【上映時間3時間以上】超長尺映画100本を代わりに観る《第3章:果てしなく長い語り》
第3章:果てしなく長い語り
第3章では超長尺映画中級以降のフィクション作品について語っていく。文芸ものを始めとし、長い時間かけて世界や複雑な人間心理に迫っていくような作品が多いような気がする。また、長い映画といえばインドである。『バーフバリ』旋風以降、日本でもインド映画の盛り上がりが長らく続いている。そんな中、私は『炎』を取り上げることにした。「101 Cult Movies You Must See Before You Die」に掲載されるアミターブ・バッチャン出演の伝説的なアクション超大作でありながら日本ではほとんど観る機会のない作品が数年前にJAIHOで配信されたのである。インド版シティーハンターとして後に紹介していく。
42.カラマーゾフの兄弟/The Brothers Karamazov(イワン・プイリエフ&ミハイル・ウリヤーノフ&キリール・ラヴロフ、1968年、232分)

※MUBIより画像引用
日本では「100分de名著」や「まんがで読破」と、世界の名著をライトに知ることのできるコンテンツがあり、タイパ/コスパ時代のニーズを満たしている。読書は時間と体力を多く使う活動であり、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読破しようとなれば1か月近くはかかるだろう。
文芸映画が作られるのは、映画という上映時間に圧縮されたもので気軽に作品世界へアクセスできるメリットから来るのかもしれない。確かに映画基準で考えると3時間超の作品は長いわけだが、小説の観点からいえば4時間あっても短い。
「カラマーゾフの兄弟」は膨大な登場人物と各キャラクターが複数の名を持つため、読解が困難な作品ではあるものの映画になることで顔と名前が一致しやすくなる。これ以上に映画に最適な小説はないだろう。しかし、4時間あったとしても登場人物の交通整理に苦慮しているところがあり、我々が世界に没入する前に事象が通り過ぎてしまう感は否めない。
一方で、「この世にブスは存在しない。どんな女性にも魅力があり、それを見つけるのが善き行為だ」と小説が物語を通じて真理や理論をみつけ紡いでいくような言葉は離さず握り続けており、文芸映画の代表ともいえる風格を担っている。
43.牯嶺街少年殺人事件/A Brighter Summer Day(エドワード・ヤン、1991年、238分)

※映画.comより画像引用
エドワード・ヤンの伝説的一本である『牯嶺街少年殺人事件』は、マーティン・スコセッシのワールド・シネマ・プロジェクトとクライテリオン社の共同企画で4Kレストア版が作られたことにより、画面が暗くて観辛かったVHS時代を経験した者にとって新しい発見のある作品へと蘇った。
本作は小さな暴力の積み重ねによって構成されていく一本だ。暴力の遂行/未遂が交差することによって独特の緊迫感が生まれる。夜間学校でチンピラに追われる場面では、階段を駆け下りるも群れに挟まれ、逃げるように階段を上る過程でリンチされる。一方で、教室の扉から気配を感じ、窓から飛び降りるように逃げることで暴力から逃れる場面もある。常に暴力の気配がある中、実際にそれが行使されるとすぐに場面が転換する。4時間近い作品でありながらカット捌きはとても早く、事件を断片的に魅せることを徹底することで観る者の心をザワつかせる居心地の悪さがある。
この独特な空気感の中、終盤に少女が銃を誤射する場面がある。兵隊ごっこの中で彼女が銃を撃つ。銃弾が入っており、火花を散らす。ヒリつく間がそこに広がる。観客はフレームの外側にある死に関心が向く。カットが割られると、彼は生きていた。安堵の瞬間を与えるように見せかけてビンタが飛ぶのだ。この未遂に終わる暴力と遂行される暴力が凄惨な事件のアクセントとして機能しているといえよう。
44.DAU.退行/DAU. Degeneration(イリヤ・フルジャノフスキー&イリヤ・ペルミャコフ、2020年、369分)

