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【創作大賞2026応募作品】川沿いの秘密

あらすじ:川沿いに残る声

中目黒の川沿いを歩いていた相沢灯は、終電を逃した夜、職場の先輩・久遠蓮の「誰にも言っていない」秘密を聞いてしまう。水面に揺れる灯りの下で交わした会話は、翌日以降、二人の距離を少しだけずらしてしまう。

既婚者である蓮の隣で、灯は「後輩」としての立場にしがみつきながらも、呼び方ひとつ、視線の一瞬に心を乱されていく。川沿いのバー、オフィスの会議室、満員電車のわずかな隙間で重ねられるのは、決して言葉にならない温度だけだ。それでも二人は、何も起きていないふりをして、同じオフィスで日常を続ける。

やがて灯は、蓮の妻を含む現実の重さと、自分だけが知っている秘密の甘さとのあいだで揺れながら、「選ばれない側」としての答えを探す。最後の夜、川沿いに残るのは、誰にも届かない声と、ひとりで歩き出すための静かな決意だけ。

第1章:はじめての残り香

川沿いの明かりは、夜が深くなるにつれて少しずつ輪郭を変えていく。店のショーケースの白っぽい光と、マンションの窓に貼りついた柔らかな橙色と、橋に取り付けられた街灯の淡い輪。それらが中目黒の川面に落ちて、わずかな流れに揺らされながら混ざり合う。その揺れを欄干越しに眺めていると、自分の中の時間だけが、ほかのものとは別の速度で進んでいるような気がしてくる。編集プロダクションのフロアを出てからここへ辿り着くまで、歩道を足音で刻んでいたはずの一歩一歩も、川の上ではもう形を失っていた。

今日の仕事が終わったのは、オフィス街の明かりがだいぶ間引かれてきたころだった。パソコンの画面に並ぶ原稿の文字が、集中力の切れかけた目にはどれも同じ記号に見え始めて、締め切りまでの段取りを確認しても、頭のどこかがうまく回っていない感覚だけが残った。タイムカードを押し、エレベーターで一階まで降り、ビルの自動ドアを抜けたときには、冷えた空気が肺の奥までまっすぐ入り込んできた。そのまま駅の方へ曲がれば、乗り換えを一度挟むだけで自宅に着く。けれど脚は、いつものように素直に改札へ向かわず、ビルの陰を抜け、川の気配がする方角へと自然に折れていた。

川沿いに出ると、人の数は昼間の記憶と比べて目に見えて少なかった。外席を片づけ終えたレストランの前では、重ねた椅子の脚が金属同士の小さな音を立てている。テイクアウト専門の店はシャッターを半分下ろし、店の奥では誰かが掃除機をかけているらしく、低い唸りがガラス越しに漏れていた。橋の下を走る車の往来もまばらで、代わりに聞こえてくるのは、水が護岸の段差をこえるときの、ひそやかな音の層だった。その静けさが、かえって自分の呼吸の粗さをはっきり浮かび上がらせる。私は欄干に指をかけて、一度深く息を吐いた。金属は昼間の熱をすっかり手放していて、肌に触れたところから体温が少しずつ奪われていく。

この位置に立つと、どうしても同じ夜を思い出す。あのときも、ほとんど同じような冷え方の空気だった。微妙に季節が違っていたはずなのに、記憶の中の川沿いは、今と同じように光がちぎれて揺れている。違うのは、欄干に寄りかかる腕がひとつ多かったことだけだ。画面越しではない彼の横顔を、私はここで初めて長く見た。久遠さん。社内では当たり前のように名字で呼ぶのに、この川の前でその名を心の中で呼ぶと、音の手触りが少しだけ柔らかくなる。その変化に気づいたときから、私は自分の中の距離感をうまくごまかさなければならなくなった。

あの夜、彼は欄干にもたれながら、水面ではなく向こう岸の建物の隙間を眺めていた。ビルとビルのあいだにできる暗がりの向こうで、電車が一瞬だけ姿を見せては、すぐに視界から消えていく。その光と影の切り替わりを追うようにして、彼は静かに息を吐き、少しだけ掠れた声で、自分のことを話し始めた。仕事の失敗や、別の会社にいたときのことや、家族の話も少し。そのどれもが、昼間の会議室では決して出てこない種類の言葉だった。編プロの先輩としての彼ではなく、一人の人間としての蓮という輪郭が、そのとき初めて、夜の川の上に浮かび上がった気がした。

