『僕らの未熟な蒼』第1章
あなたにとって、初恋とはなんですか。
好きだと言えた恋のことですか?それとも、言えないまま終わった、あの頃のことですか?
僕は後者の方が、初恋らしいと思っています。
言葉にした瞬間に何かが変わってしまうのが怖くて、何も言えなかった、あの不格好な日々。誰かの笑顔を遠くから見ているだけで十分だと自分に言い聞かせながら、本当は全然十分じゃなかった、あの感じ。
この小説は、そういう話です。臆病な男女のすれ違いの淡く切ない記録。
今回は第一章まで公開します。感想をいただけたら嬉しいです。
あらすじ
幼馴染でも、恋人同士でもなかった。ただ、中学時代に隣の席に座っていただけの二人。
化粧品メーカーの宣伝部に勤める瀬戸悠真は、四年間付き合った恋人・奈緒との穏やかな生活を送りながら、心のどこかに埋めきれない空白を感じていた。その空白の正体は、中学時代に机の下の暗がりで笑いかけてくれた少女、佐伯凪紗だった。
十三年の時を経て、同じ会議室で再会した二人。お互いへの気持ちを抱えたまま、言葉にできずにすれ違い続けた青春の日々が、今もまだ終わっていなかった。
不器用な二人が、やっと言葉にするまでの物語。
プロローグ:残り香
東京は、僕が思っていたよりもずっと広く、そして驚くほど狭い場所だった。
あの日、新幹線でこの街を目指した僕は、過去のすべてを置いてきたつもりでいた。喉まで出かかって飲み込んだ言葉も、すれ違い続けたあの廊下の空気も。
数時間で着いてしまうこの距離を、当時の僕はもう二度と戻らない決意で飛び越えた。人並みに器用に過ごしてきたつもりだったけれど、あの初恋だけは、どうしても自分の中で整理がつかないまま、心の隅に残り続けていた。
人混みの中でふと足を止めるたび、僕は今でもあの頃の匂いを探している自分に気づく。
これは、誰とでも笑い合えたはずの僕が、たった一人の少女を前にしてだけ、どうしても自分らしくいられなかったあの日々をやり直すための物語。
今度は目を逸らさない。今度は、無視なんてしない。
そんな決意を胸に、僕はあの日々を振り返る。
すべては、あの二年生の春――。僕たちの境界線が引かれた、あの日から始まったんだ。
第1章 落とし物の距離
1
僕はずっと、あの時の彼女を追っていた。
二月半ば。都会のビル風は、高層ビルの狭間で研がれたナイフのように肌を刺す。
地下鉄の階段を一段ずつ上り、銀座の地上へと這い上がると、そこには凍てつく寒さをなぎ倒すような、眩いばかりの光の奔流があった。街路樹のイルミネーションが、行き交う人々の冬の装いを華やかに縁取り、ショーウィンドウに飾られた春の先取りを告げる新作たちが、贅沢な温もりを放っている。週末の銀座は、どこか浮き足立った、特有の芳醇な熱を帯びているように見えた。
今日は奈緒の、二十六歳の誕生日だ。
この日のために、僕は数週間前から手帳のスケジュールを緻密に組み替えてきた。大きなプロジェクトの山場を無理やり数日前にずらし、不測の事態に備えたバッファも確保した。
定時より三十分早く、整然と片付いたデスクの電源を落とす。隣の席の後輩が、パッキングを終えた僕を見て
「お疲れ様です、瀬戸さん。デート、楽しんできてくださいね」
と茶目っ気たっぷりに声をかけてきた。
「ああ、ありがとう。失礼するよ」
そう応えてオフィスを出る際、僕は自分の口角が自然に上がっているのを自覚した。それは、一人の女性を喜ばせる準備を完璧に整えた男としての、誇らしいような、どこか「有能な自分」を再確認したときのような、心地よい充足感だった。
奈緒とは、共通の知人が設定した食事会で知り合ってから、四年の月日が流れていた。
彼女は、僕がふとした瞬間に見せる上の空な視線や、会話の端々に混じる微かな曖昧さを、すべて「思慮深さ」や「大人の落ち着き」として肯定的に解釈してくれる人だった。
「悠真って、ときどき遠くを見てるけど、きっといろんなことを深く考えてるのね」
そう言って微笑む彼女の隣にいると、僕は自分でも驚くほど、穏やかで誠実な、一人の完成された男として振る舞うことができた。
三年前、結婚という二文字を意識し始めたとき、僕たちはこの街へのアクセスが良いエリアに、二人には少し広すぎるマンションを借りた。週末にはこだわりのキッチンで一緒にパスタを茹で、年に一度の彼女の誕生日は、少し背伸びをした、ドレスコードのある店で祝う。それが僕たちが丁寧に積み上げてきた、静かで確実な歩みそのものだった。
情熱という言葉で語るにはあまりに平穏で、けれど、誰の目から見ても「幸福」と呼ぶに相応しい関係。僕は自分の人生が、これ以上ないほど穏やかな凪の中に停滞していることを、深く、そして疑いようもなく心地よく感じていた。
銀座四丁目の交差点。三越のライオン像の前で、奈緒は僕が去年の冬に贈ったキャメルのカシミアコートに身を包んで立っていた。人混みの中でも、彼女の背筋の伸びた立ち姿はすぐにそれと分かった。
「お待たせ、悠真。仕事、大丈夫だった?」
僕を見つけた瞬間に、彼女の瞳がパッと明るく灯る。
「まあ、なんとかなったよ。行こうか。予約の時間、ちょうどいいし」
僕は隣を歩く彼女の手をとり、当然のような滑らかさで自分のコートの大きなポケットの中へ引き入れた。