※映画.comより画像引用
2020年代、コロナ禍により映画館は閉まった。新作映画が観られず鬱屈した日々ではあったのだが、とあるコンテンツが一部界隈で話題となった。それがイリヤ・フルジャノフスキーとイリヤ・ペルミャコフによるDAUシリーズだ。
DAUシリーズとは、ウクライナ・ハルキウに物理学者レフ・ランダウが生きた時代を再現し、1万人以上におよぶエキストラをその空間に3年間送り続け、700時間におよぶ映像から、14もの作品を作る驚異のプロジェクトである。コロナ禍、公式サイトでは定期的に新作を配信しており、日本からでも観ることができたため、DAUシリーズで新作欲を紛らわせていた。シリーズ第二弾にあたる『DAU.退行』は6時間越えの超大作であった。驚くべきことに、トランスフォーマー配給で日本でも公開された。
実際に観るとテレビシリーズと映画の垣根がなくなった2010年代以降の映画における悪い特性が如実に表れた作品であった。それは編集に対する怠慢が前面に出てしまうことである。
あらすじをからは、潜入もの特有のサスペンスが楽しめたり、『武器人間』に近い異様な実験光景を目の当たりにできるのではと期待するだろう。しかし、6時間におよび冗長な会話が展開されるものとなっている。
冒頭、テスラコイルを囲み、理論的実験なのか、宗教的儀式なのかよく分からない光景が描かれる。レフ・ランダウ博士は、既に老衰状態で、要介護の状態だ。そんな彼を横目に、『DAU. ナターシャ』から15年近く経過したカフェなどを経由して連日関係者はお祭り騒ぎである。
そんな研究所にKGBからスパイが送り込まれる。彼のミッションは、被験者として研究所に潜入し、内部から組織を解体することだった。屈強な彼は己の肉体を鍛錬させながら少しずつ内部を汚染させていく。日常が崩壊していく過程は、今の世界こそ超高速で移ろいゆくが、本来は徐々に徐々に侵食され、気が付いた時には後戻りできなくなっているものだ。その「徐々に」を描くために6時間という長さを要したのだろう。ただ、猥雑で虚無、まるで知らない人の結婚式に紛れ込んだような退屈さを6時間体感させるのは拷問に近い。
そして、崩壊する過程を体感させるのであればやはりインスタレーションの方がむいていたような気がする。実際に、DAUはパリでインスタレーションとしても展開された。本作の崩壊までのプロセスは、長時間観客の五感を完全にソ連に投げ入れ、混沌と偶然の中から崩壊の糸を見つける演出の方がよかっただろう。映画は、映画として固定されている。偶然という一回性も、複製されてしまう。それ故に、「編集されている」という状態が重要となってくる。このように考えると、偶然性が支配するインスタレーションの方が傑作になり得たであろう。
45.夢の涯てまでも/Until the End of the World(ヴィム・ヴェンダース、1991年、287分)

※映画.comより画像引用
淀川長治が酷評したことでも知られているヴィム・ヴェンダース『夢の涯てまでも』。確かに、後半の夢を具現化させる装置を開発する場面こそ冗長に感じるものの、一見の価値はある。『夢の涯てまでも』は、終末世界を舞台にイタリア、フランス、ロシア、日本と旅する女性が主人公だ。ドライブしていたら前の車が瓶を投げ捨て、窓ガラスは大破。そのまま横転するも女性は生き残る。そんな彼女には運命があるといった語り口で物語は始まる。
本作は90年代における電話と人間の絶妙な距離感を封じ込めた作品として興味深く観ることができる。今やスマホで鮮明な映像が観られ世界中のあらゆる情報にアクセスできる。しかし90年代、まだテレビ電話も新鮮な時代において、情報へアクセスするのには距離があったように思える。テレビ電話をするのだが、そこには遠くにいるという感触があるのだ。またどんな僻地でもテレビ電話がある様は、現代においてマサイ族はもちろん、チベットの辺境の小僧でもスマホを持っており、なんなら観光客からQRコード決済で小物を売る様を予言しているかのような先見の明がある。
現代人は小さなモノリスを覗き込むばかりで世界の美しさを瞳に焼き付けることはすっかり少なくなってしまった。本作では、壮大な自然描写とインナースペースへの眼差しとして扱われるデバイスを対比させ、現代人が忘れてしまったものを蘇らせようとしている。
46.メクトーブ,マイ・ラブ/Mektoub, My Love: Canto Uno(アブデラティフ・ケシシュ、2017年、181分)