誰にも言わなくていい、と彼は最後に言った。秘密という言葉は使わなかったけれど、その言い方はどう考えても打ち明け話の類いで、私がそれを外に漏らさないと信じている口調だった。信じられているという事実は、やさしさと同時に重さも連れてくる。あの夜から今日まで、その重さはずっと心のどこかで居場所を変えながら残り続けている。思い出さないようにしても、川沿いに来ればすぐにそこへ沈んでいき、オフィスの机に向かえば、書きかけの原稿の行間に紛れ込む。忘れていい、と言われたものほど忘れづらいのだとしたら、その矛盾自体が既にひとつの呪いに近いのかもしれない。

ポケットの中のスマートフォンが震えたのは、そんなことをぼんやり考えていたときだった。通知音は切ってあるから、耳には何も届かない。それでも、布越しに伝わるわずかな振動は、川の音よりも、遠くの車のタイヤが水たまりを踏む音よりもはっきりと意識に浮かぶ。取り出して画面を点ける。白い光が闇を押し返し、その中心に整った文字列が浮かび上がる。久遠蓮。苗字と名前が並んで表示されているだけなのに、オフィスのチャットツールで見るそれとは違う温度を持っていた。

メッセージは一行だけだった。
まだ帰り道?

句読点も何も付いていないその言葉が、頭の中では彼の声に変換されていく。少し疲れの混じった低めのトーン。会議でクライアントに説明するときのはっきりした抑揚ではなく、残業明けの廊下で同僚にかける何気ない一言に近い。それなのに、その声が自分に向けられていると想像した瞬間、胸の裏側がきゅっと固くなる。

私はすぐには返信欄を開かなかった。画面を伏せるようにして手の中でひと呼吸置き、もう一度川を見下ろす。夜気の中で、橋に取り付けられた街灯の輪が先ほどよりも濃くなっている。対岸の窓のいくつかは暗くなり、残っている灯りがかえって目についた。水面に映った光は伸びたり縮んだりしながら流れに合わせて移動しているのに、自分の足だけがここで止まっている。動かないのは身体か気持ちか、その境目も曖昧なままだ。

久遠さんが、私の帰り道の癖を知っていることは分かっている。終電ぎりぎりまで会社に残った日のいくつかは、たまたま退社のタイミングが重なり、一緒にビルを出た。最短距離で駅へ向かう道と、遠回りになる代わりに川沿いを通る道。どちらを選ぶのかと聞かれ、私は迷わず水の近くの方だと答えた。頭がいっぱいになったときは、流れていくものを見ていると少しだけ楽になると、そのとき口にしてしまった。その一言も、きっと彼の記憶のどこかに残っているからこそ、こんな時間にこのメッセージが届いているのだろう。

指先が画面の上に落ちる。
少しだけ考えてから、私はゆっくりと文字を打ち込む。

少し散歩してます

短い文にしたかった。説明を足し始めたら、余計なことまで言葉にしてしまいそうだったからだ。送信ボタンに触れた瞬間、小さく息を吐く。胸の奥で波紋のような感覚が広がっていく。返事を待つ時間は長くはなかった。再び振動が伝わり、同じ名前の下に新しい一行が重なる。

川の方?

彼がそう打つことを、どこかで予想していた。訊かれてみると、さっきまで自分で選んだつもりだった行動が、別の視点から照らされる。川沿いにいると知っている人間が、今この瞬間、世界のどこかに一人いる。その事実が、夜の空気の密度を変える。私は、欄干から指を離し、スマートフォンを胸の高さまで持ち上げた。

はい、とだけ返すこともできた。
けれどそれだけでは、今の自分がどこにいるのかをうまく伝えられない気がした。私は一度文章を途中まで打っては消し、言葉の組み合わせをいくつか試しながら、ようやくこう書き直す。

川沿いを歩いてます

送信と同時に、夜の川の音が少しだけ遠のいたように感じた。意識が画面の方へ引き寄せられ、周りの風景が背景のレベルに下がる。ベンチの木目も、足元の石畳の濡れ具合も、さっきよりぼんやりとしか目に入ってこない。代わりにくっきりと浮かぶのは、画面に表示される小さな吹き出しの形だ。その中に次の文字が現れるまでの、目に見えない時間の揺らぎ。

返事は、やはりすぐに届いた。

少しだけ話さない?

