【上映時間3時間以上】超長尺映画100本を代わりに観る《第5章:シリーズを完走する》
第5章:シリーズを完走する
今やテレビドラマと映画は分けて考えられることが多いが、元々は映画興行のひとつの手法として始まった。ひとつの物語を数話に分割し、週替わりで上映する「連続活劇(シリアル)」はヨーロッパで生まれ、1910年代にアメリカで確立された。トーキー時代に入った1930~40年代には添え物のB級映画として連続活劇が量産されるも二本立て興行が衰退する1950年代以降、この形態はテレビシリーズへと移行した。映画とテレビドラマは分けて考えられることが多いが、MCUが盛り上がりを魅せた2010年代以降は連続活劇を意識したハリウッド超大作が増えてきたように感じる。
映画批評家のシリル・ベギンは、カイエ・デュ・シネマ2010年代総括号にて、映画が長尺化しドラマシリーズとの境目がなくなっている現象をフィルムからデジタルシネマへ移行する過程で時間の長さから解放された観点から論じている。フィルムによる制約がなくなり映画に流れる時間が自由化されることは永続的な分割を伴う。映画は細分化されたエピソードで観客の注意を過剰に惹くのだ。そのため、ショート動画やSNSに慣れ親しみ、集中力が持続しないと言われている現代人の特性に反したように、映画の上映時間が長尺化したりテレビシリーズが受容されていく様は矛盾していない。その長尺の中に散りばめられたエピソードによってアテンションを刺激し、次のエピソードへと繋げていくからだ。ゆえに、シリーズにおける映画とドラマの境界線は曖昧となっている。まさしく、ジョナサン・クレーリー「24/7 眠らない社会」で提示される社会が時間を細分化し管理するようになったことで日常や睡眠といった聖域が失われつつある様を映画に応用しており、時として「これは映画というよりテレビドラマでは?」といった違和感の正体なのだ。以下に取り上げる作品を通じ、映画とドラマシリーズの境界線を見つめてみることで映画の本質が掴めるのではないだろうか。
66.レ・ヴァンピール 吸血ギャング団/Les Vampires(ルイ・フイヤード、1915-1916年、417分)

※IMDbより画像引用
映画史初期に、ルイ・フイヤード監督は連続活劇を手掛けた。『ファントマ』シリーズを始め、彼の連続活劇は映画史初期だからこそフレームの型を破るユニークな構図やアクションがある。本作では、ストップモーションにより女盗賊Irma VepがVampireのアナグラムであることを説明するところからもわかる通り、当時としては実験的な手法が取られている。気軽に動画制作ができるようになった今だからこそ、サイレント映画時代のエフェクトを観ることでインスピレーションが掻き立てられるだろう。
たとえば、第3話で、男が整列された文字を眺め、左上→右上→左下→右下→左上2番目→右上2番目……といった具合に文字を並べ、文章を浮かび上がらせる演出には「どんな文章が浮かび上がるのか?」といったワクワク感があり、映画というよりかはリリック部で斧世界で応用できるものがある。
そして、何と言っても第9話だ。マイケル・ベイ級の大砲爆撃に、忍び寄る車を振り払おうとするカーチェイス。部屋に設置された爆弾を巡るサスペンスを扉の内側/外側の切り返しでスリリングに描写したり、試合には挟み撃ちを回避すべく、列車の屋根に乗りアクションを展開する。『ミッション:インポッシブル』や『007』シリーズでお馴染みとなっているあらゆるアクションの原石がここにあったのだ。
67.ファントマ/Fantômas(ルイ・フイヤード、1913-1914年、337分)

ルイ・フイヤードの連続活劇を観ると、サイレント映画時代の方が自由に満ち溢れたイメージを作れていたのではと思わずにはいられない。特にファントマシリーズの1本『ファントマの偽判事』を観てしまうと、スマートフォンが台頭し20年近く経っているにもかかわらず、貧相な縦画面の活用しかできていないように思える惨状を嘆きたくなる。
ふたりの男が鐘に梯子をかけて昇る場面がある。ひとりの男は、ヒモで鐘の向きを制御する。もうひとりが梯子をかけて鐘を目指すのだが、カメラはスマホの広告ゲームを彷彿とさせる、空間をふたつに割った構図の中でアクションのベクトルを提示し、次のカットでは長回しによって梯子を昇る男を捉え続ける。
原題の映画において縦画面は、ライブ配信のような自撮りされる顔を捉えたイメージが提示される傾向がある。しかし本作を観れば、縦長の空間全体を映す手法が映画にも存在することに気づかされる。この構図はスマホゲームや縦スクロールマンガだけのものではなく、映画でも十分に効果を発揮することが100年以上前に証明されていたのである。
68.デカローグ/The Decalogue(クシシュトフ・キェシロフスキ、1989-1990年、572分)

