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【上映時間3時間以上】超長尺映画100本を代わりに観る《第1章:超長尺映画入門》


第1章:超長尺映画入門

この章では『タイタニック』や『ゴッドファーザー』などといった、映画を普段観ない人でも一度は耳にしたことのある作品や最近公開された作品を中心に入門的映画15本をピックアップした。プライム・ビデオやU-NEXTなどといった各種サブスクリプションサービスで気軽に観ることができるため、気になる作品は是非挑戦していただきたい。

1.タイタニック/TITANIC(ジェームズ・キャメロン、1997年、189分)

タイタニック(1997年)
※IMDbより画像引用

『ショーシャンクの空に』と同様、あまりに有名すぎて過小評価されているように思える本作だが、再観してみるとジェームズ・キャメロンが緻密に作り込んだ空間に脱帽させられる。タイタニック号は当然ながら社会の縮図を表している。一等船室の領域はまるでプルーストの世界のようにスノッブ、デカダンスな空気感が流れているのだが、この空間で人間を描く時、船を意識させないような構成、つまり豪邸の中庭や城の内部を思わせるようなものとなっているのだ。レオナルド・ディカプリオ扮する貧しい画家が貴族の領域へと迷い込む。彼の背伸びして空間に溶け込もうとする様を通じ、階層の断絶が浮かび上がってくる。そんな断絶が解消されるのは、皮肉にも船が沈む時である。確かに一等船室の上位層はいち早く船で脱出できてはいるものの、多くの乗客は死に至る。終末においては貧富の格差など存在せずに等しく死が与えられるのだ。しかし、完全な死が与えられるまでにラグがあり、その中で生を渇望し足掻くってところにリアルな手触りを感じる。現実はそう簡単に終末を迎えない様が生々しく描かれているのだ。

また、ジャックとローズとの関係に目を向けてみよう。船の倉庫に格納されている車に着目すると興味深い。ローズを助けたことで貴族の会食に招待されたジャック。彼はしたり顔で「キャビアは嫌いだ」と語るのだが、ハリボテな貴族仕草といえる。そんな彼は、倉庫で動かない車を前に貴族ごっこをする。貧しき者が届かないであろう世界に想いを馳せながら、その時は情熱的な貴族を演じる。一方、ローズは貴族であるものの、強制的に婚約させられており、自由のなさに生き辛さを感じている。そこで現実逃避の手段として、ジャックのごっこ遊びに乗るのだ。そして車の中で肉体関係を結ぶことで、偽が真となる。恋が愛になる瞬間だけでなく、束の間の虚構が現実となる快楽が情熱的に滾る場面となるのである。だからこそ、冒頭の置いたローズの煌めく眼差し、終盤の儚さに我々の感情は揺さぶられるのである。

2.風と共に去りぬ/Gone with the Wind(ヴィクター・フレミング、1939年、231分)

風と共に去りぬ(1939年)
※映画.comより画像引用

アメリカの映画100選系の企画で取り上げられていいることが多く、当然ながら「死ぬまでに観たい映画1001本」に掲載されている作品であるが、意外と日本国内で語られているケースは少ないように思える。

だが、テクニカラーで撮られたこの超大作は今観ても全く色褪せないどころか、技術が大きく進歩した21世紀のビッグバジェット映画ですら寄せつけない不動のスペクタクルと異様とも思えるスカーレット・オハラの行動により心が搔き乱される。

近年、差別的な描写から歴史的評価は下降を辿っているものの、Swallow/スワロウ』や『チャイコフスキーの妻』『エマニュエルなど、奥なる存在へと押し込められた女性心理を紐解く作品が増えている今だからこそ、スカーレット・オハラの行動を分析すると新しい観点が見えてくるように思える作品であり再検討すべきものがある。

彼女は南部の白人貴族である。豪華絢爛な空間の中に身を投じているわけだが、白いドレスを動きにくそうに着こなす彼女が象徴するように実は土地に縛られた不自由さを抱えている。今とは違い、気軽に旅行なんかできないし、スマホやPCに広がるキラキラした異世界で暇を潰すことすらできない。だから、好きな男と結ばれることが恍惚とした異世界へと飛び込むことになるのだ。しかし、愛するアシュレーは別の女と結婚し、北軍の襲撃によって今いる場所も故郷も失う。無となった世界の中でひたすら前へ向いて生きる彼女はレット・バトラーと結婚するのだが、過去への未練が表面化し続け、ついには彼に去られてしまう。異なる世界を求めるプロセスで男から男へ渡り歩いてきたオハラの執念が最後まで「過去にありえた世界線」にあることは興味深い。バトラーに去られるも「とりあえず明日考えよう」と自分に言い聞かせ、しまいには「彼を取り戻す方法は故郷に帰って考えるわ!明日に望みを託して!」と明日どころか明後日のベクトルへ向き、人生が続いていく斬新な着地となる。スカーレット・オハラの行動原理は、不自由さを抱いているからこそ狂気なまでに理想郷を追い求める様にあると分析できるのだ。