奈緒は視線を落としたまま、ポケットの中で僕の手のひらをそっと探るように握り返してくる。かじかんだ指先が、僕の体温に触れて少しずつ弛んでいくのが伝わった。
その慣れ親しんだ感触。柔らかい皮膚の温度。
それは僕の日常を構成する、最も安定したピースの一つだった。
並木通りへと続く石畳を歩きながら、僕は隣を歩く彼女の横顔を眺めた。今日のために整えられたであろう髪の艶も、控えめだが上品なピアスの輝きも、すべてが僕たちの築き上げてきた「今の生活」を美しく彩っている。
僕は、今の僕が手に入れたこの風景に、何の不足もないはずだと確信していた。
2
予約していたフレンチレストランは、銀座の喧騒を一本裏へ逃れた、並木通りの静寂に溶け込むように佇んでいた。
磨き抜かれた真鍮の取っ手に手をかけ、重厚なオーク材の扉を押し開ける。その瞬間、都会の乾いた風や車の走行音は魔法のように遮断され、代わりに柔らかい暖気と、上質なバターやハーブが混じり合った芳醇な香りが僕たちを包み込んだ。
控えめな照明が、職人の手で丹念に磨き上げられた銀のカトラリーに反射し、リネンのテーブルクロスの上で小さな火花のように踊っている。案内された窓際の席には、薄いクリスタルのグラスが宝石のような透明度を保って並んでいた。
「……素敵。悠真、予約大変だったんじゃない?」
椅子を引かれ、腰を下ろした奈緒が、期待に胸を膨らませた少女のような表情で僕を見つめる。キャンドルの揺れる炎が彼女の瞳に映り込み、その輝きをより深いものにしていた。
「奈緒の誕生日だからね。ここはジビエの扱いが都内でも指折りなんだ。この季節にしか味わえないものがあるから、どうしても君と来たかったんだよ」
自分の声が、洗練された空間に相応しい落ち着きを帯びていることに、僕は密かな満足感を覚えていた。
コースが始まると、一皿一皿がまるで計算し尽くされた舞台装置のように運ばれてきた。
最初のアミューズは、春の予感を感じさせる繊細なムース。続いて、黒トリュフの断面が美しい、大地の湿り気をそのまま封じ込めたような芳醇なスープが運ばれてくる。スプーンを口に運ぶたび、濃厚な香りが鼻腔を抜け、胃の腑をゆっくりと温めていく。
メインの子羊のローストは、ナイフを当てるのがためらわれるほど美しい薔薇色をしていた。低温でじっくりと、気の遠くなるような時間をかけて火を通された肉は、口に含んだ瞬間に解け、ソムリエが選んだ重厚な赤ワインの渋みと完璧な調和を見せる。
奈緒は、本当に幸せそうだった。
彼女は職場の人間関係の機微や、不透明な将来への不安といった、日常のノイズを一切テーブルに持ち込まなかった。ただ「今、この瞬間のソースがどれほど深いか」「ワインの余韻がどれほど長く続くか」を、慈しむように言葉にする。
ワインで微かに上気した彼女の頬、フォークを運ぶ丁寧な指先、そして時折僕に向けて投げかけられる、全幅の信頼を寄せた微笑み。それらすべてが、完成された一枚の宗教画のように一点の曇りもなく、この上なく平穏だった。
メインディッシュが下げられ、テーブルの上のパン屑が小さなブラシで鮮やかに片付けられていく。その淀みのない、音も立てない所作を眺めながら、僕は最後の一口の赤ワインをゆっくりと喉に流し込んだ。
奈緒は、デザートを待つ間に、最近通い始めたというフラワーアレンジメントの話をしていた。
「それでね、先生が言うには、あえて一輪だけ枯れかけたものを混ぜるのが今のトレンドなんだって。不完全な美しさ、みたいな。面白いと思わない?」
「へえ、深いね。あえて完成させないっていうのが、逆に贅沢なのかもしれないよね」
僕は適度な熱量で相槌を打つ。キャンドルの光に透ける彼女の肌はどこまでも滑らかで、その声のトーンは、この部屋の湿度や空調の温度と同じように、僕を深くリラックスさせた。
こうして穏やかに言葉を交わし、相手の機微をそれとなく察しながら、静かな夜を過ごす。四年という月日をかけて、僕たちはそんな心地よい習慣を少しずつ積み上げてきた。それは、今の僕の生活を形作る、最も穏やかで、揺るぎのない土台だった。
二十代のすべてを費やして、必死に手を伸ばしてようやく辿り着いた、何の不安もないこの風景。
美味しい料理の余韻と、目の前で楽しげに笑う恋人。
運ばれてくるデザートの甘い香りが、今夜という穏やかな祝祭を締めくくる、心地よい合図のように聞こえていた。
3
それは、幸福の絶頂に訪れた、あまりに不吉な空白だった。
ウェイターがデザートを運んでくる気配を感じ、僕はナプキンを膝の上で整え直した。今夜のコースを締めくくる、甘美なフィナーレ。奈緒との四年間を祝福するような、非の打ち所がない夜が、今まさに完成しようとしていた。
その平穏を破ったのは、隣のテーブルで会計を済ませていた、上品な老夫婦だった。
夫人が立ち上がり際にバッグの口を開け、そこからハンカチを取り出そうとした、その一瞬。手元から滑り落ちた小さなポーチが、厚手のカーペットの上に重たい音を立てて着地した。中から、いくつかの小物が床に散らばる。
近くにいた店員が気づくより、一瞬早かった。
僕は反射的に、椅子から滑り落ちるように身を屈めていた。
