【上映時間3時間以上】超長尺映画100本を代わりに観る《第2章:超長尺映画作家たちPART1》
第2章:超長尺映画作家たちPART1
映画史を覗くと、長い映画に執着した監督とエンカウントする。監督が長い時間かけてその世界に没頭した経験を観客にも擬似体験させようとしているのだろうか。中には冗長で映画を編集することに対する怠慢を抱かせる作品もありつつも、超長尺映画作家の作品群と向き合うことで見えてくるものがある。第2章では各超長尺映画作家に対して複数本取り上げることで特性を見出していく。この章は非常に長いため、2回に分けることにした。
■ワン・ビン
中国社会を長い時間かけて捉えていく名匠ワン・ビン。彼のドキュメンタリーは論文のように特定のテーマを連続して掘り下げていく手法が採用されている。大きく分けて夾辺溝の痛ましき記憶を記録へ落とし込んだシリーズと中国縫製工場に密着したシリーズが有名である。前者は、アパートで老女のホー・フォンミンから文化大革命の粛清運動による迫害の記憶を聞く『鳳鳴 中国の記憶』に始まり、8時間以上かけてこの記憶の点を結んでいく『死霊魂』へと繋げていく。後者は、15時間のインスタレーション作品『15 Hours』や『青春』三部作にて中国縫製工場の劣悪な労働環境の中でたくましく生きる若者の肖像を紡ぎ出している。
16.死霊魂/Dead Souls(ワン・ビン、2018年、495分)

※映画.comより画像引用
『鳳鳴 中国の記憶』『無言歌』に続く夾辺溝シリーズ最終章にあたる本作は8時間以上かけて、ゴビ沙漠にある夾辺溝である明水にて「右派分子」というレッテルを貼られ再教育対象として送られた者の記憶をアーカイヴしていく作品である。三部構成となっている本作は、ヒリつくように冷たい語りが当時の凄惨さを観客の脳裏へ焼き付けていく。
第一部では、1957年反右派闘争によって夾辺溝や明水に送られた者の時代の全体像を把握できるようにエピソードを配置する。当時の中国は、完全な階級社会で、上司の言うことは絶対であった。何かをするにしても権力が必要とされている時代だった。政府は百家争鳴をスローガンとし、「中国共産党に対する批判を歓迎する」という姿勢をとっていたが、それは反抗的な知識人を炙り出す為に使われ、学校教師や哲学者、医者といった人が次々「右派分子」とレッテルを貼られ、突然家族に別れを言う時間すら与えられずに夾辺溝へ送られた。
夾辺溝や明水は、不毛の地であり、食物は全く育たない。また、物資配給が極端に少なく、1日250gの僅かな食材しか与えられない状態で肉体労働に従事する必要があり、最初は1日数人餓死していたのが、最終的に1日数十人規模の餓死者を出す結果となった。ツゥオ・ゾンホウの証言によれば、乾燥土に茣蓙を引くレベルの寝床で、朝はとても寒い。ある日、役者で同居人のリー・ディオティンを起こそうとしたら、冷たくなっていた。
生き残った人の多くは料理人だったりする。料理人は、監視員の目を盗んで組織ぐるみでつまみ食いを行い、なんとか生命を維持していた。『鳳鳴 中国の記憶』でも、飢えに耐えきれず、台所に盗みに入る場面があるが、料理人はそのリスクを冒す必要がないので生存率が上がったと考えることができる。そして、食料にもランクがある。レンゲ2杯で満腹になる麦こがしは、食料の中で最高ランクのアイテムだ。次いで、ヨモギの葉やナツメの花をすり潰して食べていた。中には、上司に植えるよう言われていたヒマワリのタネなんかも食されその結果、ますます沙漠に作物が実らなくなったり、亡くなった人の内臓や自分の尿を口にしたという酷い状況が物語られたりする。そして皆、口を揃えて言うのが「ヒエの皮は酷い」とのこと。便秘になり、棒で肛門から便を掻き出さないといけないのだ。こうまでして図太く食料にありつかないと、体全体がムクれあがり、かと思うと骨と皮だけに萎んだりと身体に変調をきたし、立って動くこともままならなくなるのだそう。倫理観が、道徳が、なんていってられないのだ。
明水に乱雑に放置されている頭蓋骨類を調査する第一部の人物たちと記憶の間からアッセンブルする鳳鳴の記憶の感動的なオープニングから始まる第二部は、まるでマーティン・スコセッシ映画のような饒舌さでもって各々の物語が紡がれる。そして、エピソードの随所で3時間以上積み上げられていった物語の断片が伏線として繋がっていく。それによって、中国史を知らぬ者であっても、強烈に惨状がイメージとして脳裏に浮かび上がってくる。
そしてクライマックス第三部では、故郷に残された者や再教育プログラムを行う側の視点からさらなる肉付けが行われる。
「貴方だったらどうする?倫理的に行動できるのか?」
という問いが木霊し、明水に無数に並ぶ骸を前にカメラは死霊魂を成仏していくのだ。ワン・ビン12年の集大成は、ニコライ・ゴーゴリの「死せる魂」で狡猾に生き延びていくチチコフさながらの物語を持つ生き残り達の微かな言葉によって見事あの時代の惨状をアーカイブすることに成功したのである。
17.15 Hours(ワン・ビン、2017年、900分)

