本能寺の変1582 【重史94】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史094】 「中島文書」④-2/④
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史094】 そ第27話①
①出張の翌日より、風雨濃水に付きて、
②去八日未明に、織上、敗軍仕り候、
「中島文書」④-2/④
永禄九年1566、八月~閏八月。
→【重史088】 そ24 公方様御入洛につきて、織田上「中島文書」①②/④
→【重史089】 そ25① この・・・織上、違変せしめ「中島文書」③-1/④
→【重史090】 そ25② 織上、天下の嘲弄、過ぐべか「中島文書」③-2/④
→【重史091】 そ26① 織上、・河野島へ執り入り候「中島文書」④-1/④
→【重史094】 そ27① ①風雨濃②織上、敗軍仕り候「中島文書」④-2/④
信長は、河野島で斎藤龍興に敗れた。
閏八月一~八日。
信長の作戦は、裏目に出た。
「油断」
否、思い知らされた。
出張の翌日より、風雨濃水に付きて、
自他、行(てだて)に及ばず候ひき、
漸(ようや)く、水引き候間、
取り懸け相果つべきの由、儀定候のところ、
去八日未明に、織上、敗軍仕り候、
信長の決断は、正しかった。
恐るべし。
「斎藤龍興」
手強い相手だった。
川へ逃げ入り、水に没溺し候者ども数知らず候、
残党、川際に於いて少々討ちとり候、
兵具已下、捨て候為体(ていたらく)、前代未聞に候、
隙を見せれば、命を取られる。
斎藤氏の戦力、未だ健在。
「上洛しておれば」
背後を衝かれる可能性があった。
これが、戦国時代。
生き残るためには、手段を選ばない。
何が起きても、おかしくない時代だった。
一戦を遂げず退散候の間、数多(あまた)討ち取らざること、
無念少なからず候、
然りと雖も、此方存分に任すの条、御心易かるべく候、
織田在陣中、注進申すべく候へども、程なく落居候間、
その儀なく候、
美濃の斎藤氏から、甲斐の武田信玄へ。
閏八月十八日。
斎藤氏の重臣四人は、武田氏に信長の敗戦を伝えた。
書状の宛先は、不明である。
書中に「伝語」とあるので、直接、信玄に宛てたものではあるまい。
だとすれば、信玄の重臣の誰か、・・・・・。
それとも、美濃出身で恵林寺住職の快川紹喜か、・・・・・。
此れらの通り、御伝語畏み存ずべく候、
尊意を得べく候、
恐惶敬白、
伊賀(安藤)平左衛門慰
閏八月十八日 定治(花押影)
延永(日根野)備中守
弘就(花押影)
成吉(竹腰)摂津守
尚光(花押影)
氏家常陸介
直元(花押影)
(「中島文書」④-2/④)
信長は、再認識させられた。
斎藤氏を滅ぼさずして、上洛などありえぬことを。
信長は、執念深い。
決して、諦めない。
ならば、「内より」・・・・・。
押してダメなら、である。
今度は、手を変えた。
「稲葉山」
これ以後、調略を徹底する。
狙いは、西美濃。
⇒ 次へつづく