※映画.comより画像引用
日本では一般的にポーランドで視聴率50%を超えた伝説のテレビシリーズといった形で紹介されることの多いが、ポーランド在住の知り合いによれば、1989年当時のポーランドではテレビ局が実質Telewizja Polska Spółka Akcyjna(ポーランド・テレビ)1社だけだったため視聴率が50%を超えるのは当然だったというカラクリがある。
『トリコロール』三部作で知られているクシシュトフ・キェシロフスキの放つこのシリーズは、製作の資金繰りにに苦慮した結果、ユニークな形で作られた。当時のポーランド・テレビは経営難に陥っており、10本の短編を制作する予定が8本しか作れない状況に陥っていた。『デカローグ』の製作を請け負った映画会社トールの美術監督であったクシシュトフ・ザヌーシは、劇場用に2本映画を製作し、海外の映画マーケットに売り込み、この2本をテレビ用に編集して埋め合わせるアイデアを思いつく。実際に作られた『殺人に関する短いフィルム』は第41回カンヌ国際映画祭にて審査員賞と国際批評家連盟賞を受賞。『愛に関する短いフィルム』も国内外で数多くの賞を受賞し、10本の短編からなる『デカローグ』も完成することができた。
このような『デカローグ』から一本選んで話すとするならば、第一話の「ある運命に関する物語」だろう。
本作は『デカローグ』の中でも隠れた最高傑作といえる作品だ。もし、あなたがエンジニアであれば興味深い世界に惹き込まれるであろう。話は唯物論者寄りの教授と、その息子との関係性に焦点が向けられる。大学で論理学を教えている教授は息子にパソコンを与え英才教育を施している。息子は、ラズペリーパイもない時代なのに、扉や蛇口を自動制御できるプログラムを開発するほどの優秀な人物であり、父の血を継いでいる。そんな息子が、雪道で死体を目撃したことから、論理的に解決できない不思議なことが起こるという話だ。教授、論理学、コンピュータといった、論理的や合理的象徴が画面を包み込むことから始まる。しかしながら、そんな象徴のひとつであるコンピュータからどんどん合理性が失われていき、神のような存在になっていく。結局、ヒトという生き物は、人智を超えたものを観たときにそれは神のような感情的存在として消化するしかないということをキェシロフスキは観客に突きつけた。シンプルながらも底が見えない程に奥深い作品であった。
69.プティ・カンカン2 クワンクワンと人間でないモノたち/Coincoin and the Extra-Humans(ブリュノ・デュモン、2018年、217分)

※MUBIより画像引用
ブリュノ・デュモンは、一見ゆるゆるガバガバに見えて非常に計算され尽くした逆張りが特徴的だ。『ジャネット』では、19世紀の世界観にヒップホップやブレイクコアの文化を持ち込むことで、子どもの大人に対する反抗を強調し、神聖化されたジャンヌ・ダルクを民話にしてみせた。そんな彼はいきなり、『キートンの蒸気船』のリメイクを始めるところから語ってみせる。
家からコワンコワンが出てくる。すると、奥から男が突進してくるのだが、彼はヒラリとかわす。さらに男が突進してきて、小屋に激突する。すると壁が落ちてきて、彼は潰されると思いきや、空きスペースに立っていたので生還するのだ。古典的なコミカルギャグを冒頭に提示することで、ブリュノ・デュモンのテーマが提示されるのだ。今回は、映画における非日常とは何かを深掘りしていく。
通常、映画の世界でも車は「走るもの」として認識されているが、本作ではパトカーは常に片輪走行、爆走、ドリフトしかしていない。また、頭上から漆黒のベトベトが落ちてきて、街はパニックになるのかと思いきや、「あっベトベトだ、くそっ」と言うのみで平然としている。
そして事態はドンドン悪化してくる。黒いベトベトは光を放ち、住民に寄生し始める。寄生された人は、お尻から全く同じ個体が出現する。まさしく『ボディ・スナッチャー』そのものである。本作がビザールな点は、宿主とそこから生まれた物体Xは同じ空間に共存しているところにある。何事もなく、日常を繰り返す。全く同じ存在。しかしながら、憲兵キャプテン・ヴァン・デル・ウェイデンですら「うぇ」と常に変な声をあげながら、街を徘徊しているだけなのだ。『ボディ・スナッチャー』は主人公以外、侵略に気づかない恐怖を描いている。対して本作は侵略に気づいていながらも、侵略に気づかないように振る舞っている様を通じて、昨今の分断した政治の中で異物を認知しながら自分はそちら側ではないと思いつつ、気がつけば侵略されている様を風刺しているといえる。
ちなみに、『プティ・カンカン』シリーズ最新作にあたる『L’Empire』では、スター・ウォーズのパロディから植民地主義を考察するような内容となっており、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』に登場するアミダラ女王の宮殿のロケ地・カゼルタ宮殿が使われている。
70.愛と宿命の泉 二部作/Jean de Florette-Manon des Sources(クロード・ベリ、1986年、244分)

