【上映時間3時間以上】超長尺映画100本を代わりに観る《第2章:超長尺映画作家たちPART2》
第2章:超長尺映画作家たちPART2
映画史を覗くと、長い映画に執着した監督とエンカウントする。監督が長い時間かけてその世界に没頭した経験を観客にも擬似体験させようとしているのだろうか。中には冗長で映画を編集することに対する怠慢を抱かせる作品もありつつも、超長尺映画作家の作品群と向き合うことで見えてくるものがある。第2章では各超長尺映画作家に対して複数本取り上げることで特性を見出していく。この章は非常に長いため、2回に分けることにした。本記事はその後編である。
■マノエル・ド・オリヴェイラ
100歳を超えてもなお映画を撮り続けたポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラであるが、国際的に注目されたのは1980年代と遅咲きであった。1981年の『フランシスカ』でカイエ・デュ・シネマの年間ベストに選出されて以降、日本でも紹介されたのだが、この時のオリヴェイラは既に終活のフェーズに差し掛かっていた。1982年に自分の創作について独白するルームツアードキュメンタリー『訪問、あるいは記憶、そして告白』を制作し、死後に公開することとなったのだが、この時の彼は知る由もなかった。自分がその後30年以上生き、この期間が黄金時代になるとは。そんなマノエル・ド・オリヴェイラは映画に演劇や文学、オペラなどといった要素を組み込み耽美的で複雑な世界へと我々を誘う。2025年にはBunkamura ル・シネマ渋谷宮下で特集が組まれ、マノエル・ド・オリヴェイラ監督を再評価する流れが到来した。
32.アブラハム渓谷/Abraham's Valley(マノエル・ド・オリヴェイラ、1993年、203分)

※映画.comより画像引用
ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラがフローベール「ボヴァリー夫人」をアルト・ドウロ地域に置き換えて描いた本作は、ボヴァリー夫人の欲動を「男性の眼差し(Male-gaze)」に対する反応であると定義している。
農園の階段で腰かけるエマ。畑仕事をしている農夫と目が合う。彼は気にしないように、目をそらす。しかし欲望を押さえきず、チラリと彼女へ眼差しを向け去っていく。たった数秒のできごとではあるが、十字架のネックレスに注目が向いていたはずのエマの眼差しは明確に農夫を捉えていた。そして、畑と彼女を往復するように眼差しのクロールを始める別の農夫の存在に気づかされる。不快に思った彼女は大げさにネックレスの入ったケースを閉じる。「無礼な人達ね、今に見ているがいいわ」と呟きその場を後にするのだ。
本作では、独自のベランダ論を用いて実際の振る舞いと心理を対比させている。ベランダに美しい女性がいたら思わず見つめてしまう。見られる側は「見られていること」を意識し、時に誘惑的な振る舞いをするものの、振る舞いと心理との間に壁を作ることができる。つまり、誘惑的な振る舞いをしつつも、欲望を隠すことができる。ありのままの振る舞いとしての「放縦」ではなく、欲望を意識しつつ思いのままに快楽を味わう「享楽的」な場としてベランダがあると定義する。その理論は、農夫からの眼差しに嫌悪を抱く場面の直後に反映されている。ベランダから不自然に身を乗り出す彼女。その違和感は、通り過ぎる人の視線を奪うようなものである。しかし、彼女の心理では男達の欲情を犯罪的だと思い、彼らに死が訪れるのをじっと待ち続けるといった欲望が渦巻いており、それが叶うかのように交通事故が発生する。
別の場面ではエマが2人の娘、カルロスと共に遠くへ眼差しを向けている。家族の肖像のようなイメージ。幸福な家族像に思える光景だが、エマの心は冷え切っており、欲望の矛先はカルロス以外の男がいるヴェスヴィオ園へと向いている。ただ、ベランダの内側からは欲望は丸見えであり、カルロスにエマの内面を見抜かれてしまうのである。
33.繻子の靴/The Satin Slipper(マノエル・ド・オリヴェイラ、1985年、410分)