重厚なテーブルクロスの裾が僕の動きに合わせて揺れ、足元に一瞬だけ暗い影を作る。その影の淵、僕の靴のすぐそばに、一本の、高級そうな万年筆が転がっていた。
深い漆黒の軸に、鈍く光る金色のクリップ。それはこの店の空気に完璧に調和した、洗練された大人の持ち物だった。
けれど、それを指先で拾い上げ、手渡すために顔の近くまで持ち上げた。
それは、どこかで見た景色。あるいは、デジャブかもしれない。僕の脳が急に過去の記憶にアクセスし、ガラスの破片を皮膚に刺すかのような暴力的で残酷な思い出を呼び覚ました。その瞬間、僕の意識は銀座のレストランから一気に引き剥がされた。
ドクン、と心臓が跳ねる。
全身の血が逆流し、視界の端々がチリチリと焼け焦げるような感覚。
目の前にあるはずの、磨き上げられたカトラリーも、キャンドルの炎に縁取られた奈緒の柔らかな肌の色も、すべてがセピア色の砂嵐の中に消えていく。
代わりに、まだ大人になりきれてなかった僕が通った中学校の校舎が脳裏に浮かぶ。
(……なんで今……)
心の奥までザラつかせてくる、あの頃の記憶。
顔を上げると、拾い上げた万年筆を僕の掌から受け取ろうとした夫人が、驚いたように、あるいは心配そうに僕を見つめていた。
けれど、僕の網膜が捉えていたのは、目の前の見知らぬ婦人ではなかった。
低く垂れ込めた六月の雨雲。
机の下から僕を覗き込み、真っ直ぐに僕の目を見て、その唇を動かした少女。
「はい、瀬戸。落としたよ」
耳の奥で、あの透明な声が再生される。
この四年間の安定した生活の下に、これ以上ないほど深く沈めてきたはずの記憶の澱。それが、たった一本の万年筆を拾うという動作だけで、泥水のように激しく撹拌されていく。
あの日、彼女の指先に触れた時の、あの柔らかな指の腹の感触。
受け取った消しゴムに残っていた、吸い付くような彼女の体温。
今、僕の手の中にある万年筆の硬質な冷たさが、逆説的に、あの日握りしめた消しゴムの熱を呪いのように再現し始めていた。
「悠真? どうしたの、顔色が悪いわよ。大丈夫?」
奈緒の声が、まるで深い水の底から聞こえてくるような、頼りない真空状態の向こう側から響く。
僕は震える指先で、夫人に万年筆を返した。
「……いや、なんでもない。ちょっと、立ちくらみがしただけだ」
自分でも驚くほど冷めた、けれどどこか空虚な声で答え、僕は椅子に座り直した。
四年という月日をかけて積み上げてきた、淀みのない会話。奈緒という穏やかな女性との、未来が約束された幸福な日常。
それらすべてが、この一瞬の出来事ひとつで、今や借り物の上着のように自分に馴染まないものへと変貌していた。最高級の赤ワインの余韻は、すでに口の中で砂のような無味に変わっている。
僕は、彼女を愛し、彼女との未来を信じているつもりだった。
けれど、本当は…。
僕はあの、湿った風が吹き込む六月の教室に、僕を真っ直ぐに見つめた「彼女」の眼差しの中に、僕の心も、魂も、すべてを置き去りにしていたのだ。
悠真、と呼ぶ奈緒の声が、もう僕の心に届かない。
僕の意識は、銀座のレストランを遠く離れ、雨の気配に満ちたあの「始まり」の場所へと引き戻されていく。
あの日も、そうだった。
すべては、僕が落としたものを彼女が拾ってくれたところから、始まったんだ――。
4
あの日、僕は君の姿を追っていた。
中学一年の六月。その教室の空気は、湿った重いカーテンのように僕たちにまとわりついていた。
窓の外では、終わりの見えない梅雨が街を灰色に塗り潰している。古い木製の机は湿気を吸って、腕を置くとじっとりと吸い付くような不快な重みがあった。黒板を滑るチョークの乾いた音も、教師の単調な声も、今の僕にとっては意識の対岸で鳴り続ける異国の言語のように遠い。
瀬戸悠真。それが僕の名前だ。
僕は、自分のことをそれなりに「できる人間」だと思っていた。勉強でもスポーツでも、周囲が何を期待しているかを察し、それ以上の結果をさらりと見せてやる。難しい課題をスマートにこなし、誰からも一目置かれる立ち位置を確保する。それが僕という少年の、無意識の、けれど確固たる生存戦略だった。
けれど、右隣の席から不意に漂ってくる、微かな石鹸のような香りが、僕のそんな「完璧な計算」を根底から狂わせていた。

視線の端。そこにはポニーテールにまとめた彼女の横顔がある。佐伯凪紗。
凪紗は、クラスのどの女子とも違う空気を纏っていた。シンクロの練習で陽の光を浴び続けているせいか、彼女の肌は深い小麦色に美しく焼けている。彫りの深い目元と、すっと通った鼻筋。純日本人離れした、どこかインドの美神を思わせるようなエキゾチックな顔立ちは、湿った六月の教室の中で、そこだけ別の国の鮮やかな風が吹いているような錯覚を僕に抱かせた。
彼女は頬杖をつき、窓の外のどんよりとした空を、まるで飽きることのない映画でも観るように見つめていた。時折、思い出したようにノートへペンを走らせる。カリカリ、というリズミカルなペン先の音が、静まり返った教室に小さな穴を開けていく。その音が刻まれるたびに、僕の胸の奥にある心臓は、壊れたドラムのように激しく、不規則なビートを打ち鳴らした。
声をかければいい。そんなことは、教科書の公式を解くよりずっと簡単に見えるはずだった。
