表現の自由研究「写真」
表現の自由研究の最終稿です。
2022年4月に始めた本連載。
途中スランプに陥り全く書けなくなった期間を含め、かれこれ1年と3カ月に渡って書いてまいりました。
今回はその集大成、もといこれまで書いてきた286本の記事の総まとめです。
最後は「写真」。
写真を批判的に捉え、残った要素について考証します。
言うなれば、自分の中の「写真のパンドラの箱」を開け、残った一握の希望を眺めようという試み。
テーマは「写真は芸術か、写真である必要はあるか」です。
スーザン・ソンタグ著「写真論」をベースに、その他の参考情報を交えて論を展開していきます。
写真の定義とその変遷
〇写真の定義の歴史的変遷
写真の定義は、時代とともに移り変わってきました。
最も古くは1827年、ニエプスによって撮影された『ル・グラの眺め』。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%8F%B2
当時の写真は、板の上に薬品を塗り、そこにカメラ・オブスクラで像を投影、感光した薬品が変質し像が定着する物でした。
流れとしてはフィルムと同じであるものの、基本的には「像をそのまま写して保存する」という1点モノ。
ニエプスののち、ダゲールが「ダゲレオタイプ」という手法を発明、これを肖像画の代替として商業化します。
ここから肖像画という絵画作品との市場争いを繰り広げたうえで、写真という概念を定着させていきます。
また同時期に、タルボットが「カロタイプ」を発明。
カロタイプの特徴は「ネガ」であること、つまり現代におけるフィルムと同じです。
ニエプスやダゲールの手法は1点モノでしたが、カロタイプは板を中間生成物とし、その後紙に転写することで「複製可能」という特徴を有していました。
ここで時代をスキップして1888年。
Kodakが次のキャッチフレーズで商品を売り出します。
「あなたはボタンを押すだけ、後はコダックが全部やります」
現代でいう「写ルンです」の登場です。
写真の「現像」という工程(像を定着させること)を行う場合、それまで暗室を持たなければなりませんでした。
しかし現像をサービスとして商品化することで、一般大衆も扱いやすくなりました。
さらに時を進めて21世紀。
デジタルカメラが登場し、さらにはインターネット上でやり取りが可能になった時代。
この頃になると、もはや写真は物理的な実態を持たなくなりました。
HDD、メモリーカード、携帯電話などの中で「データ」として保存されるようになります。
ここまでの変遷をたどると、
板→紙→データ
という過程を経ています。
つまり、写真という言葉の定義は時代と共に拡張されてきているのです。
〇平面でなくても写真
東京都写真美術館で行われた『見るは触れる 日本の新進作家 vol. 19』。
写真と映像の美術館で展示されたのは、まぎれもなく”インスタレーション”でした。
平面ではなく空間演出。
この回の新進作家展は、いずれも写真を専攻していないアーティストさんが展示をしています。
つまり写真(もしくは映像)を使っていつつも、写真自体は手段として用いられていて、あくまでコンセプトや空間そのものが作品であるという展示です。
写真美術館がこれらを展示したということの意味。
それは「写真の定義が拡張されている」という提示と捉えられます。
つまり、板→紙→データと変遷してきた写真は、現代アートの文脈に組み込まれ、平面でなくても良くなったという”定義の拡張”を主張する展示なのではないでしょうか。
平面に縛られない写真、と聞こえはいいですが、一方で「写真でなくてもいい」という論も確からしさを帯びてきます。
3Dプリンタしかり、彫刻やそれに対するプロジェクションマッピングしかり、様々な装飾しかり、空間演出において写真である必要はどこにもありません。
その状況下において、「写真である理由」ないし「写真とは何か」という問いに答えは出せるでしょうか。
写真の意味
〇写真の意味の歴史的変遷
写真の意味についても、歴史とともに変遷を遂げています。
ダゲレオタイプは、登場した当時肖像画の代替サービスとして商業化されました。
それまで画家に依頼して書いてもらっていた肖像画が、より精巧に、それもより早く出来上がるのです。
すぐさま市場のゲームチェンジャーとして作用しました。
またカメラ・オブスクラの目的である「風景の投影」や、光景の記録といった用途としても用いられています。
その後20世紀に入ると、写真は美術であるという主張が出始めます。
ポートレート、スナップといった写真そのものの芸術性向上や、シュルレアリストによるコラージュとしての利用、アンディ―・ウォーホルなどの現代アートへの利用など、様々な発展を遂げました。
逆に、写真家たちはシュルレアリスムの思想を写真に取り入れようとし、現実を捉える装置でありながら超現実的な表現を目指しています。
また、1888年に今でいう「写ルンです」の原型がkodakから発売され、20世紀にかけて一般大衆に対しても普及していきます。
