部隊と合流しての第二次総攻撃の作戦が始まる。
陸海軍の協力しての総攻撃に襲い掛かる悲運と、川口少将の敵前罷免の様子などのすれ違いの様子が描かれています。
第二次総攻撃 1942年10月
第二次総攻撃のすれ違いにより、将兵たちは見るも無残に敗れていきます。
ガダルカナル島は陸軍の墓場である。そう評される手記の生々しい証言と残酷な現実を、この『草むしぬ』はまざまざと見せつけてきます。
ガ島撤収大作戦 1942年12月
ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名のうち、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されています。
撤退するのが難しい傷病兵の多くは捕虜になることを防ぐために手榴弾などで自決するか、戦友達の手(手榴弾・銃・銃剣など)によって葬られたとされています。
撤退完了 1943年2月
12月31日の御前会議において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定されました。
日本軍撤退作戦終了後、ガダルカナル島はソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用され、また、日本軍の残兵掃討を行い部隊の練度を上げることが行われたと言われています。
戦後刊行されたグラフ雑誌『ライフ』には、アメリカ軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、戦車の前に一列に並べられ、キャタピラでひき殺されている様子が掲載されたという。
セントジョージ島の残存部隊もそうして散っていったのかと思うと涙が出ます。
ガ島を撤退する将兵の手記に、空を茜色に染めて去っていくシーンがあります。その時の想いをのせてこの歌を歌いました。
中間報告
この時既に制作に取り掛かって約2か月が経っていました。
当初は3か月ほどでこの取り組みを終える予定だったのですが、この時点でまだインパール作戦の全貌が不明だったため、このまま読み進めることはできませんでした。
これはどうしたものかと迷ったものです。
そして結論、ここは腹を据えてしっかり後悔のないように取り組もうと決心したのでした。まずはここを中間地点として一度振り返り、ビルマの歴史を調べて朗読を再開することにしたのでした。
以下、総括の動画になります。
また、ガダルカナル島の戦いとビルマの戦いを含んだ、第二次世界大戦の影響を色濃く受けたと思われる作品、『FRONTMISSION』の考察もしていますので、ぜひ参考にしていただけたらと思います。
そして、ビルマの歴史とインパール作戦の全貌を調べたのですが、今回の調査で今までに分からなかったことがかなり鮮明になり、『草むしぬ』の証言と照らし合わせながら、非常に内容の濃い戦史考察ができたと満足してます。
是非参考にしていただければと思います。
草むしぬの記憶語り 解説と紹介 後編
5,撤退・補充編 (その14-17)
ガダルカナル島の日本軍の損傷は次の通りとされています。
兵員戦果
投入:32,000人
死者:23,000人
行方不明:2,500人
損害
艦船56隻沈没 115隻損傷
航空機850機喪失
日本軍はミッドウェー海戦に続き、このガダルカナルでの大敗北を受けて全ての作戦を見直さなければならなくなっていました。
そして歩兵第124聯隊は当初の約95%である4,000名の将兵を失い、新たな戦場インドへと向かうべく、その補充のためラバウルに向かったのでした。
6,インパール作戦編 (その18ー28)

インパール作戦
1944年(昭和19年)初頭、牟田口廉也中将構想のインド攻略作戦です。
インパール作戦が着々と進められ、歩兵第124聯隊は烈兵団へと編入されその準備にかかったのでした。
動画概要
大東亜戦争開戦当時、ビルマは英印軍の支配する地であったが、日本がこれを撃退してビルマを開放することによって支配下に入れた。
我が軍がビルマ軍を創設し、守備を固めつつある頃にインドに退いた英印軍は、このビルマを奪取するために行動に掛かっていた。これを破砕するためのインパール作戦である。

