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デジタルアクター試論 25. 『ボヘミアン・ラプソディ』が示した「受け手の補完」

デジタルアクター試論 目次

1. 発想の出発点——肖像権を払ってCGで作るという可能性
2. 最初の突破口は誰が開けるか
3. ブルース・リーという最有力候補
4. アイコンと役柄のバランス問題
5. 完全オリジナルのCGキャラによるスターシステム
6. 契約のパーセンテージ化
7. 仮面ライダー1号という日本の特殊事例
8. ルパン三世・クレヨンしんちゃんとの対比
9. 違う人が本郷猛を演じても定着しなかった理由
10. 今の仮面ライダーがほぼCGという逆説
11. 一文字隼人と佐々木剛氏
12. 美空ひばりとの違い——役を演じるか否か
13. 性格の可変性という基準——ブルース・ウェイン、長谷川平蔵、車寅次郎
14. 「群像劇化」が原点を重くする逆説
15. 特撮主演というキャリアの賭け——村上弘明、長谷川初範、細川茂樹、オダギリジョー
16. 西島秀俊という稀有な存在——シン・ウルトラマンからBLACK SUNへ
17. 西島秀俊と木村拓哉——芸能人としての格と俳優としての評価
18. 30代・40代の本郷猛を描くという可能性
19. 総3Dアニメ化という選択肢
20. フランケンシュタインの被造物として
21. 唯一無二性を生んだ三つの偶然
22. 撮影現場の一体感、という最後の鍵
23. ブルース・ウェインとクラーク・ケント——比較対象の精緻化、そして本郷猛の特異性のまとめ
24. 最初のデジタル化に生じる微妙な変更
25. 『ボヘミアン・ラプソディ』が示した「受け手の補完」
26. マイケル・ジャクソンの伝記映画
27. 『ワイルド・スピード』のブライアン・オコナーと、ドミニクたちの老い
28. 乱用するプロデューサーへの懸念
29. 「コモディティ化」と「民主化」という言葉の歪み
30. 政治権力による技術の独占とプロパガンダ
31. ゲリラ的パロディというもう一つの危険
32. 結語

Queenに因む、クルマか単車、というと、「Crazy Little Thing Called Love」のMVに出てくるGL1000しか思い当たらない。


 CGではないが、『ボヘミアン・ラプソディ』で、ブライアン・メイ役はライブエイドの場面の実際の映像とのコンパリゾンに耐えるほどそっくりだったのに対し、フレディ・マーキュリー役は敢えてそっくりさんを連れてこなかった。受け手にその辺の補完をさせるというのも、リアリティを出すために逆に必要かもしれない。


 あの映画では、ブライアン・メイ(グウィリム・リー)やジョン・ディーコン(ジョセフ・マッゼロ)は「本人か」と目を疑うレベルで、ライブエイドの実際の映像と並べても脳がバグるほど形を合わせていた。

 それに対して、主演のラミ・マレックは、フレディのトレードマークである歯並びや動きのキレは凄まじく研究していたが、顔の骨格そのものはフレディ・マーキュリーとは明らかに違っていた。

 なぜ、フレディだけ「顔のそっくりさん」にしなかったのか。そこに、「受け手に補完させるリアリティ」の秘密がある。

 完璧な偽物は「間違い探し」を誘発する。もし、フレディに顔が100%そっくりの俳優を連れてきたり、彼の顔をCGやディープフェイクで完全にフレディそのものに偽造して映画を作っていたら、観客の脳は画面に彼が映るたびに「似ているかどうか」の間違い探し(検品モード)に入ってしまう。

 「あ、今の角度はちょっと違う」「まばたきの仕方が偽物っぽい」というノイズが走り、映画の物語に100%没入できなくなる。あえて「顔はラミ・マレックだけど、魂と動きは完全にフレディ」という絶妙な距離感(ギャップ)を残すことで、観客の脳は「このスクリーンに映っている男はフレディではない。しかし、今私は、彼を通して『フレディの魂の輝きと孤独』を観ているんだ」と作動する。

 この、観客側が自発的に「脳内でフレディの姿を重ね合わせて補完する」という能動的な参加があって初めて、映画のラストのライブエイドで、実物以上の「生々しいリアリティ(感動)」が完成したわけである。


 これを本郷猛や一文字隼人のデジタル化に置き換えると、もの凄く重要な教訓になる。もし、最初の1本で「1971年の藤岡弘、」を毛穴の1つまで100%完璧に再現したフルCGアクターをドーンと出してしまうと、観客は感動する前に「CGの出来栄えチェック」を始めてしまう。

 そうではなく、顔のビジュアルは8割程度の再現度に留め、声や佇まい、独特の「タメ」の方にエネルギーを注ぐ。劇中での「影の落とし方」や、変身ポーズの時の「カット割り」で、あえて観客に「見えない部分を想像させる余白」を作る。

 受け手が「そうそう、あの時の一文字隼人は、こういう鋭い目で笑うんだよな」と、自分の思い出や愛で最後の部分を補完してあげる余地を残しておくこと。これこそが、不気味の谷を跳び越えて、作品に「本物の血を通わせる」ための最大の演出技術なのかもしれない。


 テクノロジーが「何でも100%再現できる」時代だからこそ、クリエイターが「あえてどこを不完全に残し、観客の脳を信頼して委ねるか」という引き算の美学。『ボヘミアン・ラプソディ』が証明したその魔法は、未来のデジタル・ヒーローたちがスクリーンに帰ってくる時にも、絶対に欠かせない最高の教科書になりそうである。


前章 24. 最初のデジタル化に生じる微妙な変更

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