※映画.comより画像引用
タイトルの「メクトーブ」とは、アラビア語における「書く」の受動態。つまり、このタイトルを直訳するならば、「書かれた我が愛」である。だが、「メクトーブ」にはもう一つ意味がある。それは「運命付けられた」である。つまり、この映画は主体的に書くことを生業にしている主人公が運命の赤い糸に翻弄され、受動的物語に取り込まれていく様を風刺したタイトルとなっているのである。そんなフランソワ・ベゴドー「La Blessure, la vraie」を映画化した本作は美しいビーチの情景に反して辛辣だ。
アミンはパリで脚本を片付け、故郷へ帰ってくる。ヴァカンスだ、雨なぞ知らんと言いたげな陽光がギラギラ照りつけ、誰しもが羽織りものから解放されたがり、本物の恋はやれ爽快となっているリゾート地に住む友人オフェリーの家へと訪れる。しかし、オフェリーはチャラ男でアミンの従兄弟であるトニと、夜を彩る花火のように燃えて、燃えて、燃え尽きるまで肉欲に肉欲をぶつけ合っているのである。アミンは呼び鈴を鳴らすことすらできず、そっと壁に耳をあて、愉しみの一部始終を指咥えて見守る。やがて訪れる事の終わり。彼はようやくオフェリーの家に入る。スカした顔をし、笑みを浮かべながら他愛もない話をする。それしかできない。そんな彼は、夜の街にパリピな集団と共に繰り出し、現実を目の当たりにする。
彼はオフェリーのことが好きだが開始早々、心が折れる。チャラ男のトニを始め、次々と女を口説く。街の女たちは、レストランのメニューを見ただけで爆笑するほど、笑いのツボが弱く、とにかくハイテンションだ。そんな、狂乱の空間でアミンは、「俺も女をゲットするぞ!」と意気込むのだが、悉く上手く行かない。トニは浜辺にいる女セリーヌとシャルロットにナンパを仕掛ける。
「座ってもいいかい?」
そして、俺はレストランを経営しているんだぜ、アマメットって知ってる?チュニジアにあるんだぜとグイグイ引き込み、シャルロットをそのまま海へ連れ出す。そんな彼に羨望の眼差しを抱きながら超絶美人のセリーヌに頬を染めるが、全くもって会話が弾まない。とことん、アミンは迷える子羊、ストレイシープなのだ。彼はわかっている。パリピな連中と自分の話は合わないと。だから、折角女たちが「ねぇねぇどんな脚本書いているの?」と興味津々に尋ねているにも関わらず、つまらなそうに「SF映画の脚本さ、ロボットのでてくるね」と答えてしまう。
『メクトーブ,マイ・ラブ』は肉欲と情熱が滾るビーチを前に何もできない男のヒリつく感情が3時間焼き付けられる作品であり、大胆な構成ながらも繊細な心理が投影されている傑作だ。
一方で、監督のアブデラティフ・ケシシュは、『アデル、ブルーは熱い色』制作時に性的虐待が行われたとし論争が巻き起こっており、『メクトーブ,マイ・ラブ』の続編にあたる『Mektoub, My Love: intermezzo』は3時間半近くにわたりポルノ的シーンが続き、出演者であるオフェリー・バウが監督からオーラルセックスシーンを強要されたと主張したことも相まって第72回カンヌ国際映画祭での上映以降お蔵入りとなっている。フランスメディアCHAOS誌によれば2022年、2時間10分に編集したバージョンがパテ配給で公開される予定だったのだが、権利処理等の問題が解決しておらず、結局2025年時点でフランス本国での劇場公開は叶っていない。ところが、2025年7月に驚くべきニュースが舞い込んできた。