嶮しいアラカン山脈越えにもかかわらず、わずか3ヶ月分の食料となれない駄牛や象を連れての行軍。密林のビルマを行く歩兵第124聯隊の将兵たちでした。

動画概要
ビルマは密林の、それも2,000m級のアラカン山系を超えて向かう先はインドのコヒマである。要衝インパールを抑えるためにこのコヒマを占拠して補給を断つ作戦も、これに立ちはだかったウインゲート旅団が空から舞い降りた。これにより、日本軍の物資と共に運命は断たれた。

動画概要
1944年(昭和19年)4月、コヒマに突入した歩兵第124聯隊は、敵の圧倒的火力と兵力にたじろぎ、苦戦する中も奮戦してコヒマを攻防。
その後熾烈な英印軍の反撃と対峙しながら味方の増援を待つのであったのだが、いっこうに援軍の無い部隊は全滅寸前に。終に佐藤中将は牟田口中将に対して激怒した。

動画概要
『中隊長は両襷、小隊長は片襷、月明かりに光が跳ね返らぬよう着剣に黒炭を塗って鞘は捨てた。5120高地。落とさずんば還るまじ!』
将兵たちは死を覚悟して決戦に挑み、その多くが散華した。アラカンの華。賞詞を受けるべき者は、殆んどが既になかった。
動画概要
歩兵第124聯隊第3大隊長の鈴木少佐は悩んでいた。刻々と疲弊していく陣地の部隊配置を間違えば聯隊どころか師団ごと全滅もある。悩んだ末に様々な工夫と努力をして陣地を護った。が、すでにあまりにも犠牲を強いていたのが実情であった。全滅は時間の問題であった。
かくして、多くの犠牲を出しながらも、全く補給の無い圧倒的な兵力差にもかかわらずに英印軍と対等に戦った日本軍であったが、ついには敗れる時を迎え、全滅を覚悟するに至った。
『わしが階級章を捨てれば将兵たちは助かる』と、独断の撤退を決めた烈兵団師団長の佐藤幸徳中将は、宮崎少将をしてビルマへと全滅覚悟の撤退を敢行したのでした。これがのちに言う『白骨街道』の撤退戦であったのです。
7,白骨街道撤退戦編 (その29-36)

動画概要
白骨街道、日本軍の兵士たちの亡骸で溢れた悲しみの道。その将兵たちは常に全滅をちらつかせながら、最後にできることをすべてこなして苦行の中の地獄の撤退行を進んだ。若い命を使いながら作った道は今なおビルマに静かに佇む。

動画概要
1944年(昭和19年)8月、コヒマからの撤退の傷病兵が集まり、混乱を極めていたこのピンポンサカンに我が軍は陣を張っていた。
歩兵第124聯隊の増田聯隊長代理は激務に倒れ、代わりに鈴木少佐が聯隊長をさらに代理してこの極めて厳しい戦局にあたったのであった。この時まさに百戦錬磨の戦術が奏功したのであった。

鈴木聯隊長代理の124聯隊陣地
動画概要
1944年(昭和19年)4月に勇躍してコヒマに向かった歩兵第124聯隊の将兵たちであったが、やむなくビルマへと撤退を敢行し、一部名将の勇戦も空しく、さらに傷つき敗れ、ビルマ発祥の都市、シュエボ方面へと撤退していった。そしてまた、多くの者がその途上に点々と戦病死したのであった。

