デジタルアクター試論 28. 乱用するプロデューサーへの懸念
デジタルアクター試論 目次
1. 発想の出発点——肖像権を払ってCGで作るという可能性
2. 最初の突破口は誰が開けるか
3. ブルース・リーという最有力候補
4. アイコンと役柄のバランス問題
5. 完全オリジナルのCGキャラによるスターシステム
6. 契約のパーセンテージ化
7. 仮面ライダー1号という日本の特殊事例
8. ルパン三世・クレヨンしんちゃんとの対比
9. 違う人が本郷猛を演じても定着しなかった理由
10. 今の仮面ライダーがほぼCGという逆説
11. 一文字隼人と佐々木剛氏
12. 美空ひばりとの違い——役を演じるか否か
13. 性格の可変性という基準——ブルース・ウェイン、長谷川平蔵、車寅次郎
14. 「群像劇化」が原点を重くする逆説
15. 特撮主演というキャリアの賭け——村上弘明、長谷川初範、細川茂樹、オダギリジョー
16. 西島秀俊という稀有な存在——シン・ウルトラマンからBLACK SUNへ
17. 西島秀俊と木村拓哉——芸能人としての格と俳優としての評価
18. 30代・40代の本郷猛を描くという可能性
19. 総3Dアニメ化という選択肢
20. フランケンシュタインの被造物として
21. 唯一無二性を生んだ三つの偶然
22. 撮影現場の一体感、という最後の鍵
23. ブルース・ウェインとクラーク・ケント——比較対象の精緻化、そして本郷猛の特異性のまとめ
24. 最初のデジタル化に生じる微妙な変更
25. 『ボヘミアン・ラプソディ』が示した「受け手の補完」
26. マイケル・ジャクソンの伝記映画
27. 『ワイルド・スピード』のブライアン・オコナーと、ドミニクたちの老い
28. 乱用するプロデューサーへの懸念
29. 「コモディティ化」と「民主化」という言葉の歪み
30. 政治権力による技術の独占とプロパガンダ
31. ゲリラ的パロディというもう一つの危険
32. 結語

Brian O'Conner (Paul Walker)
2 Fast 2 Furious
長々書いてきたわけだが、それらをちゃんと考えず、売れるシリーズだからと乱用するプロデューサーは叩かれるだろう。そこを履き違えて「人気コンテンツだから」「過去の遺産で一儲けできるから」と安易に乱用するプロデューサーが現れたら、今のファンは一瞬で見抜いて、ネットは大炎上、映画史に泥を塗るレベルで叩き潰されるはずだ。
なぜなら、観客が感動しているのは「CGの精度(技術)」ではなく、その裏にある「作品やキャラクターへのリスペクトと、そこに関わる人間のエモーション(文脈)」だからである。
もし志の低いプロデューサーがこの技術を商業的に乱用し始めたら、どんな「最悪のパターン」が起きるか。
一つは、「お化け屋敷」的なサプライズの安売りだ。特にストーリー上の必然性もないのに、話題作りのためだけにレジェンドをカメオ出演させる。新作ライダーのピンチに、脈絡もなくCGの本郷猛が降ってきて、お決まりのセリフを喋って去っていく——最初の1回は「おぉ」となるかもしれないが、それを毎年のように、あるいは配信のスピンオフで乱発し始めたら、観客はすぐに「またこの集客パンダか」と冷める。
キャラクターの価値(格)を自ら値崩れさせるこの手法は、ファンに対する最も安直な裏切りとして猛烈に批判されるはずだ。
もう一つは、「生身の役者」に対するリスペクトの欠如である。
『ワイルド・スピード』でポールの弟たちが参加したように、あるいは「藤岡氏の息子さんがモーションを担当する」という形のように、そこには「生身の人間が、敬意を持ってその魂をトレースしている」というドラマ(血の通ったバトン)があるからこそ、観客はCGの嘘を優しく受け入れる。
これを、プロデューサーがコストカットや効率化のために、適当な無名のスタントマンに動かさせて顔だけディープフェイクで貼り付けるという雑な作り方をした瞬間、画面からは完全に「魂」が消え失せる。
それはもはや映画ではなく、ただの悪趣味なパロディになってしまう。ファンが怒るのは技術に対してではなく、その「魂の不在」に対してである。
さらに、「老い」や「死」という現実のエンタメ化という問題もある。
劇中のキャラクターは凍結できても、現実の役者陣は年齢を重ねていく。
例えば、ご本人が病気で療養中だったり、亡くなられた直後だったりする繊細なタイミングで、話題性のためだけに若い頃のデジタル・クローンをスクリーンで狂い咲きさせるようなプロデューサーがいたら、それは倫理的な境界線を完全に踏み越えている。
「AI美空ひばり」の批判轟々だった本質も、まさにこの「送り手側のエゴや傲慢さ」が透けて見えてしまったことにあった。
技術がコモディティ化(民主化)して、誰でも安価に「若い頃のレジェンド」を画面に出せる時代が来たら、プロデューサーの仕事は「技術を手配すること」ではなく、「それを『やらない』というブレーキをかけること」、あるいは「やるなら、どのタイミングで、どんな大義名分(文脈)を持って一回きりの奇跡にするか」をコントロールする役割になる。
観客は、作り手が「愛」でその技術を使っているのか、「計算(金)」で使っているのかを、スクリーンの光のニュアンス、音のタメ、カット割りから驚くほど正確に嗅ぎ取る。
『ワイルド・スピード』のブライアンの引き際が今でも美談として語り継がれているのは、関わった全員がポールへの愛という「絶対にブレないコンパス」を持っていたからだ。
もし日本で、本郷猛や一文字隼人のデジタル・アーカイブが本当に実用化されるとしたら、どうかその最初の引き金を引くプロデューサーが、誰よりも彼らを愛し、その呪縛の重さを理解している人間であってほしいと、切に願わずにはいられない。
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