「おはよう」
「次の授業、なんだっけ」
たったそれだけの言葉が、底の見えない崖を飛び越えるよりも難しかった。
もし、変な空気になったら。もし、社交辞令のような愛想笑いだけで返されたら。もし、僕という存在が彼女にとって「名前を知っているだけの隣人」だと確定してしまったら。
臆病だった。失敗という傷を恐れるあまり、僕はいつも「沈黙」という名の、安全で冷たいシェルターへと逃げ込んでしまう。
(一回だけでいい。一瞬でいい。彼女の意識を、僕に向けたい)
その歪な衝動に突き動かされ、僕は震える指で筆箱に手を伸ばした。
指先に当たったのは、何の変哲もない白い消しゴムだ。少し角が取れている、真新しいプラスチックの塊。それを手に取り、机の端へとじりじりと、慎重に追い詰めていく。
何度も指を止め、ためらい、肺が痛くなるほど深く呼吸をした。
そして、わざとらしく、けれど「不慮の事故」に見えるように、指先でその白い塊を押し出した。
コロン。
乾いた音が、湿った教室の空気を震わせた。
消しゴムは緩やかな放物線を描き、彼女の足元へと転がっていった。
瞬間、頭に血が上るのが分かった。僕は慌てて、開いてもいない英語の教科書に目を落とした。無機質なアルファベットがチカチカと躍り、一単語も頭に入ってこない。
数秒の沈黙。それは、宇宙の誕生から終焉までを定点観測しているような、気が遠くなるほど長い時間だった。
やがて、カサッと制服が擦れる音がした。
彼女が、身を屈めた。
視界の下から、陽の光を吸い込んだような褐色の指先が僕の机の上に滑り込んでくる。
「はい、瀬戸。落としたよ」
その声は、梅雨の濁った空気を一瞬で晴らすような、透明な響きを持っていた。
下から僕を覗き込む彼女の顔が、そこにあった。潤んだ大きな瞳と、褐色の肌に映える白い歯。惹き込まれるようなその独特な美しさに、僕は息をすることさえ忘れて、差し出された消しゴムを凝視するしかなかった。
僕はそれを受け取ろうとして、指を伸ばした。
その時、ほんの一瞬。
僕の指先が、彼女の柔らかな指の腹に触れた。
柔らかい。
その感覚を捉えた瞬間、パッと静電気のような刺激が全身を駆け抜け、思考が真っ白に塗り潰される。
恐る恐る顔を上げると、彼女はいたずらっぽく目を細め、にっこりと笑っていた。まるで、僕の胸の内にある臆病な策略を、すべて慈しむかのような、優しくて残酷な笑顔。
「……あっ、ありがと」
僕の声は、自分でも驚くほど情けなく裏返った。
彼女は「ふふっ」と短く笑うと、何事もなかったかのように再び前を向き、ノートを取り始めた。
戻ってきた消しゴムを握りしめると、凪紗の指先が触れていたその場所が、妙に熱を帯びているような錯覚に陥った。ただの消しゴムなのに、凪紗の指が触れたというだけで、それはもう僕にとって特別な意味を持つ物体に変わっていた。
右指に残る柔らかな感触と、淡い石鹸の香り。それが心臓の奥深くに、消えない残像のように焼き付いていた。
それからの日々は、僕にとって「いかにして自然に、かつ確実に落とし物を拾ってもらうか」という、滑稽で切実なミッションの毎日となった。
消しゴムを指先で弾くのは、もうだめだ。わざとらしい。
僕はバリエーションを増やした。腕を大きく動かして、肘の端で教科書ごと床へ滑り落とさせたり、ページをめくるふりをして筆箱を押し出してみたりした。時には自分も拾おうとする素振りを見せながら、机の下の狭い暗がりで、彼女と顔を合わせるあの一瞬を待った。頭上では先生の単調な声が響いているけれど、机の下の暗がりだけは、僕と凪紗の吐息しか聞こえない完全な二人だけの世界。ーーそう思わせるような、確信犯的な笑顔で何度も僕に道具を返してくれた。
コツン、と床を叩く乾いた音。
彼女は、一度も嫌な顔をしなかった。それどころか、僕が謝る言葉を探している間に、もう彼女の指先は床に落ちた白い塊を捉えている。
「はい」
短く、澄んだ声。差し出されたそれを受け取る時、僕の指先が彼女の柔らかな肌に触れる。顔を上げると、そこにはいつも、陽だまりのような凪紗の笑顔があった。呆れるでもなく、不思議がるでもなく。ただ、当然のことのように僕の落とし物を拾い、花が綻ぶように「にこっ」と笑ってくれるのだ。
その笑顔を見るたびに、僕の心臓はうるさいほど跳ねた。自分の不器用な作戦が、とっくにバレているのではないか。そんな自意識過剰な期待が、甘い熱となって身体を駆け巡る。
日常の接点は、授業中だけではなかった。僕たちは図書委員の係が一緒だった。
放課後の図書室。部活動に励む生徒たちの声が遠くから聞こえてくる中、僕と彼女は静まり返った書庫で、返却された本を棚に戻す作業をしていた。
窓が少なく、外の喧騒が遮断された書庫には、古い紙の匂いと、微かな石鹸の香りが沈殿していた。僕は背表紙の並びを揃えながら、数メートル先で背伸びをして高い棚に本を戻そうとしている凪紗の背中を、盗み見るように追っていた。ポニーテールが揺れ、制服のブラウスの肩がピンと張る。その何気ない動作のひとつひとつが、僕の脳内のアルバムに一枚ずつ、鮮烈な解像度で保存されていく。
「瀬戸」