またスペクタクル面では、中盤の北軍が南部を攻める場面が圧巻である。縦横無尽に混沌とする街を捉えていく。爆撃の音が空間を繋ぎ合わせ、人流に逆らうようにオハラが駆けていき、それをバトラーが見つける。教会では牧師が聖書を読み上げている。キリストのステンドグラスが爆撃により一部が破損するものの、彼は狼狽えることなく読み続ける。カメラは下へとパンをしていき、破片を片付けようとする女性を捉えるなど、カット割りはもちろん長回しも洗練されたものとなっているのだ。

3.アベンジャーズ エンドゲーム/Avengers: Endgame(アンソニー・ルッソ&ジョー・ルッソ、2019年、181分)

アベンジャーズ エンドゲーム(2019年)
※映画.comより画像引用

2008年の『アイアンマン』以降、11年の歳月をかけて積み上げられてきた連続活劇でありMCUの集大成『アベンジャーズ エンドゲーム』は、キャラクターの関係性を丁寧に描くことはもちろん、映画としても綺麗な3幕構成を形成している。

第一部では、サノスのインフィニティ・ストーン強奪を阻止できず、全宇宙の民が半減されてから5年が経った世界。喪失感を抱えながら人々が前を向いて歩こうとする様子を個人/組織、ミクロ/マクロの視点で読み解いていく。2020年代のコロナ禍を生きた者にとって、壊滅状態から再び社会の歯車が回り始める空気感の予言的リアルさに今観ても惹き込まれるものがある。

アントマンことスコット・ラングが量子世界から脱出したことで停滞した歴史の歯車が回り始め、アベンジャーズは過去の世界からストーンを集めるミッションを敢行する。ここでは、過去と自己を対峙させていく。トラウマを抱えたヒーローたちが、そのノイズと闘いながら目標を達成する様子は我々の人生を形而上の観点から紐解くものがある。人生を生きる中で、様々な苦難やトラウマを抱える。時にそれがフラッシュバックして人生を進めることが難しくなるが、打開策を見つけながら自分の進むべき方向を見出していく。その先にある、サノスとの決闘は人生が再び回り始めたような高揚感がある。

MCUを追い続けて来た者へのご褒美であることは間違いないが、人生について物語った作品としても一流なのである。

4.地獄の黙示録/Apocalypse Now(フランシス・フォード・コッポラ、1979年、182分)

地獄の黙示録(1979年)
※映画.comより画像引用

ドアーズ「The End」のダウナーな旋律の中、男は目を開く。そこにはベトナムの凄惨な爆撃のイメージが重なる。ここは戦場かそれとも平和な街か。夢から覚める前の虚実が重なり合った曖昧さは、ヘリコプターと天井のプロペラの重なり、記憶上にある戦地の音と現実の音が混ざり合ったイメージによって表現される。ジョゼフ・コンラッド「闇の奥」を読んだことのある人なら、あの酩酊状態ともいえる文体を完全に映像で再現した編集に脳天を撃ち抜かれたかのようなショックを受けるであろう。

戦争の狂気を描いた作品は数多くあれども、ここまで人間が壊れていき、最終的に無の境地に至る様を描き切った作品は他にない。『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』を観れば明らかなように制作現場もまさしく「アポカリプス、ナウ」であり、剥き出しの狂気が作品に凝縮されているからだ。そのため正直、今の価値観からでは決して褒められたものではない。「アメリカはショーに関して一流だ」と豪語しながら、本物の戦闘機を出動させる。アメリカ人1名の給料でフィリピン人100名を雇えるため、600名近い現地人を使って巨大なセットを作り上げる。奴隷に巨石を運ばせてピラミッドを作らせる様子に近いグロテスクさ。フランシス・フォード・コッポラ自身が闇の奥に取り込まれながら制作しているため、現代のコンプライアンスでは作れない工程の先にある作品といえるからだ。

しかし、そういった問題は横に置き、戦場によって変容していく人間心理を大胆かつ繊細に捉えた本作には圧倒されるものがある。カーツ大佐暗殺の極秘任務を携えたウィラード大尉は4人の若造を従え戦地へ降り立つ。キルゴア中佐が指揮するヘリコプター強襲部隊と合流するのだが、彼はすでに壊れていた。空爆の最中にもかかわらず、ランスにサーフィンをさせるため、部下に波の具合を見るよう命令する。いくら止めようとしても爆撃中にサーフィンをすることへ執着するキルゴア中佐の異常さを恐れ逃亡する。

ウィラード大尉は心のナレーションにより戦地の高揚感とは距離を置こうとしているのだが、部下の暴走、敵の急襲、もはや指揮官不在の状態で戦闘が続けられている様といった地獄の中で神経をすり減らし、ようやくカーツ大佐と対峙した時には、悟りを開いた彼にどこか同情するように取り込まれ、殺害のミッションが遂行できなくなっていくのだ。この時の錯綜迷走混乱した心理は「闇の奥」における以下の部分と共鳴するものがあり背筋が凍ったのであった。