動画概要
インパール作戦は、イギリス軍側の損害17,000名に対し、日本軍は参加兵力約85,600名のうち30,000名が戦死・戦病死し、20,000名の戦病者が後送されたとされている。この作戦失敗はビルマ方面軍の戦力を決定的に低下さた。これを埋めるべくこの補充が行われたのである。
インパール作戦の終了
インパール作戦の中止により、独断撤退事件(抗命事件)を起こした佐藤中将及びインパール作戦失敗の責任を問われた第15軍司令官牟田口廉也中将らは解任され、後任にはそれぞれ木村兵太郎中将、田中新一中将、片村四八(かたむらしはち)中将が任命されたのでした。
かくして、新体制の下で急襲南下してくる英印軍からビルマを防衛する戦いが開始されることになります。
8,ビルマ防衛戦 イラワジ会戦編 (その37-61)
イラワジ会戦
ビルマ史に残る大会戦、イラワジ会戦が開始された。奇しくもビルマの王都マンダレーは破壊しつくされ、そこで無下に散った日本軍の将兵は人々の記憶からはほとんど消去されてしまった。
動画概要
1945年(昭和20年)1月、インパール作戦に敗れた第15軍はイギリス軍の追撃を受けつつ、ビルマ中部の中心都市マンダレー付近のイラワジ川の線まで後退していた。
ビルマ方面軍参謀長田中新一中将は、第15軍には「盤作戦」を命じた。「盤作戦」はイラワジ川を防衛線としてイギリス軍を機に応じて撃滅するという強気の作戦である。

15倍の敵と戦う「盤作戦」は出だしからつまづいた。
英印軍のスリム中将は軍をマンダレーへ向かわせて日本軍を引きつけつつ、1945年(昭和20年)2月17日にチンドウィン川とイラワジ川の合流点の下流で渡河させ、第17インド師団と第255インド機甲旅団を要衝メイクテーラへ向けて突進させたのであった。
英印軍の大軍を前に、日本軍は点でバラバラに防衛という名の消耗戦を強いられ、磨り潰される様にして戦線を崩壊させていきました。
凌辱されるビルマの歴史と共に。
動画概要
イギリスの名誉を掛けたビルマ奪回作戦を敢行するなかで、村を焼き払い、ビルマを破壊してでも日本軍を徹底的に追い詰める。生活を奪われたビルマの国民は逃げまどい、死の苦汁を受け続けていた。
爆弾の降りしきる戦火の中、壕の中で生まれる新しい命があった。
動画概要
日本軍に王道はない。制空権を失い、武器弾薬も兵力も少ない。あるのは気力と根性のみ。夜間、敵が寝静まるのを待って斬り込みを敢行して敵を倒した。東京からの直接の命令により、清原大尉は精兵と共に敵陣に忍び寄った。
動画概要
圧倒的劣勢の日本軍に対して、強力なM4戦車によって敵軍は大軍をもって押し寄せてきた。分厚い装甲に対抗する対戦車兵器は皆無の中、兵たちは自らの墓穴を掘って待ち構えた。ギラギラ照り付けるビルマの乾季の太陽が壕を焦がし続けていた。
動画概要
1945年(昭和20年)3月のイラワジ川の夜空は美しかった。乾ききった硬土の大地に蛸壺の壕を掘って戦車が来るのを待ち構える。犠牲になるための戦いの前の小休止。緊張の戦場のカレイワの夜空には一面の星空が広がり、その中に南十字星が一際輝いていた。
動画概要
1945年(昭和20年)3月、時代に巻き込まれて多くのものが命を落とした。その最前線の戦地に還らぬものとなった将兵たちには名前があった。その名前は記録に残り深く刻まれている。後世に残されたものはその名前に一度は触れてほしいと願う。
動画概要
イラワジ河会戦は日本の命運を護るための必至の戦いであった。その苦しい戦場を任された男の記録である。ロゼッタストーンよろしく、他に何ものにも代えがたい至宝の宝である。
転進・南下