※IMDbより画像引用
シアター・イメージフォーラムでワン・ビン『青春』三部作が公開され話題となったが、このシリーズは縫製工場五部作と言った方が良いのかもしれない。ワン・ビンは2014~2019年にかけて長江デルタ地域・織里の縫製工場を取材した。『青春』以外に『苦い銭』『15 Hours』が織里の縫製工場を舞台にしており、『青春』三部作のプロトタイプとして発表され、前者は第73回ヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門で脚本賞を受賞した。『15 Hours』は2019年に港区TAKE NINAGAWAでも上映されたインスタレーション作品であり、15時間かけて縫製工場の現場を映し出す作品となっている。
五部作含めて考えると、ワン・ビン縫製工場シリーズの輪郭が浮かび上がってくる。本シリーズでは現場/地上/故郷と3つの場所との関係性が描かれる。『青春 春』では3つの場所を網羅的に描く入門的役割を担っている。『青春 苦』では社長夜逃げ事件を起因とする労働者の団結を現場と地上を往復する運動でもって描いている。『青春 帰』では現場と故郷との関係性に迫っている。
プロトタイプである『苦い銭』の場合、『青春 苦』と同じく現場と地上の関係性が描かれているものの、より地上にフォーカスが当たっており、「金が払えないヤツは家から出ていけ!離婚してやる!」とDVを受けている妻が映し出されている。職場の外側に広がる搾取の構造が中心となっているように思える。
そして『15 Hours』である。これは、現場に特化した作品であり、映画はほとんど工場フロアから外へ出ず、ありのままの仕事風景を捉え続けるのである。それはすなわち、労働者が食事を取る場も映さないことを意味する。ワン・ビンは先述のように休憩所に労働者の生の声があるとカメラを向ける監督であるが、本作では制約を化すことで対象への思索を促すものとなっている。『青春 帰』と比べると、労働者についていく場面は抑えられており、廊下を労働者が歩いて行ってもなかなかついていかない。ついていくか否かの葛藤を思わせる手振れがあり、その宙吊りの状態で、扉がバンと開き別の労働者が現れる決定的瞬間を捉えることでありのままの姿を提示するのだ。
18.鉄西区/Tie Xi Qu: West of the Tracks(ワン・ビン、2002年、551分)

※映画.comより画像引用
狭い通りを汽車がゆっくりゆっくりと進む。やがて工場へと辿り着く。第二次世界大戦中、日本占領時代に作られた工場は中国共産党の戦略によって巨大工業地帯へと発展していった。しかし、1990年代に入ると、経営が行き詰まり閉鎖していく工場が増えていった。本作は、ひとつの工業地帯が衰退していくまでの過程を現場視点で描いていく。もともとは、5時間の作品としてベルリン国際映画祭フォーラム部門に出品されたが、ロッテルダム映画祭関係者の目に止まり、資金援助を受けて9時間の作品に仕上がった『鉄西区』は工業地帯衰退までのヒリつく時間へと誘う。
衰退とは、一瞬ではなく時間がかかるものだ。人々の苦しみも、時間をかけて醸造されていく。そう簡単に撤退することも、逃げることもできず、静かに終わっていくのだ。第一部では、工場の活動について迫っていく。労働者が活発に作業をする。事故が発生すれば「おい、爆発するぞ!カメラは近づくな!」と声を荒げる。従業員がなんとか事態を収めようとする。仕事中において従業員は、目の前のタスクに集中するのだ。控室では、労働者が愚痴をこぼしている。低賃金だったり、給料未払いの問題、仕事がなく自宅待機を余儀なくされている実態が浮き彫りとなっているのだ。『青春 苦』と比べると労働者の顔は暗く、終わりゆく世界に対して行き場のない感情を抱えながら控室を右往左往しているように思える。
それは第二部へと繋がる。次々と工業地帯が閉鎖されていく。移住するかその場に残るかの決断を迫られる。会社から金は出るのか。鉛中毒に対する治癒はどうなるのかといったところに目が向けられ、中国の「To be, or not to be, that is the question」といった葛藤が空虚に木霊するのである。
19.原油/Crude Oil(ワン・ビン、2008年、840分)

※MUBIより画像引用
3時間を超える長尺で我々の知らない中国の深淵を提示するワン・ビン監督はゴビ砂漠にある油田労働者へと眼差しを向ける。ワン・ビンは取材対象に許可を取り数年がかりのフィールドワークで撮影するイメージが強いが、この14時間におよぶ作品はたった3日で撮影が終了しているから驚きである。
このように聞くと撮影した素材を無編集で提示しているのではと一抹の不安を抱くかもしれないが、それは杞憂である。ジェイムズ・ベニングを彷彿とさせる雄大な地で発生する運動を辛抱強く観る眼差しと労働者の静的な運動を重ね合わせた編集のリズムが観る者を圧倒するのだ。
まず3時間近くかけて休憩室にて泥のように眠る労働者を捉えていく。ワン・ビンはフレデリック・ワイズマンと比べると仕事の外側にある空間から生の労働者像を捉えようとする。前半は仕事場ではなく、休憩室をひたすら提示することで過酷な労働環境であることを示唆するのだ。彼らは、何故ベッドでも椅子の上でもなく寒そうな床で寝るのか、しっかりした場所で寝る余裕もないのかといった観客の想像力を掻き立てる構成で、辺境の労働へと意識を向かわせる。
中盤では、労働者がテレビを観続ける様子が映し出されるのだが、どのような番組を観ているのかは明示されていない。ジャン=リュック・ゴダールやギー・ドゥボールが黒画面(=無)を通じてメディアと鑑賞者との関係を模索したように、ワン・ビンは労働の外側を通じて鑑賞者の問題意識に語り掛けるのである。
■フレデリック・ワイズマン
フレデリック・ワイズマンはナレーションを入れずにありのままの被写体を捉えるダイレクト・シネマの名匠としてドキュメンタリー映画界の頂点に君臨している。しかしながら、フレデリック・ワイズマンは自分の作品を「リアリティ・フィクション」だと定義している。これはトルーマン・カポーティが「冷血」を書いた際に、彼が自らの実践を「ノンフィクション・フィクション」と語ったことに対するオマージュなのだが、確かに彼の作品を観ると物語として一つの対象を捉えていく眼差しが確認できる。
たとえば、カリフォルニア州ヴァンデンバーグ空軍基地、大陸間弾道ミサイル打上げ管制センターに配属される者たちの14週間の記録『ミサイル』を観ると、まるで『トップガン マーヴェリック』さながら有事に備える訓練生の葛藤と情熱が滾る様がうかがえる。物語のために作られたシステムの中で進行するフィクションに対し、ドキュメンタリーは既に作られたシステムの中で進行する。この差の中で、時として物語的異様さが前景化した際に我々は時に驚き、時に笑うのである。『ミサイル』では、落第しそうになった生徒に対し、教官が会議を開き、どうすれば合格するか議論していく場面がある。その結果、受験テクニック講座が開かれるのだが、これがまた面白い。
「今から渡す問題は、試験問題作成のプロが作った一般常識の問題だ。ミサイルは関係ない。読んでみろ。」
と教官は語る。
1問目は「コメディとは何か?」を答えさせる4択問題なのだが、ひとつだけ明らかに長い文章となっている。どうやら、迷ったときには説明が長いものを選ぶと良いらしい。
2問目では、成人男性の歯の本数を答えさせる問題が出題される。この場合、最大値、最小値の選択肢を省き、2択に絞ってから答えるのが定石とのこと。
「ドラゴン桜」ばりの授業、エリートが集まる場所であるにもかかわらず馬鹿げた受験テクニックが披露される様に思わず笑うのだ。入江哲郎が「ユリイカ」に寄稿した論考「フレデリック・ワイズマンとインスティテューナルな笑い」でこの点は掘り下げられている。3時間超えのドキュメンタリーが多くタイトルもブルータリズム建築のように無骨でありながら人々を魅了するのはこういった点にあるのかもしれない。
20.臨死/Near Death(フレデリック・ワイズマン、1989年、358分)