ーむしろ彼は、大地を粉微塵に踏み砕いていたのだった。全くの孤独だった。彼の前に立った時、僕自身さえが、果たして大地の上に立っているのか、中空に浮かんでいるのか、わからなくなってしまった。先刻から僕は、その時の僕等の会話をー言葉そのままに伝えているわけだがーしかしそれがいったいなにになる?それらはただ日常平凡な言葉ばかりー僕等がみんな日々の生活に取り交わしている、あの聞き慣れた、曖昧な声音にすぎない。そんなものがなにになる?彼の場合は、一つ一つの言葉の背後に、ちょうどあの夢の中で聞く言葉、悪夢の中で口走る言葉のように、恐ろしいまでの暗示が含まれていた!魂!もし誰か人間の魂と格闘した人間があるとすれば、それはこの僕だ。しかも僕の相手は狂人ではなかった。信じてもらえるかどうか、それは知らない。だが、彼の叡智はむしろ明晰をきわめていたとさえいえるーなるほど、一切の関心が恐ろしいほどの強烈さで、自我の上だけに集中されていたとはいえるが、しかしとにかく明晰であった。

「闇の奥(岩波文庫)」p138より引用

5.ゴッドファーザー 三部作/The Godfather(フランシス・フォード・コッポラ、1972-1990年、535分)

ゴッドファーザー(1972年)
※映画.comより画像引用

大人になって観ると空気感が大きく変わる映画がある。『ゴッドファーザー』は管理職の悲哀に満ちた轍を辿る作品として傑作である。まず、PART Ⅰにおけるドン・コルレオーネの動きに着目したい。

彼のもとへ次から次へと依頼主が現れる。娘に対して暴行した男へ復讐してほしいと男が現れる。疎遠であり有事の時だけ助けを求めにやってくる不義理を指摘しつつも、娘の結婚祝いといった名目で依頼を受け、部下へ命令を下す。一方で、麻薬取引の依頼に対しては断る。長期的な関係を見据えて、静かながら重厚なることばを発し、自身は直接動かず関係性のコントロールに集中する。まさしく、プロジェクトマネージャーに近い動きを取るのだ。

そんな彼の後継者にマイケルが就く。彼はドンに近いような振る舞いをするものの、関係性の構築に苦労しており、年上達に心理を見透かされ窮地へと追い込まれる。ロサト兄弟との揉め事に巻き込まれ殺されそうになったり、ハバナに利権を持つハイマン・ロスから200万ドルを置いていけと脅される。キューバ革命や政治的告発に対処しながら、信頼関係の交通整理に追われることとなる。

このような修羅場を経ての最終章では、ドン・コルレオーネ以上にクリーンな関係性を築き家族を守りたいと堅実なビジネスへ方向転換しようとしていた。その中で、ギルディ大司教の巨額な損失の穴埋めと共に投資会社の乗っ取りを行う。そして、マイケルは後継者や迫りくる死のことを考えながら黄昏に生きる。『ゴッドファーザー』三部作を通しで観た我々は、マイケルの修羅場を通じて、ドン・コルレオーネがいかに孤独に繊細な関係性をコントロールしてきたかを痛感させられる。長く組織の維持に関わってくる中で大切なものを見出し、それを守るために行動しようとするものの、後継者候補であるアンソニーに伝わらない様は、かつてのマイケルを思わせるものがある。管理職の仕事は見えにくい。ただ椅子に腰を据えて命令しているだけのように見えるが、実は大局的に組織やビジネスを見据えており、ステークホルダーを多く抱えているが故に寡黙である。それは部下や後継者からすると見えない世界であることを9時間近くかけて物語っているのである。だから、管理職との距離が近くなる30代にとって刺さる名作なのだ。

6.ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ/Once Upon a Time in America(セルジオ・レオーネ、1984年、229分)

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(1984年)
※映画.comより画像引用

マカロニ・ウェスタンの巨匠セルジオ・レオーネが最期に放ったのは意外にもギャング映画であった。実はもうひとつ意外なものがある。よくアニメやネットミームで耳にする「お前にやられるなら本望だ」の元ネタが本作だという点にある。終盤にヌードルスのライバルであるマックスが、スキャンダルで命を狙われている自分の人生を終わらすために殺しを依頼する場面にてこのセリフが使われている。だが、彼は断る。それはマックスに対する復讐ではなく、暴力的な世界を駆け抜けてくる中で醸造されたヌードルスの複雑な感情から来るものであった。