※IMDbより画像引用
独身貴族であるセザールは、後継のために甥のウゴランの面倒をみるのだが、彼もまた結婚よりもカーネーション栽培の方が重要だと考える人であった。想像とはかなり異なる作品であり、人間のドロドロした関係性よりも美しい大地での農業描写にかなりの時間を費やしている。水源が映画の中で最も重要な要素となっており、井戸を掘る、近所の人に水を分け与える、雨乞いをするといったアクションを通じて人と人とが繋がる様子がリアルに描かれている。特に、水源が危機的状況になると、科学よりも祈りの方が優先され、それが人間関係を狂わすといった描写もあり興味深い。
映画的演出でいえば、長らくカーネーション栽培に夢中だったウゴランが、段々と恋愛に興味を持ち始め、ヒロインに求愛をするのだが心の差が生じてしまっている様子を崖での高低差で表現している。
71.本気のしるし 劇場版(深田晃司、2020年、232分)

※映画.comより画像引用
本来であればカンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出されたであろう深田晃司『本気のしるし 劇場版』。星里もちるの同名漫画をテレビシリーズ化し、それを劇場用に再編集した本作は、修羅場の釣瓶打ちともいえる作品の中にルッキズム問題を添える鋭利なナイフが光る傑作だ。
序盤、辻の働く玩具会社のオフィスで女性社員・細川の怒号が飛ぶ。部長が、みっちゃんにパワハラ発言をしたとして前言撤回を求める。その様子を辻の同期は、嘲笑する。大柄な女性で真面目なことに漬け込んで、「モテない」「面倒な奴」とレッテルを貼るのだ。しかし、辻が家に帰ると、細川が待っており、愛撫接吻を交わす。このシークエンスで、観る者はこの世界に蔓延するルッキズム由来の美から離れた存在に対する嘲笑を避けるために彼は恋愛を公言していないのではと想像することができる。そこに真面目で、おもちゃの軽微な不良や、パッケージの破れに気づき、困っている女性を放っておけない辻の欺瞞な側面を垣間見るのだ。だが、そんな観客の推測を裏切るように、社内恋愛禁止の要素を挿入してくる。まるで押見修造の漫画のように、決して観客の思惑通りに進めないという意志が、より一層この世の不条理を強調することとなる。細川は、叫ぶ。
「私だって甘えたい」と。
彼女は強い女として周りから無視されてきたが、彼女には介護や借金といった問題を抱えている。さらに外見で男に優しくされない。だから強くなるしかなかった。唯一、辻だけが自分をわかってくれると信じていたのに、絶対に「愛している」とは言わないのだ。社内恋愛がバレて細川さんが左遷させられる事態(しかも彼女だけ)になっても尚、彼は「愛している」とは言わない。同棲に近いことまでしているのに、中々内面を晒してくれず、見ず知らずの女には目の前で優しくする。
彼がみっちゃんの策略で、大量の花火の発注ミスが発覚する場面で、彼には多くの人が手を貸す。それに対して彼女はただ強い人として使い捨てられる。この世の残酷な現実について鋭く深田晃司監督は突いてくる。コロナ禍がなかった世界線で本作はパルム・ドールを受賞できたのではと思わずにはいられないのだ。
72.トレンケ・ラウケン/Trenque Lauquen(ラウラ・シタレラ、2022年、260分)

