桜屋敷を通る風/第1話
《あらすじ》
空き家になっていた家の庭には一本の桜の木があり、野良猫のクロはそこがいちばん落ち着ける場所だった。
ある春の日、その家に4人家族が引っ越してきた。
庭で黒猫を見つけた小学生の香菜はこの猫を飼って、ずっと一緒に暮らしたいと思う。
クロの親友である近所の飼い猫のトラはいつでも明るくクロを支えてくれた。クロは、トラが教えてくれた人と通じ合える方法で、香菜たち家族と心を通わせる。
四季の中で猫と人とが織り成す、次の春までのたった一年の物語。
1.桜屋敷と黒猫
武蔵野にある大きな公園の奥深く、木立が生い茂った一角の外側に寄り添うようにその家はあった。
西陽がいつまでも当たる背の高い木製の門は所々ペンキが剝れたままだった。門からは奥にある玄関の引き戸がかろうじて見えるが、その横に続くように造られた建屋のせいで、そこから庭は見えなかった。
南側にある庭には一本の桜の木が植えられており、住む人がいないこの春もひっそりと満開を迎えていた。
この近くに住む猫たちは、ここを桜屋敷と呼んでいた。
時おり甲高い鳥のさえずりが聞こえる昼下がり、その庭と公園との境にある人の高さほどある塀の向こう側から黒猫が現れた。猫は塀の上を少し歩いたかと思うと迷いもせずにストンと庭に飛び降りた。塀際の土はいつも少し湿り気がありひんやりとしていて、所どころ猫の背丈ほどの草が茂っていた。
ほっそりとした体つきの黒猫は、しなやかに草の間を通り抜けた。立てたしっぽの先は少し力が抜けていて、黒猫の体を後から追っているように見えた。
庭のほぼ中央にある桜に近づいた黒猫は、幹にするりとしっぽの先まで体を沿わせ、振り返るようにして今度はあごから頬を幹に擦りよせた。
猫が流れるようにいつもの動作をして見上げた桜の木は、たっぷりと花々を重ね合わせ、またその隙間から覗く青い空が花々をより一層引き立ていた。時おりそっと吹く風に、先に咲いた花びらが舞い落ちる。
黒猫がこの桜の満開を見るのは今年で二度目だったが、この庭が静かになってどのくらい経つのかは知らなかった。
この黒猫が大きな公園の中で寝床を転々と変えながら彷徨っていたあの日、遠く木の間から桜の木が見えた。桜を目指し、塀によじ登って庭を見回した時、日差しの中でどっしりと、まるで日向ぼっこをするように横たわる大きな石を見つけた。
その石に誘われて庭に入ったあの日からずっと静かなままだった。
石のすぐ後ろ側にある木の雨戸は、固く閉まったままで、彼女にはそれが当たり前になっていた。人の気配がしないこの庭は、広い公園のどこよりも安心でき、庭の西の隅っこにある古びた物置小屋は寒さや雨風をしのげる秘密の場所だった。
桜に挨拶を済ませた猫は、その日当たりの良い平たくて大きな石に上がると、座る場所を確かめるかのようにくるりと回ってから腰を下ろした。
猫の艶やかな毛並みにはどこにも白いところがなかったが、こうして日の光に当たると明るい茶色の輪郭が柔らかく体を覆って見えた。
少し尖った顎をしきりに動かして、ビロードに包まれたようなほっそりとした前足を丁寧にきれいにすると、おもむろに耳の後ろから撫でおろす。
お日様の温もりの下で念入りな毛繕いを続けてるうちに、とろりした眠気に誘われて寝そべり、長くて気品のあるしっぽを顔の近くまで寄せて目をつむった。
桜の木で雀の声と羽の音がしたが耳を少し動かしただけだった。
クロと呼ばれているこの猫は、自分がどこで生まれたかは覚えていなかった。段ボール箱の中でぽつんと座り、心細く鳴いていたところを女の人が自分の家に連れて帰ってくれた。優しい手のひらに包まれたり、ふんわりした敷物で転がったりの生活は、とても幸せだったのに長くは続かなかった。その後カリカリとしたキャットフードを食べられるくらいまで成長したところで、広い公園に置き去りにされたのだった。
ただ、最後の別れ際に「ごめんね」と撫でられた感触には寂しさと悲しみが込められていた。その言葉からは、少なくとも自分が嫌われたのではないことを感じさせた。
拾われてからずっと部屋の中にいたし、広い公園のどちらの方角から連れてこられたのか、まったくわからなかった。しかし、歩くとカサカサと落ち葉が鳴りその音が一人ぼっちになってしまったことを忘れさせた。
彼女は夢中で落ち葉と遊んだ。やがて日が暮れ、遊び疲れたまだ小さなクロは、大きな木の根元にあるくぼみに包まれて眠ったのだった。