※MUBIより画像引用
フランスで80年代以降のフレデリック・ワイズマンの作品を集めたDVD-BOX「Frederick Wiseman - Intégrale Vol. 2 : 1980-1994」が発売された。そこには彼のキャリアの中で最大の長尺を誇る『臨死』が収録されていた。自分へのクリスマスプレゼントで購入するも輸送中に行方不明となり結局入手することが叶わなかった。このDVD-BOXで『臨死』を観た人曰く、専門用語が多くて難しいらしい。ということで、アテネ・フランセ文化センターで耐久マラソンをしてきたわけだが、強烈な一本であった。
フレデリック・ワイズマンの超長尺映画を考える際に「視点が分割されている」ことを念頭に置くとよい。『臨死』はその顕著な例であり、患者、医者、家族の3軸で終末医療現場における「治療を継続するか否か」の議論が行われる。「ユリイカ 2021年12月号 特集=フレデリック・ワイズマン」によれば、背景として1983年のナンシー・クルーザン事件があるとのこと。アメリカ・ミズーリ州でナンシー・クルーザンが心肺停止の状態から奇跡的に回復する。しかし、意識は不明の状態であり、延命処置を巡って家族と病院との間で裁判となった。家族は人工的水分・栄養補給の中止を求めたが、病院はそれを認めなかったためだ。裁判の判決では「患者本人の意思が表明されていないから」を根拠とし、家族の要望は棄却された。本作が作られたのは、その判決の少し前である。「延命すべきか否か」といった判断は患者、医者、家族との議論によって決定される。そして、その決定の背景として国家があることをワイズマンは捉えようとしているのである。
第一部では、「もう助からない」状況において患者の生前意思表明を確認する過程にフォーカスが当たる。延命治療するか否かにおいて、まずは患者本人がどうありたいかを確かめる必要があるのだ。しかし、究極の選択を前にストレートで論理的な回答をすることは難しい。患者は脈絡がないようなことをとりあえず発する。まるで抱えきれない内面を外部化するように医者や看護師に吐露していく。「大事なのは《今》です。過去に決断したものも撤回できますよ。」と彼ら/彼女らは語りかけながら思索を促すのである。
一方で、医者/看護師としての葛藤がある。90分過ぎあたりからフォーカスは医者サイドへと移っていく。「打つ手なし」「治癒率が限りなく0%に近い」といった患者を多く抱えるわけだが、病院としてストレートにそのことを伝えるのは回避すべきとされている。ナンシー・クルーザン事件における病院と裁判所の判断からも分かる通り原則として「延命処置」を行う必要があるからだ。だから医師たちは、それぞれの体験や研修で得た知識を総動員してベスト・プラクティスを考える。また「責任を取る」のも医者たちの仕事であり、どちらへ転がったとしても最悪な状態な中、腹を括って家族や患者へ説明するシナリオを考えていくのだ。本作が面白いところは、このような極限状態であっても「笑える場面」がたくさん存在する点である。チームリーダーが「医者とは責任を取る仕事だ」と溜息を吐きながら語る。すると、看護師たちが「わたしたちが巻き取っちゃいますよ!」と慰める。対して笑いながら「いや、僕はもう大人だから自分で責任取りますよ」と返す。このカタルシスに思わず劇場から笑いが起きた。
第三部になると家族に視点が移る。医者たちにおいて一番厄介なのは患者よりも家族である。患者の意思を家族に伝えたとしても「夫はそんなこと言うはずがない」と反論し揉めるケースが少なくないからである。綿密なシナリオを組み、患者以上に時間をかけて家族に説明する過程が第三部で描かれる。やがて、事実を受け入れた家族が夫と会話する場面がある。この場面はワイズマン映画の中で最も泣ける場面であろう。妻が「あんた、随分と痩せたね。でも、ダイエットしようとしていたから痩せてよかったね。」と絞り出すようなユーモアが吐露されていくのだ。
21.大学 At Berkeley/At Berkeley(フレデリック・ワイズマン、2013年、244分)

