転シバ 第5話:柴犬、初恋を目撃す
あいこ様が、鏡の前で頬を染めておられましたの。
恋の香り……いえ、危機の予感でございますわ……!
おのれ殿方ッ! わたくしのあいこ様を奪いに来た罪、重うございますわよ!
その朝、あいこの動きは明らかにおかしかった。
制服のスカートを丁寧に整え、鏡の前で前髪を1ミリ単位でチェック。

いつもなら数秒で終わる準備に、今日は10分以上かかっている。
「べっ、別に、なんでもないよね…! ただ友達が遊びに来るだけだし…! お化粧じゃなくて……日焼け止めだし!」
自分に言い聞かせるように呟くあいこ。頬はピンク、目はハート、唇はツヤツヤ。
──それを、じっと見つめる影。
「ふむ……これは……恋の香りですわね……!」
リビングのソファに鎮座する、柴犬・アンちゃん。
その瞳には決意が宿っていた。もとい、“宿ってしまった”。
「まさか……あいこ様が、あの男子と……!? わたくしのあいこ様が!!」
「……なにその言い方こわっ!? やめてアンちゃん、今めっちゃ大事な時なの!」
アンちゃんは跳び上がり、肉球でフローリングをピシィッと叩く。
柴犬ボディで全力警戒モードMAX。
「おのれ殿方! わたくしからあいこ様を奪いにきた不届き者! 粉砕してくれますわ!!」
その横では、さらに厄介な男がすでに動き出していた。
「まさか……敵国の少年スパイ……!? やつ、13歳にしてコードネーム持ってるタイプか……!」
父・津村忍(元国家スパイ)、なぜか全身黒のジャージ姿に着替え、壁に耳を当てながら呟く。
「作戦コード:ファーストラブ・インタセプト。目標の潜入は目前……!」
「発動しないで! ていうか作戦名、愛の破壊工作みたいになってるから!」
その隣では──
「おうちにお客様〜♪ 恋が始まる予感〜♪」
と歌いながら、母・静花が“恋愛運アップまんじゅう”を蒸していた。
しかもアンちゃん用のウェディングベールをミシンで縫い始めている。
「ちょっと待って!? 何つくってんの!? 誰と誰の式のつもり!?」
家族の全方向からの妨害により、あいこの恋の門出は、朝の時点で既に包囲されていた──。
そして、その時は来た。
インターホンが鳴り、玄関が開く。
「……おじゃまします」

現れたのは、整った顔立ちの少年・木村作太郎。
制服姿のまま、どこか気だるげな雰囲気をまとっているが、目は優しく、奥に何か熱を秘めている。
──一瞬、家の空気が凍った。
「来たな……」
「……殿方ですわ……!」
「お客様にはおしるこ……いや! 恋するオムライス!?」
「落ち着けぇぇぇ!!」
あいこは全力で家族をなぎ倒した。
だが、その陰で──アンちゃんは静かに身を低くし、戦闘態勢に入っていた。
「作戦開始ですわ……まずは“軽めの威嚇”。ご覧なさい、わたくしのこの眼光……!」
じっと作太郎をにらみつける柴犬。
しかし作太郎は、なぜか無言でふわっと笑った。
「……この犬、目つき強いな。でも、なんか……似てるな、うちのばあちゃんに」
「誰が婆やですってえぇぇぇぇ!?」

初手から不名誉な比較にブチギレたアンちゃん、即座に“反撃モード”へ移行。
上履きの片方を咥えて裏庭へ投げ飛ばす。
クッションを押しのけ、作太郎の座る場所を奪う。
バッグの中にさりげなく“肉球スタンプ”をねじこむ。
筆箱の中に自分の毛を詰める。
校庭に「恋するな」マークを描く。
手紙をシュレッダーに食わせる。
家の前に「立入禁止」の看板を立てる。
「わたくし、あなたを絶対に受け入れませんわッッ!!」
その一連の妨害を、隣で地味に汗をかきながら耐える作太郎。
──と、そこへ忍がひそかに耳打ちする。
「少年……お前、CIAの回し者じゃないよな……?」
「え、ちがいますけど」
「ふむ……口が上手い。ますます怪しい……!」
あいこ、絶望のうめき声。
そして──とうとうその時が来る。
「なあ……」
「……うん?」
「……お前の犬、俺のこと嫌い?」
あいこ、硬直。
「なッ……なんでそうなるのぉぉぉ!?」
夕暮れ。部屋に戻ったあいこは、アンちゃんを前に泣きそうだった。

「ねぇ……なんであんな意地悪すんの……」
「わたくしは……ただ……」
「ただ?」
「あなたが、どこか遠くへ行ってしまいそうで……わたくし、怖かったのですわ」
声は震えていた。
その瞳には、かすかな涙と、深い孤独の影が浮かんでいた。
──あいこは、静かにアンちゃんを撫でる。
「バカだな……どこにも行かないよ。アンちゃんは、うちの家族でしょ」
「……ほんとうに?」
「ほんとだよ。だって、アンちゃんは、あたしの一番の親友で、妹みたいな存在だから」
「妹……妹……うぅ……わたくし……うれしゅうございますわ……!」
その言葉に、アンちゃんの尻尾がゆっくりと揺れた。
翌朝。
玄関には、昨日なくなったはずの作太郎の靴下が
ぴしっと綺麗に畳まれて、置かれていた。

その脇にそっと添えられていたのは、犬用のおやつと「友情の証」と書かれた謎のカード。
「え……なにこれ……」
あいこが振り返ると、アンちゃんは神妙な顔でこう言った。
「……共存の道を選びますわ。ただし、油断は禁物。あの殿方、時折“オスカル様”に見えるのですもの……!」
「そこ!? そこが不安要素なの!?」
──と、そこに。
ポストの中に、一枚の小さなメモが入っていた。
昨日はありがとう。
犬、ちょっと怖かったけど……なんか大事にされてるなって思った。
また、話せたら嬉しい。
木村 作太郎
その瞬間、あいこの心臓が跳ねる。
「なにそれ……ズルい……!」
頬が赤く染まり、両手で顔を覆う。
──その横で、アンちゃんがぽつりと呟く。
「……ですが……あいこ様の笑顔のためなら……わたくし、次はちゃんと見守りますわ。……多分、ですけれど……」
少し照れくさそうに目をそらすその姿は、どこか以前より優しかった。
最後まで全力でボケる柴犬と、それに全力でツッコむ少女の声が、今日も津村家に響いていた。
──恋と家族の物語は、まだまだ続く。
To Be Continued…