本作は時間軸を入れ替える構成により、老境に差し掛かった男の意識の流れを捉えることに成功している。仲間が殺される現場が映し出される。野外にもかかわらず、延々と電話の呼び鈴が鳴り突けている。場面が転換しても呼び鈴だけは空間を超えて伝わってくる。やがて受話器を取る。すると目が覚める。追跡されているヌードルスが経験した過去/トラウマが夢として再構成されていることがわかるのだ。また、彼は寂れたユダヤ人レストランへとやって来る。横移動で内装を捉えていくのだが、部屋の一部は閉鎖されている。やがてカメラはトイレへと行きつく。今度はトイレから、再び横移動でレストランの外へと出ていくわけだが、その際には封鎖された扉は解放されており、店も活気づいている。ひとつの空間から、ふたつの時代を繋いでいくアプローチが取られている。このように、視覚的演出によって状況を説明することを得意とする本作はアクションにまで反映されており、木屑を生成する工場での攻防における心理戦は見事である。ターゲットを追い工場へ入るも気配がない。轟音と共に木屑がブースに貯められている。周囲を見渡し、スイッチを入れる。すると、ブース内の木屑が舞い始め、朧げにターゲットの姿が浮かび上がる。出口を目指すターゲットを射殺する。このように目で状況を判断し、最適解で敵を追い詰めていく様をセリフなしで描いていくのである。

一方で、今の価値観からするとあまりにもミソジニーをトリガーにした描写が多いため、ジェンダー論の観点から再考されるべき作品ではある。一貫して、ことあるごとにレイプシーンがあり、女性に対してもどこか見下した眼差しが注がれる。これは、強盗中でも発生しており、強盗そっちのけでレイプする場面があるのだ。2025年10月に女性監督パトリシア・マズィが暴力映画のクリシェを用いて有害な男性性を批判したサターン・ボウリングが日本で公開される。本作と比較することで2020年代ジェンダー論の観点から『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を語り直すことができるのではないだろうか。

7.アラビアのロレンス/Lawrence of Arabia(デヴィッド・リーン、1962年、227分)

アラビアのロレンス(1962年)
※映画.comより画像引用

砂漠をひたすらラクダで突き進む。やがて井戸を見つけ、水を汲んでいると、地平線の彼方から黒服の男が近づいてくる。蜃気楼のため、遠いのか近いのかわからないが確実にこちらへと向かってくる。彼は敵か、味方か、ジッと眼差しを向ける中で、案内人タファスは敵と判断し撃ち抜こうとするが、逆に射殺されてしまう。ロレンスは足が凍りつき動けなくなる。目の前で死を突き付けられた際に人は動けなくなり、その中で絞り出すように言葉が発せられる様を時間かけて描く。

映画的なショットで紡がれる歴史超大作『アラビアのロレンス』は、英雄の中に流れる複雑な心理的変化。英雄の孤独を左から右へひたすら砂漠を移動する運動でもって表現している。アラブ世界の連帯を訴えかけトルコ軍に打ち勝とうとする。トーブに身を包んだロレンスは反乱軍を指揮する者としてフロントラインに立つわけだが、純白は血と複雑な政治によって染められていく。

彼は結局政治の駒でしかなく、アラブ世界に異物としている白人としてのロレンスは切り捨てられる運命にあったのだ。だからこそ、冒頭の死はある意味ハッピーエンドのように思える。歴史によって傀儡のように突き動かされてきたロレンスが、バイクで爽快に走る。ようやく得た自由の中での死だからだ。

8.赤ひげ(黒澤明、1965年、185分)

赤ひげ(1965年)
※IMDbより画像引用

凄惨な環境に配属され、地獄のような光景にげんなりするも、冬の時代を必死に駆け抜けた先に爽快な息吹が流れる。社会人になり、ある程度の辛酸と変化を経験してきた者にとって黒澤明が『赤ひげ』に刻んだラストに涙するだろう。

せっかくオランダ医学を修め、江戸幕府の医者とし活躍しようと意気込んでいた保本登やすもと のぼるだったが、不本意な小石川養生所での勤務を命じられる。小石川養生所は、膨大な患者が詰めかけ、悪臭立ち込める地獄の底のような空間であった。恋人にも捨てられ散々な状態で辿り着いたのもあり、最初こそは早々に追放されたい一心で酒を呑み、悪態をつくも、段々と所長「赤ひげ」を尊敬するようになり、自分の役割を見出していく。

若い頃は、理想と現実とのギャップに折り合いをつけることが難しく、現実から逃げ出しそうになる。しかし、現実と向き合って経験を積むことでいつしか自分の血となり肉となる。一見、頼りなく見える先輩や上長であっても、現実と向き合ってきた時間の長さだけノウハウがあり、それに触れることで自分の至らなさに気づかされ、他者を尊重し謙虚であろうとする心が育まれる。社会人1年目の教科書ともいえる本作だが、もうひとつ注目すべき点がある。

それは座敷牢に隔離されている女とのエピソードだ。何人も男を殺した彼女が登を誘惑する。その誘いを受けてしまう中で彼は殺されそうになる場面がある。この一連の流れから、彼女はどうやら男から暴力を晒されトラウマを抱いており、それ故に攻撃的になっていることがわかってくる。ケアの観点からの適切な距離感を考えさせる場面となっているのだ。

9.飢餓海峡(内田吐夢、1965年、182分)