※映画.comより画像引用
カリフォルニア大学バークレー校の成り立ちを語る場面から始まる。
「大学作ろうぜ!」
といった軽いノリで作られた逸話の本質として「エリートだけではない、多様な知が集まる場」としての大学像が語られる。これこそが『大学 At Berkeley』の骨格ともいえる。まず、経営層から掘り下げられる。多様な知が集まる場所と大学を定義すれども、実際の経営は厳しい。年々、カリフォルニア州からの補助金が削減されている中、どのように中産階級から寄付金を回収し、低所得層へ支援していくかが議論される。「それでは経営方針を語ってもらいましょう」といったところで、場面は学生のディスカッションへとシフトする。
経済と社会の関係を紐解く授業らしい。中産階級が死にゆくアメリカを学生たちがどのように捉えているかが掘り下げられる。カリブの国から夢を抱きやってきた学生は幻滅する。故郷では、学校教育に力を入れており、そこに誇りを持っていた。アメリカに来ればより良い教育を受けられるだろうと思っていた。しかし、実態は凄惨であった。アメリカの低所得層は音楽の授業すらない学校に通っており、貧しさ故に教育が受けられなかったのだ。発展途上国以下の惨状となっているのである。また、別の学生は、「万人に機会だけが与えられている国、それがアメリカだ」と定義した上で、個人主義を訴えていく。日本では、あまり見かけない程のスリリングなディスカッション。下手すれば差別的だと思われたりするだろう。しかし、心理的安全性が確保されているのか、学生たちは自分の内なる思想を開示しぶつけあっていく。収拾がつかなくなるのではと思うのだが、教授はファシリテーションのプロとして問題を整理していく。この議論の中では「貧困国のことは哀れみの眼差しを向け手を差し伸べようとするが、自国に対しては自己責任とあたりが強い」といった本質が炙り出される。日本における海外ボランティアへ行く人に対する「日本にも貧困はあるけど、なぜ海外へ?」といった問題は国際的に存在する。つまり、人間の普遍的な問題であることが示唆されるのだ。
本作は、ワイズマン十八番のビジネス的側面の積み上げによって物語られていく。いつもは、モザイク状に事象を積み上げていくだけのように思えるが、本作は円環構造のように、終盤1時間へ向かって収斂していく。
終盤1時間は、学費値上げに対するデモなのだが、これが凄まじい。学生サイドを撮ったかと思うと、経営層側が映し出される。100もの要求を投げつけて来た学生に対して、当日中に学長声明を出す必要がある。学長権限でも判断ができない中から、「とりあえず3つに絞ろう」などと作戦を考えていくのである。時間はない。緊迫がほとばしる。
ここで中盤の経営層ミーティングが重要な役割を果たす。有事の際の郡警察との連携や、体制について議論が交わされるのだが、その実践がまさしく「デモ」だったのだ。学長たちは60年代ベトナム戦争時代の学園闘争の当事者である。しみじみした顔で「あの学園闘争には哲学がなかった」と語るのだが、伏線回収のように今回のデモに対し「哲学がない」といった声が学生サイドから挙がっていくのである。アメリカは行動の国であり、デモに対して好意的に見ているのかと思いきや、割と否定的な声が挙がっている。試験中にもかかわらず非常ベルを鳴らした人に不満を抱くのである。
一方で、本作からはフレデリック・ワイズマンの弱点が見えてくる。大きく2つある。
ひとつめは、インターネット領域には弱い点である。本作の場合、ボットやスパイウェアを通じたサイバー攻撃に関する議論の場面がある。有事に対する議論の延長戦にある訳だが、実際の対策レベルの証言に踏み込むことができなかった。あっさりカメラは撤退してしまっているのだ。
ふたつめに、ビジネスの話をメインとしているものの、広告運用や効果測定の話には踏み込めていない問題がある。これは『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』や『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』にも共通するものがある。本作の場合、いかにして寄付を募っていくか、他の大学に負けない教育戦略、マイノリティの学生の増やし方について語られる。しかし、実際にどのように広告を打つのか?実際に改善が行われる様子は全く捉えられていないのだ。ワイズマンの作品はPDCAを撮れているようで撮れていないことが多いのではと思った。
22.ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス/Ex Libris: The New York Public Library(フレデリック・ワイズマン、2016年、205分)

※映画.comより画像引用
ニューヨーク公共図書館が舞台となった本作では、誰にでも開かれた情報提供の場として図書館が果たす役割がなにかを模索していく。図書館というのは「データをインフォメーションに加工する手伝いをする場」である。図書館には一般的入手可能なベストセラーから入手困難な美術書、はるか遠い昔の資料がある。それは単にデータのアーカイブに過ぎない。データというのは、人の手に渡り、加工されることで価値のもったインフォメーションになる。しかし、コンピュータを使えない人や貧しい人、目の見えない人にとってデータを加工するのは至難の業。近年、時代の流れに取り残されて大事な情報にたどり着けない情報格差が問題となっているが、ニューヨーク公共図書館では、このような弱者のセーフティネットとして機能しようとしている。そのため冒頭では、「ユニコーン」について訊かれ、アカデミックに応える職員や貸し出しの制限を食らっている人、スペイン語で質問してくる利用者の対応に追われる職員など多様な図書館職員と利用者との関係性が紡がれていくのである。
誰でもデータを活かしインフォメーションに変えることができる。それによって人生が豊かになることを目標としているため、図書館員の仕事は本の貸し借りに留まらない。子ども向けプログラミング教室や移民に対するパソコン講座、点字教室が開かれ、インターネットが使えない人のための情報アクセスの場やコミュニティ形成が実施されているのである。
図書館が開かれた場であろうとする中で一般市民から苦情がきてしまう場合がある。たとえば、ホームレスが図書館を利用したとする。不快な匂いから苦情が発生するも、ホームレスにも情報へアクセスする権利はある。図書館の情報へ不快感なくアクセスできるようにはどうすればいいのだろうか。
また、図書館にも予算がある。その中で本を購入し配架する必要がある。ではどういった本を購入するべきなのか。ベストセラーを入れるべきか、それとも利用者は少なくとも高価で貴重な本を入れるべきなのかといった議論が交わされるのである。フレデリック・ワイズマン入門としてもオススメな作品、それが『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』なのである。
■ラヴ・ディアス
1998年にデビューして以来、1年に1本ペースで映画を作り続けているフィリピンの鬼才。上映時間は3時間を超えることがほとんどであり、フィリピンの歴史を地方都市から白黒映像で紐解くスタイルが特徴的である。国際映画祭での実績もあり、『北 (ノルテ)― 歴史の終わり』で第67回ロカルノ国際映画祭金豹賞を、『痛ましき謎への子守唄』で 第66回ベルリン国際映画祭 アルフレッド・バウアー賞を、そして『立ち去った女』では第73回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞している。
日本ではほとんど一般劇場公開されないものの、毎年秋に開催される東京国際映画祭で新作がお披露目されている。最新作の『Magellan』では久しぶりのカラー映画となっており、16世紀初頭にマゼラン率いる探検隊がフィリピンを訪れる様子を映画化した作品となっている。次回作にアレクサンドル・デュマの短編小説「Amazon」の映画化を控えており、ラヴ・ディアスは新しいステージへと進んだことがうかがえる。
23.立ち去った女/The Woman Who Left(ラヴ・ディアス、2017年、228分)

