【上映時間3時間以上】超長尺映画100本を代わりに観る《第7章:深淵なる実験映画》
第7章:深淵なる実験映画
実験映画ほど好き嫌いが分かれるジャンルはないだろう。抽象化された理論、特定のコンセプトを表象した世界にピンとこない場合、その時間は拷問になることが多々ある。ましてや3時間を超える作品となると虚無の刻に幽閉されたような感覚に陥るだろう。しかしながら、実験映画に揺蕩うリズムや一見するとわかりにくい構造と向き合ってみると見えてくるものがある。ここでは、割とハードな実験映画を例に映画を読み解くヒントを提示できたらと思う。
83.ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地/Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles(シャンタル・アケルマン、1975年、201分)

コメルス河畔通り23番地(1975年)
※映画.comより画像引用
2022年に英国映画協会(BFI)が史上最高の映画ベスト100を発表した。この手のベストではオーソン・ウェルズ『市民ケーン』やアルフレッド・ヒッチコック『めまい』がベスト1位になるのが定石ではあるが、この時、歴史が動いた。シャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』が栄冠に輝いたのだ。夫を亡くし、シングルマザーとして子どもを育てるジャンヌの3日間を描いている。
家事を行っている一般的な主婦像が提示されたかと思いきや、次の場面では寝室からおじさんをお見送りする場面へと遷移する。彼が夫ではないことは、財布から札を彼女へ渡す運動で明らかとなる。家事の合間に売春を行っているのだ。
映画が始まって4分で異様とも思える空間に我々は惹き込まれ、そのままジャンヌのアンニュイなルーティンワークの世界へと誘われる。食事を用意する。息子と軽く話す。外出するが繰り返される。彼女の本心は中々見えてこないのだが、ジャガイモも皮を剥こうとするも、妙に引っかかって腕に力が入る様から苛立ちの片鱗を感じ取ることができる。ひき肉をこねる、コーヒーを嗜むといったアクションの積み重ねがクライマックスへの起爆剤となっていくのである。
本作を語る上で重要でありながら、映画の領域からは観逃されてしまっている作品がある。それがマーサ・ロスラー『キッチンの記号論』である。日本では東京国立近代美術館の企画「フェミニズムと映像表現」で上映され話題となった本作は、70年代当時のアメリカで女性料理研究家によるクッキング番組が流行る中、「女性」と「料理」が結びついてしまうことを批判的に描いている。女性がボウル、アイスピック、フライパンなどと料理器具名を呼ぶ、そして誇張した振る舞いでその器具を使う。そこで生じる違和感から我々の無意識なる連想を意識させるのである。
どちらの作品も1975年に作られており、キッチンに立つ女性を正面から捉える。静なる運動で押し込められた女性像を見つめる『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』に対して動なる運動で押し込められた女性像を見つめる『キッチンの記号論』は蝶番の関係にあるといえよう。東京国立近代美術館での解説によれば、1960~1970年代にかけてフェミニズム運動が盛んになる中、比較的未開拓分野だったヴィデオを用いて社会的慣習やマスメディアへ抵抗していくアプローチが模索されていたとのこと。
日本でも80年代に出光真子が抑圧され壊れゆく女性を描いた作品を発表している。ここでは『清子の場合』を例に挙げる。清子は部屋で絵を描こうとしている。違和感に気づき、紙をめくるとテレビが出現する。そして、心象世界が映し出される。ここでは明確に現実を清子の心理、テレビを過去として表現している。テレビから両親が映し出され27歳にもなって結婚しない清子に対し叱責をぶつける様が描かれる。その言葉に彼女は苦しむ。「絵なんか子育てが終わってからでいいのよ」と圧をかけられ、結婚するものの、個人としてのアイデンティティは剥奪され、社会規範としての「母親」に収まることを強要される。夫から、家事・子育てがなっていないことを怒られ、反論しようものならヒステリックと親を呼ばれる始末。テレビに映される強烈な過去を前に、彼女の心理はボロボロとなっていく。無数に散らばる酒瓶、テレビにまたがり、酒に溺れながら過去と対峙し、終いには自殺を遂げる。
24分と短い作品でありながらも、『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を彷彿とさせる壊れゆく女性の肖像をパワフルに描いた作品であり、単にテレビを2つの領域に分ける媒体としてだけでなく社会規範を映す鏡としても扱われていた。
このように英国映画協会(BFI)が史上最高の映画ベストの頂点として『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を挙げた次のフェーズで重要なのは、他のフェミニズム映画との関係性を紐解き、映画というメディアがどのように女性を捉えていったのかを分析することにある。
84.Ulysses(Nikita Lavretski、2024年、587分)

