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【創作大賞2026応募作品】言えない未来へ

あらすじ:夜の残像

出版社で働く篠原紗月は、忙しい日々の終わりにだけ、宮本と会う。終電後の飯田橋、神楽坂の路地。生活の隙間に差し込む夜は、恋と呼ぶには曖昧で、それでも確かに温度を持っていた。

会えない日が増えるほど、会える時間は濃くなり、二人は未来の話題だけを避けるようになる。仕事の輪郭、生活の選択、言葉の端に滲む違和感。名前をつけないまま、関係は続いていく。

やがて宮本に東京を離れる可能性が現れ、二人は初めて未来に触れかける。言葉になった想いと、埋まらない差。選択の前で、同じ結論に辿り着けないことを受け入れるしかなかった。

終電後ではない神楽坂。もう並んで歩くことはないが、あの夜が確かに恋だったことだけは否定できない。言えなかった言葉とともに、静かな余韻が生活の中に残り続ける。

第1章:夜未満の街

終電の余熱が駅の床に薄く残り、そこへ遅れて冷えが染み込んでくるころ、篠原紗月は改札を抜けた。風は強くないのに、顔の輪郭だけが削られていくような寒さがある。昼の東京は人の体温で膨らみ、夜は建物の影で痩せる。飯田橋の広い交差点は、今夜は痩せたまま光っていた。信号の青が長く、赤が短い気がするのは、待つ人が減ったせいだろうか。それとも、待つという行為の重みが、時間そのものの姿を変えるのだろうか。

出版社の建物を出るとき、紗月はいつも同じ手順で肩の力をほどく。エレベーターを降り、受付の前を通り、外気に触れた瞬間だけ背筋を伸ばす。今日もそれをしたはずなのに、胸の奥に残った硬さは抜けなかった。紙の匂いとインクの乾ききらない感じが、髪の先に引っかかっている。担当作家の原稿が、メールの添付ではなく、いまだに紙で届くこともある。封を切るときの、刃がないのに切り開く感触。ページをめくるときの乾いた音。あれらは仕事の道具であるのに、体の一部のようにまとわりつく。

スマホの画面が一度だけ明るくなった。通知の光は夜に小さな針穴を開ける。そこから覗くと、今の自分がいちばん見たくないものが見えることがある。紗月は画面を見たまま足を止めた。

今、飯田橋。いつものとこで。

短い。句点もない。彼はいつもそうだ。余計な飾りを外して、必要な部分だけを置く。広告代理店のプランナーという職業のせいなのか、彼自身の性格なのか、紗月にはまだ判別がつかない。ただ、その短さが今夜は少しだけ心臓に刺さった。返事をしなくても、彼は待つのだろう。待つ場所も、待つ顔も、紗月はもう知っている。知っていることが、安心ではなく、別のものに変わり始めている。

恋は生活を乱すものだと思っていた。だから、乱さないようにしてきた。予定表に入れない。誰かの都合に巻き込まれない。仕事の波を自分の体で受け止め、睡眠の借金は休日に返す。そういう整った生活が、整っているほど、紗月は自分を保てた。けれど今は、乱れたまま整えられない。乱れが日常になって、整えるという言葉の意味だけが遠のいていく。

改札の外、コンビニの明かりが歩道に白い四角を落としている。その縁に、宮本がいた。遠目でも、姿勢の癖でわかる。背筋は伸びているのに、どこか肩の力が抜けている。誰かに急かされることを、もう諦めている人の立ち方だ、と紗月は勝手に思う。彼の手には紙コップが二つあった。片方を少し掲げて、彼は軽く笑う。笑顔が夜に馴染みすぎて、言葉のほうが遅れてくる。

「おつかれ」

紗月は頷き、唇を軽く噛んだ。話す前に口の中で何かを整える癖がある。理性的でいたい。感情をそのまま吐き出すのが怖い。吐き出した瞬間、何かが始まってしまう気がする。始まることより、始まったと自覚することのほうが、紗月はずっと苦手だった。

「寒い?」

「少し」

指先が冷たくなっているのに気づいて、紗月は拳を作った。手袋をしていても、指の先は逃げ場を見つける。宮本はその動きを目で追い、言葉を挟まずに歩き出した。彼の歩幅は一定だ。紗月が早足になれば少し短くなり、遅くなればわずかに緩む。合わせる、というより調整する。相手のペースを奪わない調整。それが優しさだとしたら、優しさは説明しづらい。紗月は、優しさを説明できないタイプの人間だ。だから、説明できないものを受け取ると、どう扱えばいいかわからなくなる。