※映画.comより画像引用
第73回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞を受賞したことによって日本でも劇場で一般公開された『立ち去った女』は、ラヴ・ディアス入門ともいえるわかりやすい内容となっている。無実の罪で投獄されたホラシアは獄中で黒幕を知る。彼女のかつての恋人であるロドリゴがホラシアを嵌めていたのだ。出所後、自分の人生を狂わせたロドリゴへ復讐するため、彼女は街を目指していく。
冒頭で1997年6月30日香港が中国へ返還されたことでイギリスによる統治は終わりを告げたことをテロップで語る。戦争による支配によって香港の歴史は破壊された。この大きな物語と重ねるようにホラシアの人生が描かれていく。ラヴ・ディアスは地方都市に波及していく政治的支配を主軸とするわけだが、本作ではその支配に対し、町へホラシアが向かっていくことにより復讐という名の解放を描こうとしている。
社会に対する復讐のメタファーとしてトランスジェンダーの売春婦ホランダが登場する。社会から与えられたジェンダーに抗うように生きつつも売春婦として虐待され社会に取り込まれていく。社会との関係性に苦しめられているのだ。ホランダとの関係性はホラシアの鏡像ともいえる。ホラシアはロドリゴへの復讐を果たすべく旅をしつつ、道中で出会った物乞いに救いの手を差し伸べる。だが物乞いは彼女の救いの手を跳ねのけ、スラムへと去っていく。社会には善悪が蠢いているが、人々はその善悪と適切な関係を保つことができず苦しめられている。だが、苦しみはそう簡単に癒えるものではなく間延びした時間の中で自分としての落としどころを見出す必要がある。ラヴ・ディアスは何気ないフィリピンの風景と時折発生する事件の編み込みでもって、フィリピンもとい普遍的な社会のメカニズムを炙り出しヴェネツィアの栄冠に輝いたのである。
24.痛ましき謎への子守唄/A Lullaby to the Sorrowful Mystery(ラヴ・ディアス、2016年、489分)

※映画.comより画像引用
第66回ベルリン国際映画祭でアルフレッド・バウアー賞を受賞したラヴ・ディアス監督渾身の8時間。フィリピンの英雄ホセ・リサールの「ノリ・メ・タンヘレ」「エル・フィリブステリスモ」、さらにフィリピン神話のひとつである「ティクバラン」などをモチーフにフィリピン独立革命の渦中に迫った作品。つまりフィリピン土着の物語であるのだが、意外なことに映画史を凝縮させたような作品であり、リュミエール兄弟『ラ・シオタ駅への列車の到着』に始まり、ベルイマン、中にはスター・ウォーズシリーズを彷彿とさせるような展開がひしめき合っている魔境となっている。
時はホセ・リサールが1896年12月30日にマニラで処刑された世界。スペイン軍に対抗するフィリピン革命は、上流階級であるアギナルド派と下流階級であるボニファシオ派で分裂内乱状態にあった。リサールの後継者を産ませまいと、スペイン軍人はアギナルド派と結託し、ボニファシオ派を森に追い詰め、タガログ兵でもって虐殺を行っていた。
そんな最中、タガログ兵にさらわれたある人を探しにグレゴリア率いる女軍団とひょこんなことから怪我した男と一緒に逃避行するイサガニの物語が交互に描かれる。
ボニファシオ派は秘密結社カティプナンを結成し、秘かに国家転覆を狙って激しい虐殺、目には目を方式で殺戮が繰り返された。本作はボニファシオ派でアギナルド派のタガログ兵から逃げる者たちの目線で描いた作品である。ラヴ・ディアス監督の作品は、フィリピンの地方を舞台に政治の凄惨な足音が国の深部まで波及していく恐怖をじっくりと描いていく。本作にもその傾向が確認できる。
東京国際映画祭で上映された際にQ&Aで監督に質問したのだが、あれだけ激しい映像が多かったにもかかわらず撮影日数はたったの22日だったと語っていた。しかし、構想は1999年に第一稿を書き上げてから17年もかかっている。2000年代に、政府からの資金援助によって撮影できる予定だったのだが頓挫。資金面とロケーションに難航し、ようやく2016年に完成した作品。余談だが、本祭で上映された際に、なぜか赤子をつれた外国人が客席にいた。当然ながら赤子はあまりの退屈さから泣き始め、劇場に緊張が走ったわけだが、なんとその赤子はラヴ・ディアス監督の子どもであった。とんだ英才教育を目の当たりにしたのであった。
25.Century of Birthing(ラヴ・ディアス、2011年、359分)

