大條道直(大條家第十五世)【下】
前編はこちら
資性豪邁な精神と揺るぎない信念で仙台藩を守り、大條家の威光を示した名君、大條道直について記述いたします 【後編】
1. 藩主後継問題と老中 水野忠邦との対決
文政8年(1825年)に29歳で家督を継いだ大條道直は、文政9年(1826年)9月には若年寄へと就任し、藩政の中心へ活躍の幅を広げていました。
しかしそうした中、文政10年(1827年)11月、仙台藩主の伊達斉義が30歳という若さで逝去することとなります。

(仙台市博物館蔵)
この突然の事態により、仙台藩は藩主の後継問題という重大な局面に直面することとなりました。
当時の伊達斉義には実子がおらず、嗣君も未定という状況の中で徳川幕府がこの問題へ介入をはじめ、江戸藩邸に詰めていた若年寄の大條道直は直ちに対応を迫られました。
そして、この事態を一層緊迫化させたのが、幕府老中である水野忠邦による強硬な提案でありました。

(首都大学東京図書情報センター所蔵水野家文書)
水野忠邦(1794〜1851年)
徳川幕府の老中を務めた幕臣であります。1841年、老中首座として「天保の改革」を推進し、質素倹約令や株仲間の解散、人返し令などを次々と実施いたしました。幕府財政の再建と権力強化を図ったものの、厳しすぎる政策は庶民の大きな反発を招くこととなり、特に上知令(土地の召し上げ)が大名層の猛強い抵抗によって撤回に追い込まれるなど、改革は頓挫いたしました。1843年に失脚し幕政の混乱を招いたものの、保守的な手法を取りながらも幕府体制の維持に不屈の姿勢で尽力した人物として評価されています。
水野忠邦は、伊達斉義の未亡人である芝姫が13歳と極めて若年である点を指摘し、第十一代将軍 徳川家斉の公子を養子として迎え、芝姫をその配偶者とする案を強く推進いたしました。

(徳川記念財団蔵)
この提案には、仙台藩の後継問題へ幕府が介入する大義名分を得ると同時に、将軍家の血筋を伊達家に入れることで、東北の雄藩を間接的に統制下に置こうとする幕府側の政治的意図が現れておりました。
この動きが藩内に伝わると、一部の重臣からは「幕府との強い関係構築は藩の安定につながる」と歓迎する意見も出始めます。
しかし大條道直はこの提案へ強く反発し、他の重臣たちが強い圧力を恐れてためらう中、単身で水野忠邦へ直接対峙して強硬に反対の立場を主張いたしました。
「芝姫は既に藩主の妻として扱われる存在で、養子を配偶者にすることは不貞を強いる行為に他ならない。それに養子から見れば芝姫は母にあたる存在であり、その母を妻とするという提案は、不義不貞をもって藩主を立てるという禽獣の行いに等しく、上意といえども断じて承服できない。我が藩では、藩主は一門より選ぶのが規律である。この主張が幕府の怒りを買うのであれば、責を一身に集めて自ら腹を切る覚悟である。」
「亡くなった仙台藩主 伊達斉義の妻である芝姫は、先代藩主の正室として遇される高貴な立場にあります。その芝姫を新しく迎える養子(第十一代将軍 徳川家斉の公子)の妻とすることは、倫理に反する不貞を命じる行為に他なりません。さらに、養子となる公子から見れば芝姫は義理の「母」にあたる存在となります。その母を妻とせよという幕府の要求は、人道に外れた禽獣の行いに等しく、たとえ将軍家の上意であっても断じて受け入れられるものではありませんでした。我が仙台藩においては、藩主の後嗣は伊達一門の中から選ぶのが揺るぎない規律であります。もしこの主張が幕府の逆鱗に触れるのであれば、大條道直がすべての責任を一人で負い、潔く切腹して筋を通す覚悟を提示したのです。」
水野忠邦はこの激しい反論に唖然としながら、「貴殿の知行はいくらか」と問いました。
実際の知行地は4,000石でありましたが、大條道直は堂々と「15,000石なり」と答えます。
この機転に満ちた返答により、大條道直を15,000石の大身として遇するほかなくなった水野忠邦は、強引な圧力をかける余地を完全に失い、ついに無理な提案を撤回せざるを得なくなりました。
この一件の後、水野忠邦は大條道直について「若輩ながらも気骨ある忠臣であった」と高く評価し、その剛直な姿勢を称賛したと伝えられています。
大條道直の果断な行動が大きな実を結び、仙台藩は伊達一門の登米伊達家から伊達総次郎(後の仙台藩第十二代藩主 伊達斉邦)を迎えることで、藩主の後継問題を無事に解決することに成功したのです。