飢餓海峡(1965年)
※映画.comより画像引用

業火包まれる質屋から2人の男が飛び出してくる。市民は燃え盛る質屋へと眼差しを向ける中、彼らはひたすら遠くへ行こうとする。彼らは強盗、一家三人を惨殺した挙句、放火し、大金を抱えて逃げているのだ。3人目の男も加わった逃避行。同じ頃、嵐で青函連絡船が沈没し530名の命が亡くなる。その中に、身元不明の二つの死体が見つかった。弓坂刑事は、この死体が一家惨殺事件の犯人だと推察し、最後のひとりの行方を捜す。

水上勉の同名小説を映画化した本作は、犯人が最初から明らかにされているにもかかわらず巧みな演出で最後まで退屈させることがない。冒頭で、犯罪者の逃避行が描かれるのだが、アルフレッド・ヒッチコック見知らぬ乗客におけるブルーノが溝にライターを落としてしまい回収できるか否かの宙吊りのサスペンスによって観客の心がヴィランに味方をしそうになるのと同様に、電車に乗れるか否か、人ごみに紛れられるか否かといったヒリつく脱出劇に惹き込まれる。

運命が手繰り寄せられるように生き残った男・犬飼のもとへ弓坂刑事の足跡が近づいてくる。後半は会話劇形式で事件の真相が明らかとなる。ここで我々が知った気になっていた事件の裏側が明らかになるのだが、ここでの演出が興味深い。

切り返しのショットで論戦が繰り広げられる。事実を提示する際には新聞写真のような静止したイメージを並べていく。一方で真実が語られる部分では、動なるイメージで語られていく。ミステリーにおいて、事実と対象だけが知っている情報を突合しながら真相が組みあがっていく醍醐味を映像で見事に表現しているのである。

10.オッペンハイマー/Oppenheimer(クリストファー・ノーラン、2023年、180分)

オッペンハイマー(2023年)
※映画.comより画像引用

『オッペンハイマー』は本来であれば1時間×6話のテレビミニシリーズでやる内容であっただろうが、「時の魔術師」ことクリストファー・ノーランが展開する大きなギミックを通じた嫉妬の解剖学には注目である。

本作は三部構成となっている。各構成は主に3つの構成から成り立っているのだが、最後だけ微妙に異なる使い方をしており、それが物語を良い意味でも悪い意味でも興味深いものにさせている。

下記がその構成である。

[前半:二部]
・聴聞会のオッペンハイマー(今)
・彼の回想(個が制御できる時制)
・公聴会(歴史として制御できない時制)

[後半:一部]
・聴聞会のオッペンハイマー(今)
・オッペンハイマーの時制
・ストローズの時制

まず、前半から観ていく。映画はFBIによって召集された聴聞会を中心にオッペンハイマーが回想するところから始まる。そこに、時折モノクロで公聴会の場面が挿入される。通常であれば、一番過去にあたる回想シーンがモノクロではないのだろうか?映画を追っていくと段々メカニズムがわかってくる。オッペンハイマーの回想は、まるで小説のようにドラマティックなのである。フランスの哲学者ポール・リクール「Réflexion faite」によれば、自伝は日記と違い小説的であるとのこと。日々起きたことを連ねる日記と異なり、自伝は事象を整理し物語として組み立てていくからだ。それを踏まえると、戦後の公聴会の場面では、オッペンハイマーが歴史の人として自分の手で過去を制御できなくなってしまっている状況といえる。この自分で制御できるか否かの観点が重要であり、それを強調するために色を分けているといえる。

そして、後半に差し掛かるとこのモノクロの場面に別の文脈が加わる。オッペンハイマーの功績を妬むストローズの存在だ。本作は一般的に『アマデウス』と比較されることが多い。しかし、ノーランの文脈からすれば『プレステージ』の発展系と言うのが妥当である。技術向上を共にしてきたオッペンハイマーとストローズ。しかしストローズは、いつしかオッペンハイマーの物語から影を潜めてしまう。戦後、ストローズは彼の地位を陥れようと政治的に追い詰めていく。そのキーとして赤狩りがあり、聴聞会はワナだったことが明らかとなるのだ。つまり『プレステージ』における天才マジシャンのアンジャーとボーデンの嫉妬合戦に、時制マジックの大技が加わったのがまさしく『オッペンハイマー』であろう。

山本圭「嫉妬論 民主社会に渦巻く情念を解剖する」でジョージ・フォスター「嫉妬の解剖学」による嫉妬からの回避方法が言及されている。

1.隠蔽:嫉妬の眼差しの対象にならないように振る舞う
2.否認:自分は嫉妬の対象にならない下の存在であることを提示する
3.賄賂:相手の利となるものを贈り、嫉妬の対象から外れるよう試みる
4.共有:自分の富を分け与えることで嫉妬を解消しようとする

上記の4段階で嫉妬による攻撃を回避していく必要があるのだが、オッペンハイマーのケースでは、すべてを貫通してしまい徹底的な攻撃に遭う。それはまるでパワハラ上司が執拗に詰問を行い、複雑な心理の皮を剥がす過程で対象が実態と異なる発言を行い、疲弊にさらなる自己嫌悪を与えていくような強烈さがある。しかも、ストローズの場合、自分で直接手を下さないよう政治的にそれを実行に移すのである。

