本能寺の変1582 【重史171】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史171】 「成簣堂文庫所蔵文書」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史171】
①印文 義昭宝 黒印
②天下の儀、何様にも、信長に任せ置かるのゝ上は、
③誰々に寄よらず、上意を得るに及ばず、
④分別次第に、成敗をなすべきの事、
「成簣堂文庫所蔵文書」
永禄十三年1570、一月二十三日。 157000123
信長と義昭の間に、最初のトラブルがあった翌年である。
なお、「永禄」は、四月二十三日、「元亀」に改元された。
信長は、義昭に、五ヵ条を示した。
使者は、光秀と朝山日乗。
宛先が、この二人になっている。
だが、それは、体裁上にすぎない。
日乗は、永禄十二年七月、信長から伊勢の地を給わっている。
勢州に於て、千石知行、
【重史115】「言継卿記」
信長は、光秀にも知行を与えていた。 →そ第11話㉟
光秀は、京都奉行に「抜擢」された。
となれば、当然、それに伴う経済的な裏付け等があったものと思う。
光秀は、義昭の家臣であり、かつ、信長の家臣でもあった。
すなわち、両仕え。
義昭は、渋々、これを承諾した。
この当時の義昭には、そうする他、道はなかった。
(印文 義昭宝)
黒印
条々
一、諸国へ、御内書を以って、仰せ出さるゝ子細あらば、
信長に仰せ聞かせられ、書状を添え申すべき事、
一、御下知の儀、皆以って、御破棄あり、
その上、御思案なされ、相定めらるべき事、
一、公儀に対し奉り、忠節の輩(ともがら)に、
御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、
領中等なきに於ては、
信長分領の内を以っても、上意次第に申し付くべきの事、
一、天下の儀、何様にも、信長に任せ置かるのゝ上は、
誰々に寄よらず、上意を得るに及ばず、
分別次第に、成敗をなすべきの事、
一、天下御静謐の条(=天下は平和になったのだから)、
禁中の儀、毎事、御由断あるべからざるの事、
已上
永禄十参
正月廿三日 (信長)(朱印)
日乗上人
明智十兵衛慰殿
(「成簣堂文庫所蔵文書」「織田信長文書の研究」)
二人の関係は、表面上、修復した。
なれど、・・・・・。
義昭は、この時の屈辱を忘れない。
やがて、・・・・・。
【引用】
⇒ 次へつづく