※Festival Scope Proより画像引用
「目に見えないベラルーシのシーンで最も興味深い奇人」とカイエ・デュ・シネマが評したことで知られるNikita Lavretskiの新作は、ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」をベラルーシ社会に写像した内容である。英雄であるオデュッセウスを中年男ブルームに置き換えるといった「ユリシーズ」における対応を本作でも試みており、ダブリンをミンスクに置換するのは当然として、ユダヤ人をルカシェンコ大統領の個人秘書に置換していたりする。オープニングでは1967年に制作されたジョセフ・ストリック『ユリシーズ』のタイトルを引用する。マーテロー塔の前で撮影され、タイトルが出てくるのだが、そこにNikita Lavretskiの刻印で上書きする。彼自身の「ユリシーズ」を紡ぐ宣言をしてから映画は始まるのである。
映画が始まると非常に粗いフィルムの質感とクローズアップの中で『ある夏の記録』を彷彿させるインタビューを行っていき、ベラルーシ社会の鬱屈した空気を掬い上げていく。これを5時間近く行った後、音楽を主軸とするパートへ移り、ベラルーシのバンドからビートルズ「レット・イット・ビー 」といった音楽を白黒/カラー交えながら描いていく。音楽が鬱屈した社会への憂さ晴らしとなっている様が表象されていく。
本作の中心となる人物にはRuslan Zgolichがいる。Cineuropaのインタビューによれば彼は政治犯として2022年から精神病院に入れられている。本作では彼が精神病院に入れられる前に作られたVlogを取り入れている。
また、ルーマニアの鬼才ラドゥ・ジューデ監督と対談していることからもわかる通り、『アンラッキー・セックス またはイカれたポルノ』や『世界の終わりにはあまり期待しないで』、『Sleep #2』などといったインターネットメディアを映画に取り込むことで社会の心理地図を描き込もうとするアプローチに近いものが『Ulysses』から感じさせる。
Vlogというミクロな視点。食卓で延々と雑談をしている様子から社会を捉えていく。587分という時間は観客に苦行を強いるが、ベラルーシ社会が抱える息苦しさを追体験させるには必要な時間だったといえよう。
85.NOW SHOWING(ラヤ・マーティン、2008年、280分)

※MUBIより画像引用
極端にゆっくりと進むストップモーションによるオープニング、そして20年前のホームビデオを観ているような画質に驚愕する。暗くてよく見えない画面を覗き込む。すると、おかっぱ頭の少女リタの日常が見えてくる。しかし、奇妙なことに彼女が歌っている場面では全く音が流れない。それどころか、このザラザラとしたホームビデオは自体、音が少なく、ビデオの機械音が観客の耳に響くばかりだ。これが4時間も続くのかと思うと絶望する。しかし、中盤でいきなり映画は太古昔、誰も知らないようなフィリピンのサイレント映画が延々と流れる転調が訪れる。そして突然、フィリピンの井戸端会議が映されていく。そして映像は若干鮮明になり、海賊版DVD屋での会話が映し出されていく。
これらの断片を通じてラヤ・マーティンは映像とフィリピン人の関係性を考察しようとしているように見えてくる。かつて大きな機械で技術を有した人が撮っていたものが、ビデオカメラやスマートフォンの登場で誰でも手軽に映像を撮ることができるようになった。何気なく撮られたホームビデオは映像アーカイブとしての一面を持つようになった。丁度、太古昔の映画を掘り起こすように、昔撮ったホームビデオを鑑賞する。昔の映画を発掘することと、昔撮ったホームビデオを観ることは同じ行為なのではと監督はこのモザイクで語ろうとしているのだ。
そして舞台は海賊版DVDショップへと映り、海賊版DVDと人々の何気ない会話に消費されていく映像の侘しさと、人々の頭の片隅にある映像の記憶を結びつけていく。そして、長い長い、燻んだ世界をリタと共に彷徨ううちに美しい世界へと足を踏み入れる。本作は、まさしく時間旅行のプロセスを味わせてくれる代物といえよう。
86.中央地帯/La Région Centrale(マイケル・スノウ、1971年、180分)