突如3作目『Mektoub, My Love: Canto Due』の
アナウンスが出現した
世界有数の映画祭ロカルノ映画祭の2025年コンペティション一覧が発表されたのだが、そこに3作目『Mektoub, My Love: Canto Due』が入っていたのである。筆者が調査した段階では、海外メディアでも本作にまつわる問題が解決されているのかどうかは不明であった。ハラスメント問題に関するステートメントが監督から提示されることを願いたい。
このような問題を抱えている監督ではあるが、『メクトーブ,マイ・ラブ』は男性の加害の心理を生々しく捉えた一本として一見の価値はある。
47.象は静かに座っている/An Elephant Sitting Still(フー・ボー、2018年、234分)

※映画.comより画像引用
初監督作にしてベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞したものの、プロデューサーとの対立で監督が自ら命を絶った4時間近くにおよぶ問題作『象は静かに座っている』。
本作は超長尺映画におけるその長さである必然性について考えたくなるものがある。この手のスキャンダラスな映画は、情により高評価になりがちだ。また長時間にわたり息苦しい空間を提示するため、「長時間映画に耐えた」という達成感から高評価になりがちだ。この映画が厄介なのは、上映時間への批判に対して「監督にとっては大切だった」「中国社会の閉塞感を体感させるために必要な時間だった」の二言でカウンターすることが可能となっている。
『象は静かに座っている』は閉校が間近に迫った学校で起きる事件により動かされる人々の群像劇だ。いじめられっ子の少年は、家に居場所がない。学校でもガキ大将に怯えながら暮らしている。そんなある日、友人が携帯電話を奪ったとガキ大将が言いがかりをつけているのを庇おうとして彼を階段から突き落としてしまう。どこにも居場所がない彼は象のいる地を目指す。そこに、彼と同じ団地に住む、家を追い出された爺さん、ヤクザ、少年と同じクラスの女の子が絡んでいく。
ヤクザと愛情を失った女性の長いランチの終盤に厨房が炎上し、ヤクザが厨房の店主を助ける場面のカメラワーク。老人ホームの自分の物語を失い、ただただ時だけが流れる様。ヤクザと少年の決闘シーンなど確かに素晴らしいショットは多い。しかしながら、監督が感極まり4時間の素晴らしいショットから苦渋の選択をして挿話を削ることを諦めたような印象を受け、挿話同士の結びつきが巧くいっていないように思える。
たとえば、老人のパート。愛犬を失い孤独の淵を彷徨う彼が、もがき苦しんだ末に新たな家族を獲得するのが肝となっている。そのために少年と少女が機能しているのだが、老人は新たな家族を得る前に孫を誘拐するのだ。それにより、閉塞感しかない世界から見える一抹の光によるカタルシスが弱まってしまう。少年の家庭内境遇と少女の家庭内境遇が似ており、さらに少女の妊娠の話が群像劇として効果的に見えないため蛇足に感じてしまう。確かにワン・ビン作品のような人の群れを通じて中国社会の息苦しさを表現する様は通底するもののその長さに意味を見出すことができなかった。
余談だが、2019年シアター・イメージフォーラムで本作が公開された際、同じ劇場で『サタンタンゴ』『読まれなかった小説』も上映されており、超長尺映画専門館となっていた時期があった。面白いことにこの3作はすべてビターズ・エンドが配給しており、映画界隈を震撼させた。
48.ベルリン・アレクサンダープラッツ/Berlin Alexanderplatz(ブルハン・クルバニ、2020年、183分)