不意に呼ばれ、僕は飛び上がりそうになる。彼女は高い棚に指をかけたまま、振り返って僕を見た。夕闇が迫る書庫の中で、彼女の褐色の肌はしっとりと艶を帯び、その瞳の輝きがいっそう増して見えた。
「ここ、届かないんだけど。……お願いしてもいい?」
「あ……。うん、いいよ」
僕は彼女の隣に立ち、本を受け取った。一瞬だけ、彼女の体温が移った重み。腕を伸ばして本を差し込む間、凪紗の視線をすぐそばに感じる。彼女のまつ毛の長さや、耳たぶの形まで見えてしまいそうで、僕はまともに呼吸ができなくなった。
「ありがとう。やっぱり瀬戸は、背が高いね」
棚の奥に本を差し込んだ僕の横顔を覗き込むようにして、凪紗は言った。不意に顔を寄せられ、肺の空気がすべて抜けていくような感覚に陥る。
勉強もスポーツも、僕は人より少しだけ器用にこなせた。けれど、こうして彼女に真正面から「自分自身」を肯定されると、どう振る舞えばいいのか全く分からなくなる。
「……別に。普通だよ」
僕は視線を棚の背表紙に戻し、そっけなく答えた。本当は、心臓が耳元で鳴るほどうるさいのに。自分を褒めてくれる彼女のまっすぐな言葉をどう受け止めていいか分からず、僕はまた無愛想な仮面の裏側へ逃げ込んでしまう。
「佐伯こそ、シンクロの練習、大変じゃないの?」
自分の照れを隠すように、僕は彼女の話題へと強引に舵を切った。凪紗は少し驚いたように目を丸くし、それから少しだけはにかむように笑った。
「知ってたんだ。うん、大変……」
彼女はそう短く答えると、窓から差し込む夕暮れの光を静かに見つめた。
水の中で演技。それは僕には想像もできない世界だ。陸の上で、隣に座る女の子にまともに話しかけることすらできない僕にとって、彼女は、僕の知らない深い青の世界を優雅に泳ぐ、人魚のように見えた。
伝えたい言葉は、喉の奥まで出かかっている。
けれど、誰かが図書室の扉を開ける音や、廊下を走る足音が聞こえるたびに、僕は「ああ、助かった」とどこかで安堵してしまう。「好きだ」と伝えるリスクを背負うよりも、今のまま、消しゴムを落とし、図書室で静かな時間を共有し、彼女の笑顔を独り占めしていられる「今の距離」に甘えていた。
それが僕の、最初の「逃げ」だったのかもしれない。
5
一学期の終盤、放課後の校舎は、特有の物悲しさと熱を孕んでいた。
僕と隼人は、部活動の喧騒が遠く響く中、誰もいないはずの一階の教室へと忍び込んだ。窓の外からは、野球部が放つ金属バットの鋭い快音と、砂を蹴る乾いた声が、夕暮れの重たい空気に乗って断続的に届いてくる。
オレンジ色の西日が、埃の舞う教室を斜めに切り裂き、僕たちの影を長く、歪に壁へと投影していた。
「……おい、ここだよな。佐伯の席」
隼人が、少し声を潜めて言った。隼人にとっても、凪紗は学年で何人か気になる女子の一人だった。僕のように人生のすべてを懸けてしまうような執着ではないにせよ、あの健康的な小麦色の肌と、どこか異国の風を感じさせる佇まいは、思春期の男子にとって抗いがたい引力を持っていた。
隼人がおもむろに凪紗の机の引き出しに手を突っ込み、クリーム色のリコーダーのケースを引き抜いた。
「やめろよ、隼人。誰か来たらどうすんだよ」
僕は入口を気にしながら、小声で制した。心臓が早鐘を打っている。それは見つかることへの恐怖以上に、彼女の「性の断片」に触れてしまうことへの、背徳的な期待と忌避感が混ざり合った震えだった。
「いいじゃん、ちょっとだけだって。」
隼人は笑いながら、ケースから本体を取り出した。
窓からの光を反射するプラスチック。その吹き口には、ついさっきまで彼女が授業で口にしていた、微かな名残があるような気がした。
隼人の目は、真剣だった。彼なりに、凪紗という眩しい存在に、物理的な距離を超えて触れてみたいという、愚かで純粋な欲望に突き動かされていた。
隼人は、ためらうことなく、その吹き口を自分の唇に寄せた。
一瞬、外の野球部の掛け声が止まったような錯覚に陥る。
隼人は、彼女の呼気の跡を確かめるように、ゆっくりとリコーダーを吹いた。
僕はそれを、ただ立ち尽くして見ていた。
嫌悪感。それと同じくらい、暴力的なまでの嫉妬が僕を貫いた。
僕は毎日、消しゴムひとつ落とすのに命を削るような思いをして、ようやく彼女の指先に触れられるかどうかという「数センチ」を彷徨っていた。
なのに、隼人は今、その境界線を軽々と踏み越え、僕が一生かかっても到達できないような聖域に触れている。
「……ゆーくん、お前もやるか?」
隼人が顔を上げ、濡れたリコーダーを僕に突き出した。
その顔に悪意はなかった。ただ、秘密を共有する戦友に向けるような、共犯者の笑み。
僕はそれを、受け取ることができなかった。
触れたい。今すぐ奪い取って、彼女の温度を確かめたい。
けれど、それをした瞬間に、僕の中で作り上げた「気高き人魚」としての凪紗が壊れてしまう気がした。いや、本当は、彼女をそんなふうに扱ってしまった自分自身を、その後一生背負い続ける勇気がなかったのだ。
「……バカかお前。それやったら俺、お前と間接キスになっちゃうじゃねーか。」
僕はあえて呆れたような顔をして、ニヤッとしてみせた。いつもの、おちゃらけた「余裕のある自分」を必死に演じる。そうでもしないと、奪い取ってしまいたい衝動を抑え込めそうになかったからだ。