神楽坂へ向かう道の途中で、車の音が遠ざかる。車道の湿った匂いと、飲食店の裏口から漏れる湯気の匂いが混ざる。どちらも東京の匂いだと思う。綺麗ではないのに、嫌いになれない。路地に入ると、石畳の表面が鈍く光っている。昼の太陽ではなく、街灯の輪郭だけを映している。踏むたびに靴底が小さく吸い付くような感触があった。雨上がりではないのに、どこかに水分が残っている。夜の空気が、まだ完全には乾ききっていない。

「今日、どうだった?」

宮本が言った。問いかけは軽いのに、声の奥が静かで、紗月はそこに引っかかる。彼は聞き上手だ。聞くことで距離を保ち、距離を保つことで壊れないものを守る。守っているものが何か、紗月は知りたいのに、知ってしまうのが怖い。

「締切の火消し。火をつけるのは作家じゃなくて、作家の中の別の誰かって感じ」

「別の誰か?」

「締切が近づくと現れる。悪霊みたいなもの」

「悪霊なら、祓える?」

「祓えない。共存」

紗月がそう言うと、宮本は短く息を漏らして笑った。笑い声は大きくない。夜の空気を乱さない程度の温度。紗月はその笑い声の輪郭に、微かに救われる。自分の世界が、仕事だけで閉じていないことを思い出せるからだ。

店に入る前、宮本が紙コップを紗月に渡した。蓋の隙間から湯気が立つ。コーヒーの苦みは、夜の冷えに対して即効性がある。紗月は一口飲んで、舌の上が少しだけ目を覚ます感覚を確かめた。

「これ、助かる」

「そう言われると、買った甲斐がある」

それだけの会話なのに、胸の中がふっと軽くなる。軽くなるのが怖い。軽さは、落ちる前触れにも似ている。紗月は口の中で言葉を選び直し、結局、何も付け足さなかった。

いつもの店は、看板が小さく、入口の灯りが低い。派手さがないのに、吸い寄せられる。ドアを押すと、木の重みが手のひらに伝わる。店内はカウンターだけで、グラスを磨く音が静かに響いていた。店主は二人を見て、目だけで挨拶する。名前を呼ばれないのがいい。ここでは二人は、余計な説明を免れる。

「いつもの?」

宮本がメニューを示すように言う。紗月は頷く。頷くという行為が、今夜の選択を全部背負ってしまうようで、少しだけ喉が鳴った。氷の入ったグラスが置かれ、透明な液体が光を受けて揺れる。紗月はその揺れを眺めながら、ふと、自分の仕事も似ていると思った。文字の向こうで揺れている誰かの感情を、形にしないように形にする。輪郭を出しすぎれば嘘になる。曖昧にしすぎれば伝わらない。その間に立ち続けるのが編集者の仕事だ。今の恋も、同じ場所に立っている気がする。

「紗月って、最近、寝てる?」

突然、宮本が言った。紗月は顔を上げる。聞かれると思っていなかった質問は、言葉の角が鋭く感じられる。

「寝てるよ」

「ほんとに?」

「ほんとに、って言われると困る」

紗月は笑おうとして、うまくできなかった。宮本はそれを追及せず、グラスに視線を落とした。考えると視線を外す癖。相手の目を見たまま深い話をしない。深い話ほど、目の前の人を傷つける可能性が高いことを、彼は知っているのかもしれない。

「ごめん。心配になっただけ」

心配。紗月はその言葉を、口の中で転がす。心配されるのは嫌いじゃない。でも、心配されるほど自分が誰かにとって大事な位置にいるのだと認めるのは、少し怖い。大事な位置は、失うときの痛みが大きいからだ。

「宮本は?」と紗月は聞き返した。「眠れてる?」

「まあまあ。昼に寝たり、夜に起きたり。生活リズムって、俺には向いてない」

「リズムは、作るものじゃないの」

「作ると壊れるから、作らない」

宮本の言い方は、冗談の形をしているのに、本気の匂いが混じる。作ると壊れる。紗月はその言葉に、胸の奥が微かに反応するのを感じた。関係も、似ている。形にすると壊れる気がするから、形にしない。形にしないまま、夜だけを延ばす。延ばして、延ばして、いつか引きちぎれるのだろうか。そう考えると、指先が冷たくなる。紗月はまた拳を作り、ほどき、グラスに触れて冷たさを確かめた。