※映画.comより画像引用
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーがテレビシリーズ化したことでも知られている現代ドイツ文学の金字塔「ベルリン・アレクサンダー広場」をアフリカからヨーロッパを目指す不法移民の話として映画化した『ベルリン・アレクサンダープラッツ』は、ドイツに適応しようとしてアイデンティティが失われていくアフリカ人の肖像を荒々しく画面に打ち付けている。
本作では、アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウ、ガーナと様々なアフリカの国名が出てくる。しかし、それは表面的でその国の内部までは描かれない。本作に登場するドイツ人は、国名こそ知っているが最終的に「黒人」に収斂していき、雑にアフリカ人を扱っていく。主人公フランシスは難民としてドイツに流れ着く。必死になってたどり着いたドイツに夢を抱き、少しでも幸せになろうとするが、ドイツ語ができない上に金もビザもないので、怪しげな労働に手を出さざる得なくなる。地の底にいるものにとって「真っ当な人間として生きる」ことは高嶺の花なのだ。そんな彼は、怪しげな男ラインホルトへと惹かれていく。カルト教祖のように黒人の前に現れて電話番号を書いた札をばら撒く彼。明らかに怪しい男であるが、次第にフランシスは彼に取り込まれていき、危険な仕事に巻き込まれていくのだ。そしてドンドンと「真っ当な人間として生きる」ことから遠ざかっていく。代わりに、ドイツで生きる為にフランシスの名を捨て「フランツ」として生きるようになっていく。
本作は、移民・難民が自身の平穏を勝ち取る為にアイデンティティを捨てていく話だ。名前も国籍も捨てる。何者でもなくなった自分にハリボテのドイツというアイデンティティを注入していく。必死にもがくものの、蟻地獄のように危険から中々足を洗うことができない負のスパイラルを3時間に渡ってじっくり魅せていく。
都市における意識の流れを描いた『ベルリン・アレクサンダー広場』の骨格を用いることで現代ドイツないし先進国に暮らす移民・難民の慟哭を捉えることに成功した意欲作だといえよう。
49.アイリッシュマン/The Irishman(マーティン・スコセッシ、2019年、210分)

※映画.comより画像引用
本作は、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシ、ハーヴェイ・カイテルと20世紀の荒くれ映画を賑わせた大物俳優たちが全米トラック運転組合を巡るギャングの歴史を時代に併せた老い演技で魅せていくもの。『カジノ』や『グッド・フェローズ』といったギャングものの傑作を作ってきたスコセッシにとって集大成とも言える作品ではあるが、彼の得意とする目まぐるしいスピードで物語を展開していくテクニックは封印し、じっくりじっくりと抗争を描いていく。そこには、スコセッシ流の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の構想があるのは言うまでもない。
面白いことに、ギャングのために肉を横流しする仕事から、組織の重要人物にまで上り詰める男フランク・シーランが主役の映画でありながら、彼は映画のほとんどを脇役として過ごしている。全米トラック運転組合の栄枯盛衰/世代交代という大きな渦の中で、フランクは凡庸なサラリーマンのごとく自分の職務を全うするだけなのだ。アル・パチーノ演じるジミー・ホッファが、労働者の為にと活動をし、圧倒的カリスマ性で次々とやってくる刺客をかわしていくのだが、とある事件によって歯車が乱れ、彼は組織を私物化し始めるという物語がメインとして配置されている。そしてフランクは老いと共に段々といなくなる仲間たち、そして「昔はよかった」と懐古主義に走り老害となっていくフランクと自分を重ね合わせ、ある決断をするのだ。
本作を観ると、スコセッシがマーベルに対し「あんなの映画じゃない」と言い放ちつつも自分の最後の立ち位置を決める姿とフランクを重ね合わせているように思える。年を取ると、しがらみが増えて、自分の中で譲れないポイントが出てくる。しかし、一方で時代の流れに併せて決断することもできる。スコセッシの場合、Netflixというストリーミングサービスで映画を作るという決断をした。また、作劇もドラマシリーズのように40分毎にがらり物語が変わる2010年代的作劇となっている。この作劇は、『アベンジャーズ エンドゲーム』などと2010年代後半あたりから散見される傾向でありマーベル作品に苦言を呈しつつも流行の一部には乗るスコセッシのしたたかさを垣間観た。
50.犯罪者たち/The Delinquents(ロドリゴ・モレノ、2023年、189分)