※IMDbより画像引用
実験映画の名匠マイケル・スノウはカメラの動きに着目した作品を手掛けている。代表作の『波長』では、とある部屋の中を45分かけてズームしていき、やがて波の写真へと眼差しが向けられる。このゆっくりした運動の中にはパトカーの音やビートルズの楽曲「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」が流れ、我々観客の関心をイメージの外側へと向けさせる。
『<----> (Back and Forth)』では、特殊な回転装置に備え付けられたカメラが右に左に回転する。その切り返しの音が段々と遅くなったり早くなったりする。この波のような動きと、それに伴う音の振動が心地良さを観る者に与える。ただガランとした教室を撮っているだけではない。カメラが右に振ると、左にいた人が死角となり見えなくなる。今度は左にカメラが振れると、人がいなくなっている。再び右に振れると、窓から人が現れ同じ方向へ移動する。そして、いつしか群衆が教室にひしめき合う。中央付近で、小競り合いが行われているが、カメラはドライに左右へ振動するだけだ。これにより死角が生まれるので、比較的静的運動の中におけるイメージの外側を描いた彼は動的運動の中でのイメージの外側へと理論を応用させた。
そんなマイケル・スノウがカナダの映画機関から助成金を得て特殊なカメラを作り制作したのが『中央地帯』である。地面を回転しながら捉え続けるカメラはやがて正面を向き、遠心分離機のように我々を電子音と共に振り回していく。イメージにおいて、カメラが向いている方が正面を示すごくあたりまえのことを提示しつつも、高速で回転する世界を前に我々は何をもって上下左右を認識しているのか。それは重力が定義しているのではといった気づきを与えてくれる。実際に無重力空間にある宇宙ステーションでは上下の概念がなくなり、自分と世界との関係性で上下が決まってくる。それを擬似体験させてくれる作品がこの『中央地帯』といえよう。
なお、ガイ・マディンとエヴァン・ジョンソンは、本作で開発されたカメラに惚れ込み、『The Forbidden Room』の撮影時にマイケル・スノウへ直談判し借りた逸話が存在する。
87.動物誌、植物誌、鉱物誌/Bestiaries, Herbaria, Lapidaries(マッシモ・ダノルフィ&マルティーナ・パレンティ、2024年、204分)

※映画.comより画像引用
イタリア映画祭2025にて物議を醸した『動物誌、植物誌、鉱物誌』は、オリヴェイラ『アブラハム渓谷』と同等の長さで、時に実験映画、時にフレデリック・ワイズマンのタッチで人類と自然との関係性に眼差しを向けた一本である。確かに困った構成の作品であり、特に第三部の「鉱物誌」は邦題の翻訳に限界があり、「コンクリート誌」に思えるのは致し方がないのだが、アプローチ自体は興味深いものがある。
本作は三部構成からなる作品だ。「動物誌」では動物が手術される光景やウサギがヘビに捕食されるショッキングな映像を畳みかけて来る内容で、昨年公開された『人体の構造について』に近い内容となっている。第二部『植物誌』は世界遺産にもなっているパドヴァの植物園(オルト・ボタニコ)での活動をワイズマン的なショットにナレーションを重ねて描く。第三部『鉱物誌』では、コンクリートの素材が採られる様子をフッテージで挿入し、実際にコンクリートが作られるまでの過程を工場ドキュメンタリーのように編集している。
まず「鉱物誌」に関しては「植物誌」との対比で考えるとわかりやすい。「植物誌」では、地球全体の99.7%を占めると言われる植物、あらゆるワールドレコードを占有する植物に対して、ちっぽけな人間が知ろうとする眼差しが描かれる。舞台となるパドヴァの植物園は世界最古の植物園として知られ、イタリアで初めてジャガイモやヒマワリが栽培され、植物学や生態学に影響をもたらしており、現在ではイタリアで2番目に充実した植物標本館として機能している。ありのままの植物をアーカイブして知ろうとする人類が描かれているのだ。
一方で「鉱物誌」はどうだろうか。原題は"Lapidary"となっており、鉱物そのものよりも鉱物を加工する様に焦点があてられている。副題も「未来の化石」となっている。つまり、人類が過去の自然を掘り起こし加工し役割を与える様を描いているのである。そのため、アリストテレスの理論を借りるなら、「植物誌」はデュナミス(可能態)、「鉱物誌」はエネルゲイア(現実態)の話となっているのだ。そして、広島に原爆が落とされて3年後にイチョウがたくましく生えたエピソードがこの両者を繋ぐ接着剤的な機能を果たす。人類が自然と対峙する中で生まれる暴力性が浮かび上がり、「動物誌」と円環を結ぶのである。
88.クレマスター3/CREMASTER 3(マシュー・バーニー、2002年、182分)