原爆の話から突然、嫉妬の話に転がったのには理由があるように感じる。ストレートに言えば『オッペンハイマー』がアカデミー賞作品賞を受賞したのは、「嫉妬」の話へと巧みにすり替えたことにあるのではないだろうか。原爆ドームが世界遺産登録される際にアメリカが出した声明のように「原爆が戦争を終わらせた」と映画は物語らない。むしろ、それに対して疑問を投げつけている。正面からそれを行えば、映画が広島・長崎について描いていないことで物議を醸す日本のような燃え方をしたであろう。ただ、嫉妬の話へとシフトし、オッペンハイマーを尋問する問いとして「原爆が戦争を終わらせたのか?」と投げかけることで、刃を隠すことに成功している。一方で、このテクニックは原爆による罪と罰の後者を矮小化させてしまう問題が孕んでいる。ここは評価が分かれるところであろう。

11.EUREKA ユリイカ(青山真治、2000年、217分)

EUREKA ユリイカ(2000年)
※映画.comより画像引用

バスに男が乗り込む。中途半端な位置で立ち尽くし「あっ!」と後ろの客に気づいたかと思えば、運転席の横に立ち虚空を見つめる。事件の香り漂わせる予兆は現実となり、バスから逃げる者は彼によって射殺される。警察は万全の態勢でバスを取り囲み、刹那を狙い彼を銃撃する。対話不可能な人間のように思えぬ彼は、そう簡単に死ぬことなく、しぶとく発砲しようとするなか、子どもは助かる。たった15分、セリフも少ないながら緊張感に満ちた地獄のような心理戦の末、映画は長い時間かけてトラウマを浄化していく。

青山真治は、トラウマと対峙し折り合いをつけるまでにかかる果てしなく長い轍を3つのギミックで表象していく。

ひとつめは、家の存在である。兄妹は事件のトラウマによって家に引き篭もる。そこに、従兄弟がやってきて明るくケアする。役所広司演じるバスの運転手も加わり、擬似家族的なコミュニティが形成されるのだが、止まったような時間は外との繋がりも少なく息苦しいものとなる。だからこそ、ふたつ目のギミックとして旧式バスによる移動がある。その場に留まっても仕方がないから前へ進むしかないのだ。ある種現実逃避のようにも思える移動にみっつ目のギミックである咳が絡んでくる。バスの運転手は終始、咳き込んでいる。どんなに移動しようとも、咳は嘘をつかない。自分と対峙させるのだ。それは過去と向き合うことであり、未来を向いているバスの移動と過去に囚われた家、それらを繋ぐ咳の存在によってトラウマの構造を紐解いていくのだ。

12.十戒/The Ten Commandments(セシル・B・デミル、1956年、220分)

十戒(1956年)
※映画.comより引用

 こと映画に話を限れば、セシル・B・デミルは地上最大の見世物作りの名手であった。スタッフには絶対の忠誠を要求し、現場においてはあたかも神に選ばれた者でもあるかのように振る舞った。そういう自らの役柄に見合うように、乗馬用ズボンにハイブーツという出で立ちで、拳銃も携帯した。

「サイレント映画の黄金時代」(ケヴィン・ブラウンロウ)p218より引用

撮影に始まり、スター俳優の契約などの細部の決定までほとんどひとりで行い究極の大衆映画製作に命を注ぎ込んだことで知られているセシル・B・デミルは、現場でもモーセのようなリーダーとして振る舞っていたらしい。

1923年に旧約聖書を映画化した『十誡』を自らの手でリメイクした『十戒』は、彼の遺作に相応しいほどの威厳を放った集大成となっている。『十誡』では、旧約聖書の物語が現代にまで続いていることを示唆するように二部構成となっている。その影響もあり、特撮の面白さが煌めくモーセの海割りは物語序盤の30分付近で提示される。逆再生とレイヤーの重ね合わせによるシンプルな特撮ではあるものの、今観ても色褪せない迫力がある。一方で、この場面のインパクトが強すぎて、その後のスペクタクルが尻つぼみに思える。

アルブレヒト・アルトドルファー
「アレクサンダー大王の戦い」
※Wikipediaより画像引用

リメイク版では、この問題点が解決されており、ラスト30 分でモーセの海割り、そしてシナイ山の麓で信仰を忘れ醜態を晒すヘブライ人へ怒りをぶつける場面を持ってきている。テクニカラーで撮影され、当時としては最先端のエフェクトで実装された炎の柱はまるでアルブレヒト・アルトドルファーの世界が現実のものになったかのような迫力を与える。白黒サイレント時代には実現できなかった紅に染まる川は圧巻である。