※映画.comより画像引用
2024年末、下高井戸シネマで限定的に上映されると想像以上の盛り上がりをみせ、一般公開だけでなくラウラ・シタレラ特集まで組まれた話題作『トレンケ・ラウケン』。本作はアルゼンチンの実験的映画集団エル・パンペロ・シネ(El Pampero Cine)の一本である。2002年に設立されたエル・パンペロ・シネは一般的な映画スタジオの発想を拒絶し、インディーズに特化した作りでコンスタントに規格外の作品を発表している。
ラウラ・シタレラ監督は、失踪と痕跡を軸とした作品を得意としており、『オステンデ』では、知り合いのいない地で匿名的他者として怪しげな男を追跡する様子を明瞭なイメージとピンボケしたイメージを往復させることで領域間を流離う存在を浮き彫りにさせていた。『ドッグ・レディ』では、プリミティブな生活を行いながらも定期的に都市部へ足を運び現代医療や施しを受ける奇妙なライフスタイルを描いていた。転々と彷徨いながらも生活の痕跡を残し続ける女性像がそこにあった。
そんな彼女の集大成『トレンケ・ラウケン』は田舎町を中心に、失踪した植物学者ラウラとそれを追う二人の男の物語を紡いでいく。遅々として真相に辿り着けない様子から、『ツイン・ピークス』を想起させ、謎解きというよりかは真実を追っていくプロセスに着目した方が良いことに気付かされる。ここでカイエ・デュ・シネマ2023年のベストに選ばれた『瞳をとじて』との類似性が浮かび上がっていく。失踪を軸に記録と記憶を結びつけていくのだ。実際に、男たちはトレンケ・ラウケンに住む人たちの記憶を辿っていく。そして男自身の記憶と結びつけ整合性を取っていく。一方でラウラの場合、記録を辿りながらトレンケ・ラウケンへ導かれていく。図書館で本を借りる。本を解体し、イタリアの地図と文書を取得し行動へと移っていく。また、彼女は植物を辿っていくこととなる。この記憶を辿る男たちと記録を辿るラウラが、時空間の結合によって編み込まれていく過程は興味深いものがある。
痕跡を追い逃げられの反復は番外編にあたる短編『The Miu Miu Affaire』へと継承される。ファッションブランドのMiu Miuの短編プロジェクトで制作された本作は、トレンケ・ラウケンにモデルがやってきて盛り上がるのだが、突如彼女が姿を消し、警察たちが行方を追うミステリーとなっている。そしてこのミステリーはファッションの本質を捉えることとなる。ファッションとは「誰かに見られたい」という欲動から生まれる一方で、生まれた時から他者の眼差しによってジャッジされる側面を持っている。モデルが失踪し、ファッションだけ残されることは、そういった眼差しから逃れることへのメタファーとして機能しているように思える。大衆は、眼差しを向けるのだが、ファッションの抜け殻しかない。眼差しを向けられる対象はミステリーの中で姿をくらませることにより自由となる。『トレンケ・ラウケン』と併せて観ることにより彼女の作品に対する解像度は上がるであろう。
73.戦争と人間 三部作(山本薩夫、1970-1973年、563分)

※MOVIE WALKER PRESSより画像引用
60年代の日本映画界は高度経済成長期の恩恵を受けていないかのように入場者数が落ち込み斜陽産業へと転がりつつあった。1970年、日活は経営難に陥っており、借金返済のために日比谷の本社ビルを売却し、大映と共同の配給会社を立ち上げた。そのような翳りを感じさせない日活映画が裏で公開されていた。
山本薩夫が手掛けた大河ドラマ『戦争と人間』三部作は、ソ連のモスフィルムが製作にはいっていることから、セルゲイ・ボンダルチュク『戦争と平和』さながらの大スペクタクルとなっている。一方で、日本昭和史に対して鋭く批判している作品でもある。
張作霖爆殺事件からアジア・太平洋戦争へ突入するまでの日本史を、新興財閥伍代家の視点から描いていく。次男の俊介は共産主義者との接触の中で家族に疑問を持つようになっていく。プロレタリア画家である灰山の作品を買うよう親に懇願する。だが、嫌味な口調で
「買ってやってもいいが、そんな作品じゃどこにも飾るところがない。乱暴に放り込んでおくが吉だな。」
「若いうちはひとつの考えに囚われてほかの考え方ができなくなる。物事の一面しか見えなくなるもんなんだよ。」
と説教を始める。お坊ちゃんでありつつも、人を救えない。ノブレスオブリージュの欺瞞性に気づいた俊介は家族を軽蔑していく。このような個の正義が、歴史の大きな物語の中で飲み込まれていき、殺戮・搾取の渦へと巻き込まれて行ってしまう切なさを情緒的に描いており、ショパン「幻想即興曲」の旋律が観る者の感情をも搔き乱していく。予算の関係で東京裁判による伍代家の破滅を描いた第四部が作られなかったことは残念だが、それでも本作は日本映画史に残る名作であることには変わりない。
74.アンダーグラウンド/Underground(エミール・クストリッツァ、1995年、314分)