※IMDbより画像引用
映画界隈と美術界隈との間には微妙に断絶があるように思える。美術館で映画が上映されても、映画界隈の間では話題にならないどころかFilmarksにも掲載されていないことがある。マシュー・バーニーは「死ぬまでに観たい映画1001本」をはじめとした映画紹介本で語られることがない監督ではある一方で、美術史の教科書では触れられている。『クレマスター3』は1994~2002年にかけてつくられたシリーズの一本。全部で5本が制作されているものの、公開順と番号は一致しておらず『クレマスター3』が最後の作品となっている。
ジャイアンツ・コーズウェイで巨人が生肉を食べる場面から始まる。シーンは一転してNYのシンボルでもある摩天楼クライスラー・ビルへと移る。高層階に黒塗りの車がある。そこに目掛けて周囲のクラシックカーが激突。粉々になるまで潰し合う。その横で、職人がエレベーターに侵入して高層階を目指す冒険が繰り広げられる。エレベーターに侵入するとスプリンクラーから水を出し、セメントを作りエレベーターを埋めていく。やがて、フロアに入り込んだ彼はバーでビールを注文しようとする。しかし、紐で繋がれたマスターは連鎖的に破壊をもたらす。グラスは粉砕し、樽からは泡が噴射し、混沌に包まれていく。
二つの破壊が荒れ狂う末に、舞台はグッゲンハイム美術館へと移る。各フロアで、パフォーマンスが行われていく中、姿が変わった職人は壁を伝って上を目指す。これらの表象は資本主義における欲望のメタファーと捉えることができる。資本主義の中で人は高みを目指す。高みを目指す中で、破壊がもたらされる。作った車は無意味に破壊される。バーのシーンでは男に紐が取り付けられている。これはシステムの奴隷であることを風刺している。システムの奴隷になった男は無意味な動作を行う。ビールを置いてはこぼしを繰り返す。2回目で学習するものだが、システム上「置く」行為しかインプットされていないので失敗を繰り返し、無駄がたくさん生まれた末にようやく改善されるのだ。
主人公の職人は正攻法ではない登り方をしている。彼は資本主義の高みを目指し破壊をもたらす行為に反発しているようだ。彼はセメントを作る。グッゲンハイム美術館を横から登ることで、新たな出会いをしていく。破壊に対して創造を行う存在として職人が配置されているように見える。ゾンビがシステムに操られ、中抜きされている存在であるとするならば、職人はそれに抗う存在であろう。

※Wikipediaより画像引用
「アートワーカーズ: 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践」によると、1960年代のアメリカ美術界では資本主義から芸術を切り離そうとする運動が盛んであった。カール・アンドレ、ロバート・モリス、ルーシー・リパード、ハンス・ハーケの4人はアートワーカーズ連合(AWC)を設立し、戦争や抑圧に対抗するニューヨーク・アート・ストライキを敢行した。カール・アンドレは、地面に敷き詰めたレンガ作品「等価物Ⅷ」でもって労働と芸術が隔てる者はなにかと問題提起を行った。ロバート・モリスは抽象芸術をブルジョワ的で差別的なものとし、アート・ストライキの中で展示をやめるよう叫んだ。グッゲンハイム美術館の場面では1960~1970年代にかけてニューヨークで起こった芸術家たちによる美術/労働/資本主義に関する議論を象徴させているといえよう。
89.Let the Summer Never Come Again(アレクサンドレ・コベリゼ、2017年、202分)

※IMDbより画像引用
『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』アレクサンドレ・コベリゼ長編デビュー作は3時間半近い実験映画であった。
本作は低解像度の携帯電話のカメラで撮影されている。駅のプラットフォームでの人々の営みは、どこか懐かしさがある。本作においてこの懐かしさが重要な鍵を握っている。人生における何気ない日常を思い出したような、ぼんやりとした空気感を携帯電話のカメラの質感で表現しているのである。そして、本作はほとんどセリフがない。サイレント映画に近い作品となっている。その為、サイレント映画時代の滑稽な人間の運動が描写されている。たとえば、公園で青年がうつむいていると、少年が彼のバックを強奪する。カットが切り替わると、大人が子どもとバックを引っ張り合う画が映り込む。綱引きに大人が勝利し、青年にバックを返す場面は素朴ながらも見入ってしまうものがある。少々長過ぎて飽きてしまうのは『見上げた空に何が見える?』と共通するのだが、アレクサンドレ・コベリゼの確かなカット捌きは魅力的である。
映画の中身は、戦争を通じて引き裂かれる恋愛ものだ。とはいっても物語らしい物語はなかなか見えてこず、日常風景を注意深く見つめ察する必要がある。つまり、これはある男の断片的な記憶を覗き込み、その中に悲哀を見出す作品なのだ。
そして、アレクサンドレ・コベリゼ監督の新作『Dry Leaf』が第78回ロカルノ国際映画祭のコンペティション部門に選出されたが、こちらも3時間を超える作品である。こちらは前作の『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』以上にサッカーが物語へと関わってくるものとなっている。ジョージア各地のサッカースタジアムで写真を撮っていた女性が行方不明になったことから、父のイラクリと幽霊のレヴァニがジョージア国内を旅するロードムービーとのこと。タイトルは、ボールの軌道を予測不能にする蹴り方を示すサッカー用語から取られている。
90.チェルシー・ガールズ/Chelsea Girls(アンディ・ウォーホル、1965年、210分)