(仙台市博物館蔵)
この出来事は仙台藩の命運を決する重要な転機となり、藩内においても大條道直の剛直な姿勢が高く評価されることとなりました。
当時、仙台藩奉行を務めていた芝多佐渡は「貴殿は国家の柱石である」と手放しで称賛したと伝えられています。
この時の大條道直による豪胆闊達な対応は、幕府の意向を退けつつ藩益を守り抜いた見事な政治的抵抗でありました。
仙台藩が幕末までその威信と勢力を維持し得た背景には、この局面で見せた確固たる姿勢に負うところが極めて大きいと言えるでしょう。
このエピソードは講談師・村田琴之介さんによって『伊達の血筋を守った男 大條道直』として講談化されています。素晴らしい作品ですので、ぜひお聴きになってみてください。
2. 奉行職への就任と恩賞「此君亭」の下賜
天保2年(1831年)8月18日、大條道直は奉行御用を承るよう命じられ、翌天保3年(1832年)1月11日には正式に奉行(家老)職へと就任いたしました。
仙台藩の開藩以来、大條家では代々の当主がこの最高職を務めてまいりましたが、祖父の大條道任と父の大條道英は政務よりも武芸を重んじる家風であったため、奉行職に就くことはありませんでした。
こうして二代の時を経て、大條道直が大條家の当主として再び藩政の要職を担うこととなったのです。
奉行職就任者 (天保3年時点)
大條実頼(着座大條家第一世)
大條宗綱(大條家第八世)
大條宗頼(大條家第九世)
大條宗快(大條家第十世)
大條宗道(大條家第十一世)
大條道頼(大條家第十二世)
大條道直(大條家第十五世)
そして、奉行職に就任した翌月の天保3年(1832年)2月、大條道直は藩主の伊達斉邦から茶室を拝領いたしました。
これは、文政10年(1827年)における藩主の後継問題で打ち立てた大きな功績に対する恩賞として与えられたものであり、この茶室こそが、まさに【上】でご紹介いたしました『此君亭』であります。

(山元町HPより)

解説板
この茶室の下賜は単なる形式的な恩賞ではなく、藩主である伊達斉邦の深い感謝の顕れであったと考えられます。
文政10年(1827年)の重大な局面において大條道直が示した揺るぎない忠誠心は、若き藩主の地位を確立する上で決定的な役割を果たしたばかりか、仙台藩の安泰をもたらす大きな礎となったのです。
その後も重臣として藩政を支え続けた大條道直は、天保10年(1839年)5月、藩主の領地入り(入部)に際して御用係を命じられると、見事にその大任を果たし、単衣の衣服と黄金1枚を賜ることとなりました。
3. 48歳での引退と文化人としての功績
奉行職として順風満帆な藩政を担っておりましたが、天保14年(1843年)、病のため惜しまれつつ48歳で引退することとなりました。
大條道直には実子がいなかったため、弟の順之助(後の大條道洽)を養子として迎え、家督を譲りました。
その後の大條道直は『此君亭』を終生愛し、この特別な場所で精力的な文化活動を展開しました。
隠居後は「是水」と称していたことがよく知られておりますが、「環翠」とも名乗っていたようです。
これはまさに、自身の法名である「環翠院殿道直是水大居士」からも裏付けられます。
「環翠」は「竹林に囲まれた家」を意味し、川内の武家屋敷(仙台城下)にあった『此君亭』の特徴を見事に捉えた自称であったのでしょう。
大條道直は大條家きっての文化人として知られ、その優れた才覚をうかがわせる作品を数多く残しております。
中でも近年において大きな注目を集めているのが『客座録』であります。
天保3年(1832年)から嘉永年間(1848年〜1853年)までの約20年間にわたって記されたこの作品は、模写図や日記、紀行など多岐にわたる内容を記録としてまとめた手控冊であり、
その詳細につきましては「東北アジア研究センター叢書第70号『仙台藩奉行大條家文書―家・知行地・職務―』(野本禎司編著)」にてご覧いただけます。
4. 明治での最期と「此君亭」に息づく武士の矜持
このように晩年まで文人としての道を追求した大條道直は、明治10年(1877年)10月19日、82年という波乱と風雅に満ちた生涯を静かに閉じました。
竹林に囲まれた『此君亭』で筆を執り、多くの文人たちと風雅を語り合う姿は、
かつて幕府の不当な圧力を跳ね返し、仙台藩の命運を救った豪胆な気概をその胸の奥に秘めながら、激動の時代を達観した境地へ至ったことを象徴しています。
藩政の中枢で天下の難局に対峙した日々から静かに身を引き、変わりゆく世を愛でるその生き様には、武士としての毅然とした矜持と、
文化人としての豊かな柔軟性が見事なまでに調和しておりました。
大條道直が残したこの気高い精神は、大條家が歩むべき未来の道へ極めて深い意味を刻み込むこととなったのです。
静寂に包まれた『此君亭』の空間で生み出された数々の筆跡や交わされた言葉は、激動の時代を駆け抜けた自らの半生を見つめ直し、その生き様を昇華させる至高の営みそのものでありました。
武士としての揺るぎない誇りと文化への深い傾倒が美しく結実したその時間こそ、大條家の伝統と気概を後世へと紡ぎ出した、真に誇り高き生涯の最高峰の終幕であったと言えるでしょう。
◼️参考資料
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
伊達泰宗 / 白石宗靖『伊達家の秘話』2010年
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』 1988年
作並清亮『東藩史稿』1976年
菊田定郷『仙台人名大辞書』1981年
