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「哲学カフェ」が良すぎてヤバい(語彙力)

僕は去年から「哲学カフェ」によく足を運ぶようになった。それまで全然存在を知らなかったのだが、参加するようになって「なんて僕に最適すぎる場所なんだ」と感動し、通い詰めている。僕は割と「自分の脳をどう刺激し続けるか?」だけを考えて生きていて、ってか人生がつまらなすぎてそういうスタンスを突き詰めないとなかなか生きられないってだけなのだが、で、それもあって、「脳を刺激するもの」への要求も結構高い。美味いものばっかり食べ続けていると普通ぐらいのものじゃ満足できなくなるのと同じように、僕の脳はもう普通ぐらいの刺激じゃ満足できないのだ。でもそんな僕の脳も「哲学カフェ」には大満足のようで、ホントにいい場所を見つけたなぁ、と思う。ホント、長く続いてくれるとありがたい(だから、とにかくブームにはならないでほしい)。

さて、まず書いておくべきは、僕は「哲学カフェ」と呼ばれるもの全般に参加しているのではなく、ある特定の団体にだけ入り浸っているということだ(その団体の名前は書かない)。だから、ここに書いたことが「哲学カフェ全般の特徴」かどうかはなんとも言えないだろう(当てはまる部分もあるだろうし、そうではない部分もあるはず)。いずれにせよ、僕は他の団体のことをほぼ知らないので比較も出来ないし、とりあえずこの点は理解してもらえるといいと思う。

で、「哲学カフェの良さ」を端的に伝える上で僕が真っ先に思い出すのが、ある回に参加していた大学生が発した言葉だ。彼女は、今まさに自分が参加している哲学カフェの場について、「酸素が濃い」と表現したのだ。

メチャクチャ分かる。そう、「哲学カフェは酸素が濃い」のだ。

他の哲学カフェがどうかは知らないが、僕が行っているところの参加者は、割と変わってる人が多い。まあそりゃあそうだろう。休みの日にわざわざ、「◯◯とは何か?」とか「◯◯と◯◯の違いとは?」みたいなテーマで知らない人と話をする場に積極的にやってくるような人は変なはずだ(特に僕が参加している団体は学生も多いので、余計にそう感じる)。ゲームしたり、カフェ巡りしたり、推し活したり、Netflixを観たりしてればいい時間をわざわざ「対話」なんてものに時間を割こうと考えてるんだから、そりゃあ「普通じゃない」ことの方が多いと思う。

で、僕もそうなのだが、日常生活の中でそういう「変わってる人」と出会うのは結構難しい。変わってる人は「変わってることを悟られないようにしなくては」と考えて自分の「変さ」を表に出さない振る舞いを身に着けがちだから見つけにくいし、そもそも絶対数が多くないから出会うチャンスも少ない。僕は運が良いことに、これまで働いていた書店のバイトの子たちが変人揃いだったので、それでなかなか楽しく生きてこられたのだが、書店員ではなくなってしまった今、日常生活で「変な人」と出会う機会は激減してしまった。「変人しか登録できないマッチングアプリ」とかあるといいんだけど、さすがにそんなの無いしね。

「酸素が濃い」と発言した大学生も、まさに僕と同じような感覚を抱いていたようで、自身が置かれている「日常生活では話せる相手がいない」という状況を「酸素が薄い」と捉えていたようである。で、哲学カフェに来たら、なんかみんな変な人ばっかりだから、それで「うわぁ、ここはメッチャ酸素が濃いじゃん!」という感動に繋がったというわけだ。

さてそもそもだが、「対話」というのはやはり言語化や思考がベースになるわけで、で、これは僕の持論だが、「言語化や思考をナチュラルにしてしまうような人は、『生きる上での問題意識』を抱えていることが多い」と思っている。「社会に馴染めない」とか「家族と上手く関われない」とかまあ何でもいいのだが、「上手くいかないなぁ」という状況に接し、その中で「自分はどうしたらいいんだろう?」みたいに考えざるを得なくなるからこそ、言語化や思考が起動すると僕は考えているのだ。だから、「言語化・思考がベースになるような対話に惹かれる人は何か問題意識を抱えていることが多いし、それ故に相対的に『変な人』みたいな立ち位置になりがち」みたいなこともあるだろうなと思う。

そしてさらに、哲学カフェの雰囲気そのものが「自分の『変な部分』を出しても大丈夫そうだ」と思わせるような設計になっていることも大きいだろう。

僕が行っているところでは、最初に「呼ばれたい名前」の自己紹介をするが、本名である必要はない。さらに、「自分が何をしているのか」や「どういう属性を帯びているのか」みたいなことは、本人が望まない限り話す必要がないのだ。まあそれ自体は、最近は日常生活でも実現するかもしれないが(社会的に多様性の尊重が浸透しつつあるので)、哲学カフェの面白いところは、その状態で「もしかしたら友達にさえ話さないかもしれない『自分の深いところにある感覚・価値観』を皆が当たり前みたいに話す」という状況が実現しているという点だ。日常的な人間関係だったら、「もう少し仲良くなってからじゃないと話せないかもな」と感じるようなことでも、哲学カフェでは参加者が当然のように話すので、「自分も話してみようかな」みたいな気分になりやすいんだと思う。