※映画.comより画像引用
ジャン=ピエール・メルヴィル作品さながら、銀行の金を着服する男の手つきが映し出される。朝起きて、カフェで一杯やり、出社する。監視カメラを前にふたり体制で金を数え、職員に配布。勤務開始だ。銀行の仕事は厄介ごとが多い。ある女は小切手を換金しに来たようだが、サインが微妙に違う。鑑定をすることとなる。そんな職場で男は大胆に金を盗む。保管庫に袋を入れ、ひとりで作業をするタイミングを見計らい、金を奪う。監視カメラには堂々と自分の姿が映っている。大丈夫なのだろうか?
彼には作戦があった。何十年も退屈な仕事をするより、3年服役し、奪った金を取り戻した方が自由な暮らしができる。金の一部を友人に託し、一通りやるべきことを終え、彼は刑務所に入るのである。映画はなぜか、犯罪ものからフランスバカンス映画のようなタッチになる。しかも、友人と出所した男のパートに分けてそれぞれのバカンスを捉えていくのである。実は本作において金はマクガフィン的役割を握っている。大金を預かることとなった友人は、定期的に隠した大金を観る。すぐそこに富はあるのだが、使うことができず、妻にも言うことができない。内面に金のことを秘めながら数年過ごすこととなる。ゆえに、彼のバカンスシーンには翳りがある。陽光差し込み広大な地に身を置きながらも自由になれないのだ。
一方で、出所した男はもはや金のことなんかどうでもいいかのようにバカンスを満喫する。馬に乗り、自由を掴んだかのように放浪するのである。明確に3年耐える目標を捉え、それを達成したことにより、労働からも金からも解放され、真の意味でのバカンスを謳歌していくのである。映画はスプリットスクリーンで二人の喫煙を捉える。獄中で一服している男よりも、妻がいて光ある空間に身を置く友人の方が辛そうに見える。実に皮肉な金に縛られた物語がここにあった。
51.I Only Rest In The Storm(ペドロ・ピーニョ、2025年、211分)