問いかけの最後についている記号が、小さな針のように視界に刺さる。少しだけ。その言葉を、私はあの夜にも聞いている。仕事の愚痴を吐き出す場として誘われたカフェのテーブルで、深夜近くの編集室で、終電を逃したあとの廊下で。少しという単語は、いつも最初だけ控えめで、気づけば時間も距離も、その範囲を超えて広がっていた。

私は欄干から一歩離れ、川沿いの遊歩道に沿って並ぶベンチを見やる。すぐ近くに一つだけ空席のベンチがあり、その向こうにはガラス張りの小さなカフェがある。店内の客はもうまばらで、カウンターの中ではスタッフが片づけを始めている。あの夜、彼と向かい合って座ったのは、あのベンチではなくカフェの奥の丸テーブルだった。話し声を落とさないといけないような静かな空気の中で、彼の言葉は思っていた以上に生々しく響いていた。

少しだけ、の範囲を、今夜どこに引くのか。
その線引きを私に委ねるふりをしながら、実際には彼の方が先に決めているのかもしれない。そう疑いながらも、私は画面から目を離せない。川面を渡る風が、首元から入り込んできて一瞬震えが走る。その震えが寒さのせいなのか、別の理由なのか、自分でも判断がつかない。

私の指は、ゆっくりと動き出す。
どんな返事を打つにしても、今夜この川沿いで、またひとつ新しい秘密が積み重なる予感だけは、もう消せそうになかった。

少しだけ。
その言葉にどんな時間と距離が含まれているのか、自分でも測りかねたまま、私は画面の上で指を止めていた。返事を打たなければ、この夜はまだ川と私だけのものだ。けれど、打たないままでいると、そのためらいごと彼に見透かされてしまいそうで、それもまた落ち着かない。

結局、私は一度画面を閉じてから、もう一度メッセージアプリを開き直した。さっきまで浮かんでいた吹き出しが、変わらずそこに並んでいる。会議のメモも、原稿の赤字も、誰かの依頼も混ざらない、このやり取りだけが、夜の川を背景にした細い糸みたいに感じられた。

しばらく考えた末に、私は短く打ち込む。

いいですよ

その三文字が、どこまでを許可する言葉なのか、自分でもはっきり分かっていない。ただ、この返事を送った瞬間に、戻れる場所が少しだけ変わってしまうことだけは理解していた。送信ボタンに触れたあと、私は画面を伏せて、掌で挟むようにして持つ。スマートフォンの熱が、さっきよりもはっきりと手のひらに伝わってきた。

返事は思っていたよりも早く届いた。
振動が二度続けて走る。画面を点けると、そこには場所を尋ねる文ではなく、すでに決定事項のような一行が並んでいた。

そっちに向かってる

どこから、とは書かれていない。会社かもしれないし、別の場所かもしれない。どちらにせよ、この川沿いに来るルートはいくつかしかない。私は思わず首を上げて、橋の方と、駅へ抜ける道の方とを順番に見やった。まだ彼の姿はどこにもない。なのに、空気の中には目に見えない印がつけられたみたいに、期待と警戒が混ざり合った揺れが生まれていた。

落ち着こうとして、私は欄干から少し離れ、近くのベンチに目を向ける。木の板を渡しただけの簡素なベンチは、誰にも占領されていない。座るかどうか、ほんの数秒迷ってから、私はそっと腰を下ろした。背もたれに寄りかかると、服越しに冷えが背中へ移る。川の方を向けば、揺れる光。少し身をひねれば、ガラス越しの店内でスタッフが食器を片づけている様子が見える。現実的な動きと、水の上の抽象的な揺らぎ。そのどちらにも、今の自分の居場所が結び付かない。