そしてそれは、「対話をするために集まってるんだよね」という前提を共有しているという事実に加え、人によっては「もう二度と会わないかもしれない人だし」みたいな感覚も加味されているんじゃないかという気もする。とにかく、哲学カフェの場で醸造される雰囲気や関係性は、日常生活の中ではなかなか生まれ得ないものだと思うし、だから「『変な部分』を出しても大丈夫そう」という安心感に繋がりやすいのだろう。つまり、「変わった人が関心を持ちやすいし、さらに自分の『変な部分』を出しても大丈夫そうに思える」という要素が「酸素の濃さ」に繋がっているんだろうなと思う。

そんなわけで、哲学カフェの場ではとにかく、日常生活では関われないような人と出会えて、しかも割と深めの話が出来たりするので、それが凄く素敵だなと感じられる。もちろんこういう状況は、ネットの世界ではいくらでも実現できるだろう。どこの誰とも知らない相手と知り合い、どこの誰とも知らないからこそ深い話も出来る、みたいなのは、SNSやオンラインゲーム(やそのオフ会)とかではありそうに思える(SNSもゲームもあまりやらないので分からないが)。でも、それをリアルの世界だけで実現しようとしたら、かなり難しいだろう。そういう意味で哲学カフェというのは、結構特異的な場だよなと思っている。

で、そういう環境だからこそ、「本当に多様な意見」に触れられるのも面白い。まあ、「変な人」が多いとすれば、相対的に「一般的な意見・価値観」は出にくいとも言えるかもしれないが、正直そういうのは、通り一遍の情報に接していればある程度知れるぐらいのものなので大した問題ではない。それより、「そうか、世の中にはこんなことを考えてる人がいるんだなぁ」みたいに感じられることの方が重要だし、哲学カフェで色々話してると、「世の中には本当に色んな人がいる」という事実の解像度がムチャクチャ上がる感じがあって良い。

そしてこれは、ネット上ではなかなか実現できないだろう。SNSなどは基本的に「同じ人を見つけやすく、繋がりやすい」という点に価値が置かれている気がするからだ。「異なる意見・価値観」は「視界に入らない」か「炎上という形で目に入る」ぐらいじゃないだろうか。で、今ではネットのそういう雰囲気が割とリアルにも侵食してきて、「価値観が違う人とはそもそも関わろうとしない」みたいなタイパ的発想が主流になっているように思う。

だから日常生活では「対話」って実現しないんだよなぁ。「対話」はやっぱり「違い」から生まれるものだと思うから。「対話」を望んでいる以上、「違うのが当たり前」という感覚は当然持っているはずだし、だから誰の意見でも否定したりせず「なるほどなぁ」みたいな感覚のままずっと話が出来る。「共感」ベースで生きている人には「その何が楽しいの?」という感じかもしれないが、僕には最高の環境だし、そう思える人が哲学カフェにはやってくるんだろうなと思う。

あと、参加者の中には自己紹介以外では発言しない人もいるし、全然聞いてるだけでもいいんだけど、ただ自分の意見を言う形で「対話」に参加しようとするならやはり「言語化力」は必須になる。で、僕は昔からとにかく「言語化力の高い人」が好きなので、そういう意味でも哲学カフェは素晴らしいなと感じる。僕が行ってるところにはなんと高校生もいたりして、でそんな高校生が結構バリバリに喋ってたりするので「凄いなぁ」と思う。僕が高校生の時にはマジでこんなに喋れなかった、っていうか、割とコミュ障だったからそもそも人と喋れなかったし、ってか哲学カフェなんかに参加しようとも思わなかっただろう。いやしかしホント、言語化力の高い人は面白い(というか、本質的には「言語化力の低い人がつまらなすぎる」と表現すべきかな)。

というわけで、ここまで書いたようなことが「哲学カフェ」(というか、僕が行っている団体)の全般的な性質という感じで、僕はそういう性質に惹かれて参加している。ただそれに加えてさらに「個人的なミッション」もあったりして、それも込みで面白さを感じているというわけだ。

1つは、「自分がまだ若い世代とちゃんと喋れるか」という確認のためというのがある。僕は書店で長く働いていたこともあり、学生アルバイトと関わることが多かった。だから日常的に若い世代の人と話す機会があったし、当時働いてたバイトの人たちの中には今も飲みに行ったりする人もいる。けど、書店を離れて日常の中で若い世代と関わる機会がなくなったので、学生も多く参加する哲学カフェで「まだちゃんと喋れるかな?」と確認してたりするのだ。

そしてもう1つは、「場を成立させられるか」というチャレンジである。哲学カフェには「ファシリテーター(ファシリ)」という「対話を主導する」みたいな役割の人がいるのだけど、僕は別にファシリではない。なので、「場を成立させる」みたいなことを考える必要はないのだけど、自分がやれる範囲でやりたくなってしまうのだ。

哲学カフェの場において僕が最も意識しているのは、「喋りたいことがある人がちゃんと喋れること」である。喋りたくない(喋りたいことがない)人は喋る必要はないし、臆せず喋れる人はどんどん喋っていいのだけど、中には「喋りたいけどちょっと勇気が出ないな」とか「こんな話をして大丈夫かな」みたいに躊躇する人もいるんじゃないかと思う。で、そういう人が「喋ってもいいな」と思ってくれるような雰囲気をどう生み出すか、みたいなことが僕の隠れミッションだったりする。いや、上手く出来てるかは今もよく分からないわけだけど、まあそれはともかく、そんな隠れミッションを勝手に抱えながら参加できるみたいなのも個人的にはとても楽しい。

まあそんなわけで、今の僕にはあまりにも最適すぎる場で、去年「哲学カフェ」を見つけた自分は本当にグッジョブだと思う。ホント、こういう場があるからなんとかまだ生きてようって思えるよね。


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