報道においても一定の立場を確立し、記録する機材や証拠としての利用価値を高めていきました。
時は経過し21世紀。
携帯電話にカメラが搭載され、またデジタルカメラが普及したことから、もはや撮影行為は日常的なものと化しました。
またSNSの発展に伴い、記録としての価値が薄れ、情報交換やビジネスとしての価値が大きくなっています。
〇現代における写真の意味
写真家の大山顕は「現代の写真は『その場所にいた』を示すことに意味がある」としています。
インフルエンサーの○○さんが行ってた場所に、話題になってるこの場所に、自分が行ったという証拠こそが写真だと。
これは一つの論として正しそうです。
またソンタグは
「現実的なものの感覚が次第に複雑になるにつれて、それ自体の代償探求熱と単純化が生じてくる。そのもっとも重い中毒は写真を撮ることである。まるで写真家たちはますます貧血してきた現実感覚に対処して輸血を求めながら、新しい経験へ走ったり、古い経験を蘇らせたりしているようだ。
P.196 より引用
と述べており、これは一時期問題になった「インスタ映え」に対する言及とも受け取れます。
また最近のトレンドである「エモい」「フィルムライク」な写真もこれに該当します。
初版が1979年の本ですが、当時の批判が現代にも効いてくるのは皮肉。
この論における私見は、「現代において写真の意味は無くなった」、そして「表現の手法が写真である意味は無い」になります。
デジタル化やSNSの普及により、絵の制作コストや発表に対するハードルが下がり、さらに動画の撮影・編集も簡単になりました。
冒頭の『新進作家展』でも分かりますが、アートでもSNSでも、写真はあくまで”ツール”として捉えられています。
その状況下において、写真を選択するのは「手軽さ」以外無いように思えます。
さて。
写真の意味は時代の変遷とともに変わっていき、現代ではSNSでの運用のためのツールとなりました。
併せて、写真である特筆した理由もなくなりました。
その中で「写真を撮る理由」はあるのか、考える必要がありそうです。
写真の評価とその価値
〇AI生成絵と賞
ここで一つの記事を紹介します。
ソニー・ワールド・フォトグラフィー・アワード」のクリエーティブ部門賞の最優秀賞に、AI生成の絵が選ばれてしまったのです。
提出者は受賞後、賞を辞退しています。
このクリエーティブ部門の内容ですが、「あらゆる写真撮影手法によって表現された創造性が審査される」となっています。
ここで考えなければならないのは、「撮って出し ー レタッチ ー AI生成」の間に溝があるのか、それともグラデーションなのかという問いです。
昨今、PhotoshopだけでなくLightroomにすらAIエンジンが搭載され、編集においてレタッチャーのサポートをしています。
何より、スマートフォンやデジタルカメラには画像処理エンジンが搭載されているのですから、この世に「編集されていない写真」なんてものは無いと言い切れます。
ともしたとき撮って出しも編集、レタッチも編集ですから、AI生成絵と地続きであると考えられます。
また写真の評価基準についても、今回の一件で揺らいだように思います。
評議員たちは、AIは写真ではないとみなされたけど、AIであると見抜けなかったのです。
結局のところ写真の評価は空虚なのでは、という疑念が浮かびます。
なんせ評議員たちが写真の正確な評価をできず、自分たちが「写真でない」と論じる物をありがたがってしまったのですから。
ちょうど、画家・ゴッホが生前評価を受けられず、死後評価されたように。
その時の状況やトレンドといった、大衆の流れのようなものに評価が揺らいでしまうことが、写真でも起きているのではないでしょうか。
その時代・その場にいる人間の評価軸は絶対的なものではなく、権威の傘に依ったまやかしのトロフィーなのです。
〇美しいから撮られるというバイアス
写真には2つの範疇があります。
報道写真と、それ以外の一般的な写真。
報道写真は芸術性ではなく、被写体を情報として伝達することを目的としています。
一般的な写真は、前提として「美しいと思ったから撮った」というバイアスが存在するように思います。
そもそも嫌だと思うものに対しては視線を外したくなりますし、仮にそういった対象を撮影したとするなら、それは報道写真に分類されるからです。
つまり撮影された以上、良くも悪くも何かしら心を動かされていると解釈できます。
ソンタグは本の中で、哲学者ヴァルター・ベンヤミンの言葉を引用しています。
カメラは、いまやアパートでもごみの山でも、写真に撮れば必ず美化してしまうようになった。河川ダムや電線工場はいうまでもない。これらの前に立てば、写真術は「なんて美しい」としか言いようがない……それは赤貧そのものをも当世風の、技術的に完璧な方法で扱うことによって、楽しみの対象い変えてしまうことに成功したのである。