また、30年の時を隔て進歩したカメラワークによりダイナミックな人間の運動を捉えている点も魅力的である。たとえば、建設現場で巨大な石を嵌め込む場面がある。油を敷く要員であるヨケベデの紐が石に挟まる。圧死の危機に瀕するが、現場監督は彼女を轢き殺してでも石を嵌め込もうと労働者たちに「そのまま突き進め」と命令を下す。奴隷の男が仲裁に入ると、現場監督は激高し、彼を死刑にしようとする。それを見かねた女は現場を飛び出し、追手を振り払うように労働者がひしめく空間を抜けてモーセに懇願する。顔を正面から捉えたショットと俯瞰のショットを織り交ぜ、命の危機をスリリングに描いている。

文盲であっても宗教の物語を伝える役割として絵画やタンパン、ステンドグラスが使われてきたが、映画における模範的アプローチをセシル・B・デミルが開発し、その技術はウィリアム・ワイラー『ベン・ハー』やジョン・ヒューストン『天地創造』へと受け継がれたのである。

13.マグノリア(ポール・トーマス・アンダーソン、1999年、187分)

マグノリア(1999年)
※映画.comより画像引用

映画に嵌り始めた中学生の頃に何気なく『マグノリア』を観て衝撃を受けた。どういう話かよく分からないのに、イメージ、イメージ、イメージの洪水に3時間圧倒され続けた。

「あれは何だったんだ?」

これは自分が映画を追い続ける原動力のひとつとなった。大人になり、映画に揺蕩う流体力学がわかり、自分でも動画を作るようになったいま『マグノリア』を観ると、ポール・トーマス・アンダーソンの非凡さにまたしても衝撃を受けた。

最初の10分でコンセプトと登場人物の説明がおこなわれる。捲し立てるような口調で、異なる領域の挿話を繋ぎ合わせる。1911年11月26日付ニューヨーク・ヘラルド紙に掲載された3人の男が絞首刑にされた話から始まり「偶然」といったコンセプトが浮かび上がる。偶然とは人間の行動が複雑に絡み合って形成されることが、自殺した男のエピソードを多角的に紐解くことで提示される。本来であれば、ビルの下に敷かれていたネットによって助かっていたのだが、夫婦喧嘩により暴発したショットガンが彼を撃ちぬく。夫婦の視点、自殺者の視点、それを客観的に繋げる報道の視点が絡み合い、そこに装填されるはずのなかった銃弾がどこで装填されたのかといった過程が説明される。わずか数分でありながら無駄のない語りの導線と緻密な編集の塊は映画のことを知らない人が観ても圧倒されるものとなっている。

驚くべきことに、彼は編集だけでなく長回しにおいても複雑な人間関係の交通整理を行っており、クイズ少年スタンリーがテレビ局に入る場面は圧巻である。大雨の中、メイク室を目指すスタンリー。途中で父と別れ、カメラは彼を追跡していく。しかし、カメラはスタッフの女性の動きへ注目し始める。テレビ局の入り組んだ楽屋の先で再びスタンリーとカメラは合流する。人間の行動がバタフライ・エフェクトのように関連している様を離散/連続双方のイメージで捉えるため、20年以上経った今でも色褪せない物語となっている。

特にスタンリーのパートは、アイドルやファンダムについての研究が盛り上がりを魅せている昨今にとって重要な観点を与えてくれる。天才少年として周囲から期待の眼差しを向けられ、それに応えてきたが、番組中に小便を漏らしをしたことで押し付けられていた役割から逃れようと叫ぶ。渡部宏樹は「ファンたちの市民社会」にて、他者を利用して自己形成している点に着目して推し活や二次創作文化、精神的植民地主義などについて掘り下げている。彼の理論を援用すると、視聴者を含め周囲の大人たちが自分たちの持っていないスキルを発揮し続けることによって自分の叶えられなかった欲望をスタンリーで満たしている状況だと考えることができる。そんな彼がクイズに答えられなかったり、クイズから逃げようとすれば、欲望を満たす器として彼が使えず欲求不満へと陥る。だから周囲の人間は、失禁により羞恥に晒されているスタンリーに寄り添うことなく非難するのだ。

そして本作は人間の行動による偶然が物語的偶然によってクライマックスへと向かうことにより、フィクションにおける偶然の恣意性をメタ的に指摘するアイロニカルな終焉へと向かう。これを29歳で撮ってしまうポール・トーマス・アンダーソン、恐るべし。

14.バビロン/Babylon(デイミアン・チャゼル、2021年、188分)

バビロン(2021年)
※映画.comより画像引用

デイミアン・チャゼルはラ・ラ・ランドにて、往年のミュージカル映画を引用しつつ、ご都合主義ハッピーエンドになりがちなハリウッド・ミュージカル映画へのアンチテーゼを提示した。『バビロン』では、よりストレートに映画愛を挑発する物語となっている。