店の中は暖かいのに、外の冷えが窓ガラスの向こうで待っている。ガラスは薄い境界で、こちらと向こうの世界を分ける。境界があるから安心できる。境界があるから、踏み越えるのが怖い。紗月は自分が今どちらにいるのか、わからなくなる。

「ねえ」と宮本が言った。「最近、神楽坂の坂を上がらなくなったよね」

紗月は一瞬、言葉を失った。彼はそんなことまで覚えている。覚えているのが優しさなのか、観察なのか。観察されていると思うと、胸の内側がざわつく。

「上がると、帰りが遠いから」

「それだけ?」

「それだけ」

答えながら、紗月は自分が嘘をついているのかどうか判断がつかなかった。上がると帰りが遠い。それは事実だ。でもそれだけではない。坂を上がると、視界が開ける。開けた先に、夜が続くような錯覚がある。続く夜は、続く未来を想像させる。未来を想像した瞬間、言葉にしたくなる。言葉にしたら終わる。終わりが怖いのではなく、終わりを確定させる自分の口が怖い。

「紗月さ」と宮本が続ける。「未来の話、嫌い?」

その問いは、椅子の脚を少しだけ浮かせるみたいに、紗月の足元を不安定にした。嫌いかどうかではない。未来を口にした瞬間に、関係が終わる気がする。終わるのは別れではなく、今のままではいられないという現実の露出だ。今のままではいられないと知るのは、痛い。痛いけれど、知らないままでいられるほど、紗月は鈍くない。

「嫌いじゃない」と紗月は言った。「うまくできないだけ」

「うまく?」

「上手に言えない。将来とか、いつまでとか。そういうのを言うと、言った瞬間に約束みたいになる。約束にしたいのに、約束になったら怖くなる」

言ってしまった。紗月は自分の声が震えていないか気にした。震えているかどうかは、相手の耳に委ねられる。委ねるのが怖い。宮本は黙った。沈黙が、店の音を少しだけ大きくする。グラスを磨く音、氷の小さなひび割れの音、遠くの換気扇の低い唸り。東京は、静けさの中にも必ず何かが鳴っている。鳴っているのに、言葉だけが出ない時間がある。

「わかる」と宮本は言った。「軽く言いたくない。真剣なことほど、言葉にすると戻れない」

戻れない。紗月の胸の奥が、きゅっと縮む。戻れないのは、どこへ。二人の関係に名前がついてしまった場所へ、なのか。戻れないほど踏み込むこと自体が怖いのか。紗月はそれを聞きたい。でも聞けば、踏み込む行為になる。踏み込むのが怖い人間が、踏み込むことについて質問するのは矛盾だ。矛盾に慣れるほど、夜は深くなる。

「宮本は、守ってるの?」と紗月は言った。口を開いた瞬間、唇を噛みそうになるのを抑えた。言葉は出た。出たけれど、正しい形かどうかわからない。

宮本は視線を外し、少し遅れて頷いた。

「守ってるのかもね。自分のことも、紗月のことも」

「私のこと?」

「傷つけたくない」

その言葉が、紗月には優しすぎて、同時に少し冷たく感じた。傷つけたくないという言い方は、もう傷つける未来を想定している。想定している未来は、現実に近い。近いものほど、言葉は慎重になる。慎重になりすぎると、今しか掴めないものを落とす。紗月はその落とし方を、仕事で何度も見てきた。言い出せないまま時間が過ぎ、関係が自然に死ぬ。誰も悪くない顔をして、消える。

「傷つけないために、言わないの?」と紗月は訊いた。訊いてしまった。自分が問い詰める人間になっていくのがわかる。嫌だった。嫌なのに止まらない。

宮本はグラスに触れ、指先で水滴をなぞった。その動作が答えの代わりみたいにゆっくりだった。

「言わないために、っていうより」と宮本は言う。「言うと、決めなきゃいけなくなるから。決めると、誰かが泣くから」

誰か。紗月はその曖昧な主語に、胸の奥がざわつく。誰かの中に自分が含まれているのはわかる。けれど、誰かの中に自分以外も含まれているのかもしれない。仕事の転機が近い。東京を離れる可能性がある。それらの気配が、ここ最近、宮本の言葉の隙間に滲んでいる。紗月はそれに名前をつけたくない。名前をつければ、はっきりする。はっきりしたものは、手放さなければならなくなる。