P.135 より引用
醜いものを醜いまま、アートの文脈で語ることは可能でしょうか。
それを可能にするのは「コンセプト」であって、つまり現代アートの文脈に則って「写真を手段として用いて」表現する必要があります。
写真そのものではなく、その背景にある情報やコンセプトが主であるとき、それも芸術的な写真に含められるのでしょうか。
手段としての写真は、写真そのものに価値があるのでしょうか。
そんな世界を写した写真集があります。
インベカヲリ★『理想の猫じゃない』。
生きづらさを抱え、何かしら”まともじゃない”道を歩んだ女性を撮った一冊。
写真1枚からもグロテスクさが伝わりますし、インタビューを読むと吐き気すら覚えることもあります。
美しくないけど、写真であり、アートです。
ですが、”写真そのもの”がアートなのか、疑問です。
〇写真は芸術か
そもそもです。
写真は芸術に含められるものでしょうか。
写真家は「含まれる」と言うでしょう。
しかしソンタグはこう語ります。
写真はそもそも芸術形式などではまったくない。それは言語のように、それによって(なかでも)芸術作品が作られるメディアである。
(中略)
写真はそれ自体は芸術形式ではないが、その主題をすべて芸術作品に変える特別の能力を持っている。
P.181-182 より引用
写真そのものは芸術ではないが、写真に写った被写体を芸術作品に変えると言うのです。
これは先ほどの「美しいから撮られるバイアス」につながるでしょう。
つまり「撮られたからには美しい」というバイアスによって、また撮影者の作為性によって、その被写体に(被写体の意図とは無関係に)美術的価値を付与させられるのです。
だから写真を美しいと認識するのだ、と。
〇写真の価値
AI生成絵と写真は見分けられない。
編集・加工はやり放題。
写真は芸術ではないし、写真である意味もない。
そうしたとき、写真の価値とは何でしょうか。
…をここで述べたいのですが、最後の章で私見を述べることにします。
結論だけ先に言えば「写真そのものの価値は”思い出”」です。
写真という収奪
ソンタグは書の冒頭でこう述べています。
写真を撮るということは、写真に撮られるものを自分のものにするということである。
P.10 より引用
写真を撮る行為には、なにか略奪的なものがある。人びとを撮影するということは、彼らを自分では決して見ることがないふうに見ることによって、また自分では決して持つことのない知識を彼らについてもつことによって、彼らを犯すことである。それは人びとを、象徴的に所有できるような対象物に変えてしまう。ちょうどカメラが銃の昇華であるのと同じで、だれかを撮影することは昇華された殺人、悲しげでおびえた時代にはふさわしい、ソフトな殺人なのである。
P.24 より引用
それを象徴するような記事を過去に書きました。
女子陸上、女子プロレスにおける、選手を撮影したわいせつな写真の流布をした不届き者がおり、結果撮影禁止ないし一部規制がかけられることとなりました。
わいせつな写真を撮影した人物が行ったのは、まぎれもなく「被写体を手中に収めるという収奪」です。
併せて被写体である選手の意思にかかわらず、撮影者の欲によって恣意的に切り取られるセンシティブな写真は、選手の尊厳を破壊するものでしかありません。
さらに言うと、写真は写すところと写さないところを生みます。
美しい部分、見たい部分、見せたい部分だけを写して、そうでない部分を排除する行為こそ写真。
さらに被写体の意志にかかわらず、撮影者の視線という枠にはめ込んでアウトプットするのです。
私はこの行為ないし写真というメディアを、究極に差別的でグロテスクなものだと認識しています。
個人的な「写真である理由」
ここまでは事例を交えて写真を批判的に捉えてきました。
しかしこれまで『表現の自由研究』と題して、各テーマにおいて写真との関係を考察してきましたので、希望的な見解も並べようと思います。
そのうえで、自分なりの「写真である理由」を述べて、この連載を締めくくります。
〇写真とは「いま」、そして「客観的な自己愛」
写真が写しとるのは、真実でも虚構でもなく、「いま」という瞬間なのではと考えています。
「いま」における時間には幅があり、それはシャッタースピードによって、1/8000秒にも、30秒にもなります。
これはカメラという装置を通した場合ですが、少なからず「いまこの場所でこの瞬間撮影した」という情報は残ります。
背景を合成するなどして欺くことはできるにせよ、それを除けば「写真の意味」の章で紹介した内容の通りです。
そしてこれは「今現在のあなたの姿」と捉えられます。
これは写真の記録的な機能、時間を1枚に収める機能のなせるものです。
その日その場での、その人の「いま」の姿であって、刻々と歳を重ねるその人の歩みです。
後から見返して、思い出に浸れるような写真であれば、それは良いものなのではないでしょうか。
