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本能寺の変1582 【信長の人物像2】 250603 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【信長の人物像2】        250603

はじめに ←目次   
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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【重要史料】  【重史一覧】
【人物】 【信長の人物像】 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 250603 

【信長の人物像2】 3~4              250603

  【信長の人物像】
  【1】1~2 【2】3~4 【3】5~6 【4】 【5】

 03信長は、誇り高い男。
  正義感が強い。

   名誉心に富み、正義において厳格であった。
   彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。
                     【重史146】③/⑲『日本史』

  信長は、疑い深く、用心深い。
  おそらく、厳命していた、・・・・・。
  「要警戒」
  当然、予測され得ることである。

  にもかかわらず、

   余多の伽藍、一宇も残さず、
   夜日(よるひる)三日、黒雲となつて焼けぬ。
                      【重史163】『信長公記』

  信長は、面白くなかった。
  「嵌められた」
  そう、思っただろう。

   去る二日、大坂、城渡しおわんぬ、
   近衛殿請け取られ、
   渡して後、やく(焼)る様に用意しけるか、
   無残、二日一夜、明け三日までに、皆々、焼けおわんぬ、
   過分に、米・塩・噌・資財、悉(ことごと)く以って焼け、
   国家の費(つい)えなり、
                      そ第7話⑦「多聞院日記」

  大坂攻めの総指揮官は、佐久間信盛。
  その皺寄せが、信盛へ、・・・・・。

  信長は、執念深い。
  根に持つタイプ。
  後で、必ず、蒸し返す。

   先年、朝倉破軍の刻(きざみ)、見合せ、曲事と申すところ、

   時にあたつて、信長、面目を失ふ。
                    【重史167】『信長公記』11/19

  そして、信長は、これを、信盛粛清の口実とした。

  【ここがポイント!!】
  
信長は、誇り高い男。

  信長は、絶対専制君主。       →【重史146】⑨/⑲『日本史』
  その自負がある。 
  命に背く者、己に逆らう者は、容赦せず。
  命を覆すことなど、有り得ぬことなのである。

  佐久間信盛を見よ。
  「朝倉破軍の刻」         →【重史167】『信長公記』11/19
  宿老・古参故の甘えがあったのか、・・・・・。
  たった一言が、命取りになった。

  光秀は、そのことを、他の、誰よりも、よく、知っていた。

  だが、追い詰められていた。
  「四国問題」                →光秀と長宗我部元親
  土佐は、僻遠の彼方。         →本能寺への道 そ第78話⑨
  「石谷頼辰、未だ帰らず」      →【重史042】「石谷家文書」
  どうにもならぬ状況に、陥っていたのである。

  本能寺の変は、六月二日未明のこと。
  五月二十一日。
  この時、頼辰は、未だ、土佐にいた。

  土佐からの、所要時間について、
  当時の交通事情では、少なくとも、一ヶ月以上は、かかったものと思わ
  れる。
                     →本能寺への道 そ第78話⑨ 

   一、一宮を始め、ゑひす山城・畑山城・うしきの城・仁宇南方、
     残らず明け退(の)き申し候、
     ▢御朱印に応じ、此の如き次第を以って、
     ・・・・・、

   一、何事も何事も、頼辰、仰せ談じらるべく候、
     御分別、肝要に候、
     万慶、後音を期し候、
     恐々謹言、

       五月廿一日       元親(花押)
       利三
         御宿所 
                    →【重史042】「石谷家文書」

  信長に、仕えて十五年。
  「これまでの御奉公」
  「数々の手柄」
  「一度たりとて、落ち度がなかった」
  これに「免じて」。
  との、思いがあったのだろうか。
  「最終手段」
  光秀には、信長に縋る他、術がなかった。

  最初で、最後。
  一度限りの頼み事。
  「今、少し」、「今、少し」、・・・・・。
  「何卒」、「何卒」、・・・・・。

  だが、甘かった。
  これすなわち、光秀の「油断」。

  信長は、激昂した。
  これが、「足蹴事件」。        →【重史040】 そ第78話⑥
  五月十五日頃のこと。         →本能寺への道

  ところで、信長は、奇妙なばかりに親しく彼(光秀)を用いたが、
  このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、
  三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことを
  決め、
  その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。

  これらの催し事の準備について、
  信長は、ある密室において、明智と語っていたが、

 その一言が、信長の逆鱗に触れた。

  元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪
  えられない性質であったので、

  人々が語るところによれば、

  彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、

  信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたとい
  うことである。
                →【重史040】 そ第78話⑥『日本史』
 
 「全てが、終わった」
 光秀は、そう思った。

 信長は、執念深い。         →【重史167】『信長公記』11/19
 根に持つタイプ。
 後で、必ず、蒸し返す。

 この辺り、佐久間信盛の場合とよく似ている。
 「朝倉破軍の刻」          →【重史167】『信長公記』11/19
 ならば、二の舞か、・・・・・・

 光秀は、信長に、口実を与えてしまった。
 「一世一代の不覚」
 「粛清の怖れ」
 明智の将来は、暗い。

 そして、同十七日。           →本能寺への道
 光秀は、安土から坂本へ。

 04信長には、人間らしい一面もあった。
  「人の子である」、ということ。
  太田牛一の『信長公記』にも、これに類する記述がある。

   幾つかのことでは人間味と慈愛を示した。
                     【重史146】④/⑲『日本史』



 ⇒ 次へつづく

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