「なんだよ、ノリ悪いな」
隼人は「つまんねーの」と言った感じで肩をすくめ、丁寧にリコーダーをケースに収めると、何事もなかったかのように彼女の机に戻した。
教室を出る間際、僕は一瞬だけ彼女の机を振り返った。
そこには、さっきまでと変わらない静かな木製の机があるだけだ。
けれど、僕たちの間には、決して埋めることのできない「決定的で残酷な溝」ができていた。
欲望に忠実になれる隼人と、理想という名の檻に閉じこもって逃げ続ける僕。
この不格好な「逃げ癖」が、数年後の明治通りで、最悪の形で僕を打ちのめすことになる。
6
後期学級委員の選出。
学級会特有の、あの気だるい沈黙が教室を支配していた。 クラスでも上位の成績を収め、周囲とも上手くやっているつもりの僕は、クラスメイトたちから「悠真がいいんじゃない」という、半ば信頼と、半ば期待が混じった推薦を受けた。
断る理由も、あえて波風を立てる必要もない。僕は
「まじかよ」
なんていいながらその役職を引き受け、なかば全会一致のような形で学級委員長に選ばれた。驚いたのは、その直後だ。 副委員長の立候補を募る声が教室に響いたとき、凪紗が静かに右手を挙げたのだ。
「佐伯さん……。じゃあ、副委員長は佐伯さんで決定ね」
教壇の担任の声が、遠くの波音のように聞こえた。 一瞬、脳内を甘い期待が駆け巡りそうになった。凪紗が立候補したのは、僕が委員長になったからではないか。彼女も僕と一緒に過ごす時間を望んでいるのではないか。
けれど、僕はすぐにその思い違いをやめた。自分に都合のいい解釈をして、後で勝手に傷つくのが怖かったのだ。 凪紗は単に、自分を成長させるために委員をやりたかっただけだ。あるいは、水泳部(シンクロ)以外の場所でも、何か役割を持ちたかっただけだ。そう自分に言い聞かせた。彼女の本当の動機がどこにあったのか、僕は結局、最後まで訊くことができなかった。
しかし、理由はどうあれ、僕たちは今までとは比べものにならないほど、同じ時間を共有することになった。
放課後の薄暗い教室で、行事の企画書を練る。 学年主任の厳しい説教を、二人並んで廊下で受ける。 集めたプリントの束を、重たそうに抱える彼女の横を歩く。重荷を背負ってもなお、彼女の背筋は真っ直ぐで、その歩き方はどこまでも綺麗だった。
凪紗と過ごす一分一秒は、僕にとって奇跡のような時間だったはずなのに、記憶の中の僕はいつも、苦虫を噛み潰したような顔をして黙り込んでいる。 隼人のように気の利いたジョークを言うことも、ちょっとした悪ふざけをして彼女を笑わせることもできなかった。
「瀬戸、これどう思う?」
「……別に、いいんじゃない。それで」
そんな、会話を終わらせるような最低の返答ばかりを繰り返した。 心の中では、もっと別の、鮮やかな言葉たちが溢れそうになっていた。
(今日のポニーテール、似合ってるじゃん)
(昨日の練習、遅くまでやってたでしょ。無理すんなよ)
(委員、一緒にやれてよかったよ)
それらの言葉はすべて、喉の奥にこびりついたまま、一度も日の目を見ることはなかった。 彼女の褐色の肌が夕陽に照らされて輝くたび、僕はその眩しさに耐えられず、視線を書類へと逃がした。僕が有能な学級委員として振る舞えば振る舞うほど、僕たちの間に流れる空気は事務的で、味気ないものに変わっていった。
「瀬戸って、本当に真面目だね」
ある日の帰り際、鞄を肩にかけた凪紗が、ぽつりとそう漏らしたことがあった。 彼女の瞳には、尊敬とも、あるいは少しの寂寥とも取れる光が宿っていた。もしあの時、僕が「でしょ」とおどけて笑い飛ばせていたら。もし「君の前だと緊張しちゃうんだ」と、情けなくても本当のことを言えていたら。
結局、僕は最後まで「まじめな委員長」を演じ続け、彼女との心の距離を縮めることから逃げ続けた。 もっとふざけたかった。もっと下らないことで笑い合いたかった。 その後悔は、大人になり、どれだけ「上手く」仕事をこなせるようになっても、消えない澱のように僕の心の底に沈殿し続けている。
中学一年の終わり。僕たちは「学級委員」という、他人から見れば最も近しい距離にいながら、その実、心の芯には一度も触れられないまま季節を終えようとしていた。
それは、二学期の終わりも近い、ある放課後のことだった。
僕は、学級委員の仕事で使うプリントを取りに、一人で職員室へ向かっていた。誰もいない静かな廊下を歩いていると、曲がり角の向こう、階段の踊り場あたりから、女子数人の楽しげな話し声が聞こえてきた。
その中に、聞き慣れた、けれどいつも僕に向けるものよりずっと弾んだ声が混じっていることに気づき、僕は思わず足を止めた。凪紗だ。
「……だからさ、ゆーくんがね、」
不意に、彼女の口から零れたその響きに、僕は危うく持っていた書類を落としそうになった。
「ゆーくん」――。 それは、僕の少年時代からのあだ名だった。 隼人や、小学校からの友人たちは当たり前のようにそう呼ぶけれど、凪紗は、あの消しゴムの半年間も、一度だって僕をそう呼んだことはなかった。彼女の前で、僕は常に「瀬戸」であり、彼女は「佐伯」だった。
(今、僕のこと、そう呼んだのか……?)