※IMDbより画像引用
マノエル・ド・オリヴェイラ監督は、映画以外の分野を映画へ落とし込もうとする傾向がある。『アブラハム渓谷』では、ボヴァリー夫人において「月」がロマンチックな心理の表象として使われていた点に対し5種の「月の光」を冠する楽曲をテーマ曲として使用している。これにより感情の起伏が表現され、文学から映画への翻訳に成功している。『カニバイシュ』ではオペラの構造を用いながら、観客と演者との関係性をメタ的に描いている。
『繻子の靴』はポール・クローデルの同名戯曲を映画化した作品であり、16世紀を舞台にしているだけにマニエリスムを彷彿とさせる大胆かつ頽廃的な構図で描かれている。一方でワンシーンワンショットを軸とし、美術館で絵画を鑑賞してまわるようなイメージが強いため、映画になりきれていないイメージがある。この問題点は『カニバイシュ』にて解決されており、編集による魔法を使った後半の展開でもってオペラから映画への以降に成功している。
■ハンス=ユルゲン・ジーバーベルク
The Village VOICE誌にて「現代映画監督の中で最も偉大でありながら、最も注目されていない人物の一人」として紹介された孤高の鬼才ハンス=ユルゲン・ジーバーベルク。リヒャルト・ワーグナーを意識した壮大なオペラ的世界を映画にしているため、必然と上映時間が長くなる。一見すると演劇をそのまま撮影したライヴビューイングに近い作品のように思えるが、ドイツ表現主義、シュールレアリスムな空間構造が演劇の拡張としての映画へと昇華させている。観る者を驚愕させる圧倒的なイメージの応酬に無量空処を食らったかのような感覚に陥るのである。
34.パルジファル/Parsifal(ハンス=ユルゲン・ジーバーベルク、1982年、255分)

※IMDbより画像引用
ニュー・ジャーマン・シネマもとい映画史の中で最も偉大でありながら最も顧みられない現代の映画作家として知られているハンス=ユルゲン・ジーバーベルク。総じて長尺、難解、鑑賞機会が少ないため、日本でも有名な割に語られる機会は少ない。
彼の代表作のひとつである『パルジファル』は題名からもわかる通り、ワーグナー最後の作品の映画化である。全編オペラで構成されている今からすればライブビューイングに近い作品でありながらも、映画的イメージの探求に溢れた傑作だ。
舞台と映画の違いは視点の操作性にあるといえる。舞台の場合、客席から向けられる固定された視点により空間が認知される。客席ごとに見え方が異なるため、舞台演出家は視点が制御できない状態でいかに舞台を作り込むのかを考える必要がある。一方で、映画の場合はカメラと被写体の関係性により意図した構図を提示することができる。映画史においてもローレンス・オリヴィエが『ハムレット』で実践しており、急勾配な階段を反復して捉えることで生と死の境界線を意識させていたり、城の屋上を異界のような空間にすることで心象世界を創り上げているなどといった映画的な空間づくりに成功している。

※IMDbより画像引用

※Wikipediaより画像引用
『パルジファル』の場合、絵画における奥行きを意識した構図に運動を当たることで映画的な空間を生み出そうとしている。たとえば、巨大な本を前に女性たちが透き通った声で共鳴させる場面は、チマブーエやフラ・アンジェリコなどといったフィレンツエ派絵画を彷彿とさせる平面的空間の一部の奥行きが強調され、鑑賞者の眼差しを向けさせるものとなっており、下から立ち込める煙が神秘的空気を与えている。
また、岩の陰から覗き込むような映画的凝視ともいえるショットが随所に張り巡らされており、オペラを観ている中で映画の世界へと迷いこんでしまったかのように錯覚するような演出となっている。まさしくオペラもとい演劇の拡張としての映画の実践例として観ることができる。
35.ヒトラー、あるいはドイツ映画/Hitler: A Film from Germany(ハンス=ユルゲン・ジーバーベルク、1977年、410分)

※IMDbより画像引用
ヒトラーを生み出してしまったドイツにおいてどのようにヒトラーを表象するか。ハンス=ユルゲン・ジーバーベルクはオペラを軸に、フッテージ、絵、人形などといった異なるオブジェクトを層のように重ねながら、空間を繋げ合わせることで多角的な側面を見出そうとする。このあまりにも異質な空間は、唯一無二の世界を生み出しており、悪魔的魅力に満ち溢れている。墓から蘇り、人形によって語らされるヒトラーと忘れることのできない強烈なヴィジュアルは、凶悪でありながら人々の関心を集め続けるヒトラー像を風刺しつつ、ミイラ取りがミイラになってしまうような危うさを持っている。何度でも復活し語られるヒトラー、その時に我々はどのように語るのか、どのように解釈するのかといった問いを突き付けてくる一本である。
なお、The Village VOICEの記事「After More Than a Decade, Hitler Comes to Town」によればアメリカでは、本作はフランシス・フォード・コッポラが配給し、スーザン・ソンタグが「20世紀の偉大な芸術作品のひとつ」と批評し話題となった。
■テオ・アンゲロプロス
ギリシャ神話を題材に20世紀のギリシャやバルカン半島の歴史を重ね合わせるアプローチはどこかジェイムズ・ジョイスを彷彿とさせる。しかしながら、ジェイムズ・ジョイスと異なるのは、テオ・アンゲロプロスは移動を主体としており、人々が大きく移動する中で社会や歴史が動いていく様を捉えている。つまり、ミクロな人の動きが社会を動かしていく。その表象として映画が用いられているのである。また、彼は映画(虚構)と歴史(現実)との関係をメタ的に描くために演劇的要素を物語へと組み込んでおり、物語がどのように社会を投影していくのかについて静かに向き合っている。
36.旅芸人の記録/The Travelling Players(テオ・アンゲロプロス、1975年、230分)