会いたいわけではない、と心のどこかが小さく言い訳を始める。確認しなければいけないだけだ。あの夜のことを、彼がどう扱っているのか。私にとってはまだ現在進行形なのに、彼にとっては一度出してしまえば終わる荷物だったのかどうか。確かめるためだけに、ここにいる。そう繰り返していれば、少なくとも、自分の行動を責める声は少し弱まる。

靴のつま先で、足元の石畳を軽く押す。昼間に残った水が薄く張っていた場所は、ほとんど乾いている。街灯の光が、かろうじて残った湿りを拾って、細い筋のように反射する。夜が深まるほど、世界の輪郭は少なくなるはずなのに、耳と肌と鼻は、むしろいろいろなものを拾い始めていて、落ち着き先を見失いかけていた。

視線を少し先の歩道に向ける。橋から降りてくる人影、駅からまっすぐ歩いてくる人影、反対側の岸へ向かうために横断歩道を渡る影。それぞれの足取りには、それぞれの事情が乗っているはずなのに、私の目にはみな同じような速度で流れていく。そこに一つ、見慣れたシルエットが混ざったのは、川面に視線を戻しかけたときだった。

久遠さんだ、と気づくより先に、身体が僅かに緊張する。
歩幅は落ち着いていて、走ってくるわけではない。それでも、私のいる側の歩道を自然に選び、川沿いへ向かってくるその姿を認識した瞬間、胸の内側で何かがきゅっと縮んだ。会社で見るときと同じコート。肩から下げたバッグ。少し俯き加減の顔。けれど、夜の明かりの中では、そのどれもが昼間とは別の色をしているように見えた。

「相沢さん」

数歩手前で足を止め、彼は落ち着いた声で私の名前を呼んだ。その音の並びは、会議のときと変わらないのに、周囲の静けさのせいで、少しだけ違う意味を帯びて響く。私はベンチから立ち上がり、コートの裾を軽く整えてから、短く会釈した。

「お疲れさまです」

自分でも驚くほど、声は普段通りだった。緊張しているはずなのに、言葉だけは仕事モードを捨てきれない。敬語が口の中で形を作るその瞬間、急に距離が遠く感じられて、胸の奥がわずかに痛む。

「こっちにいるかなって思って」

久遠さんは、片方の手をポケットに入れたまま、穏やかに笑った。川沿いの風が、彼の前髪を少しだけ持ち上げる。その下に覗いた目は、オフィスの白い蛍光灯ではなく、街灯と店の光を映していて、どこか柔らかく見えた。
私は曖昧に笑い返す。それ以上言葉を足すと、余計な本音まで零れてしまいそうだったからだ。

「座ってもいい?」

彼がベンチの空いている側を顎で示す。私は小さく頷き、自分のバッグを端に寄せた。彼が腰を下ろすと、木の板がわずかにしなって、私の方へ小さく傾く。その感触が、距離を数値化できない形で伝えてくる。肩が触れるほど近くはないけれど、風が一度彼の身体を通ってからこちらへ届くくらいには、隣にいる。

しばらく、ふたりとも黙って川を眺めた。
言葉を探している沈黙なのか、敢えて言葉を挟まない沈黙なのか、自分でも判断がつかない。水面には、さっきよりも少し少ない明かりが揺れている。時間が進むたびに、街から漏れる光は削られていくのに、そのたびに、残った光の輪は濃く見えた。

「今日も、詰め込みデーだった?」

不意に久遠さんが口を開いた。視線は川の方に向けたままだ。
私は一瞬だけ彼の横顔を見てから、前を向き直る。

「スケジュール表の色が、ほとんど埋まってました」

「だろうね。相沢さんの欄、真っ赤だったもん」

軽い冗談のように言いながらも、その言葉にはちゃんと仕事の状況を見ている人間の温度が混ざっている。社内のタスク管理画面で、誰の予定がどれだけ詰まっているか把握しているからこそ出てくる言い回しだ。そこまで分かっていて、あえてこんな時間にメッセージを送ってきた相手の顔を、私はどんな表情で見ればいいのだろう。