1945年(昭和20年)3月末時点では、イラワジ会戦の結果、日本軍の戦線は完全に崩壊し、第15軍の4個師団(第15、第31、第33、第53師団)はラングーン方面(テナセリウム方面)へと南下・転進を開始した。一方、ビルマ南西部ではイギリス軍がアキャブへ向けて前進していた。ビルマ西部の防衛は第28軍の担当で、既に兵力は宮崎繁三郎中将の率いる第54師団のみとなっていたが、アラカン山脈へ後退しつつ抵抗を続けた。
かくしてビルマ防衛作戦の『盤作戦』と『完作戦』は失敗に終わり、日本軍は南部の都市方面へと追い詰められていくのでした。
動画概要
ビルマ中央の都市をすべて失ったわが日本軍は、なすすべなく南に押されて後退し、シャン高原を下ってラングーン陥落方面の防衛へと向かった。ビルマ崩壊が現実となるのも、もはや時間の問題となった。
9,終戦編 (その62-67)
終戦
日本は敗戦によりアジアにおける全ての領土的権益を喪失しました。
ビルマ方面作戦に参加した303,501名の日本軍将兵のうち、6割以上にあたる185,149名が戦没し、帰還者は118,352名でした。
文字通り命がけで戦ってきた戦いが終わった。
終戦です。これにより将兵たちは現実を受け入れることを強いられ、全く違った世界観の中に叩き込まれることになりました。それが、1945年(昭和20年)8月15日という日でした。
この時の混乱の様子が確かにここに残っています。
そして、これまで命と同義にして常に共にあった連隊旗を焼き払います。
涙なしには見ることはできませんでした。
動画概要
1945年(昭和20年)8月15日。電報あわただしい中ビルマに日本の本部から終戦の知らせが届いた。天皇陛下の命により、軍旗を奉焼せよとの通信が届く。ガダルカナル島で奇跡の生還を果たした軍旗が、サルウィン川の流れの中に消えた。
抑留へ
歩兵第124聯隊の将兵たちは終戦を迎え、日本に帰還するまでは戦地での戦争責任を問われる形で幽閉と懲役が強いられました。それがビルマ抑留です。
戦争の緊張がなくなり、不安と安堵と怒りや悲しみの中、抑留生活が始まりました。
ただ苦役を受けただけではなく、戦争の総括をする中での楽しみや娯楽など、様々な記録が見れることは大変貴重なことだと思います。