※IMDbより画像引用
社会主義新聞の批評家であったテオ・アンゲロプロスが秘密裏に制作を行ったこの叙事詩は、文学と歴史を旅で繋ぎながら政治と地続きの関係にあるものを紐解こうとしている。ギリシャ神話を現代へ写像していく関係性はジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」を彷彿とさせるものがあり、後に『ユリシーズの瞳』を撮ったのも必然といえよう。
そんなテオ・アンゲロプロスのマスターピースである『旅芸人の記録』は、『ユリシーズの瞳』の予行ともいえる作品となっており、ギリシャ悲劇「オレステイア」の登場人物を一座のメンバーに割り当てながら歴史を物語ろうとしている。
また、テオ・アンゲロプロスは文学と歴史を繋げるアプローチとして映画における拡張された舞台性を強調している。舞台を観ているように平面的なショットを主軸とする。軍が集まる重々しい空間を捉える。カメラはこの空間を切り返す。フレームの外側にも軍人が群を形成し、まるでロボットのように各々の役割を演じる。つまり、演劇的構図が織りなす虚構的空間が地続きで現実に伸びており我々の問題としてそこにある様を表象しているのだ。
旅芸人は行く先々で「羊飼いの少女ゴルフォ」を上演しようとするも政治的理由で邪魔が入る。虚構を通じ、自らの物語を紡ぎ歴史と繋がろうとするも軍事政権により弾圧されてしまう。婉曲に語ることすらできない痛ましさを観客に突きつけるのである。
37.アレクサンダー大王/Alexander the Great(テオ・アンゲロプロス、1980年、208分)

※MUBIより画像引用
アレクサンダー大王の物語を通じて、社会主義国家の夢と終焉を描いた本作はテオ・アンゲロプロス監督がビザンチン様式のような作品だと語るように環が強調された一本である。
アテネの刑務所から逃亡した山賊がマケドニアの山地にある共産村へとやってくる。リーダーは自らを伝説的英雄「アレクサンダー大王」と名乗り、村人たちを束ねていく。村人たちは匿名的存在として扱われ、黒い服を纏った彼ら/彼女らが広場へと収斂していく様子をヤンチョー・ミクローシュさながらの長回しで描くことで、イデオロギーの形成を表象していく。アレクサンダー大王自体は劇中1度しか声を発さない。それも大衆への語り掛けではなく自問の声のみであること。そして、村人たちは歌でもって団結していく点が重要となってくる。
政治的流れは個々の市民によって生み出されている様が強調されているのだ。人々が同じベクトルを向くためには共通の認識が必要である。その共通認識として歌が存在する。ミサにおいて司祭が宗教でもって人々を牽引するのに対し、歌は村人たちから能動的に発せられる。自分たちの意志であるように思えるが、そのベクトルの先にはアレクサンダー大王いる。つまり、イデオロギーにおいて対象が存在し、群である大衆はその対象を時に崇拝し、時にギリシャの言葉における「テオファジー(神を食べる)」へと発展していくのだ。
■ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
トルコの名匠ヌリ・ビルゲ・ジェイランの作品は重厚な小説のような味わいで人間同士の軋轢を描いていく。ヒリついた会話の中で人間心理を掘り下げるのに長けた監督であるが、特に『二つの季節しかない村』『雪の轍』におけるマンスプレイニング描写の解像度が異様に高く、真面目な顔をして持論を解き放ちつつも醜悪にしか見えない様は実に滑稽である。
38.二つの季節しかない村/About Dry Grasses(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、2023年、197分)