「久遠さんこそ、まだ会社にいたんですか?」

「さっき出た。さすがに今日は終わりにしようって思って」

そう言って、彼は小さく笑った。その笑い声が、夜の空気の中で意外なほどよく通る。近くにいるのに、少し離れたところから聞こえてきたような感覚がして、私は自分の耳を疑った。

「終わりにできたんですか?」

「物理的にはね。頭の中はまだ、さっきの会議室に置いてきちゃった感じだけど」

会議室という言葉に、昼間の場面が一瞬よみがえる。大型のモニター。詰め込まれた資料。クライアントの疲れた顔。そこにいる久遠さんは、今隣に座っている人とは別人のように、迷いのない口調で進行をしていた。あの席で見せていた余裕が、ここにはない。夜の川沿いでの彼は、少しだけ肩の力が抜けていて、その抜け方が、私の心のどこかを不安と安堵で同時に揺らす。

「こうやって川を見に来るときは、大体、頭の中がうるさいときです」

自分から口にした言葉に、自分が驚く。こんなことを言うつもりではなかったのに、沈黙を埋めようとした舌が、勝手に動いていた。久遠さんが、こちらを見たのが分かる。視線が頬に触れた気がして、私は川の方へ顔を向けたまま、軽く肩をすくめた。

「水の音って、そんなに聞こえてないはずなのに、頭の中の音は消してくれる気がして」

「分かる」

即答だった。
彼は少しだけ身体を前に倒し、肘を膝に乗せて手を組む。その姿勢のまま、水面をじっと見つめる。

「俺も、あの夜そう思ったからさ。相沢さんを巻き込んだんだよな」

あの夜、という言葉が、川面の暗さを一段濃くする。
私は思わず、彼の横顔を見た。街灯に照らされたその輪郭は、記憶の中と大きくは変わっていない。けれど、わずかに口元が固くなっているのに気づいて、胸の奥がざわついた。

「巻き込まれたと思ってるんですか?」

「うん。だって、あれ、本来は誰にも言わないことで済ませるつもりだったし」

彼は苦笑に近い表情を浮かべる。
言葉の端に、自嘲と少しの感謝が混ざっているのが分かる。その混ざり方を、私はあの夜にも聞いていた。仕事の話をする声とは違う、守りの薄いトーン。

「あのとき、黙って聞いてくれたじゃん」

「聞きましたけど」

「否定もしなかったし、変に慰めもしなかった」

それで助かったんだよ、と彼は続けた。
私は何も返せずにいた。あの夜の自分は、どう振る舞うのが正解か分からず、とにかく言葉を選ばないようにしていた。余計なことを言えば、彼の中の何かを壊してしまいそうだったし、そうでないことを言えば、聞いていないふりをしたことになってしまいそうだったからだ。沈黙を選んだのは、そのどちらからも逃げるためだったのに、こうして感謝のようなものをぶつけられると、あの時間に勝手に名前がつけられてしまった気がする。

「忘れていいって言ったのに」

思わずこぼれた言葉は、夜の中で自分に跳ね返ってくる。
久遠さんが、少し驚いたように私を見る。暗さのせいで表情の細部までは読み取れないのに、その視線の動きだけは確かだった。

「忘れてないの?」

問いかけの調子は、責めるというより確認に近い。
私は返事をする前に、空を仰いだ。ビルとビルの隙間から、暗い空の一部が見えている。星の姿はなく、その代わりに遠くの航空機が小さく瞬いていた。

「忘れようとしたことは、何回もあります」

ようやく出てきた言葉は、思っていたよりも静かだった。
「でも、川沿いに来ると、思い出さざるを得ないんです。ここを選んだのは私だから」

水面を渡る風が、頬に触れていく。冷たさの中に微かな湿りが混ざっていて、そこに、あの夜の空気を重ねてしまう。
久遠さんは、しばらく何も言わなかった。沈黙のあいだに聞こえてくるのは、遠くで誰かが笑う声と、橋を渡る車のタイヤが路面をなぞる音だけだ。