※映画.comより画像引用
映画と現実はどこまで切り分けて考えることができるのか。プーチン政権寄りの発言が物議を醸しているニキータ・ミハルコフ監督の過去作『黒い瞳』が日本で再上映される件やイスラエルのナダヴ・ラピド監督や俳優のガル・ガドットの作品に対しどのように接したらよいのかといった葛藤を抱えている映画ファンは少なくないだろう。
政治と映画を考えを整理する際の取っ掛かりとして、親露派であるエミール・クストリッツァがパルム・ドールを受賞した『アンダーグラウンド』を観ることは無駄なことではない。
『アンダーグラウンド』は、セルビア・ベオグラードを舞台に、第二次世界大戦中からユーゴ内戦までの歴史を狂乱の虚構として落とし込んだ作品だ。本作が公開された当時、セルビア擁護の歪んだ歴史観から激しい論争を巻き起こした問題作でもある。
ナチスによる平面的迫害に対し、地下/地上の関係からなる垂直のベクトルを用いることによって混沌とする東欧史を立体的に見つめている。
共産党員であるマルコは武器商人として、ナチスの迫害から逃れた者を匿いながら武器を製造して私腹を肥やしユーゴスラビアのチトー大統領側近まで上り詰める。第二次世界大戦が終わっても、マルコは共通的であるナチスの存在を信じ込ませるために、地下に押し込めた避難民へ偽のラジオ放送を流し続ける。
本作ではバルカン半島の伝統的な音楽チョチェクが用いられ、戦禍を酩酊状態で駆け抜けていくような空気感が流れていく。ここで重要なことは、混沌とする社会の中では「今」を生きるためにその時の最適解を選び続けようとするところにある。マルコは戦禍の中、生き延びる手段として武器を作り続けることを選び、それによって地価の人々を騙し続ける。地下の人々は、ナチスの迫害から逃れるためにマルコを信じて武器を作り続ける。一方は富豪、他方は抑圧された存在と地上/地下の構図で双方を分離させているが、行動の本質は同様であり、社会情勢に麻痺してしまった動きがチョチェクの旋律によって惹き出されるのだ。これは『SHOAH ショア』における、収容所にユダヤ人を運ぶ列車の運転手が酒気帯び運転していた話にも通じる。
エミール・クストリッツァは本作にて、政治におけるナラティブ戦を描いているわけだが、そんな彼はユーゴスラビアの歴史を駆け抜ける中でロシアのナラティブに歩み寄ったのである。良い悪いは横に置き、どのような思考プロセスで現在の政治的立ち位置になっているのかを知る一本として『アンダーグラウンド』が重要な作品なのは間違いない。
75.君の名は 三部作(大庭秀雄、1953-1954年、371分)