※IMDbより画像引用
2017年に発表した初長編映画『The Nothing Factory』でカンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞し注目されたポルトガルの新鋭ペドロ・ピーニョ監督が再びカンヌの地で批評家の注目の的となる。3時間半におよぶ『I Only Rest In The Storm』は、バカンス映画を想起させるゆるい旅の中で鋭利に植民地主義へと斬り込む。
砂漠地帯を男が車を走らせていると、番人に止められる。番人は暇でしょうがないのか「読む本ねぇか?」と尋ねる。男は、にかっと笑みを浮かべながらゴソゴソと車内を漁って一冊の本を渡して去る。そんな彼の旅は順調ではない。途中で車が故障してしまい、ヒッチハイクの旅となる。
モラトリアム大学生、あるいは自分探しの旅に繰り出す男のロードムービーのような始まりであるが、実はこの男、サラリーマンである。環境エンジニアとしてポルトガルからギニアビサウへと派遣されてきたセルジオには、巨大道路建設プロジェクトの調査という仕事があるのだ。愛想こそ良いもののだらしがない彼は、観光客のようにズカズカと原住民の領域へと侵入しクラブへと明け暮れる。そして、無意識なる差別をまき散らしていく。
2020年代に放たれるこの「闇の奥」は、原住民の目線からミクロ/マクロの狭間にある距離感を大胆かつ繊細に捉えていく。この手の作品はカンヌ国際映画祭でよく出品されるのだが、多くはヨーロッパから見たアフリカ、もしくはアフリカの人々そのものへの眼差しで語られている。しかし、本作の場合アフリカから見たヨーロッパのイメージを最後まで掴み続けている。つまり、最後までセルジオはよそ者として扱われるのだ。
観光客のようにギニアビサウを徘徊するセルジオに対して、原住民は厄介な存在のような警戒の眼差しを向ける。クラブで出会ったギィと同性愛的関係となるのだが、彼からは植民地主義や資本主義を批判するような、この地における白人像を掘り下げていく言葉が投げかけられる。たとえば、ギィは「君たち白人は植民地化した、僕は植民地化されたんだ」と語る。セルジオは「自分は違う」といった面持ちでその言説を受け入れ、ギィと肉体関係を結ぶ。ギィは表層としての肌の色、深層としての国家との関係から植民地主義をどのように感じているのかをセルジオに伝えようとしているのに全く響いていないのだ。
インフラ整備は重要なことだし、アフリカのためを思っている傲慢さが、原住民の批判的な眼差しを無力化する。この交わらなさをカメラは捉え続けている。だからセルジオはギニアビサウの人々と肉体レベルで親密な関係になっているように勘違いしているが映画は平行線のままなのだ。
また、本作が興味深いのは、セルジオが参画するプロジェクトの前任者は失踪しており、彼自身はその前任者のことを考えている点にある。「闇の奥」にてチャールズ・マーロウはコンゴ川の深淵にいる象牙商クルツのことを考え続ける。アフリカの過酷な道中にマーロウの嫉妬・好奇が渦巻き、恐ろしい心象世界が生まれる。『I Only Rest In The Storm』は、この構図をバカンス映画の構図に換骨奪胎し、ヨーロッパの傲慢さの本質を突いた。
52.炎/SHOLAY(ラメーシュ・シッピー、1975年、204分)

※映画.comより画像引用
高校時代、「101: Cult Movies You Must See Before You Die」で本作を知った。ロバート・レッドフォードとジョン・トラヴォルタに扮した泥棒が警察と悪党を捕まえる話ってなんだと興味を抱くも、なかなか遭遇しないまま10年の時が経ってしまったのだ。そんな本作がサブスクリプションサイトJAIHOで配信されていたので観た。冴羽獠さながらのアミターブ・バッチャンの銃捌きに興奮した。
かつて警察官だった男タークルは昔出会った泥棒について語り始める。列車で2人の泥棒を見つけるタークル。「お前は金のために働いているんだろ?」という泥棒に対して、「俺は危険を求めている」と語る。「なら、俺らと同じだな」と泥棒が言った矢先、強盗団に列車が襲撃されてしまう。呉越同舟、泥棒と警察官は戦う羽目になる。冒頭の大列車強盗の場面では、アクションが物語る。穴が空いていくドラム缶。それをぶちまけ、敵が燃料まみれとなる。泥棒は熱々の石炭に目をやる。これだと掬って投げて大爆発!サイレント映画が画で物語ろうとしていたように『炎』もアクションだけで物語る。この手腕に惹き込まれる。
泥棒に助けられたタークルは、村の危機を救うために彼らを探そうとする。「悪党なんでしょ、ニセサツは裏表邪悪ではないか?」と警戒する者に、「コインの裏表のように悪の裏側は正義だ」と語る。このお金の話が『炎』の物語面を強固なものとする。泥棒ヴィールとジャイは肝心な決め事をコイントスで決めていく。この正体がこの冒頭の会話と関係してくるのである。また、宿敵ガッバル・シンの処刑台が宿命の象徴として使われるところも味わい深い。タークル、ジャイが時空を超えて処刑台に引き寄せられ、ガッバル・シンと戦う。死の構図が次々と逆転しながら己の正義と対峙していく展開は熱いものがある。
そして、何よりもホーリー祭に注目してほしい。インドの伝統的な祭にホーリー祭がある。これはカラフルな粉を全身に浴びるもので、強烈なヴィジュアルが特徴的なのだが、本作はこの祭にフォーカスをあてている。村が色彩に染められていく中、ガッバル・シン一派が襲撃してくる。血なのか、粉なのか分からない禍々しい空間でのアクション。回転木馬に追いやられ、絶体絶命となった状況下での形成逆転。一抹の静寂から炸裂する蹴り、そして火花。これぞアクション、最高のインド映画であった。
コラム1:アンビアンスの予告編/Ambiancé(アンデシュ・ヴェドベリ、2017年、440分)