「忘れてほしくなかったのかもしれない」

ぽつりと、彼が言った。自分でも驚いているような口調だった。
「本当は。どこかで」

言葉を区切るたびに、呼吸が浅くなっていくのが分かる。彼の声は、さっきまでより僅かに低く、喉に引っかかるように聞こえた。

「誰かに話した時点で、もう一人だけじゃ持てなくなるからさ。あの話は」

あの話。
具体的な内容を口にしないまま、それを共有していることだけが確認される。私は膝の上で手を組み、指先に力を込めた。冷えた空気の中で、皮膚の内側だけが熱を帯びる。

「相沢さんから見たら、いい迷惑だったと思うよ」

「そう思ってたら、ここには来てないです」

自分で言ってから、その言葉が持つ重さに気づく。
ここ。中目黒の川沿い。あの夜と同じ場所。仕事帰りにわざわざ遠回りしてまで選ぶ道。そこへ今夜も足を向けているのは、単に疲れているからではない。
その事実を言葉にしてしまったことで、何かを差し出してしまった気がした。

久遠さんが、息を飲む気配がした。
それから、沈黙を一枚挟んで、小さく笑う。

「そういうところだよな」

意味を問い返す前に、彼は続けた。

「余計なこと言わないで、でも全然突き放しもしないところ。あの夜、相沢さんじゃなかったら、多分違う話にしてた」

「違う話、ですか?」

「もっと浅い愚痴だけで終わらせるとかさ。家が遠いんで、って早めに切り上げるとか。ああいう場所に、相沢さんみたいな反応をする人を連れてくるの、ずるいよなって今日思ってた」

ずるい、という言葉が、ふっと夜気に溶ける。
責めているのは自分自身なのだろう。その揺れを間近で聞かされていることに気づいた瞬間、胸の中の秘密の輪郭が少し変わったように感じた。あの夜の出来事は、彼にとってただの一度きりの気まぐれではなかったのかもしれない。そう考えてしまうこと自体が危ういのに、考えずにはいられなかった。

足元の石畳を、遠くの信号の色が薄く照らしている。
青と赤が順番に移り変わり、そのたびに人の流れも入れ替わる。私たちが座っているベンチだけが、その変化から切り離された小さな島みたいになっていた。

「相沢さんはさ」

久遠さんが、ゆっくりとこちらに顔を向ける。その動きだけで、これから何か境界線に触れるような話が始まることが分かってしまう。

「俺のこと、どう思ってる?」

安い言葉を選びたくないときに限って、問いは驚くほど単純な形をしている。私は一瞬、答えを探すふりをして川を見た。水面に映った光は、さっきよりも少なくなっているのに、残っているものは妙にはっきりしていた。

先輩として、と言いかけて、言葉を飲み込む。
そう言ってしまえば、今この場にあるものをすべて元の棚に戻し、何事もなかったふりをするための答えになってしまう。それが正解かもしれないと分かっているのに、喉はその言葉を許さなかった。

「ずるい人だなって、さっき思いました」

結局、出てきたのはそんな言葉だった。
「自分だけ忘れていいって言っておいて、忘れてほしくなかったのかもしれないって、後から言うところとか」

少しだけ笑いを混ぜたつもりだったけれど、自分の耳には震えが混ざって聞こえた。久遠さんは、すぐには何も返さなかった。私の言葉をどう受け取るか、丁寧に選んでいるような沈黙が流れる。

「それは、認める」

ようやく出てきた答えは、意外なほど素直だった。
「相沢さんの前だと、いい顔だけしてもバレるしな」

その言葉に、私は思わず彼の方を見た。
視線がぶつかる。街灯と川面の光と、ガラス越しの店内の灯りが、彼の瞳の奥で入り混じっている。そこに映っている自分の姿はよく見えない。ただ、目を逸らすことができない時間が、ほんの少しだけ続いた。

その一瞬の距離が、あの夜の秘密と今夜の会話を細い線で結ぶ。その線を、どちらが先に手放すのか。答えが出ないまま、川沿いの夜は、ゆっくりと次の時間へ滑り出していく。

-完-

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