かくして、命がけの戦争を耐え、苦役を耐えてようやく祖国日本に帰還した日本軍でした。
動画概要
敗戦に巻き込まれて多くのものが無実の罪で受刑に晒された。そして、戦いに敗れて祖国へと帰っていったのである。長い者は二年もの月日を経て、夢にまで見た内地、祖国へと還る日を待ちわびて。
遺骨収集、慰霊
20万以上の遺骨がビルマに放置されたとして、遺族から遺骨収集のための運動がなされた結果、インパールを中心としたビルマ方面への遺骨収集、慰霊団の派遣が議論され実行に至っています。
これにより、1956年(昭和31年)1月に8万柱余りの遺骨が国内に送還されました。
歩兵第124聯隊の生き残りの有志がビルマの地を訪ねたのは、それからさらに10年ほど経っての事でした。
動画概要
敗戦から40年余り経った頃のビルマは、多くの未還の戦死を残したまま静かに佇んでいた。動乱、混乱も多く、今なお苦しいビルマにも、我が日本軍兵士の残した想いが残っていた。そして、ビルマに残した思いを引継ぎ、受け継いでいくべく残された我々にもその想いは続くのである。
以上で『草むしぬ』の記憶語りの本編の制作が終了となります。
『草むしぬ』のあと語り
最期のエピソードの朗読を終えたときに、大きな安堵と共に喪失感を感じました。
この少し前に、あと一歩ラストスパートで頑張ると言って、最後の取り組みの前にとその時の想いを語りました。
この時の高揚感は、早く終わらせたいという想いと、もう終わってしまうのかという残念さのような気持ちのその両方だったと思います。あえて確認はしませんが、この時すでに読了感を感じていました。
今はすべてを終わってしまってこれを書いていますが、とても清々しい想いです。やり切ったという思いを感じています。
『草むしぬ』を読んで、すべての手記の中に貴重な資料としての価値と、手記の美しさを随所に感じました。この学びは非常に大きくて、私の成長に大いにつながったと思っています。
動画のその67の最期のエピソードは私の手記です。冒頭の掲載ですがこちらに再掲載します。
自分の言葉を、日記ではなく『エッセイ』として残す術を身に着けたように思います。これは非常に大きな学びでした。
また、学びとしては戦争史としての歴史、東南アジアやオセアニアの地理や地政学、兵器や軍隊の部隊などの運用方法、軍隊の実態などの知識を一通り理解することができたのも大きな学びとなりました。
それらの一通りの学びと当時の将兵たちの喜怒哀楽に触れた感動を、私なりの芸術にするべくしていくつかのエピローグ作品を残しています。
以下に紹介します。
【カラオケ動画】
橙の焔/マスミサイル(高木芳基)
命の使い方という詞を体現する物語が、まさに歩兵第124聯隊の歩んできた道であり、今回取り組んできた記憶語りそのものであると思います。
歌も何度もやり直して苦労して満足いくまで撮り直しました。
【スライド動画】
少女たちを護った戦いの詩~草むしぬ記憶のエンディングテーマ~
今回の制作に取り組んだ一連の動画をスライド動画で紹介する形でまとまています。
BGNで使っている3曲の歌と共に一覧していただけるとありがたいです。
浜田省吾
• Theme of Father's Son ―遥かなる我家
Lia
• 『鳥の詩』
浜崎あゆみ
• Who…
【ランキング動画】
草むしぬ名作選TOP20-11〔チャンネル開設8周年記念〕
全67話の動画の中から選りすぐりのトップ20のエピソードを切り抜き動画でまとめました。
動画の通しで見ていただくのが理想ですが、あまりにも長いため、このような形で見ていただいて、興味がある、あるいは余裕のある時に通しで見ていただくのでもよいと思います。
大変聞く価値のある秀逸な作品ばかりだと思いますので、是非聞いてみてください。
【考察動画】
8周年を迎えました 前編~7周年の軌跡を振り返る~
2025年の8月をもってチャンネル開設8周年を迎えました。
ちょうどそのタイミングでしたので、草むしぬの総括をしています。
繰り返しもあるかと思いますが、この草むしぬの制作そのものが、私の発信活動の集大成であり、現在進行形でもあるので、そのことに意義を感じていただける方には興味深い内容かと思いますので、参考にしていただければ幸いです。
【考察動画】
小説『風の記憶』を書きました ~草むしぬ記憶語りの集大成として~
私の今回の作品の集大成として小説を書きました。
制作には意外に時間がかかりませんでしたが、投稿してから何度も細かい調整をしました。そしてそのたびに読み返しましたが、非常にうまく書けたと思います。その制作時の想いを語っています。
有料にはなりますが、是非読んでいただきたいです。
井本勝幸さんに会いに行きました。(2025年8月27日)
おわりに
私たちは何のために生きているのでしょうか。
自分の人生はなんなのか。
今こうして自分に問いかけても、理想は見えても答えは見えない。
理想を言うことはできるが、実践ができないと思うのです。
人生の終わりは死です。
それは揺るがない。そしてその先はわからない。
未知そのものです。
人生の終わりに未知があるかと思うと、先に進むこと、時間が経つことを恐れます。その恐れる時間をどう過ごすのかというのが人生といえばそうです。
その人生を、18歳とかで奪われてしまっていたのが大東亜戦争の人生観の真理です。考える時間は与えられなかった。
本当に残酷な人生が用意されていたのだというのが、この『草むしぬ』から読むことができます。そう思わせる描写をいくつも見てきました。
そのたびに深い感動を得ました。
むすびに、私たちの命は何のためにあるのでしょうか。
私たちの命は、価値のある何かを残すためにあるのではないでしょうか。
私はそういう意味で、この『草むしぬの記憶語り』と、その一連の作品をここに残せたことを誇りに思います。
そして、これを広く多くの方に見ていただけるように、さらに取り組んでいきたいと思っています。
それが私の命の使い方だと思うのです。
おわり
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