※MUBIより画像引用
映画監督は、創作に対する葛藤ものを作りがちだ。マルコスやドゥテルテ政権への批判を地方から描いていく作品を多数生み出すラヴ・ディアスがそのテーマを横に置き自分の創作と向き合う内容にまず驚かされる。彼もそういった映画を作るんだと。本作は入れ子構造の群像劇となっており、彷徨い、対話しながら脳内ヴィジョンを形にしていく映画監督を軸に、映画のイメージやカルト教団、カメラマンの物語が編み込まれていく内容となっている。アーティストにとって脳内に完璧なイメージができているが、それを具象化させるのが難しいというのを画郭変更で表現し、ライトに撮ったイメージ、パキッとキメていくイメージを強調していく演出に惹き込まれる。中には『ゴダールの決別』における、船が去っていく運動と静止する人間を同時共存させるような場面を彷彿とさせる構図もあり、6時間があっという間に感じる。
ストーリー面でいえば、ストーカーカメラマンパートが面白い。モラトリアムに生きる何者でもない男が、情景を撮影している。森の奥には女性たちが洗濯をしながら生きている。その一期一会に興奮し、撮影をしようとするも彼女たちにキレられる。それでもアーティストでありたい欲望がストーカーのように彼女たちを気持ち悪く追い回す。カメラを持つ者の加害性に迫ったこのパートはクリエーターの暗部と向き合ったものとなっている。つまりラヴ・ディアス版『フェイブルマンズ』だったのである。
26.あるフィリピン人家族の創生/Evolution of a Filipino Family(ラヴ・ディアス、2004年、624分)

※MUBIより画像引用
オールタイムベスト映画に『痛ましき謎への子守唄』を入れるほどラヴ・ディアス作品は好きではある一方で、オールタイムワースト映画にもラヴ・ディアス作品がある。それは『あるフィリピン人家族の創生』である。本作は、「映画」として全くもって完成しておらず、ブレーンストーミングした後のホワイトボードをしたり顔で提示した作品となっている。
『痛ましき謎への子守唄』や『立ち去った女』、『昔のはじまり』では、シーンの連続が層をなし、ある形がモザイクとして浮かび上がる。終盤には散り散りになったエピソードがひとつのメッセージに収斂される作風であった。一方、『あるフィリピン人家族の創生』はエピソードの羅列に留まっている。それも支離滅裂な並びとなっている。たとえば、数度に渡りメイキング映像が入る。アフレコを収録する場面や、フィリピン映画史について語る場面がある。これが唐突に現れては消える。チャールズ・ブロンソンの映画の話からリノ・ブロッカの話へ飛ぶシークエンスも回収されることはない。しかもフィリピン映画史についての解説も尻切れトンボの中途半端なものとなっている。
その後も、貧しい農民の様子を切り取っているかと思えば、いきなりエドゥサ革命の実際の映像を數十分に渡り垂れ流す。そして、今度はマルコス政権下における映画祭事情のドキュメンタリーが幕を開ける。章立てをしているならまだしも、全てが突然現れては消える。演出に全くもって一貫性がなく、ただただ思いつきで並べただけなのだ。映画として提示するなら、エピソードやイメージを整理する必要がある。つまり、『あるフィリピン人家族の創生』は映画として行うべきイメージのキュレーションが全くなされていない作品なのである。
■ジャック・リヴェット
フランスの老舗映画批評誌カイエ・デュ・シネマの前身にあたる「ラ・ガゼット・デュ・シネマ」を創刊し、映画批評家として映画の世界に飛び込んだジャック・リヴェットは、演劇と現実との境界を通じて独特な世界観を生み出す唯一無二の映画作家となった。即興的な振る舞いを織り交ぜた長尺の中で我々は、素と演技が曖昧となった重ね合わせの世界を目撃する。一般的に難解なアート系作家として知られているが、彼の理論はVTuberを始めとする動画配信を記号論、哲学サイドから論じる際に役に立つのではないかと再注目している。
27.美しき諍い女/The Beautiful Troublemaker(ジャック・リヴェット、1991年、237分)

※IMDbより画像引用
2020年代において、絵師やプログラマー、作家などが自分の創作の様子を配信で提示することは当たり前のものとなっている。プロの高い技術力に圧倒されたり、その技術を学ぶ形で受容されている。


- Coding Pacman - No Talkingより引用

~『ミゼリコルディア』評を例に~より引用
しかし、インターネットが普及する以前の世界では、クリエイターがどのようなプロセスで作品を制作しているのかをリアルタイムで知ることは困難であった。文献などのインタビューで知ることはできても、生の動きはほとんど知ることができなかったからだ。
即興を通じて虚構と現実の間にあるものを見つめる、現実的なものにフィクション性を見出す異才ジャック・リヴェットはベルナール・デュフールの制作風景の再現に挑戦している。
ミシェル・ピコリ演じるスランプ気味の画家フレンホーフェル(ベルナール・デュフールをモデルとしている)はマリアンヌをミューズとし、頓挫していたプロジェクトである「La Belle Noiseuse」に着手することを決める。勝手にモデルに任命されたことに彼女は不満を抱くのだが、渋々モデルとしてアトリエに入る。
映画は、大作ができるまでの過程を長回しで描いていく。前半の2時間は素描から始まる。いきなりキャンバスに描く人もいるが、わたしは素描からだと、紙に肉体を具象化させていく。ASMR動画のように、ザッザッと心地よい引っ掻き音が紙をかき鳴らす。一方で、マリアンヌは退屈そうにフレンホーフェルへと眼差しを向ける。
本作が興味深いのは同じアトリエに2つの異なる時間が流れている点だ。フレンホーフェルには迷いはない。もとい、キャンバスに描く肉体のアイデアはこの時点では浮かんでいないのだが、思ったことを具象化することは簡単だ。彼は脳内に浮かんだものをそのまま紙へとトレースする。つまりゴールが決まっているので時間の流れは速い。
一方でマリアンヌからすれば、勝手にモデルに任命された不満があり、彼女の立ち位置からフレンホーフェルの素描は見えないので退屈な時間が流れている。タバコを吸おうにも、少し動こうにも「やめろ」と止められる。自分のことを見ていないように思えるが、凝視されている不快感が続くのである。