「転機ってさ」と紗月は言った。「いいことなの?」

宮本は少し笑った。その笑いには、軽さが足りなかった。

「いいこと、だと思う。たぶん。でも、いいことって、いつも誰かの生活を変える」

「生活を変えるの、怖い?」

「怖いよ」と宮本は言い、すぐに目を伏せた。「俺は、変える側になるのが怖い。変えられる側より、たぶん」

紗月はその言葉に、答えの影を見た気がした。変える側。東京を離れる話は、彼の中で既に輪郭を持ち始めているのかもしれない。紗月は息を吸い、吐く。店内の暖気が喉を滑り、外の冷えが思い出みたいに残る。

「私ね」と紗月は言いかけた。言いかけて止めた。何を言うつもりだったのか、はっきりしない。ただ、言葉の核心はひとつだ。一緒にいたい。けれどその言葉を言うには、期限や形まで含めて言わなければならない気がする。形を求めると、彼を縛ることになるかもしれない。縛らないように言えば、ただの軽い言葉になる。軽い言葉にしたくない。だから言えない。言えないまま、今だけが伸びる。

宮本がそれを見抜いたのかどうかはわからない。彼はただ、紗月が止まったところに沈黙を置き、沈黙の重みを受け止めるように頷いた。

「無理に言わなくていい」と宮本は言った。

その優しさが、紗月には少しだけ残酷だった。無理に言わなくていい。つまり、言わなくても今は続けられる。続けられるということは、終わらせない理由になる。終わらせない理由は、決めない理由になる。決めない理由は、いずれ誰かを泣かせる。紗月は、頭の中で因果が繋がっていくのを止めたかった。理性的でいようとする自分が、こういうときだけ余計に働くのが嫌だった。

店を出ると、冷気が頬を刺した。神楽坂の裏道は、どこかの厨房から出た香辛料の匂いと、湿った石の匂いが混ざっていた。遠くで誰かが笑っている。笑い声は高く、夜を軽くする。軽くなる夜は、二人には似合わない気がして、紗月は歩く速度を少し落とした。宮本が歩幅を合わせる。合わせられるたびに、胸が苦しくなる。合わせられるほど、離れるときの差が際立つ。

飯田橋へ戻る道は、明るさが戻る。車道の白い線がくっきりして、建物のガラスに街灯が映る。夜の東京は、光が多すぎて暗さが隠れる。紗月はその隠れ方が好きだった。暗さがあるのに、暗さを見なくて済む。恋も同じだ。問題はあるのに、問題を言葉にしなくて済む。しかし、言葉にしないことは、問題がないこととは違う。

駅前の空間に着くと、風が広がった。ビルの間で風の流れが変わる場所だ。足元を冷えがなでていく。紗月は指先を握り込み、息を吐いた。白くならない息が、逆に冷たさを知らせる。

「送るよ」と宮本が言った。

「大丈夫」と紗月は言った。大丈夫という言葉は便利だ。自分を守るふりをして、相手との距離も守れる。守りたいのは距離ではなく、関係の温度なのに。

宮本は一歩だけ近づき、止まった。触れない距離。触れないことで保たれるものがある。触れたら壊れるものがある。紗月はその境界が、今夜は少し薄いと感じた。薄い境界は、ふとした拍子に破れる。

「紗月」と宮本が言った。名前を呼ぶ声が、いつもより低く聞こえた。

「なに?」

紗月は口元を引き締めた。唇を噛まないようにするためだ。噛むと、感情が出てしまう気がした。宮本は視線を外した。考えるときの癖。彼は考えている。今、言うべき言葉を。言えば戻れない言葉を。言わなければ、今夜は無事に終わる言葉を。

「今日、会えてよかった」と宮本は言った。

それは安全な言葉だった。安全だからこそ、胸が痛む。安全な言葉は、危険な核心を隠すための布になる。紗月も同じ布を手に取る。

「私も」と紗月は言い、続けてしまいそうになるのを堪えた。ありがとう。一緒にいたい。そういう言葉が喉の奥で渦を巻く。渦は声になりたがる。声になったら終わる気がする。終わりは別れではない。今のままではいられないという合図だ。

「じゃあ」と宮本が言った。

「うん」と紗月は言った。

別れ際に、宮本の手が少しだけ動いた。髪に触れそうで触れない。肩に置けそうで置かない。触れないまま戻る。その動作が、紗月には祈りのように見えた。祈りは叶わなくても続く。続けること自体が目的になる。恋もそうなってしまうのだろうか。