※Wikipediaより引用
アンディ・ウォーホルの実験映画はYouTubeやTikTokなど誰もが動画を作って発信できる時代を先取りしたものがある。裏を返せば、1960年代のアンダーグラウンドが我々にとって身近なものになったともいえる。一般的に彼の作品は退屈で長いとされている。映画の文脈で観るとその演出手法に物語性を見出しにくく、そのような評価になってしまうのではないだろうか。ウォーホルの作品は別の次元の文脈を拝借することにより見えるものがある。
1966年にポール・モリッシーと共にチェルシー・ホテルの客室を使う女性たちを撮った『チェルシー・ガールズ』は、2台の映写機を用いて異なる場面を同時に投影する手法が採用されている。フィックスされたイメージと激しいクローズアップ、モノクロとカラーなどといった対応によりチェルシー・ホテルの人々を群として捉えている。一般的に映画におけるスプリット・スクリーンは心理的断絶やある物語の別側面を捉えていく表象として扱われるのに対し、本作は並列化されたイメージによって全体の空気感を掴もうとしている。どちらかといえばミュージックビデオに近いような演出技法といえる。
実際に稲葉曇「私は雨」のMVと比較することで『チェルシー・ガールズ』の構造が掴めてくるような気がする。「私は雨」は自己の中にある多様な側面を「一粒では気付くことのない雨」にたとえている。そのたとえを具象へ落とし込むアプローチとしてスプリット・スクリーンが用いられており、重なり合う歌愛ユキのレイヤー、様々なフレームの技巧によってに内なる世界に迫っている。
『チェルシー・ガールズ』では、恍惚としたサイケデリックなイメージと感情を滾らせる運動の横に広がる虚無的空間を並べることで「退廃とはなにか?」に迫ろうとしている。
コラム2:エンパイア/Empire(アンディ・ウォーホル、1965年、485分)

※Wikipediaより画像引用
1964年6月25日20時から翌朝にかけてタイム・ライフ・ビル41階で歴史的撮影が行われた。ジョナス・メカスとアンディ・ウォーホルが向かいに聳え立つエンパイア・ステート・ビルディングをひたすら撮影しようとしていたのだ。「8時間の勃起だ!」「最後の30分なんかなんも起きねぇがそのままにしよう」と深夜のテンションによる高揚感から生まれた名言と共に検閲なんてものに怯むことなくシネマテークでお披露目された。当時のことをジョナス・メカスは次のように語っている。
映画が始まって10分後、30~40人もの暴徒が劇場から出てきて、チケットカウンターを取り囲み、金を返さぬなら殴って劇場を引き裂くぞと脅した。
アンディ・ウォーホルの初期作は逆説的に「映画とは何か」を語っているように思える。特に『エンパイア』は、その最高傑作だろう。海外版DVDでは1時間分が収録されている。本作の一部だけ観たとしても十分に、ウォーホルの力強い刻印を感じ取ることができる。
ジェイムズ・ベニングと比べると飛行機が通り過ぎるような場面すらない。しかも、夜に撮影されたので仄暗い空間に聳え立つビルが映っているだけで、何も起きない。映画は地続きの時間を切り張りし、退屈さを切り詰めていくのに対して、本作は真逆のベクトルを向いているのだ。つまり、この虚無を通じて改めて映画が観客の中に定義されていくのである。
「退屈なのが好きなのだ、何が起こるか分からないからだ」とウォーホルは語っていたが、彼にとってこの8時間の旅は興奮に満ち溢れた大冒険であったのは言うまでもない。
【目次】
《第0章:まえがき》
《第1章:超長尺映画入門》
《第2章:超長尺映画作家たちPART1》
《第2章:超長尺映画作家たちPART2》
《第3章:果てしなく長い語り》
《第4章:戦争と平和》
《第5章:シリーズを完走する》
《第6章:執念の眼差しとしてのドキュメンタリー》
《第8章:List of longest films掲載作品を観る》
※サムネイルは映画.comよりシャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』の画像を引用
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