「ピアノを弾くマルグリット・ガシェ」
※Wikipediaより画像引用
この歪な関係性はモーリス・ピアラ『ヴァン・ゴッホ』における「ピアノを弾くマルグリット・ガシェ」を描く場面を彷彿とさせる。マルグリットはゴッホに想いを寄せながら話しかけるのだが、ゴッホにとってはオブジェクトとしてしか彼女のことを捉えておらず、感情が交わらない様が表象されていた。『ヴァン・ゴッホ』の場合は、この時のヒト対ヒトの関係性にカメラを向けていたのだが、『美しき諍い女』では紙やキャンバスといった素材に関心が向けられているのが興味深い。そして、フレンホーフェルは自分のことを話す。彼の会話の端々から、他者をヒトではなく創作のためのオブジェクトとしてしか見なしていない様が顕となり、マリアンヌとは決して親密にならない様が決定的なものとなってくる。
また、本作ではフレンホーフェルとマリアンヌの他に彼の作品を待ち望むリズが抱える時間の流れも提示される。リズはフレンホーフェルのモデルになれなかった。だからマリアンヌにモデルを務めることがいかに難しいかを力説する。そこには嫉妬が忍び込んでいる。彼女に流れる時間は、ファンが推しの作品を待つときの焦燥に近いものがあり、マリアンヌが抱える虚無の刻とは異なる質感がそこにあるのだ。
このようにジャック・リヴェットは即興ともいえる、アトリエでの光景を通じて、創作を中心とするいくつかの時間の流れを捉えていく実験を行っていたのだ。
28.アウト・ワン 我に触れるな/Out 1: Noli Me Tangere(ジャック・リヴェット、1971年、773分)

※MUBIより画像引用
長尺の中で展開される虚構と現実の交わりを探求するジャック・リヴェットの集大成ともいえる『アウト・ワン 我に触れるな』は、773分という怪物的時間に腰が抜けそうになるが、意外な作品を彷彿とさせる導入によって惹き込まれる。
アイスキュロス「テーバイ攻めの七将」のリハーサルに挿入する形でジャン=ピエール・レオ扮するコランの私生活が映し出される。彼は小銭を稼ぐために「耳が不自由で、言葉も話せません。1フランください」とカフェでビラを配りながら聾唖者を演じるのである。完全に虚構の世界で役割を演じる側面と、金欠と言う現実的な状況を抱えた現実の世界で虚構を演じる様が交錯していく。現実の世界での演技は必死さから来る醜悪なものとなっており、騒音に近い凄惨なハーモニカ演奏を披露しながら日銭を懐に収めていく。実際、パリの街では、貧しき者がビラを配りながら金を乞う風景が日常的となっている。映画の中では虚構/現実双方での演技を比較しながらも、メタ的な視点でいえばジャン=ピエール・レオはそのようなことをする立場にない。ラース・フォン・トリアーが『イディオッツ』の中で展開した、障碍者を演じることにより人間心理を露悪的に掬い上げようとする理論の類似例として観ると興味深いものがあるのだ。
この挿話は「フレデリックからサラへ」の章でユニークな展開をみせる。日常生活では聾唖者を演じているコランがエリック・ロメール演じるバルザック研究者のもとへ訪れて議論を繰り広げる中で化けの皮が剥がれていく。ジャック・リヴェットは長い対話の中で人間の素が出る瞬間を見出そうとしており、メタ的に暴かれる人間の素にまつわる分析は、令和においてVTuber研究に応用できると考えることができる。
29.ジャンヌ 愛と自由の天使、薔薇の十字架/Joan the Maid The Battles,Les Prisons(ジャック・リヴェット、1994年、336分)

※IMDbより画像引用
ジャンヌ・ダルク最期の地であるルーアンで生まれたジャック・リヴェットは、長編デビュー作『パリはわれらのもの』でシャルル・ペギーの「Paris n’appartient à personne(パリは誰のものでもない)」という言葉を引用していることから、彼がジャンヌ・ダルク映画を撮ることは宿命だったといえる。ジャンヌ・ダルクは、ジョルジュ・メリエスに始まり、カール・テオドア・ドライヤー、ロベール・ブレッソン、リュック・ベッソンと様々な監督によって映画化されてきた。ジャック・リヴェットが放ったジャンヌ・ダルク映画は、神聖化された彼女を民話に落とし込むことによって男性に抑圧される女性像を告発したものであった。
歴史スペクタクル映画は、主に剣を交えたり、激しい政治戦が繰り広げられたりするところに見所がある。だが、実際には、今のようにインターネットがない時代の動きというのはゆったりとしたものである。本作はそれを体現するかのように、第一部の終盤30分になるまでスペクタクル場面はお預けとなる。戦争の足音が近づく中のジャンヌ・ダルクにフォーカスがあたる。彼女の噂は街に広がり、ある種の革命家として支持を集めていたのかと思えば、兵士たちの悪口が聞こえる。「生意気な小娘がまた何か言っているぞ」とぼやき、彼女に絡む。正論で、彼女の活動がいかに無意味であるのかを圧力かけようとするのだ。どこからか現れた女の手によって政治が変わってしまうことがどうも面白くないようだ。
そんな男たちの圧力に屹然とした態度で対応する彼女は、やがて男装をするようになる。これがまた周囲の反感を買い、彼女の世話役は小言を放つ。このようなチクチクした周囲の不信感が、彼女をリーダーにしつつも、彼女を失墜させようとする不気味な動きへと発展し、あの最期へと向かっていく。彼女が考えた作戦は勝手に、否決され変更されてしまう。また、彼女の立場が悪くなると、レイプの対象になったりする。
ジャック・リヴェットは、伝説の英雄として写りがちな彼女の日常的に受けるハラスメントに目を向けることによって、今にも続く男性による女性の抑圧を見つめているのだ。だからこそ、男の発言に目を向けると、日本の職場でも起こっている問題と変わらないことに気づくのだ。
そして、ジャンヌ・ダルクの男装に着目することで、男の鎧を身に付けていないと潰されてしまう世界というのを暗示させている。そのような男の鎧が、ボコボコと穴を空けられ、しまいには丸裸の状態、女性を引き摺り出した状態で火炙りにする凶悪さ。確かに、ジャック・リヴェット映画の中では非常に退屈であり忍耐を要する作品であるが、2020年代に再評価すべき代物であった。
ジャンヌ・ダルクに関しては、しんの(C.Clarté)氏がアナトール・フランスの著書翻訳プロジェクト「教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝」があるので、参考資料としてリンクを貼っておく。どちらかというと、ジャック・リヴェットよりブリュノ・デュモンもジャンヌ・ダルク二部作を分析する上で役に立ちそうだ。特に「第二章 声」は『ジャネット』における彼女の心象世界と共鳴するものがある。
■アベル・ガンス
ケヴィン・ブラウンロウが「サイレント映画の黄金時代」の中でレオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵する真の巨匠だと語られている。医者の息子として生まれたアベル・ガンス。「絵描きや物書きや役者は道徳的にいかがわしい軽薄才子である」と考えていた父との確執の末に映画監督となった。博識であり、学校でも一番の成績でありながら自ら学校新聞を発刊し連載や物語を次々と盛り込んでいき学内でも人気者であった。弁護士になるよう命令する父親に従い、17歳で弁護士に就くものの、ある日ブリュッセルで俳優募集の記事を目にし、仮病してベルギーへと渡った。貧しい生活の中演劇界、映画界を横断し、当時としては死刑宣告に近かった肺結核を自力で直しやがて映画監督として輝いた。そんな彼の魂揺さぶるスペクタクルは2020年代に観ても我々の心を盗むものとなっている。
30.ナポレオン/Napoleon(アベル・ガンス、1927年、562分)