またポートレートに対して、ソンタグが「彼らを犯すこと」であると断じましたが、全くもってそうであるとは限らないと考えています。
つまり被写体が納得するような写真が撮れればいいわけです。
写真でその姿を写すことが「自分の際立った能力を自由自在に発揮する」ことになるのなら、ショーペンハウアーの述べる「幸福」に繋がる、と。
私が写真に対してポリシーとしている「新たな鑑賞者の椅子」。
その椅子へ最初に座るのは、誰でもない被写体さんご本人です。
力を発揮した写真を撮られ、その自分の姿を見て、自分のことを少しでも好きになれるなら、写真は銃ではなくなります。
それを「客観的な自己愛」であると私は言い切りたいのです。
〇切り落とされた情報と余白、写真を見て泣いた話
写真は情報が切り落とされたメディアです。
音、時間、さわりごこち、味…
視覚以外の情報は存在しません。
だからこそ、色々考える余白が生まれることもあります。
先日、東京都写真美術館の「TOPコレクション セレンディピティ 日常のなかの予期せぬ素敵な発見」を見てまいりました(7月9日まで開催中)。
様々な視点から、日常の1コマを切り取った作品たちの展示です。
その中のひとつ、斎藤陽道「感動」の中の1枚を見て、色々考えにふけってしまったのです。

画像中央の1枚、車いすに座った少年が叫んでいる写真(ほぼ日刊イトイ新聞の記事に同じ写真があるのでご参考までに)。
彼の生きづらさ、もどかしさ、自信の境遇に対する嘆きと、それでも生きようとする力強さ、とでもいいましょうか。
写真という限られた情報の中から、様々なものが伝わってくるような気がしたのです。
観覧後街コンに向かうのですが、その道中、心を揺さぶられ続けることになりました。
1枚1枚にはキャプションがなく、得られる情報はごくわずかです。
それによって鑑賞者の主観によって考える余地が生まれ、写真であるからこその魅力でもって、彼の叫びを感じ取れたのだと思っています。
これも私の枠組みに当てはめたグロテスクな感性なのでしょうが、しかしそれを美しいと感じてしまう、そんな出来事でした。
〇撮られるという体験と、自己愛
『表現の自由研究』の第1回「愛」。
私が色々活動をする究極的な目的は「自己愛の獲得」です。
うまく自分を愛せず、自分にも他人にも妄想を繰り広げ、だれも信用できず疑心暗鬼になり、孤独を選び、苦しむ。
そんな自分を変え、自分を愛することを目指すエゴイズムこそ、写真であり文章なのです。
写真を撮り6年、文章を書き4年、連載を始めて2年半。
実際に自己愛を獲得できたかと言えば、NOです。
沢山の出会いに恵まれ、アウトプットを評価してもらい、仲間が出来たにも関わらず、です。
それでも一握の希望を掴んでいます。
私が撮ることで、私が書くことで、誰かの自尊感情へプラスの影響を与えられるのではという希望。
「撮ってもらって、笑顔に自信が持てるようになった」
「写真をほめてもらえて嬉しかった」
「新しい仕事につながった」
お世辞なのかもしれません、妄想が強い私には判断が付きませんが。
しかし素直に受け入れてみます。
私が相手に向き合って、どこが素敵かを客観的に見て、私の視線から見た「あなたのここが好きだ」を見せて、それを受け入れてもらえるのなら。
もらった言葉たちは真実なのでしょう。
写真というメディア自体に価値も意味もなくても、撮影という体験そのものは誰にも奪えない価値のあるものです。
私が撮る日は、あなたの”自分史上最高の日”を更新するための日だというエネルギーでもって、あなたの自己愛を育むための日にしようと。
〇写真である理由
写真でなければならない理由はありません。
でも写真が楽しくて続けてきました。
写真は「できること」なのです。
「できること」に何かしら提供できる価値があるのなら。
それは「写真である理由」になると信じています。
根拠はないです。
いまとなっては恥ずかしさが出る話ですが、過去に「誰かのスキにステキを」というコピーを掲げ撮影をしていました。
プロレスの選手を撮りながら、その先にいるファンの方こそ鑑賞者である。
そんなポリシーを言語化したものでした。
これでは不十分だということで色々試行錯誤してきましたが、とりあえず仮置きで、もじってみます。
あなたのステキをスキに
うん、悪くない。たぶん。
これを実現するためのツール、それがカメラであり写真。
さて、私が次に目指すのは、この概念を体現する展示です。
「写真である理由」そして「自己愛」、これらを写真で表現することができるのか。
お楽しみに。
おわりに
あまりに(予定通り)長くなったので、あとがきは別の記事として投稿します。
全10回にわたって書いてきた『表現の自由研究』も終わりです。
沢山の方に読んでもらう記事ではなく、あくまで自己満足として書いてきました。
やってよかったですし、次の誰かに火を付けられたらうれしいです。
それでは。
参考文献
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