壁の陰に隠れるようにして、僕は息を殺した。 彼女は友達に僕の話をしている。それも、僕の前では決して見せない、親密さを孕んだ呼び名で。 彼女の心の中に、僕専用の、誰にも見せない温かな居場所があることを知ってしまったような、そんな背徳的な喜びが全身を駆け巡った。
心臓が、耳元で鐘を打ち鳴らすように激しく鳴り響く。 顔が熱い。ニヤけそうになる口元を必死に引き締め、僕は彼女たちに見つからないよう、ゆっくりと引き返した。
彼女は、僕の前ではあんなに大人しくて、静かな空気を作るのに。 僕がいない場所では、僕のことを「ゆーくん」と呼んでいる。
そのギャップが、僕という臆病な少年に、これ以上ないほどの「確信」を与えてしまった。 言葉にしなくても大丈夫だ。彼女は、僕が思っている以上に、僕のことを特別に思ってくれている。
その慢心にも似た安心感が、僕の足をさらに深く、沈黙という名の泥沼へと沈めていった。告白してこの関係を形にする必要なんてない。今の、この「秘密の共有」だけで十分じゃないか。
そんな歪な幸福感に浸っていた僕は、一人ただ幸せを噛み締めていた。
その確信が、音を立てて崩れ去る日がくることも知らずに。
僕たちはそのまま、中学一年生の冬を、温かな、けれど実体のない幻想の中で終えようとしていた。
7
三学期の終業式。
机の中を空にし、掲示物が剥がされた殺風景な教室には、ワックスの匂いと、どこか他人行儀な静寂が充満していた。窓の外には、新しい季節の訪れを告げる、柔らかでどこか頼りない光が差し込んでいる。
クラスのあちこちで、春休みを前に浮き足立った声が響く。普段は友達と賑やかに笑い、太陽の下で弾けるような快活さを見せる彼女だが、僕と向き合う時だけは、いつもどこか特別に静かで、丁寧な空気が流れた。
それが彼女なりの緊張だったのか。あるいは、僕が必死に作り出した「有能な委員長」という壁への遠慮だったのか。今の僕には、その両方だったことが痛いほど分かる。けれど、当時の僕は、その静寂を「心の距離」だと勘違いし、勝手に臆病になっていた。
「瀬戸」
不意に声を落として、凪紗が僕の顔を覗き込んだ。
その大きな瞳に窓際の光が反射して、深い小麦色の肌に吸い込まれるようなコントラストを描き出す。いつもより少しだけ近い距離。彼女の纏う微かな石鹸の香りが、ワックスの匂いをかき消して僕の脳内を麻痺させた。
「二年生になっても、また隣になれるといいね」
僕にだけ聞こえるような、小さな、けれど確かな響き。
そこには、祈りにも似た期待を押し殺したような、微かな震えが含まれていた。
僕の心臓が、喉元まで跳ね上がる。
「ゆーくん」と僕を呼んでいたあの子が、勇気を振り絞って投げかけてくれたパス。僕が器用な人間なら、ここで「そうだね」と笑って返せたはずだ。あるいは「隣になるに決まってるじゃん」と、気の利いた冗談で彼女を笑わせることもできたはずだった。
けれど、僕は、喉の奥まで出かかったその言葉を、またしても飲み込んだ。
期待しすぎて、もし裏切られたら。もし、隣になれなかった時、今の自分の言葉に絶望してしまったら。そんな、いつもの卑屈で冷めた「逃げ」が、僕の表情を強張らせる。
「……うん」
やっとの思いで絞り出したのは、事務的な相槌に近い、あまりにも味気ない返事だった。
僕は期待と不安が混ざり合った、自分でも嫌になるほど情けない顔で、ただ小さく頷くことしかできなかった。
凪紗は、僕のその無愛想な反応をどう受け取ったのだろう。
彼女は一瞬だけ、寂しそうに目を伏せたような気がしたけれど、すぐにまた、いつもの穏やかな微笑みに戻った。
「うん。……じゃあ、また春にね」
それが、中学一年生の僕が出した、精一杯の返答だった。
厚手の紺色のブレザーに包まれた彼女の後ろ姿が、教室のドアの向こうに消えていく。その隙間から覗く、冬の寒さの中でもどこか温かみを残した褐色のうなじを、僕はただじっと見送っていた。
「ゆーくん」という特別な響きに守られた、確信という名の幻想。
言わなくても伝わっているはずだという、あまりにも幼い傲慢さ。
新しい季節が、僕たちから「隣の席」という唯一の接点を奪い去ろうとしていることに、僕はまだ気づいていなかった。
8 凪紗 一年生の終わり
三月の教室は、いつもより少しだけ広く見えた。
掲示物が剥がされた壁は、日焼けの跡だけを残して白く乾いている。机の中を空にするたびに出てくる、使いかけのプリントや折れた色鉛筆。一年間かけて積み上げてきたものが、こんなにも簡単に消えてしまうんだと、私は少しだけ呆然としていた。
瀬戸悠真のことを、最初に意識したのはいつだったろう。
六月の雨の日、机の下に転がってきた白い消しゴムを拾い上げた時、彼は顔を真っ赤にして、声を裏返らせた。その不格好さが、なんだかおかしくて、愛しかった。それだけだった。最初は、本当にそれだけだった。
でも、その次の日も、また彼は物を落とした。
消しゴム。定規。シャープペンの芯のケース。
三回目くらいで、私は気がついた。わざとだって。
机の下の暗がりで顔を合わせるたびに、彼の耳の付け根まで赤くなっていく。受け取った消しゴムを、まるで宝物みたいに両手で握りしめる。その仕草が、隠しようもなく正直で、私はいつも笑いを堪えるのに必死だった。