※MUBIより画像引用
数年前に三画面に映画を投影するScreenXが日本に登場し話題となった。その遥か昔に三画面の映画をつくろうとした監督がいる。それがアベル・ガンスである。フランスの革命家・ナポレオンの英雄譚である本作は、クライマックスにフランス国旗をなぞえたトリコロール色に染まる三画面を提示するスペクタクルとなっている。「サイレント映画の黄金時代」によれば、
ガンスは大画面によって観客の肝をつぶそうとしたわけではない。巨大なパノラマをそこに映し出すとともに、ショットによっては彼は画面を三つに分割し、主要な場面を中央に置いて左右にはそれを枠取るショットを配置した。このようにして、彼は映画のオーケストラを作り上げたのだった。
ガンスはポリヴィジョンは映画を見るという経験に新たな次元を切り開くものだと説明している。わかりやすい例として、映画作りそのものをポリヴィジョンに描くとする、と彼はいう。そうすると、できあがった映画が中央の画面を占め、左右両端の画面には製作過程で生じた喜怒哀楽の様々なエピソードが映し出されることだろうと。
と単なるスペクタクルの域を超え、映画制作の過程をも空間的に表現しようとしたのだそうだ。1981年、フランシス・フォード・コッポラは本書の著者であるケヴィン・ブラウンロウと共に『ナポレオン』の復元を行っているせいもあってか、『メガロポリス』には本作へオマージュを捧げた三面の場面がある。また、新宿歌舞伎町にある王城ビルにて開催されたジャン=リュック・ゴダール《感情、表徴、情念 ゴダールの『イメージの本』について》展において、フレームに囚われた時間の芸術である映画を解放すべく、会場に張り巡らされた布やテレビに『イメージの本』の断片を投影させ、映画作りそのものを3次元空間にて構成していったのだが、そのアイデア自体は1920年代の時点で存在していたことがわかる。
閑話休題、『ナポレオン』はこの三画面演出ばかりが取り上げられがちだが、他にも観所の多い作品となっている。そのなかで、一番注目すべきは冒頭の雪合戦のシーンだろう。圧倒的不利な状態で籠城するナポレオンが、帽子を囮とし、なんとか危機を克服しようとする様を主観、客観、別の場所といったいくつもの視点で躍動感溢れる演出が施されている。これはアクション映画における演出の模範として参考にされるべきものがある。
31.鉄路の白薔薇/The Wheel(アベル・ガンス、1922年、196分)

※IMDbより画像引用
脱線事故から物語は始まる。駅員は発狂して立ち尽くしているが、このままだと、連鎖事故が起きてしまう。赤ちゃんは草むらに放り出されてしまい、女の人が赤ちゃんを救おうとするのだがすってんころりん転げてしまう。男は重い重い切替機をうんしょうんしょと動かし危機一髪難を逃れる。サイレント映画が好きな人は、アレクサンドル・ドヴジェンコの『武器庫』との類似性に気づくだろう。「サイレント映画の黄金時代」によればアレクサンドル・ドヴジェンコは本作に影響を受けていることが書かれている。
やがて、母を事故で失った赤ちゃんを育てることにしたシジフの物語が始まるのだが、アベル・ガンスは物語を横に放置し、実験的演出に集中する。手の平に映像を当て込んでみたり、貨物車の洗車に人を巻き込んだり、早回しにすることで機関車の暴走を表現したり、流線を描く線路の奥から段々と機関車がやってくる様をかっこ良く描いたり、《後光が差す》を映像で表現してみたりと手数の多さで勝負してくる。
アベル・ガンスは「サイレント映画の黄金時代」を読むと、伝記映画が全く作られていないのが不思議な程、波乱に満ち溢れており日本での再評価を期待したい監督である。
【目次】
《第0章:まえがき》
《第1章:超長尺映画入門》
《第2章:超長尺映画作家たちPART2》
《第3章:果てしなく長い語り》
《第4章:戦争と平和》
《第5章:シリーズを完走する》
《第6章:執念の眼差しとしてのドキュメンタリー》
《第7章:深淵なる実験映画》
《第8章:List of longest films掲載作品を観る》
※サムネイルは映画.comよりラヴ・ディアス『痛ましき謎への子守唄』の画像を引用
いいなと思ったら応援しよう!
映画ブログ『チェ・ブンブンのティーマ』の管理人です。よろしければサポートよろしくお願いします。謎の映画探しの資金として活用させていただきます。