※映画.comより画像引用
美術教師サメットが「親には言うんじゃねぇよ、俺が叩いたとか蹴ったとか」と体罰の気配をチラつかせるところから物語は始まる。生徒の声からも、特定の生徒を贔屓にしている厭な教師であることがうかがえる。そんなサメットは職員室ではなく、物置小屋のような場所を拠点にしているのだが、ある日、流出したセヴィムのラブレターと思われるものを入手。この部屋でニヤつく顔を見せないようにしながら読み始める。そこへセヴィムが現れ「手紙を返して」と懇願されるのだが、「俺は知らないよ」としらばっくれる。執拗で陰惨な問答が行われる。
これは因果応報のように校長室へと返ってくる。別の日に職員室へ呼び出されたサメットは生徒から不適切な接触があったと告発されていると言われる。「誰だ?」とキレだすのだが、コンプライアンスがしっかりしているため、関係者は一切告発者の名を発しない。一方で、この事件は内々で処理されることとなる。表沙汰にはならなかったものの、村で噂をされるかもしれないという被害妄想と自己弁護に脳が支配され、心の拠り所を探す中で義足の女ヌライをターゲットにする。
本作は、加害者である男がその加害性を否定するために心の避暑地を見つけようとする醜悪さを辛辣に描いている。カメラはサメットの会話を捉え、その端々にプライドの高さや冷笑を見出している。たとえば、ヌライとの会食の場面で、国際平和について語る彼女に対して「世界全てを救うのは無理だ」と冷笑し、その振る舞いに対し詰められると、なんとかマンスプレイニングを成功させようと詭弁を捲し立てながら勝利し、肉体関係へと持ち込んでいく。彼の利己的な側面はその前で生徒に「勉強なんてしたって無駄だ、お前らはブルジョワのためにジャガイモやテンサイを育てることしかできないからな」と教師として最悪な呪いの言葉をぶちまけている。生徒に対するむき出しの暴力性に対して、冷静さを装いつつもヌライをコントロールしようとする展開にゾッとさせられる。
ここで面白い技法が使われている。ヌライとの対話が終わると、サメットは外に出るのだが、これが映画のセットなのである。突然メタ的な演出が始まり、サメットは更衣室の鏡を見つめ、何事もなかったかのように本編に戻る。これは、他者にどうみせたいかと本音の側面を強調した場面であろう。加害者ではない博識な存在として認められたい思い、それがかなわなかった時の憤りが本編で提示される。そして、彼は「自分が加害者としてみられたらどうしよう」と思っているのだが、それは本編の外側の安全圏に保管されているのである。
この演出を肉付けするために、『二つの季節しかない村』では写真や肖像画の反復が使用されている。サメットが写真を撮る場面では、いくつかの写真が並べられる演出となっているのだが、これがハイパーリアリズムアートのような質感を持っているのである。
世界遺産ネムルト・ダーにて、自慰ポエムを吐露しながら山へ登り回想する場面でこの正体が明らかとなる。「セヴィム、いろいろあったが、お前はいい女だ」と語りはじめるのだ。内なる他者として女学生を召喚し、疑似的に許しを与える凶悪さがある。だが、それは妄想の中で完結している訳ではなく、すでにヌライを避雷針にすることで達成されているのだ。ハイパーリアリズムにおける虚構と現実の交わり具合が、内なる他者の現実への浸食とそれによる加害性へと繋がっており興味深いものとなっていた。
ちなみに、この場面でネムルト・ダーへ行くことは重要な意味を持っている。ネムルト・ダーはコンマゲネ王国のアンティオコス1世がネムルト山の山頂に自分を埋葬することで神聖化しようとした遺跡である。そのため、サメットがネムルト山を登ることは、自分は悪くない存在であることを昇華させていく行為なのである。
39.雪の轍/Winter Sleep(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン、2014年、196分)