紗月は背中を向けて歩き出した。数歩進むと、足が止まりそうになる。振り返って、彼がまだそこにいることを確かめたい。確かめれば、今夜が少しだけ確かなものになる。でも確かなものは、次の確かさを欲しがる。次の確かさは未来を呼ぶ。未来を呼べば、関係に形がつく。形がつけば、壊れる日付が近づく。紗月は、その連鎖を知っている。知っているから、振り返らない。

歩きながら、ポケットの中のスマホが冷たくなっていくのがわかった。画面は暗い。暗いままの画面が、今の二人の状態に似ている。触れれば光る。光れば見える。見えたら、次に進まなければならない。進めるだろうか。進みたいのだろうか。紗月は自分に問いかけて、答えの出し方がわからないまま歩いた。

橋を渡ると、川面が黒く、街灯の点が細く揺れている。水は黙って流れ、流れながら同じ場所に留まっているようにも見える。紗月はその矛盾に、なぜか少し安心した。流れているのに留まっている。変わっているのに続いている。そういうものが、この街にはいくつもある。なら、二人もそうでいられるのかもしれない。そう考えてしまう自分が、また怖い。

部屋に着いて鍵を回したとき、背中に夜がまだ貼りついている気がした。玄関の灯りは白く、影が濃い。コートを脱ぐと、布の隙間から外気の冷えがこぼれ落ちていく。紗月は指先を見た。少し赤い。握り込んだせいだ。握り込む癖が、寒さのせいだけではなくなっている。

ベッドの端に座って、スマホを開く。宮本からの新しい通知はない。あるはずもないのに、期待していた自分がいる。期待は生活を乱す。乱れるのが嫌いなのに、乱れるほうへ手を伸ばす。紗月は自嘲したくなり、でも自嘲の言葉も出なかった。出るのはため息だけで、ため息は誰にも届かない。

画面に自分の顔がうっすら映った。目の下の疲れは消えていない。それでも、口元だけが少し柔らかい。会えたからだ。会えたから、明日をやり過ごせる。そういう構造に、いつから自分を組み込んだのだろう。気づいたときにはもう、外せないネジになっている。

紗月はメッセージの入力欄を開いた。文字を打つ。途中で止める。消す。打つ。消す。何度も繰り返すうちに、指先の熱だけが残る。言えない言葉の核心が、画面の下で呼吸している。一緒にいたい。けれどそれを言うなら、期限や形まで含めて言わなければならない。言う勇気がない。勇気がないなら、今を延ばすしかない。今を延ばせば、終わりも延びる。終わりが延びれば、痛みも延びる。紗月はその不毛を理解しながら、理解することしかできない。

最後に、短い文字だけを打った。

今日はありがとう。

送信ボタンの青さが、やけに明るく見えた。紗月は押さなかった。押したら、今夜が完結してしまう気がした。完結したら、次の夜を約束したくなる。約束したら、未来の形に触れてしまう。触れた瞬間に、何かが終わる。そう信じているのは、紗月自身なのに。

スマホを伏せ、部屋の暗さに目を慣らす。遠くで電車の音がかすかにした。終電ではない。始発でもない。ただ、どこかを走っている音だ。東京は眠らないと言われる。眠らないのは街ではなく、人の気持ちのほうだと紗月は思う。眠らない気持ちは、夜に居場所を探す。そして、終電後の飯田橋で、見つけてしまう。

紗月は布団に潜り、目を閉じた。閉じても、宮本の声が耳の奥に残る。会えてよかった。安全な言葉。安全な言葉で囲われた危険な中心。その中心に触れずにいられるのは、いつまでだろう。問いが浮かび、消えずに漂う。紗月は答えを探さず、ただ呼吸の回数を数えるようにして、夜の重さに身を任せた。任せたところで、明日が来る。明日が来れば、また終電後が来る。終電後が来れば、また彼に会う。その繰り返しが、いつか繰り返しではなくなる日がある。その日を考えると、胸の奥が冷える。冷えは、痛みよりも先に来る。痛みは、言葉よりも先に来る。

そして紗月は、まだ一度も口にしていない言葉を、胸の中だけで繰り返した。一緒にいたい。声にはしない。声にしたら、終わる気がするから。終わらせたくない。終わらせたくないと願うほど、終わりが輪郭を持つ。その矛盾の中で、紗月の夜は静かに膨らんでいった。

-完-

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