おかしな子だな、と思った。
でも、それと同時に、私の中で何かが変わり始めていた。
彼が落とす度に、私は躊躇わずに拾いに行った。それは親切心なんかじゃなかった。机の下の、先生の視線も届かない狭くて暗い世界で、彼と二人きりになれるあの数秒が、いつの間にか私にとっても、特別な時間になっていたのだ。
指先が触れる瞬間、彼が息を呑む気配がした。私はそれを、知らないふりをして笑っていた。知らないふりをしながら、心の中では、その息を呑む音をそっと大切にしまっていた。
委員会で一緒になって、彼のことがもっとわかった。
瀬戸悠真は、有能だった。段取りも、まとめ方も、先生への対応も、全部そつなくこなした。彼が仕切ると、ぐちゃぐちゃだった議題がするすると片付いていく。クラスの誰もが、当たり前のように彼を頼っていた。
なのに、私と二人になると、急に言葉が少なくなった。
「これどう思う?」
と聞くと、
「別に、いいんじゃない」
と書類に視線を落としたまま返ってくる。それだけだった。会話を終わらせるような、最低の返事。
最初は、私のことが苦手なのかと思った。
でも、違った。
視線を逸らす時、彼の頬が微かに上気していること。私が話しかけると、一瞬だけ表情が柔らかくなってから、また無愛想な仮面を被り直すこと。放課後の書庫で二人きりになった時、彼の呼吸がほんの少しだけ浅くなること。
全部、見えていた。
ねえ、気づいてる? 私には全部見えてるよ。
そう言いたくなる瞬間が、何度あっただろう。でも私は言わなかった。彼が自分から踏み出してくれる日を、ただ待っていた。消しゴムを落とすみたいに、不格好でもいいから、何かを差し出してくれる日を。
でも、その日は来なかった。
一学期が終わり、二学期が終わり、季節が変わるたびに、彼はもう少しだけ上手に「仮面の自分」を演じるようになっていった。学級委員として完璧に振る舞えば振る舞うほど、私たちの間を流れる空気は、事務的で味気ないものに変わっていった。
私には、その仮面の下が見えていた。
それでも彼は、その仮面を脱ごうとしなかった。
終業式の日。私は意を決して、彼の隣に立った。
ワックスの匂いと、窓から差し込む冬の終わりの光。心臓がうるさいくらい鳴っていた。シンクロの試合前より、ずっと緊張していた。水の中なら、怖くない。体が覚えている動作を繰り返すだけでいい。でも、陸の上で、言葉を選んで、誰かの心に触れようとすることは、私にはいつまでも難しかった。
「二年生になっても、また隣になれるといいね」
精一杯だった。私にとっては、これが限界だった。これ以上はっきりした言葉を、私は持っていなかった。「好きだ」なんて言葉は、あまりにも重くて、まだ怖かった。だから、これくらいの言葉で、彼に届けばいいと思っていた。
彼は、少しだけ固まった。
その一瞬に、私はすべての望みをかけていた。
返ってきたのは、「うん」という、たった一音だった。
目も合わせてくれなかった。
私はその返事を、笑顔で受け取った。受け取るしかなかった。「じゃあ、また春にね」なんて言葉まで付け加えて、何事もなかったような顔をして教室を出た。
廊下に出た瞬間、友達に話しかけられて、私はちゃんと笑えた。自分でも驚くくらい、普通に笑えた。
でも、その日の帰り道。
駅までの坂道を一人で歩きながら、私はコートのポケットの中で、ぎゅっと手を握りしめていた。
うん、じゃないでしょ。
心の中で、そう思った。声には出さなかったけれど、確かにそう思った。怒っているわけじゃなかった。ただ、もう少しだけ、何か言ってくれたらよかったのに、と。
家に帰っても、その「うん」が頭の中をぐるぐると回り続けた。
夕飯の時も、お風呂の中でも、布団に入ってからも。天井を見つめながら、私はあの一音を何度も何度も反芻した。もしかしたら、彼にとってあれは精一杯の返事だったのかもしれない。あの不器用な子が、固まりながらも絞り出した、唯一の言葉だったのかもしれない。
そう思うと、少しだけ、胸が苦しくなった。
春になったら、クラスが変わるかもしれない。
隣の席も、図書委員の係も、消しゴムを落として笑い合うあの机の下の世界も、全部なくなるかもしれない。それでも彼は、「うん」しか言わなかった。
私は布団の中で、膝を少しだけ抱えた。
臆病な人だな、と思った。
そして、そんな人のことを、私はまだ好きでいるんだなと思った。
春になっても、たぶん。
消しゴムを拾いに行った、あの最初の日から。きっとずっと、そうだったんだと思う。
第2章 視線の射程 へつづく
第3章 侵食される境界線
第4章 見えない距離
第5章 再会
第6章 揺れる
第7章 近づく夏
第8章 305号室
第9章 僕らの未熟な蒼
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超大作・・・長編にしようと書いていたら、結局200ページ・・・
ん〜結構大変💦
ちなみに、ペンネームでだしたら、「あっちゃん」のページと別になっちゃいました(そりゃそうだ)
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