※映画.comより画像引用
「君の名は」と聞けば、十中八九アニメーション映画のイメージが浮かぶであろう。しかし、2016年以前の時代では、ラジオドラマないし大庭秀雄の映画シリーズのことを示していた。映画版の主演を務めた岸惠子のストールの巻き方が「真知子巻き」として社会現象になっており小学館の「学習まんが 日本の歴史」でも取り上げられるほどの盛り上がりをみせていた。そんな「君の名は」だが、真知子巻き版とアニメ版には運命的エピソードがある。どちらの作品も、同じ年にゴジラが公開されているのだ。そして、奇遇なことにどちらの「君の名は」もゴジラより2倍以上興行収入を稼いだ作品となっているのである。
■1954年興行収入ランキング~邦画~
1.君の名は 第三部……3億3015万円
2.忠臣蔵(大曾根辰夫)……2億9064万円
3.七人の侍……2億6823万円
4.紅孔雀……2億4182万円
5.二十四の瞳(木下惠介)……2億3287万円
6.月よりの使者……1億6491万円
7.宮本武蔵(稲垣浩)……1億6341万円
8.ゴジラ……1億5214万円
9.ハワイ珍道中……1億5017万円
10.哀愁日記……1億4641万円
■2016年興行収入ランキング~邦画~
1.君の名は。……250.3億円
2.シン・ゴジラ……82.3億円
3.名探偵コナン 純黒の悪夢(ナイトメア)
……63.3億円
4.映画 妖怪ウォッチ
エンマ大王と5つの物語だニャン!……55.3億円
5.ONE PIECE FILM GOLD……51.8億円
6.信長協奏曲 ノブナガコンツェルト……46.1億円
7.映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生……41.2億円
8.暗殺教室~卒業編~……35.2億円
9.orange-オレンジ-……32.5億円
10.この世界の片隅に……26.7億円
【邦 画】 2016年(平成28年)
興行収入10億円以上番組より引用
マーヴィン・ルロイ『哀愁』を第二次世界大戦中の日本に置き換えた本作は、色褪せることのない切なさに満ちている。
東京大空襲中に出会った氏家真知子と後宮春樹。命からがら逃げ切った二人は縁を感じ、半年後の11月24日に数寄屋橋で会うことを約束する。しかし、この約束は果たされなかった。なぜならば、彼女は叔父の強引な縁談で佐渡に飛ばされていたからだ。スマホもSNSもない時代、大事な約束が果たされなければ今以上に心にモヤモヤを抱えることとなる。ひたすらすれ違い、しがらみによって欲望を阻害され病んでいく真知子にいたたまれなくなっていく三部作であった。
76.ニンフォマニアック/Nymphomaniac(ラース・フォン・トリアー、2013年、324分)

※IMDbより画像引用
ラース・フォン・トリアーが放つ5時間半におよぶポルノ叙事詩『ニンフォマニアック』は、目を覆いたくなるようなショッキングな性描写、暴力描写が数分に一度飛び込んでくる拷問のような作品である。しかし、本作ほどマンスプレイングの愚かな思考ロジックを的確にイメージに落とし込んだ作品はないだろう。
セリグマンは路地で倒れている女性ジョーを連れて帰る。色情狂と語る彼女の人生に耳を傾けていく。映画は、二人の対話を軸に構成されていく。各章は、イコンや壁のシミを軸にタイトルがつけられ語られていく。ジョーの話はショッキングで常軌を逸した内容が多い。イメージし辛い内容をセリグマンはフライ・フィッシングやポリフォニーといった異なる概念を当てはめながら理解しようとする。その理論はジョーの人生から脱線したものではあるが、逐一、概念を説明し理解した気でいるマンスプレイング仕草を積み重ねていく。対話は瞬発的な運動である。異常さを言語化しようとした際に、手頃な言葉を掴むも、それがあまりに表層的であるが故に生まれる笑いとして数学用語を用いているところが『ニンフォマニアック』の面白さでもある。特にジョーの性行為をフィボナッチ数列に例え、「フィボナッチ数列とはなにか?」をしたり顔で語り始める場面は本作最大の発明であろう。だからこそ、セリグマンに待ち受けるクライマックスの醜さに笑えるものがある。
『ニンフォマニアック』ではあまりに強烈なスペクタクルであるが故に、演出意図が手元から滑り落ちてしまいそうな場面がある。ジョーが大勢の男性の陰部をイメージする場面だ。フラッシュ暗算のように男性の陰部が映し出されショックを受けるのだが、その直後のセリグマンに注目してほしい。頭に「?」を抱いたような顔をしているのである。確かにジョーは信頼できない語り手の側面は強いものの、虚実はどうであれ、痛ましき性体験を重ねて来たことは事実である。つまり、男であるセリグマン以上に男を見てきた様をアイロニカルに描いているのである。10年ぶりに観直し、この場面が本質的に鋭利なことに気づかされたのであった。
【目次】
《第0章:まえがき》
《第1章:超長尺映画入門》
《第2章:超長尺映画作家たちPART1》
《第2章:超長尺映画作家たちPART2》
《第3章:果てしなく長い語り》
《第4章:戦争と平和》
《第6章:執念の眼差しとしてのドキュメンタリー》
《第7章:深淵なる実験映画》
《第8章:List of longest films掲載作品を観る》
※サムネイルはMUBIよりブリュノ・デュモン『プティ・カンカン2 クワンクワンと人間でないモノたち』の画像を引用
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