本作では、ジャック・ケルアック「オン・ザ・ロード」さながら、狂乱の渦中にいるもいつの間にか時代が変わってしまい過去の人となってしまう切なさが描かれている。コンラッド、トレス、ラロイはそれぞれ自分の人生に折り合いをつけていく。カメラはトレスにフォーカスがあたり、数十年後、まともな生活を送るようになった彼が映画館に吸い込まれていく様子を捉えていく。映画館では『雨に唄えば』が流れている。自分が現実として目の当たりにしてきたものが虚構としてスクリーンに投影される。映画は明るく歌い踊る、観客は笑う。しかしトレイにとっては物語の渦中にいたと思っていたのに、もはや過去の人として忘れ去られてしまった現実が眼前に飛び掛かる。映画館は孤独を忘れる場所ではなかったのか。トレイにとってこの映画館での体験は、孤独を思い出す装置として機能する。そして、膨大な映画のフッテージが彼の脳裏に洪水のように降り注ぐ。そこには、彼の時代には存在しない仮面/ペルソナ』、『2001年宇宙の旅』、『トロン』、『マトリックス』、『アバター』などといった作品のフッテージが注ぎ込まれる。

つまり、映画と自分の人生を突合し、孤独を忘れる場から孤独を思い出す場へ置換される映画館の混沌の中、いつの間にか到来していたカラー映画をも受容せざる得ない状況で、彼は未来に訪れるであろう新しい映画の夜明けを想像する。我々観客は、神の目線で、映画と回想の洪水でぐちゃぐちゃになるトレスの感情を包み込むことになる。恍惚、混沌としながらも辛辣な着地を迎える映画といえよう。

15.アバター:ウェイ・オブ・ウォーター/Avatar: The Way of Water(ジェームズ・キャメロン、2022年、192分)

アバター:ウェイ・オブ・ウォーター(2022年)
※映画.comより画像引用

3D元年の夜明けともいえる2009年末に生み出された『アバター』は驚かす側面から没入する側面としての3Dメガネ像を打ち出していった。意外にもこの側面はヴェルナー・ヘルツォークがヴェゼール渓谷にあるラスコー洞窟を取材した世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶やヴィム・ヴェンダースがピナ・バウシュの演目を3Dで撮影した『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』、パリにあるナイトクラブ「クレイジー・ホース」の公演を3Dで魅せる『ファイアbyルブタン』などといったドキュメンタリー映画へと継承されていった。

スペクタクルの中で大掛かりな実験を仕掛けるジェームズ・キャメロン監督は10年以上の沈黙を経て完成させた続編で、映画における世界への没入のさらなる探求を行った。

本作は「海には始まりも終わりもない」をキーワードに、我々のいる世界における戦争の歴史を虚構から語りなおし分析する作品となっている。駆け抜けるように、パンドラに住むナヴィ族と地球から来た者スカイ・ピープルとの軋轢を語る。これはまさしくアフリカとヨーロッパとの関係を表したものであり、資源のために侵略する存在とそれに対抗する存在があり、そこに部族間の軋轢が絡み厄介なこととなる。本作が緻密なのは、異なる部族・種族との間に生まれた子どもによる葛藤を含んだものとなっており、現実社会同様の複雑さを形成している。前半2時間はひたすら、このディティールを描きこむものとなっている。

難民として別の部族の村に移住したナヴィ族一家。子どもたちは喧嘩をする。原因は見た目によるものだ。ありがちなトラブルである。それを大人の政治的関係性による教育でもって鎮める。子どもたちはそれを受けて社会と繋がっていく。

また、ナヴィ族はスカイ・ピープルの道具を使って治療しようとする。スカイ・ピープルの合理的・論理的アプローチを援用しようとする。しかし、海の部族は自然的なもので治癒を試みる。それはどこかスピリチュアルなものである。しかし、映画はどちら側にも肩入れすることなく、それぞれが信じるものを活用して問題解決する様を提示する。この観点に惹き込まれるものがあった。

我々は時として、テクノロジーを高く見て、呪術的なものを下に見ることがある。しかし、どちらも本質を突き詰めれば、「善い」ことをするために技術を使うのには変わりがない。ジェームズ・キャメロンはここに着目し、技術と生きる者との関係性を浮かび上がらせたといえる。そして、この観点は水中生物にまで適用される。

ここで大佐側のアバター理論が興味深い。メタバースやVTuberが一般的になりつつある今においてアバターは「与えられた肉体から解放する存在」という認識が高まっている。前作におけるアバター像は「与えられた肉体」から「与えられた肉体」への移動であった。本作の場合、「与えられた肉体」から解放された大佐は、ナヴィ族のアバターになることで、侵略作戦を円滑に進めようとしている。故に「与えられた肉体から解放する存在」が悪用される世界を描いているのだ。この視点は面白かった。

【目次】

《第0章:まえがき》

《第2章:超長尺映画作家たちPART1》

《第2章:超長尺映画作家たちPART2》

《第3章:果てしなく長い語り》

《第4章:戦争と平和》

《第5章:シリーズを完走する》

《第6章:執念の眼差しとしてのドキュメンタリー》

《第7章:深淵なる実験映画》

《第8章:List of longest films掲載作品を観る》

※サムネイルは映画.comよりジェームズ・キャメロン『タイタニック』の画像を引用

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CHE BUNBUN 映画ブログ『チェ・ブンブンのティーマ』の管理人です。よろしければサポートよろしくお願いします。謎の映画探しの資金として活用させていただきます。