※映画.comより画像引用
「悪に抗わないとはどんな意味だと?」妻二ハルは、小説にムカつく男を投影させたと自慢げに語る夫アイドゥンに対して問いかける。狼狽しつつも「悪と定義される出来事に対し倫理的枠組みにおいて無関心でいること」と答える彼に対し安易だと評価する。アイドゥンはインテリっぽく言葉を紡いでいくのだが、手頃な理論で丸め込み少年が夫の車に投石した本質と向かい合えていない様を嘲笑う。篤志家である二ハルは思想家が本気で大きな問題と向き合えば、些細な関心事は解決すると考えているが、彼女の助言を見下し、俳優になれなかった人生、日々の鬱憤を小説に呪詛のように書き連ね、それを自慢げに語る様に幻滅している。映画はひたすら苦しむことから逃げ自分を誤魔化し、行き場のない自己の中で醸造された理論を二ハルに「教える」ことでアイデンティティを保っているマンスプレイニング仕草をチクチクと突くのである。『雪の轍』は第67回カンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞した。脚本賞が近いような気もしたが、この時の脚本賞がアンドレイ・ズビャギンツェフ『裁かれるは善人のみ』であったことを考えると順当な栄冠だったといえよう。
余談だが筆者はフランス留学中、意中の女性とデートで本作を観に行ったのだが浅墓であったのはいうまでもない。恋は盲目、『雪の轍』の本質を掴んでもいないのに観た後、この映画の解説をしていたのである。再観して頭を抱えたのであった。
■クリスティ・プイウ
ルーマニアの異才クリスティ・プイウは小さな世界へ眼差しを向けることで閉塞感溢れるルーマニア社会の輪郭を捉えていくことに長けている。『シエラネバダ』をはじめとし、一貫して狭い空間に人を押し込めていくので我々は真綿を詰められたかのような息苦しさを抱く。『ラザレスク氏の最期』を例に挙げれば、その異様な世界はイメージしやすいであろう。
ラザレスク氏は腹痛、頭痛に見舞われ、電話をする。
「救急車をよこしてくれ」
しかし、20分経っても救急車は来る気配もなく再度電話をする。この間にも刻一刻と彼の体は蝕まれていく。あまりに救急車が来ないので、近所の人に助けてもらいながら待つとようやく救急隊員が来る。しかし、なかなか救急車に乗せてもらえない。「明日になったらよくなっているよ」となけなしの言葉をかけて、病院へ連れていこうとしないのだ。というのも、医療現場が崩壊しており、十分人を受け入れる余裕がないらしいのだ。医療崩壊したルーマニア社会の地獄のような盥回しがここで描かれているのである。
今回、このような陰惨なルーマニア社会を3時間以上かけて描いた作品として『荘園の貴族たち』『Aurora』を取り上げていく。
40.荘園の貴族たち/MALMKROG(クリスティ・プイウ、2020年、201分)

※映画.comより画像引用
『ラザレスク氏の最期』や『シエラネバダ』を踏まえると、ルーマニアの異才クリスティ・プイウは空間の内外から人間心理や社会を見つめているのかもしれない。その様はヨルゴス・ランティモスを彷彿とさせるものがある。
前作『シエラネバダ』では狭い部屋に何人もの人を密集させてルーマニア史における世代断絶のヒリヒリとした会話と遅々として進まない物事が描かれてきたのに対してこの『荘園の貴族たち』では終始ソーシャルディスタンスを取りながら属性違いによる意見の対立とマウント合戦が描かれていく。
安全圏である屋敷の中でひたすら痴話喧嘩を繰り広げる。これは政治や戦争とは無関係に、安全圏から言葉を銃のように撃ち合いをしているだけにすぎない。だからこそ、中盤で屋敷が襲撃される部分は皮肉に満ち溢れている。安全圏からの議論が、外側から瓦解していくのである。
41.Aurora(クリスティ・プイウ、2010年、185分)

※IMDbより画像引用
『シエラネバダ』や『荘園の貴族たち』は社会の縮図として家や屋敷が使われていた。一方で『Aurora』は自他の境界線として家の空間が効果的に使われている。離婚した男は感情の行き場を失う。部屋でイライラを紛らわせるためかショットガンを組み立てる。時に、自殺を試みようとするが死ねない。外は淀んだ空気が流れており気分を害する。やがて、ショットガンいじりは殺意へとベクトルが向いていき、離婚調停の関係者を殺害していく。
1時間付近と2時間付近に大きな殺害のシーンがあり、その前段階を男の運動を軸に描いていく。ある種、『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』に近い手法で殺害までのプロセスが描かれていく。男はショットガンを持つと、目や動きにノイズがなくなる。殺意というベクトルに向かって感情が整うからだ。一方で、その殺意を誰かに知られてしまうのではといった恐怖に怯えている。カメラは隠し撮りのような角度で男を捉えることにより、彼の不安を煽る。また風呂場の穴や部屋の受話器などといった舞台装置を活用することにより心理を掘り下げていく。犯罪心理学の教材としても有効な一本であろう。
【目次】
《第0章:まえがき》
《第1章:超長尺映画入門》
《第2章:超長尺映画作家たちPART1》
《第3章:果てしなく長い語り》
《第4章:戦争と平和》
《第5章:シリーズを完走する》
《第6章:執念の眼差しとしてのドキュメンタリー》
《第7章:深淵なる実験映画》
《第8章:List of longest films掲載作品を観る》
※サムネイルは映画.comよりマノエル・ド・オリヴェイラ『アブラハム渓谷』の画像を引用
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