※IMDbより引用
2020年12月31日、「C'est fini(終わりだ)」とメッセージを残してあるプロジェクトは失敗に終わった。

(当時、魚拓としてスクリーンショットを撮った)
そのプロジェクトとは『アンビアンス』である。2020年末から上映時間30日の映画を公開すると、メディアアート作家であるアンデシュ・ヴェドベリは準備を進めてきた。2010年代、いくつかの予告編がVimeoで公開されたのだが、その1本が7時間20分におよぶものだった。
10分近くかけてタイトルシーンが展開されていく。「LIFE」「DEATH」といった文字が中央部分で揺れ動く、多重露光で、荒野の中で人々の影が交差する。アンビエント・ミュージックに合わせて、イングマール・ベルイマン『第七の封印』を模したイメージを連ねていく。7時間超えたところで黒い服を着た男と白い服を着た男が接吻する。この場面は、接吻するか否かの宙づり状態を持続させることにより独特な緊迫感が生まれることとなる。
予告編こそ、彼のvimeoチャンネルで観ることができるが肝心な本編を観る夢は叶わなかった。予告編から漂う独りで安直なベルイマン引用から頓挫することは必然だったのかもしれない。
このような愉快犯は彼だけだはない。

データをダウンロードすることができる。
ダウンロードしたら本当に990時間あって衝撃を受けた。


たまにこのような抽象的イメージに切り替わる。
Marco Romanが制作した『100』は上映時間が990時間59分(約41日)あり、世界最長の映画『Logistics』を凌駕するものとなっている。しかし、Wikipediaの記事「List of longest films」には掲載されていない。彼のYouTubeチャンネルで全編データをダウンロードできるのだが、内容を確認してその理由を察した。映画の大半は低画質の抽象的イメージが並べられているだけだったのだ。レンダリングの限界を調査するヒートラン試験を芸術にしたといった見方もできなくはないが、愉快犯の側面が強く、このような作品が『Logistics』を押さえて世界一長い映画1位に輝くのは超長尺映画マニアとしても許容しがたいものがある。
やはり、超長尺映画には強固なコンセプトが必要なわけで、たとえば、2011年のヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞したクリスチャン・マークレー『The Clock』は映画やテレビ番組に登場する時計のショットを集めて、24時間時計を構成する作品となっている。
クリスチャン・マークレーはCBSのインタビューで「お気に入りの映画を観る。それが自分の今生きている時間を示しており、自分とスクリーン上の世界との間にある障壁を取り払っていることに気づかされる不思議な体験を作り上げた」とコンセプトについて語っている。膨大な映画の中から、24時間分の刹那を集めていく労力だけでなく、我々が映画の中で時間を目撃する体験をメタ的に掘り下げた視座の深さがこのコンセプトを強固なものにさせている。現在はニューヨーク近代美術館(MoMA)で鑑賞できる。
【目次】
《第0章:まえがき》
《第1章:超長尺映画入門》
《第2章:超長尺映画作家たちPART1》
《第2章:超長尺映画作家たちPART2》
《第4章:戦争と平和》
《第5章:シリーズを完走する》
《第6章:執念の眼差しとしてのドキュメンタリー》
《第7章:深淵なる実験映画》
《第8章:List of longest films掲載作品を観る》
※サムネイルはIMDbよりペドロ・ピーニョ『I Only Rest In The Storm』の画像を引用
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